馬糞風リターンズ

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中仙道(番場宿~垂井宿)に行って来ました。

2009年08月31日 | ドライブ・旅行
 彦根に用事があり、今日は7時に家を出ました。まだ8月の末なのにめっきり秋めいています。
彦根で早々と野暮用を片付け、大正ロマン風の喫茶店でのんびりとモーニングコーヒーと洒落込みました。佐和山の辺りを通り抜けて、米原に向かいました。
たまたま、帰宅するとNHK大河ドラマ「天地人」を嫁さんが観ていました。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 佐和山城と島の左近 ... 」と云われた治部少三成の解説をしますと、こっそりと「本」を読んだ「付け焼刃」と言われました。
米原で旧中仙道に入り「62番番場宿」に行きました。
長谷川伸の名作「瞼の母」の主人公番場の忠太郎で有名です。
長谷川伸は好きな作家の一人で、股旅ものは勿論ですが「相楽総三とその同志」は唯一「赤報隊」「偽官軍」の史・資料としての価値の高いものです。
「赤報隊」研究をする場合、史・資料は全くと言っていいほどありません。専門家でも原典を長谷川伸の「相楽総三とその同志」に拠らざるを得ません。
明治維新の暗部を知る貴重な作品です。一読をお勧めします。
「61醒井宿」は人気の所ですから、天気も良しで大勢の観光客が出ていました。
「60柏原宿」=かしわばら宿と云っているようです。この「柏原」地名は面白い地名で「かいばら」「かしわら」「かしはら」など表記は同じでもいろいろな読み方があります。興味のある地名です。
「醒井宿」が人気で観光地になっていますが、どちらかと云いますと「柏原宿」はお勧めの所で、街の整備も良くされていてその割に静かで落ち着いた雰囲気があります。「もぐさ」が特産品で今でも江戸時代のままの「亀屋佐京もぐさ店」があります。近江と美濃の国境があります。この国境は僅か50cmほどの水路です。
ここから「東国」「畿外」になる訳です。古くは壬申の乱から重層して史跡が点在しています。
「59今須」「58関ヶ原」は、現在の国道を走りました。
「57垂井」は、竹中半兵衛の出生地で古代の国府跡があります。
また、「洋ラン」の産地としても有名です。
知人が経営している「バラ園」に立ち寄りました。

割箸を使わない店

2009年08月25日 | 日記
 僕の嫁さんと夏休み最後のドライヴに行きました。
昼食のため入ったレストランは、店内いたる所に「ロハスな店○○」の文字が躍っていました。メニューにも商品よりも食材の講釈がやたらと書かれていてちょっとした教科書のような感じがするご大層なものでした。
僕の嫁さんは結構軽薄な所がありますので「無農薬、国産、ヘルシー・・」と喜んでいました。
 店の説明書によると「ロハス」とは「健康や環境問題に関心の高い人々のライフスタイル」=「LOHAS→Lifestyles Of Health And Sustainability 」とありました。
 注文する段になって「喰うもん」が何も無い。嫁さんは「雑穀ご飯+無農薬ヘルシーサラダ+国産牛肉タタキ+・・・・」を注文しました。
僕は「国産牛肉タタキ+パンプキンスープ+ライ麦パン」を注文しました。
僕のメニューは、スプーンとナイフ、フォークでしたが、嫁さんは「箸」を使うメニューです。この店は「割箸」ではなく写真のように「塗りの箸」が供えられていました。
 ナイフ・フォークなどの金属器は、使い回しするのに違和感がありませんが、箸を使い回すのには抵抗感があります。これも「ロハス」なのかなア。
僕は20年間「業務用食品卸会社」をしていましたので、メニューを見ただけで大体の原価が分かります。
この店の売値は、このクラスの通常店よりかなり高く設定されています。
使用食材は、ご大層に講釈しているけれど、通常使用している食材と何ら変わるものは無い様に見受けました。
そうすると「ロハス」をうたい文句にしたこの商法は、非常に上手い商売のやり方になります。
その上「使い捨て」の「割箸」の費用も節約できます。
商売とはこの様に「一つの物語」を創作して客を煙に巻く事が大切です。

 ここで僕の考えを1つだけ書きます。
「割箸」業者で一部上場している会社はありません。むしろ家内工業の零細企業ばかりです。奈良の五条の「割箸工場」に行けばすぐに分かります。
間伐材や製材後の端材を加工して「割箸」は作られます。
割箸を作るために木を切ることはありません。
 新聞は「割箸」の使い捨てを環境破壊の元凶の様に報道します。
静岡県の白砂青松の由比の浜などの海底をヘドロで埋め尽くしたのは、製紙会社の廃液です。その製紙会社が作る紙パルプの大半は新聞用紙です。
割箸の使い捨てでこの様な大規模の環境破壊があったことを僕は聞いたことがありません。
新聞社は、新聞古紙回収にどれだけ積極的なのでしょうか?
今は、古紙回収率は70%前後になっているようですが、これは新聞社が行っているのではなく、回収業者や民間ボランティヤーの実績です。

 「太平洋に小便をして、水が増えた」と騒ぐのはおかしい、と嫁さんに言ったけれど、どうも嫁さんは理解できなかったようです。

兵庫県柏原町(現氷上市)に行って来ました。

2009年08月21日 | ドライブ・旅行
 ふと、壷井栄の小説を思い出しました。仲良く自転車を押しながら語り合う男女の高校生が自然な風景となっている何か懐かしい、しっくりとくる町並みです。
僕には無かった伸びやかな溌剌とした高校生の姿に「やるなア」と無言の声援を送りました。小さな喫茶店で「焼きそば定食」を食べました。何時のことか、同じ経験をしたような思いが過りました。

 柏原町は、天下統一を目前にしながら、本能寺に倒れた織田信長の子孫が治めた柏原藩があった所です。「城下町柏原」と観光案内にありますが、柏原にはお城はありません。所謂「陣屋大名」ですから現在も陣屋跡は観光資源として保存されています。
 柏原藩は「前期」「後期」に分かれているようです。
慶長3(1598)年、信長の弟信包(ノブカネ)が丹波国氷上郡に3万6千石を与えられたことから始まります。所が3代藩主信勝が慶安3(1650)年が世継ぎの無いまま死去した為廃絶となりました。
大凡半世紀の間、柏原は天領となり代官が支配していました。
元禄8(1695)年、信長の次男信雄の玄孫信林が大和松山藩(大宇陀)から国替えとなり「後期柏原藩」となりました。2万石に減封されましたが明治維新の廃藩置県まで10代織田家の所領として栄えました。
 陣屋跡の前に「柏原町歴史民俗資料館・田ステ女記念館」があります。
歴史民俗資料館は柏原藩主織田家に伝来した歴史資料を展示公開しています。
同じ建物内にある「田ステ女記念館」は、「元禄四俳女」の一人「田ステ」にまつわる資料を展示紹介しています。
「田家」は柏原織田家の家臣で、ニュースキャスッターや国会議員を務めた「田英夫」もこの一党のようです。
「ステ女」は六歳で「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」の句を詠んだと云われる才女です。
ステ女(貞閑尼)の生き様は、俳人、文人として母親、妻として、後年尼僧として封建の厳しい時代でありながら時代に負けることなく、女性として魅力的に生きた珍しい人です。「加賀の千代女」と共にもう少し勉強したい人物です。
 写真は観光案内所前にある「木の根橋」です。
千年かけてこの川を渡ったといわれています。
樹齢千年とも推定される大ケヤキの根が、幅8mの奥村川をまたいで自然の橋になっています。柏原のシンボルとして木の根橋は昭和45年に県の天然記念物に指定されました。

しかし、「政権交代!」「景気対策」とがなりたてる何とも無粋な選挙カーはこの街には似合わない。

奈良県香芝市穴虫(地名の話5)

2009年08月19日 | 地名・地誌
 乾さんと太田さんが「竹内街道」を歩いた記事が3年4組のHPにあります。
大阪府と奈良県の境に「二上山」があります。この二上山の南側に竹内峠があり、北側に「穴虫峠」があります。
いずれ乾さんと太田さんが「竹内街道ウォーク」を企画してくれると思います。
その時の「話のネタ」にして下さい。

http://takahira.cool.ne.jp/furuimatiB/kinki3/kasiba-anamusi.htm
http://www.asuka-tobira.com/futakamiyama/futakamiyama.html
大阪府と奈良県境二上山の北側に「穴虫」と云う地名の所があります。
二上山の南側の峠が「竹内峠」で北側に「穴虫峠」があります。
竹内峠を通るルートが、わが国最古の国道「竹内街道」です。
国土地理院の地図をゆっくりと眺めて下さい。http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=51356550
 さて地名「穴虫」をどう理解するかを書いてみます。
例によっていろいろな「穴虫」地名解があります。
一番有力な説と云われているのが、日本地名学会会長谷川健一さん等が唱えている「金属・精錬」関係地名説です。
「穴虫」と「穴師」との関連を論拠とする説で、谷川健一さんの膨大な「金属精錬」関係の民俗調査や一連の著作をベースにしているだけに説得力もあり賛同者も多い説です。ここでは論旨を省略しますが、結構知的好奇心を刺激する論です。
 僕は、大先生のお説はさて置き、「アナムシ」を分解して「アナ」「ムシ」に分けて考えています。
例によって結論だけを書きます。
「ムシ」=「ムショ」→「無所」→「墓所」。漢字の読みは「呉音」「漢音」がありますが「墓所」を「ムショ」と読むのは「呉音」で、仏語は基本は「呉音」で読みます。中世末に編纂された「日葡辞典」にも「墓所」=「Muxo」とあります。
一方「アナ」は文字通り「穴」のことです。「墓穴」です。
兵庫県在地の民俗調査資料などから、土葬であった当時、死体を埋葬する穴(墓)を堀に行く時は「穴を掘る」と一般的に言っていたようです。
 要は「穴虫」=「穴(墓)+墓所」=「アナムショ」→「アナムシ」と訛ったと思われます。
では何故この二上山の北側に「墓+墓所」からなる「穴虫」地名があるのかと云いますと、有名な大津皇子の古墳が有るように、二上山は古代の都のあった桜井市方面の西に位置し、太陽が沈むところです。また、大阪府側には「王家の谷」とも云われる磯長があります。
このように古代この辺りは貴族の墓所であった事実があります。
 兵庫県で「虫」地名を調べた時にも「虫」が「墓所(ムショ)」の訛ったものである例が数多く検出しました。
いろいろなデーターから僕は「穴虫」は「墓所」地名だと確信しています。

大来皇女の歌
「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」

天然塩をつくりました(舞鶴市神崎)

2009年08月12日 | ドライブ・旅行
 久しぶりに嫁さんとドライヴに行きました。
由良川河口の神崎と云う所です。海水浴場があり一昔前は別荘地で有名人の別荘や企業の海の家などがあった美しい所です。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanzaki.html
http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/kanzaki/kanzaki.htm
http://inakagurasi01.web.infoseek.co.jp/039-dayu.htm

対岸宮津側には「山椒大夫屋敷跡」があります。厨子王が製塩の潮汲みをしたように、この辺りの海岸では製塩が盛んでした。
神崎では縄文時代の製塩遺跡もあるほどです。
江戸時代、上質の塩で全国に普及した「赤穂塩」ですら、この地域には進出出来なかったと云われる程良質な塩を生産していました。
例によって過疎化が進み「町おこし」事業の一環として住民の方々が「神崎塩」の製造で街をPRしています。
 知人の紹介で製塩の体験をすることができました。
最終段階の「水分」を飛ばす工程です。
舞鶴湾の冠島から汲んできた海水を、マキで煮詰めたもので、化学塩より甘みのある円やかな味がします。

地名・あまり(地名の話4)

2009年08月11日 | 地名・地誌
 山梨県韮崎市に県立公園「甘利山」があります。
甘利山は、つつじの名所でまた手頃なトレッキングが楽しめる人気の所だそうです。
http://amariyamaclub.or.tv/

この山のふもとの集落に行きますと、甘利小学校(廃校)、農協甘利支所、甘利沢、甘利神社・・と正に「甘利」の大安売りです。
この「甘利」は地名を負っているのです。
この付近は、古代には高句麗からの渡来人が多く住んだところで、後の高麗郡(巨麻郡)と呼ばれた所です。
この高麗郡の一角、塩川と釜無川が合流する当たりを古代には「アマリベノゴウ」と呼ばれていました。(和名抄:甲斐国巨麻郡余戸郷)
律令制では、国、郡、郷(里)と地方行政制度がとられていました。
その内、郷(里)は、原則として50戸を以て1つの郷を編成しました。
所が、山間僻地ではこの原則が満たされることがなく郷が編成されることがありました。正に文字通り「余った戸」で編成された郷ができたわけです。
余戸は「アマリ」「アマリベ」「アマベ」などと呼ばれていました。
高架橋で知られる「アマルべ」も同じ由来の地名です。(但馬国城崎郡餘部郷)
和名抄には「33カ国、102郡」に「余戸」が散見されます。
地名としては、多い方に分類されるものです。
そして、その「アマリ」「アマリメ」「アマリベ」などの地名を氏族名にするものが現れました。
 但馬記には、余戸氏の存在を記しています。同記には「紀伊国海部郡、日高郡、安房国板野郡に余戸郷有り。余戸氏此処より起こる・・」
余目(アマリメ)は、余戸郷より起こり、その地名を負う、とあります。
余目は余部が訛ったのもで、陸前の余目、余部が有力であったようです。
甲斐国甘利荘と云う記録があり、この地名を負ったのが「甘利氏」なのでしょう。




大正演歌「流浪の旅」とTVドラマ挿入歌「旅の終わりに」

2009年08月07日 | 雑学
 僕の行っていた大学は、当時全校で学生が800人程度の小さな学校でした。
僕のクラスは「酪農学科」で男子が35名、女子が10名でした。
今でも大変仲の良い仲間です。今日、クラス会の知らせがありました。
殆んどがリタイヤーしたので、10月7日~9日の平日にトムラウシ温泉に集まることになりました。
 旧制高校の名残を昭和40年代まで色濃く残した校風でしたから、学生が蛮声を張り上げて歌った歌も時代錯誤も甚だしいもので「人を恋ゆる歌」「男なら」「逍遥歌」・・といたものが好まれました。
今回の同窓会でそんな歌を歌う企画があるようで、幹事から当時一番よく歌った「流浪の旅」の歌詞を調べて欲しいとの連絡がありました。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=NTNJd4jno4I&feature=related

流浪の旅(大正10年)宮島郁芳作詞・後藤紫雲作曲

流れ流れて 落ち行く先は
北はシベリア 南はジャバよ
いずこの土地を 墓所と定め
いずこの土地の 土と終わらん

きのうは東 今日は西と
流浪の旅は 何時までつづく
果てなき海の 沖の中なる
島にてもよし 永住の地欲し

思えばあわれ 一八の春に
親のみ胸を 離れ来てより
過ぎ来し方を 思いてわれは
遠き故郷の み空ぞ恋し

宮島郁芳作詞・後藤紫雲作曲のコンビは大正歌謡のヒットメーカーで「金色夜叉」などの代表作があるようです。

所がこの歌にそっくりの歌が冠二郎が歌ってヒットしました。
五木寛之「海峡物語」をTVドラマにした挿入歌「旅の終わりに」です。
http://enkayoutubepv.blog115.fc2.com/blog-entry-107.html
「旅の終わりに」立原 岬 作詞菊池俊輔 作曲
(作詞者の立原 岬は五木寛之のペンネーム)

流れ流れて さすらう旅は
きょうは函館 あしたは釧路
希望も恋も 忘れた俺の
肩につめたい 夜の雨

春にそむいて 世間にすねて
ひとり行くのも 男のこころ
誰にわかって ほしくはないが
なぜかさみしい 秋もある

旅の終わりに みつけた夢は
北の港の ちいさな酒場
暗い灯影に 片寄せあって
歌う故郷の 子守唄
 
アナグロ・ナンセンスの極みとは思いますが、また過ぎ去りし青春そのもの歌でもあります。

写真は帯広畜産大学構内の白樺並木です。

鈴田君のこと

2009年08月04日 | 日記
地歴部に入っていました。同級は鈴田泰暢君一人でした。他には徳永史生、雪村勲君が居ました。クラブで親しかったのはこの3人ですが、佐藤、小林、高田・・と云う名の人がいましたが、今思い出せるような交流はありません。
鈴田君は早稲田大学英文学科に進み、西武百貨店で活躍し、今は千葉県で悠々自適の生活を送っているそうです。
写真は地歴部顧問「村田先生」ご自宅を訪問した時のものです。

六甲山と云う地名(地名の話Ⅰ)

2009年08月02日 | 地名・地誌

日本地名学会と云う組織があります。川崎市に本部があり「日本地名会館」と云う立派な自前のビルも所有しています。日本では「地名学」が学問として確立しているかと云いますと、残念ながら地名学と云う領域はありますが学問としては未だ揺籃期で、学問としては問題があるように思います。
この分野では「言った者勝ち」と云う傾向が強く、またそれを検証する手立てもあいまいです。ですから「朝鮮語・アイヌ語」起源説が氾濫して、何かにつけ「朝鮮語から来ています・・」とか「アイヌ語から・・」と云う風な仮説が多くあります。
 所が「地名」をやる人が結構多くいて、先の「日本地名学会」の会員の大多数は在野の素人の研究者です。大体「物理・化学・数学・・」などの自然科学ですと原理や定理、公式・・など最低限の基礎知識がなければ話になりません。
ノーベル賞の素粒子論などは、素人には全く手の出せないことばかりです。
しかし、歴史などは「聞きかじり」の単語をつなぎ合わせて、それらしい自分なりの仮説を唱えることができます。一番いい例が「邪馬台国論争」です。
 金は無いが時間のある方は、結構楽しめるのが「地名」です。
興味のある方は、是非「地名」の世界を楽しまれてはいかがでしょう・・。
上記の様な代表的な例として、身近な「六甲山」と云う「地名」が「地名屋」はどの様にこねくり回しているかを示します。皆さんの感じ方は・・・?」

六甲山の地名解:
 通説は、神功皇后伝説。神功皇后の朝鮮遠征の帰路、九州で産んだ王子(後の応神天皇)が帝位を継ぐことを恐れた兄の香坂・忍熊の2王子が皇后一行を襲ったが逆に征伐され、香坂・忍熊をはじめとする首謀者6人の首が兜(=『甲』)とともに山中に埋められた山を六甲山と呼ぶようになった。
そのために六甲山には一ノ岳?など合計6つの高い峰がある。
 しかしながら、六甲山に『六甲』の字が使われるようになったのは江戸時代であるらしく、奈良・平安時代では万葉集などで、「牟古山」・「務古山」・「六児山」などの表記で「ムコヤマ」と呼んだものと考えられ、これに神功皇后伝説をはめ込んだという説も多い。(六=ム、甲=コ)
このムコヤマのムコは、麓の武庫之荘、武庫川などと同様の地名の転化であるとされる。
このムコの由来にも各説あり、支持が多いのは、
 大和時代に大和や難波宮(7世紀頃造営)から見て大阪湾あるいは淀川の「むこう」が「ムコ」、淀川の「こっち」が「河内(かわち)」というもの。
これ以外にも古代日本人のルーツと同系のポリネシア(南方系)、アイヌなどの言葉からマオリ語の 「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株(瘤のような山)」や、アイヌ語の「ムク」という植物が語源であるとする説などがある。

千成ヒョウタンがぶらりと・・

2009年08月01日 | 日記
今朝、久しぶりに快晴の空を見ました。
庭木の天辺に大きな形の良い瓢箪がぶら下がっていました。
上を見ることのない人生を送っていますので、気づくのが遅れたようです。
変形を好み「野趣があっておもしろい」と云う向きもありますが、ヒョウタンはひょうたん型が一番いいように思います。
「This is Hyoutan!」「いとをかし」
花器にでも加工してみようかなァ