馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

ここはお国を何百里・・「戦友」作詞者・真下飛泉

2020年03月27日 | 歴史


新型コロナウィルス騒動の最中、福知山に行きました。(3月25日)
当ブログは2009年12月に《お爺ンたちの忘年会Part2 「戦友」の唄
》と題する記事を掲載しました。その後、記事の30%を整理削除した時にこの一文も削除しました。今回、久しぶりに大江町に行ったのを機会に復活します。
尚、現在大江町は福知山市に合併されています。


京都府加佐郡大江町宮川河畔に「ここは御国を何百里離れて遠き満州の・・」で知られる「戦友」の歌碑があります。
「戦友」は、大江町川河守新町出身の真下飛泉が作詞をしました。
真下飛泉の経歴を、町教育委員会冊子などから抜粋します。
明治十一年十月十日、男子四人兄弟の次男として生まれました。
本名は瀧吉、文筆名を飛泉・瀧郎などと称しました。
小学校卒業後、隣家「丹要」に丁稚奉公をするも、学才を惜しむ恩師の勧めで京都師範に進み、卒業後、京都市内の小学校で三十年近くの教員生活を送ります。教壇を去った後、市会議員となり、大正十五年十月二十五日宿痾(心臓病・喘息の持病?)のため府立病院にて死去。享年四十九歳。


真下(ましも)飛泉(ひせん)資料室と北タンゴ鉄道宮福線大江駅近辺
真下(ましも)飛泉(ひせん)の資料室を、北近畿タンゴ鉄道・大江駅が入る町地域振興会館二階(町総合会館隣)に移した。資料は町が収集したものもあるが、大半は親族から寄贈を受けた。現在書簡など六九七点を所有し、その中の約六〇点を展示しているという。(両丹日々より)この記事を見て資料室を訪ねました。商工会の会議室の様な所で、常設ではなく事前に連絡が必要だそうです。
隣接した図書館で郷土資料から飛泉関係を閲覧していると、親切な司書さんが役場に電話をしてくれて、特別に資料室を開けてくれました。
この日は、兎に角暑い日で大江駅の二階にある資料室は冷房が切られていたので、一〇分も我慢できない状態で、親切はありがたいのですが、早々に退散しました。
真下飛泉と云えば「戦友」のイメージですが「戦友」と相前後して「出征」「露営」「凱旋」・・・等々の詩集を世に問うています。若くして文芸に傾倒して、教員に奉職してからは、与謝野鉄幹に師事したので「明星派」の影響を強く受けたようです。資料室で自筆の自詠の軸が何本かありましたので書き写してきました。



行きながら 見ながら人は ほゝゑみぬ 歌にさまよふ 宮川つゝみ
 
山多き丹波の国の 朝霧は 物を思いて行くによきかな 

病院の明けぬ暮れぬとけふ五日 咎められつゝ歌書きにけり

この一帯は、平成十六年の台風二三号の集中豪雨で大変な被害に遭いました。観光バスが水没してバスの屋根の上で一晩救助を待ったのもこの時です。
真下資料室のある大江駅周辺には、町の主要な施設が集中していますが、どの施設も水没の被害に遭いました。

 


発禁になった「戦友」
戦友は、哀調のあるメロディーと歌詞が厭戦的で「歌う」のを禁止された事があります。
日露戦争を歌った詩に与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」がありますがこれも厭戦的として軍部の反感を買いました。両者とも意識したとは考えにくいのですが、明星派の作風なのか・・。
兎に角国民歌謡として絶大な人気がある「戦友」は、軍部としては何としても排除したくてなりません。難癖を付けたい軍部は、4番の歌詞「軍律厳しき中なれど是を見捨てて置かりょうか・・」を俎上に上げ「軍律を破るとは何事だ」と発禁にしました。
飛泉は「戦友」の序で「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ」の御勅語の御趣意を以ってかいてみた、と述べ彼自身が健康であれば、戦場に臨みたかった思いを詩にしたと思います。
最近、我々より若い世代に「教育勅語」などに賛意を示す人が増えてきたように思えます。この様な手合が「美しい国」なんどと言い出すものです。
発育不全の石原慎太郎が増殖しないことを願うのみです。

④ 軍律厳しき中なれど 是が見捨て置かりょうか「確りせよ」と抱き起こし 仮包帯も
弾丸のなか

もう一つの歌碑
「ここは御国を何百里」の歌碑がもう一つあります。
真下飛泉の墓所がある京都市東区の知恩院の塔頭「良正院」前です。
大江町の歌碑は昭和四一年建立ですが、良正院の歌碑は、飛泉の死後二年目、昭和二年に建てられたそうです。

由良川右岸に「戦友」の歌詞の大きな看板がありました。
。(2009年8月)
 
度重なる水害で河川改修が行われた。現在の現場です。(2,020年3月)

 

現在「戦友」の歌詞の大看板は大江駅に隣接した一角にあります。(2020年3月25日)






万葉集最大難解な歌 第1巻9(額田王の歌)

2019年04月05日 | 歴史
新元号が「令和」と発表されました。当ブログも書いてみましたが、親しみやすそうな感じがします。出典は「万葉集」からだそうです。1300年以上の日本の元号史で「漢籍」ではなく「国書」からの出典は今回が初めてだそうです。改元バブルで万葉集がバカ売れしているそうです。


新元号発表後、当ブログのアクセス数が急伸しました。アクセス解析で調べてみると2010年(平成22)7月10日にUPした「万葉集最大難解な歌 第1巻9(額田王の歌)」にアクセスしているようです。
 今回、当時の記事を改編して再度UPします。 
万葉集第1巻第9歌の題詞と本文
◎ 紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌
  「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼五可新何本」

 この歌は訓み方が定まっていない「万葉集中第一の難解歌」です。
訓み方が分からない事もあり、作者が古代史の超有名人「額田王」でありながらあまり取り上げられることがありません。「額田王」関連の出版物は沢山ありますが、この歌を省いたものが多いようです。
 毎日新聞6月26日朝刊文化欄に「歴史迷宮解」と題して5段抜き写真入りの大きな記事がありました。(写真)
タイトル「神武天皇伝承と額田王」「謎かけ歌に浮かぶ常識・記紀の違い考える手掛かり」が目に飛び込んできましたので、取あえずPCに保存しておきました。記事を書いたのは佐々木泰造と云う方です。

佐々木泰造さんは「木国(きのくに)の負ふ名に爪付けわが背子(せこ)がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本」と読み下すことを提案されています。



「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼五可新何本」の内、下の句「吾瀬子之 射立為兼五可新何本」は「わが背子がい立たせりけむいつ橿の本」と訓むことに大方の異論はないようです。
問題は上の句「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣」の訓みが全く解らないようです。
多くの先学が、知恵を絞って果敢にチャレンジしてきましたが、未だに万人が肯首する「定訓」と云うものがないようです。
 新旧五〇種以上とも二〇〇種とも言われる「訓み方」が発表されています。
そのため、専門家でも解読を「放棄」する人や「解らないものは解らないでいい」と居直る人まで出てくる次第です。

 この歌の訓・釈が如何に難解であるかは、その読み方だけでも50~200もあると云われているそうです。何か邪馬台国の所在地論争のようです。

以下にその読み方の例をいくつか紹介しておきます。

「莫囂圓隣之大相土見乍湯氣」=ゆふづきのやまみつつゆけ=夕月の山見つつ行け(豊田・新釈)

「莫圓隣之大相土見乍湯氣」=みもろのやまみつつゆけ=みもろの山見つつ行け(茂吉・古義)

「莫囂圓隣之大相土旡靄氣」=かぐやまのくにみさやけみ=香具山の国見さやけみ(金子・評釈)

「莫囂圓隣之大相土見爪爪湯氣」=みよしののやまみつつゆけ=み吉野の山見つつ行け(尾山・国語と国文学)

囂圓隣之大相七兄爪湯氣」=さかとりのおほふなあさゆき=坂鳥の掩ふな朝雪(粂川・国語国文の研究)

「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣=ふけひのうらにしつめにたつ=深日の浦西詰に立つ(宮嶋・雑記)

「莫囂圓隣之大相七氣」=しづまりしかみななりそね=静まりし雷な鳴りそね(塩谷・万葉露のしづ枝)

「莫囂圓隣之大相士見乍湯氣」=まがりのたぶしみつつゆけ=まがりの田蘆見つつ行け(土屋・私注)

「莫囂隣之大相士旡爪湯氣」=ゆふとりしはふりしづむる=木綿取りし祝鎮むる(谷馨・額田王)

「莫囂圓隣之大相七兄湯氣」=まがたまのよそひななせのかはにゆららに=勾環の装ひ七瀬の川にゆららに(阪口・万葉林散策)

 以下、何十種類以上の訓・釈があります。
義訓、誤字、脱字、誤音、衍字などなど苦心の跡が窺い知れるものばかりですが、どれとして万人が肯首するものが未だにありません。

「延喜式内社・保久良神社」・・・・・倭国大乱。

2019年02月18日 | 歴史
保久良神社社頭、可なり急な参道を上り切った崖際に石燈籠があります。「灘の一つ火」と呼ばれる謂わば灯台です。遠い昔から神火として地元住民(麓の北畑村の天王講の人々)がこの神火を守り続けたそうです。現在は電燈になっているそうです。
沖の舟人たよりに思ふ 灘の一ツ火ありがたや (江戸古謡)

現在の石灯籠には文政八年(1825)の銘が刻まれています。文政八年は「異国船討払令」が布告された年で、何らかの関係があったものと考えられます。阪神淡路大震災ではこの燈籠も石鳥居も崩れ落ちる被害にあったそうです。
● 狼煙通信。
  江戸時代中期から明治期にかけて、米相場などの情報を伝えるために旗などを用いた通信が行われていました。電信や電報が無かった時代では超高速の光通信システムだったようです。この「旗振り通信」は何度か再現実験が行われました。データーによると「大阪~和歌山」まで3分、「大阪~京都」まで4分、「大阪~大津」まで5分、「大阪~神戸まで」3分~7分、「大阪~桑名」まで10分、・・・・「大阪~江戸」まで(箱根を超える際に飛脚を用いて)1時間40分前後であった。当時の最速の通信手段「早飛脚」でも大阪~江戸間は、夜通し走り継いても3日掛かりました。「旗振り通信」では「旗の色」「旗を振る位置・回数・順序」など細かい規定があり、伝える情報量も複雑なものであったようです。しかし、このシステムの原型は、古代に行われていた「狼煙」です。
 古代から瀬戸内沿岸の高台には点々とこの様な「狼煙台」が設置されていたようです。そして古代人が伝えたかった最大の情報は「敵の来襲」です。
敵が来襲すれば、高台の見張り番は狼煙を上げ海岸縁の村人を高台に設けた避難所の役割を果たす集落に移動させます。

● 倭国大乱と高地性集落
 「「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」(其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。)卑弥呼の時代の列島の様子を伝えた魏志倭人伝(正式には「三国志」中の「魏書」第三〇巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)です。弥生時代後期の2世紀後半、倭国では大規模な内戦状態であったようです。それを裏付けるような遺跡が各地で発掘されています。豊中市勝部遺跡はこの時期のものですが、この遺跡からは石鏃や石槍が突き刺さったままの人骨が出土しており、当時(弥生時代)この周辺で大きな争乱があったとされています。
弥生時代、外敵から村を守るために環濠集落がつくられました。ところが瀬戸内沿岸、大阪湾沿岸に環濠集落とは趣を異にした高地性集落がつくられます。環濠集落は水田を中心に形成されますが、高地性集落は山地の頂上・斜面・丘陵と日常生活には適さない場所にあります。これは「逃げ城」や「狼煙台」などの軍事目的の集落であったと考えられます。
● 会下山遺跡
  月曜ハイキング、今回天気が良ければ芦屋川駅からロックガーデン経由で保久良神社⇒岡本駅を歩くはずでした。会下山遺跡はこの芦屋川駅からすぐのところにあります。保久良神社とは六甲山系の別の支脈、と言っても僅か1駅しか離れていない位置にあります。会下山遺跡は弥生時代の高地性集落の重要な遺跡です。保久良神社は祭祀遺跡は検出されていますが住居跡などの遺跡は出ていません。が、保久良神社が位置する金鳥山(425m)山頂からは建物跡の遺跡が出ています。即ち、会下山と保久良神社は弥生時代の同族氏が設営した高地性集落遺跡と考えられます。

●  神武天皇東征神話と椎根津彦
   日本書紀によると神武天皇が東征の折、速吸門(明石海峡)に差し掛かった時、東征軍の航路案内をしたのがこの地方の「国つ神」(在地豪族)珍彦(うづひこ)後の椎根津彦です。神武東征であろうが倭国大乱であろうがこの地域が戦乱に巻き困れたのは確かで、高地性集落のような軍事施設は大いに活用されたはずでう。緊張の中で狼煙があげられ篝火が焚かれたであろう。やがて国家が統一され平穏な訪れると生活には適さない耕地整数楽は放棄されます。ただ記憶として航路の安全の目明日として神火を焚き続けると言う風習が残ったのでしょう。それが「灘の一ツ火」なのです。ですから保久良神社の祭神は椎根津彦命で無ければならないのです。保久良神社の南側(浜側)に東灘区青木(おおぎ)と云う地名があります。このオオギ(青木)地名の由来には椎根津彦命の伝承によるのも論拠になります。
(河内・摂津・和泉の分国については又の機会に・・。)





今季最強の寒波来襲。渤海国使のこと。

2018年12月28日 | 歴史
寒波到来。夏の残酷な「暑さ」の頃は、もう日本には「冬」が無くなってしまったのかと思っていましたが、自然は正直に季節を巡らしてくれます。 年末寒波が来るそうです。気象予報によると今日12月27日から年末、年始にかけて今季一番の「寒波」が来襲して大荒れになるとの予想です。
西高東低の気圧配置
気象衛星「ひまわり」の画像を見るたびに、当ブログは亡くなられた上田 雄さんを思い出します。

冒頭の写真は「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真です。
一目瞭然「渤海国使」はこの北西の季節風を利用して「帆走航海」をして来日した事が分かります。
そして帰国する時は、太平洋から吹き上げる「南寄り」の季節風を受けて「帆走航海」したと考えられます。


(A)孟秋尚熱 仲秋已冷 季秋漸冷 季秋極冷 孟冬漸寒 秋暉欲暮
(B)春景漸和 夏景初蒸 季夏甚熱 夏中已熱 夏首正熱 春首余寒 「四文字熟語」ではありません。
(A)は渤海国使が携えてきた「国書」に書かれている「時候の挨拶」(B)は渤海国使が持ち帰った「返書」に書かれている「時候の挨拶」 何が言いたいのかと云うと「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているということです。

日本は島国ですから縄文時代以前から「海」を渡って「人間」をはじめ多くの文物が流れ込んできました。
その為、「海上の道」がいろいろ議論されてきました。
黒潮に乗って琉球列島を伝ってくる道。黄海・東シナ海を渡ってくる道。朝鮮半島を南下して対馬、壱岐を経由する朝鮮海峡の道。これらのルートは、教科書にもよく紹介される将に古代史の「花道」です。

 6世紀後半から7世紀初めにかけて、即ち「飛鳥時代」に「高句麗」の使節が何度か来朝しています。
当時の朝鮮半島は「高句麗」と「新羅」が鋭く対立しており、そこに「百済」が加わり複雑な緊張状態にありました。
当時の日本の歴史は「高句麗文化」の影響が強く、百済・新羅よりも関係は親密であったと言われています。
この様な状況で「高句麗」の使節が日本に来るルートは、一般に考えられているような「朝鮮海峡~対馬・壱岐~北九州~瀬戸内海」には無理があります。

 日本には今まであまり脚光を浴びていない「第4の海上の道」即ち「日本海を縦断する道」があったのです。
従来の歴史では、「小さな木造船」で冬の荒れた日本海を航海できる訳がない、とされていました。
また、歴史家でありながら「暦日」の換算ができなかったり「暦」すら理解できなかったりで「・・季節風を知らず、ただやみくもに航海したので、ほとんど毎航ごとに遭難した」(森克己)などと云う「滅茶苦茶」な議論がなされていました。

 遣唐使船が復元され「実地航海」などが話題になります。所がこの「復元遣唐使船」の復元資料は「鎌倉時代の絵図」をもとにしていることもあまり知られて今いことです。

これらの疑問を丁寧に解明したのが「上田 雄」さんです。馴染みの喫茶店の常連客同士のお知り合いでしたが、上田さんの執念とも云える探究心には敬服したものでした。大著「渤海使の研究」を上梓し刊行された時のあの笑顔が今も鮮明に浮かんできます。
TVの天気予報を見ていて、冬の「ひまわりの画像」を見れば「分かるやろ!」と解説されていた元気な上田さんを思い出しました。


銀を使っていないのに何故「銀閣寺」なのか?

2018年10月24日 | 歴史
通称銀閣寺は慈照寺と云うそうです。山号は東山。現在は臨済宗相国寺末寺です。
将軍足利義政が隠棲し、風流遊興のために東山に造営した御殿で「東山殿」と呼ばれていました。
義政の頃には彼が起居していた常御所、西指庵、起然亭、東求堂、会所、泉殿など多くの殿舎・楼閣あったそうです。天文の兵火でその多くは消失し、現在は銀閣、東求堂、庭園などを残すのみです。

銀閣は正式には観音殿と云い、2層の楼閣です。上層は潮音閣で観音像が安置され下層を心空殿と言われ書院造りの原型と云われています。延徳元年(1489)に完成しますが翌年延徳二年(1490)足利義政が没します。義政死後、義政の遺言により東山殿は禅寺・慈照寺となります。開基は足利義政、開山は夢窓疎石。慈照寺は義政の義政の法号に因むとされます。
 東山殿造営は文明一〇年(1482)から始まり、銀閣完成まで七年弱の年月を要しました。

 観音堂、通称銀閣は建設当初から銀箔を使用した形跡は伺えません。また昭和40年の解体修理の折の調査でも銀箔の使用は認められませんでした。

慈照寺・観音殿を現在のように通称銀閣寺・銀閣と呼ぶようになったのは江戸時代になってからです。
◎「都名所図会」巻之三・左青竜に「二重の高閣あり(北山鹿苑寺の金閣に准じてこれを銀閣と号す)」とあります。簡単に言えば同じような経緯で立てられた金閣寺があるので、金銀と対にして金閣、銀閣と呼んだということです。
 所がこの銀閣という通称が独り歩きしだしとんでもない紹介記事となってきます。
◎「後太平記」は延宝五年(1677):大岡越前が活躍していた頃。に刊行された本には「軈テ東山慈照寺ノ内に東求堂ト號シ、銀ヲ鏤メ結構ヲ盡サレ、美営ノ粧堂ナレバ世ノ呼ンデ銀閣寺ト是レヲ云フ・・・」
◎「雍州府志」天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された山城国に関する初の総合的・体系的な地誌。「・・・・・之、銀箔ヲ以テ飾ル、故ニ世銀閣ト稱ス、・・・・」
◎「野史(大日本野史)」:水戸の『大日本史』のあとをうけ,後小松天皇から仁孝天皇にいたる 420年余の紀伝体の史書。嘉永4 (1851) 年完成。「・・・金銀ヲ以テ鏤刻ス、時人之ヲ北山金閣ト比シテ銀閣ト稱ス、・・・・・・」

 と云うことでトンデモハップンな歴史が定着してしまいました。現在では大河ドラマが産出すスーパーヒーローのようなものですか・・・・・。


北海道、ジャガイモ、男爵

2018年10月05日 | 歴史
ジャガイモは2,000品種もあるそうです。北海道では40品種以上栽培されていると云われています。今年は「キタアカリ」と「メークィーン」の2品種を十勝の農家さんから送ってもらうようにしました。
 でも、当ブログにとってはジャガイモといえばやはり「男爵」です。
2011年10月に「男爵資料館」と「ニッカウヰスキー余市蒸留所」に行ったときのブログを再度UPします。
NHK朝ドラ「マッサン」が始まりました。ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝とその妻リタのお話だそうです。
当ブログが2011年10月に北海道を旅行した際、余市のニッカウヰスキーなどに行った際の見聞記を記事としてアップしました。

「ニッカウヰスキー余市蒸留所」を見学しました。ニッカウヰスキーと言えば創業者であり「日本のウイスキーの父」と呼ばれている竹鶴政孝(明治27年~昭和54年)です。
竹鶴政孝は大阪と随分縁の深い人物です。出身は広島県竹原市で、生家は造り酒屋だそうです。この造り酒屋は現在の「竹鶴酒造株式会社」の前進だそうです。
 家業を継ぐため大阪高等工業学校(現在の大阪大学)で醸造学を専攻し、摂津酒造(後に宝酒造株式会社と合併)で純国産のウイスキー造りを始めることを計画します。スコットランド・グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶため単身留学します。
 帰国後、寿屋(現在のサントリー)の要請により山崎に製造工場を建設します。一時期、アベノにある桃山学院で化学の教師をしていた事もあるそうです。また、妻のリタも帝塚山学院で英語を教えたそうです。(太田夫人からの情報です)
竹鶴政孝はスコットランド・グラスゴー大学留学中に一生の伴侶となるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と恋に落ちました。竹鶴は周囲の反対を押し切って恋を成就させました。ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と終生、中睦まじい夫婦であったそうです。

「男爵資料館」・・男爵は靴職人(2011年10月23日)
トラピスト修道院に隣接した所に「男爵資料館」があります。
男爵とは川田龍吉・安政2年~昭和26年(1856-1951)のことです。川田男爵が導入したじゃがいもが「男爵」です。
この品種は「アイリッシュコブラー」と云うもので、敢て日本語訳すれば「アイルランドの靴屋」とか「アイルランドの靴職人」と云うそうです。
 資料館は「キング式型」と言われる大正時代に建てられた牛舎を改修したものです。展示品は当時としては大変珍しかったアメリカ製農機具や生活用品など貴重な資料が展示されています。日本にただ一つ現存する木製サイロなどここでしか見られない貴重な資料も数多くあります。
 日本のオーナードライバー第1号といわれる川田男爵が愛用したアメリカ製のロコモビル蒸気自動車も展示されています。明治33年(1901)に川田男爵が購入したもので、当時の姿のままで保存されています。国内はもちろん世界でも現存するものは極めて少なく、貴重な歴史資料として注目されています。
 ジャガイモが日本に伝わったのは、16世紀にオランダ人によって長崎に持ち込まれたとされています。オランダの商船がインドネシアのジャカルタ経由で日本にもたらしたので「ジャカルタいも」→「ジャガイモ」となったそうです。当時は観賞用だったようで食用として栽培されだしたのは明治になってからだそうです。
 北海道のジャガイモの歴史は、幕末に最上徳内が北千島から持ち帰り函館付近で僅か乍ら栽培したロシア経由のじゃがいもが始まりです。
明治になって開拓使が導入した品種はすべて北米のもので、特に「アーリーローズ」「スノーフレーク」は道民の初期の主食代用品となりました。大正時代には澱粉製造業の需要が大きくなり、北海道の主作物の一つとなりました。
 しかし、明治二十年代から全道的にじゃがいもの病虫害が発生、特に萎縮病の被害は甚大であったそうです。
田川男爵はこの病害騒ぎを知り、外国から取り寄せた農業専門書を読みあさって居ると「北米マサチューセッツ州のアイリッシュ・コブラーの農場でアーリーローズ種の突然変異により新種のじゃがいもが出来た。粒大にして味も良く、病虫害に不死身なほど強い」という記事を発見しました。男爵はは早速アイリッシュ・コブラーの名の新種を取り寄せ、四年間の試作実験を重ね、病害に強いだけではなく、生育も早くて夏の短い北海道に適し、味も良いという品種の優秀性を実証しました。伝え聞いて入手の希望者が増え、不作に苦しんだ道内のじゃがいも農業は安定の道を歩んだ。此のためアイリッシュ・コブラー種を男爵の 功をたたえて『男爵いも』と呼ぶようになり、昭和三年には道から優良限定品種として指定登録を受けました。
 川田竜吉男爵は土佐の人で、父・川田小一郎氏は岩崎弥太郎の親友で三菱財閥の創業に尽力し、その後第三代の日本銀行総裁となって日清戦争の戦費調達に貢献した功績で、民間人として珍しく男爵となった財界人です。
 世襲により竜吉が男爵となり、七年間のヨーロッパ留学、特にグラスコ大学で「造船学」を学び、その経験を生かして経営不振の函館ドックの社長として函館に来ました。そして、十年間を費やして会社の建て直しに成功した。
  男爵は函館ドックの再建後も東京に帰らず、上磯の農場清香園でいもづくりに精を出し、又ヨーロッパ型農業を目指してトラクター・洋式牛舎・サイロ等の農業設備の導入につとめました。
男爵は昭和二十六年九十五才で亡くなりました。敬虔なクリスチャンであった男爵は92歳の時にトラピスト修道院で洗礼を受け、3年後に生涯を終えました。
 男爵の死後、金庫の中で大切に保管されていた金髪と90通にも及ぶラブレターが発見されました。これはイギリス留学時代の恋人ジェニーとの間でやり取りされたものです。結婚は親の反対で成就しませんでしたが、生涯心の妻であった様です。しかし、生前ジェニーの存在を知る人は誰もいなかったため、ジェニーについては何も分からないそうです。

 奇しくもスコットランド・グラスゴー大学に留学した2人の日本人青年、竹鶴政孝と川田龍吉。そして、この2人は同じく彼の地の女性と恋に落ちます。竹鶴政孝とリサは周囲の反対を押し切り当時としては珍しい国際結婚をし恋を成就させ一生仲睦まじく暮らしたそうです。一方、川田龍吉とジェニーは周囲の反対を押し切ることができず恋は成就できませんでしたが、川田龍吉の心には生涯ジェニーは生き続けていたようです。




倉吉にあった淀屋

2018年07月14日 | 歴史
北大阪地震や連日の梅雨末期の大雨による西日本広域の大水害。可也のストレスが溜まっています。そこで、当ブログのストレス解消法はドライブ。と云うことで久しぶりに片道250km、往復500kmの日帰りドライブに出ました。約2年弱前、2016年10月21日、鳥取県倉吉市付近を震源の震度6弱の地震がありました。当ブログはちょうどその次の日に倉吉に行くつもりをしていましたが断念した経緯があります。そこで思い切って今日は倉吉にと勇んで出かけました。
倉吉の豪商牧田家・倉吉で最も古い町屋建築(倉吉淀屋)

実は江戸時代初期の豪商「淀屋」について調べているのですが「淀屋」についての記録は極端に少ないので研究もなかなか進んでいないそうで、分からない事や謎めいたことが沢山あります。淀屋と云えば今もなお水の都・大阪土佐堀に架かる橋にその名を残し、地名にもなっています。淀屋橋は過去に何度か架け替えましたが、その名前は淀屋橋として300年以上継承されています。「淀屋が架けた橋」→「淀屋の橋」→「淀屋橋」となったそうです。淀屋橋を架けたのは2代目・言當(辰五郎)の頃と思われます。当時の記録には「家富み、繁盛して、自分の家の前に橋をかけ淀屋橋と名づけ、48戸前のいろは蔵を所有し、あらゆる宝を買い集め、長者号を受けた」とあります。またその豪華で贅沢な生活ぶりは「屋敷を百間四方に構え、家作の美麗さは比べるものはない。大書院、小書院はすべて金張り、金襖、庭には泉水立橋、唐大和の樹木を植え、夏屋敷と称してびいどろの障子を立て、天井も同じびいどろに張り詰め、清水を湛えて金魚を放っている」「びいどろ」とはガラスのことで、板ガラスの製造に世界で初めてフランス・パリの工房が成功して間もないころです。勿論、ガラス張りの天井は淀屋の屋敷が世界で初めてのものです(元禄元年?)。大阪市立図書館郷土資料室には「日本経済史資料 第一六部 雑 第三 淀屋闕所覚」という古文書のコピーがあります。


この史料を全文コピーするには大阪市立大学の許可が必要です。その財産目録に「びいどろ障子 四十八枚」とあります。恐らくこのびいどろ障子が天井に張られたガラス障子と思われます。
 史上有名な「淀屋闕所」は五代当主・広當(辰五郎)の時、宝永二年(1705)のことです。淀屋闕所の理由については資料が少なくその実情はよく分かっていません。その為、研究者の間でもその理由は小説的であると言われています。近松門左衛門の浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」•井原西鶴「日本永代蔵」など当時の文芸に登場して人気を博したそうで、その脚色した物語がリアリティーをもって現在に語り継がれているのが現状です。
江戸の材木商で天下の豪商と云われた「奈良屋」の五代目・茂左衛門、通称・奈良茂が残した総資産の記録があります。有金・貸金・不動産すべて合わせて十二万両と云われています。所が淀屋の残した資産は信じられない程の巨額なものです。有金だけでも奈良茂の総資産の十二万両。銀八万貫余、その他に金銀・玉・珊瑚をはじめ書画、・・・それに先程のびいどろ障子、・・・。亦、諸大名への貸金は約一億貫、その他全国各地に不動産を所有しており、屋敷一〇八ケ所のうち一町四方の屋敷が一二ケ所、田地も京都・八幡だけでも二百石、・・・と淀屋の富の大きさは空前絶後です。

この内、幕府公儀・諸大名への貸し付けを現在の貨幣価値に換算すると幕府・公儀へ四八〇億円、諸大名へ一〇〇兆円との試算もあります。
 淀屋五代当主の時に闕所となります。しかし、四代目当主重當は幕府の動向を察知していたのか番頭・右衛門を倉吉に派遣し牧田淀屋(倉吉淀屋)を設立しました。牧田淀屋は右衛門から八代まで主家に忠誠をつくし倉吉淀屋五代当主の時には四男を淀屋清兵衛として大坂淀屋橋の元の場所に「淀屋」の暖簾を挙げよどやを再興します。倉吉、大坂両淀屋とも商いは順調でかなりの蓄財をしたようです。所が、安政5年(1858年)安政の大獄の年、倉吉・大坂の両淀屋は突然店を閉めます。両淀屋の財産の殆どを朝廷に献上し、その後の動向は全く不明のままです。淀屋閉店後八年目に徳川幕府は崩壊し日本は王政復古となります。
 淀屋研究会(ヨドケン)という会があります。倉吉市では「倉吉淀屋」を観光資源として町おこしをしています。徳川幕府により理不尽な闕所で取り潰された淀屋が、密かに倉吉に店を構え、そして主家を大坂に再興し、そして恨み骨髄の徳川を倒すため雌伏する事160年、倒幕のため全私財を朝廷に献じて恨みを晴らした、・・・と言うストーリーでNHK大河ドラマを誘致する運動が活発に行われています。

※この項、当ブログ2018年10月26日「倉吉に激震。倉吉にあった淀屋」を改編しました。

但馬国虎臥城・・・竹田城の水問題。

2018年04月11日 | 歴史
4月 9日(月)大阪国際空港からコウノトリ但馬空港までプロペラ機で飛びました。往路は45分、復路はなんと20分でした。今まで何度となくこのエリアに来ていますがこんな便利な手段があるのに思いが及びませんでした。チョットした感動です。
今、竹田城跡はブレークしていますが、平成元年にも大ブレークしたことがあるそうです。その時は、角川映画「天と地と」のロケが行われ、3億円の巨費で竹田城に天守閣、大手門、塀などのセットが本物の城郭のようなオープンセットが建設されました。町では、竹田城の出現にライトアップなどしたので、連日連夜大勢の人たちが押し掛けたそうです。
 この映画で武田家の重臣・甘利虎泰を演じる本郷功次郎が当ブログの祖母のところに「甘利虎泰を演じさせていただきます」と菓子折りを持って挨拶に来たそうです。

 竹田城は、古城山(353m)の山頂を削平して築かれた典型的な山城です。竹田城を訪れたらきっと疑問に思うのは「水の確保」はどうしたのか?と言うことでしょう。
古城山から眺めた大路山


 地元の地域史や郷土史家の話などでは「竹田城では、雨水を一時的に貯めたり、城下から人手を使って運び上げて、なんとかやり繰りしていた。それとも地下水脈に到達するほど、深い深い井戸を掘た。」のどと説明しています。しかし、深い井戸の跡は今も見つかっていませんしそのほかの方法も効率が悪いし、そんなことを実際に行なっていたとは現実味を感じられません。ボランティアガイドの方々も竹田城の水に関してはあえて触れていないように思います。
 そこで、当ブログは興味を持って調べてみました。
・・・・・地図の上に「竹田城跡」と書かれているところから、左側にある大路山麓の中腹の辺りの滝谷が、竹田城跡の水源地になります。ちょうど竹田城跡から西側に見える、大路山のまんなかあたりに滝谷と呼ばれた小川や泉があって、サイフォン方式の配水路の送水場所になっていたようです。サイフォン方式での配水路によって送水したその場所は、センゲンジ(千眼寺)とも(千願寺)とも地元では呼ばれた場所らしく、今も地名だけは残っています。そしてその配水管は、銅管で出来ていたとも云われていていますが。本当のところ銅製だったのか、木製だったのか竹製だったのか、判然とはしていません。しかし右上の大路山の画像で、その中腹に白く積雪が残っているのが見える、標高410メートルのピークの西側から、山麓の尾根に沿ってサイフォン方式で配水管を整備していたのでしょう。ちょうど現在の竹田城跡の中腹にある駐車場の辺りまで伸びていて、このあたりに池を掘って水を溜めていたと思われます。

 当時の山城では、このサイホン方式の給水システムが広く普及していたようで、近江の小谷城などはその遺構などの研究が綿密に行われていています。

金沢城・兼六園の給水システムもサイホン方式で、建設以来現在もその機能は未だに利用されています。
また、岡山城・後楽園も見事にこのシステムを取り込んで、金沢同様お城の給水だけではなく周辺の農業に大きく貢献しています。
 岡山城・後楽園は山城でもなくすぐ傍には旭川と言う大きな川が流れています。何もわざわざ旭川の上流から水路を改作してサイホンの原理を利用して給水する必要が無いように思われます。しかし、これを設計した津田永忠は「後楽園の場所は、元は旭川の洲状態の低湿地帯でした。築園にあたり、洪水に耐えられるだけの強度と高さに盛土して護岸を造れば、取水する段になると旭川の水位が低くなり過ぎます。それに、満潮時には潮が上がって来るため塩分を含み、伏流水でも用いない限り、水質自体が園には適しません。そこで、永忠は水源を5Km上流の旭川本流に求めました。旭川流域の農地に用水路の必要性を以前から感じていたので、幅3mの後楽園用水を設け、途中で分流させて農地に配水しようと考えました。」しかし「用水路の水を園内までどう導くかが最大の問題でした。後楽園まで盛土で陸続きにして直接つなげる手はあるものの、今のままでは旭川が洪水になったとき激流がお城を直撃する危険性があり、この際に後楽園の北側に荒手を設けて、激流の水を逃がす分流を設けておきたかったからです。とすれば、用水路を直接に園に引き込むには、石の懸樋(分流と立体交差させる水の橋を造る方法)で対応させることになるが、莫大な経費を要します。そこで永忠が考えた案が、用水路から後楽園までを水管でつなぎ、その水管を旭川分流の川底に埋めるという方法でした。川底の下に引き込まれた水が後楽園の高さにまで引き上げられるので、一般にサイフォンの原理を用いたと言われている方法です。」
竹田城は「水が確保できない」と云う決定的な欠陥があるお城だと思います。

※:この項目は2012年10月24日のブログを加筆改編して改めてUPしました。



「左近の桜・右近の橘」OR「左近の梅・右近の橘」???

2018年03月16日 | 歴史
3月3日(土)雛祭りの日に京都嵯峨野の大覚寺へ行きました。当ブログはTVドラマ「鬼犯科帳」(中村吉右衛門)の大ファンです。毎日欠かさずケーブルTVで視聴しています。密偵おまさ役の梶芽衣子がお気に入りです。この鬼平犯科帳をはじめ多くの時代劇のロケ地として大覚寺を使っています。大覚寺の境内や近江八幡の掘割が何の違和感もなく江戸の街になっているのが興味の1ツです。と云うことで大覚寺にに行きました。
 旧嵯峨御所が大覚寺の始まりだそうです。名残として「宸殿」があります。

京都御所の紫宸殿前の「右近の橘 左近の桜」が有名です。当ブログも小学校5年生の遠足で京都御所に言った記憶があり、軍人上がりの担任の先生が普段より熱弁をふるって説明していたのが印象に残っています。雛飾りにも「右近の橘 左近の桜」のたとえ話もあり、当ブログは「右近の橘 左近の桜」とガチガチに刷り込まれています。
 所が嵯峨御所宸殿前には「左近の桜」ではなく「左近の梅」が植わっていました。
桓武天皇平安遷都時には元々「桜」ではなく「梅」であったそうです。そう言えば万葉時代以来「花」と云えば「梅」であったようです。中国風の影響が強かった日本では中国よりもたらされた「梅」を珍重したようです。万葉集では梅を詠んだ歌119首、桜は41首だそうで圧倒的に「梅」が多いそうです。因みに一番多いのは「萩」の141首、次いで「梅」、「橘・花橘」107首、「菅・山菅」74首、「松」74首、「葦」55首、「茅・浅茅」50首、「柳・青柳」49首、「藤・藤波」44首、「桜」、・・・・となっているそうです。
 「左近の梅」が「左近の桜」に変わった経緯には諸説あるようです。内裏の梅が枯死しとか火災により焼失し桜を植え替えた、…などの記録があるようです。その中でとくに有名な逸話として「大鏡」にある「鶯宿梅」の故事です。村上天皇・応和3年(963年)に植替えたという説があります。
御所の「梅」が枯れたので紀貫之の娘の庭の紅梅を移植した時、移植された梅には一首添えてありました。
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答えむ」
村上天皇は甚く感動されて「梅」を返して代わりに「桜」を植えたと伝えています。
今でも皇族関係の寺院では「左近の梅」が多く見られるそうです。
次は仁和寺に行って確かめてみます。



幕末の名刀「四谷正宗」

2017年12月13日 | 歴史
知人に日本刀をみせてもらいました。
四谷正宗と云われる名刀があるそうです。幕末の刀工中随一の人気を誇り江戸三作の源清麿作刀を俗称「四谷正宗」と呼ぶそうです。四谷正宗と呼ばれるのは源 清麿が江戸四谷に住み作刀したためと云われています。
源清磨は刀工として名を馳せただけではなく時代もあったのでしょうが実に波乱に満ちた人生を送った人物の様です。その生きざまは多くの文芸作品として紹介されています。吉川英治、柴田錬三郎、隆慶一郎、・・・などが小説の題材にしています。特に斎藤鈴子の「刀工源清麿」(幕末の刀匠 源清麿)は昭和39年上期直木賞候補作品でした。
知人によると源清磨は40数本の刀を鍛えていますが銘を刻むことはなく、殆どが無名なのだそうです。僅か実数本は銘を刻んだものがあるそうですがそのうちの何本かは重要文化財に指定されているそうです。
日露戦争戦費調達に功があった知人のご先祖さんが男爵の位をもらった記念に落ちぶれ旧旗本家から買い取ったものだそうです。

南海太郎朝尊(ともたか)も幕末の人気の刀工だそうです。知人によるとみてくれは実に見事な刀だそうで、一目見た人はだれもが欲しがる名刀なのだそうです。しかし、知人は南海太郎は飾り刀のようなもので実戦には不向きなのだそうです。試し切りをしたことがあるそうで、四谷正宗のような切味はないそうです。
無銘の名刀。知人は無名で来歴は全く分からないが切味は抜群であるそうです。刀身も一寸長く身幅(厚み)も普通のものより厚めの作りだそうです。持たせてもらうと確かにほかの2本よりずしんと重かった。この切味は抜群で知人お気に入りの名刀なのだそうです。

 写真撮影は遠慮してほしいという希望で鮮明な写真を紹介できないのが残念です。長時間にわたり剣術や刀剣の話をして頂きました。知らない世界がまだまだたくさんあります。





浦島太郎。土産の玉手箱て・・・?

2017年12月01日 | 歴史
お馴染みの昔話「浦島太郎」です。浦島太郎ほど訳の分からないストーリーもありません。そもそもカメを助けたお礼が「煙と共に人生のすべてを失う」なんてどうも納得しかねるものです。お話には動物報恩譚というものがあるそうです。ツルを助ければ恩返しがあります。狐を助ければ美しい女性に化けてお嫁さんになって幸せな家庭を作ってくれる。(結婚譚)または動物を助ければ動物の話し声を理解できる不思議な頭巾を得たり、竜宮で何でも望みが叶う「呪宝」を手に入れて裕福になったりします。(致福譚)
何はともあれ浦島太郎の物語の結末ほど訳の分からないものはありません。これは当ブログだけでは無い様でネットなどにもその不可解さを指摘するとともに様々な解釈がなされています。それでもどれ1ツとってみても当ブログが納得できるものはありません。

浦島太郎というお話はヴァリエーションのない珍しい物語です。口承伝承は時代の経過や地域などで舞台設定や登場人物が変化したり、時によってはストーリー自体も変わってしまうことがままあります。しかし、浦島太郎はそのような変化や物語にヴァリエーションが全くないお話です。
 唯一の例外として江戸時代の御伽草子「浦島太郎」は、玉手箱を開けて老人となった浦島太郎のその後が語られています。
「浦島太郎が玉手箱を開けると中から紫の煙が立ち昇り浦島太郎はたちまち老人になってしまいます。その後、太郎はツルになって飛び去り丹後で浦島の明神として祀られ、竜宮の乙姫もカメとなって現れ夫婦の明神となった。めでたしめでたし。・・」とあります。あまりにも理解が難しい結末を誰もが納得行くように加筆されたものと思われます。それでも不自然さはそうしようもありません。
 久しぶりに古本屋で「浦島太郎の文学史」(三浦佑之著 五柳書院)を見つけて読みました。
でも結局もやもやした当ブログの疑問は解決しませんでした。

維新史に埋もれた園部城  

2017年08月11日 | 歴史
園部藩は外様です。譜代で佐幕派の亀山藩(亀岡藩)の西に隣接しお城を持っていない俗にいう「陣屋大名」でした。
幕末維新の頃となると武家政治の象徴と云える城郭もやや色あせてきます。諸国諸藩ではこの時代、お城の存在意義も薄れ廃城や取壊しとなります。更に明治新政府の時代、1873年(明治6年)「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)」を出し近世城郭の多くが廃城となります。そんな時流に反して園部城は1868年(慶応4年)1月18日緊急に改築が始まり1869年(明治2年)8月26日上棟、工事は完了しました。

大政奉還後も武力倒幕を目論む岩倉具視や薩摩藩の西郷隆盛ら強硬派は薩摩・長州・芸州を中核とした討幕軍出兵を企てます。一方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らには、これに反発する動きがあり一発即発の危機にありました。

慶応3年12月、幕府軍と討幕軍が砲火を交えた時、明治天皇を山陰道より安芸・備後方面に遷し、同時に諸国に檄を飛ばし勤皇軍を募るという計画が立てられました。そのような状況下、園部城は明治天皇の行在所として大改築が行われたのです。

「府史蹟勝地調査会報告」によると「城ノ修理ハ・・・・・若シ事アルニ於テハ鳳輦ヲ奉ジテ城ニ迎ヘ、宸襟ヲ安ジ奉ランコトヲ期ス。即チ城ヲ修メ、壁ヲ高クシ、壕ヲ深クセントシタルナリト。城壁今日残ルモノコレナリト言フ・・・」
結果として官軍が鳥羽伏見の戦いに勝利したため天皇の園部城への行幸は無かったのですが、園部城には維新史に埋もれた隠れた歴史があります。

園部城址には現在京都府立園部高等学校・附属中学校があり、周辺には園部公園、国際交流、図書館などの文化施設が整備されています。

園部城は日本城郭建築史上最後の特異な歴史を秘めたお城です。

杉本苑子「弧愁の岸」

2017年07月20日 | 歴史
女流作家杉本苑子さんが老衰のため5月31日死去しました。91才だったそうです。昭和38年直木賞を受賞した「弧愁の岸」は彼女の出世作であり代表作です。「女性にはめずらしいほど歴史知識の準備と熱と才」を蓄えた杉本さんの本格的な歴史小説です。また、舞台で森繁久彌が平田靭負を好演して話題にもなりました。

「弧愁の岸」は、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業で、工事中に薩摩藩士五一名自害、三三名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。俗に言う宝暦治水を描いた歴史小説です。
 女流作家がこんなに冷静に歴史小説を書けるとは思いませんでした。司馬遼太郎の作品と遜色ない安心して読める小説に感心したものです。

当ブログは縁あって三重県桑名市近郊の農場に就職し、その後も愛知県知多や岐阜県南濃地域で仕事をすることがあり、知人もたくさんでき地縁も結ぶことができました。特に墨俣、輪中の村落での農業指導でのこのエリアの治水の大切さを痛感した経験があります。
その数年後、世間を騒がせた「長良川河口堰」建設騒動が起こりました。河口堰建設の評価は未だに確定していません。検証すべきことは沢山あります。
しかし、河口から数十Km遡上した岐阜県輪中では、突然庭先から塩水が噴出することがあり、また洪水の常襲地帯であった現実を目の当たりに見ていた当ブログには「長良川河口堰建設反対」運動を行っている活動家と称するプロのアジテーター達には苦々しい思い出がありました。
治水・治山は国土利用の基本です。立場立場での意見はあるでしょうがその地で自然災害と戦い続けているその地の住民の切実な願いは優先されるべき意見だと思います。
 この地域には「薩摩義士」を顕彰する遺跡・行事が沢山あります。当ブログにも何度となく紹介したこともあります。自然環境が大きく変わり過去に経験したことのない自然災害が頻発しています。これを機会にもう一度「治山・治水」を考える材料に杉本苑子さんの「弧愁の岸」をお勧めします。
同じ」義士」と称賛される「赤穂義士」とは一味も二味も違う「薩摩義士」の事績を再評価しました。


画題「邪馬臺国何処」

2017年05月14日 | 歴史
墨彩画の展示会があります。今年は5作品を出品することにしました。その内3点は日本古代史から画題を選びました。縄文土器、銅鏡と銅鐸、それに銅鏡・銅鐸の背景に魏志倭人伝を描きました。
縄文土器 10号

銅鏡と銅鐸 10号

邪馬臺国何処 10号

 絵画なので画題に悩むのも変な話ですが「邪馬臺国何処」にするまだ随分考えました。「魏志倭人伝の世界」に決めていましたが、「魏志倭人伝」がどうも気にかかりました。

 通称「魏志倭人伝」と云うのは「三国志」中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条を指すのだそうです。中国の史書は伝統的に紀伝体と云う書式で書かれているそうです。紀伝体によると「本紀」「志」「世家」「列伝」「表」・・・などに項目を整理して編纂するそうです。「本紀」は皇帝の事績のことが書かれています。「志」はその国の地方の実情、国土や文化についての記述がされます。「世家」「列伝」は諸侯や家臣、民衆の傑人などの人民の事績。「表」は年表や家系図。中国の歴史書はこれらがセットになって「史記」「漢書」「後漢書」と二十四史は全て紀伝体を踏襲しているそうです。
 上記の理屈ですと「魏志倭人伝」特に「魏志」と云うのはどうも頂けません。せめて「魏書」程度にするべきと思うのですが・・。
日本でも「古事記」「日本書紀」「風土記」などが残されています。専門家の見解によると「日本書紀」と云うのも恐らく「日本書」として書かれその後、先進国「唐」に倣って紀伝体で「列伝」「志」と体裁を整える予定だったのでは、とのことです。「志」に該当するのは「風土記」ではと考えている研究者も多くいます。日本では「日本書」のうち「本紀」に当たる「紀」だけが完成して「日本書」に「紀」をくっ付けて「日本書紀」なる御大層なタイトルになってしまったのだそうです。
 
◎ 墨彩画展は数日のうちにご案内致します。


歴史の教科書が代わっているそうです。

2017年04月27日 | 歴史
受験勉強で「大化の改新645(ムシゴ)匹」「1192(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」覚えた歴史が今の教科書では通用しないんだそうです。645年のクーデターを「乙巳(いっし)の変」と云い、646年改新の詔に基づく一連の政治的改革を「大化の改新」とするそうです。また「鎌倉幕府の成立」は1185年と書き換えられているそうです。そうすると受験生は「1185(イイハコ)つくろう鎌倉幕府」と暗記するのだそうです。当ブログなどが習った「大化の改新」は中大兄皇子と中臣鎌足らが 蘇我入鹿を暗殺、曽我氏宗家を滅ぼし天皇中心の中央集権国家作りを行った、と云うものでした。それが今、乙巳の変と大化の改新を区別して教えるのは何故なんだろうと思うのです。ごくごく簡単に言うと中大兄皇子の入鹿暗殺には、その後起こる一連の国づくりを見通し確固たる信念・ビジョンをもってクーデターの挙に出たのではなく単純な勢力争いを暴力で決着させた単発の事件と捉えるようになったからだそうです。また鎌倉幕府成立の時期については、頼朝による武家政権の確立をどの時点と見做すかと云うことです。我々が馴染んだ1192年は源頼朝が、朝廷から征夷大将軍に任じられた年ですが、武家政権の実質確立は「頼朝が鎌倉入りして南関東を支配したときから」と見ると1180年と言えるでしょうし「頼朝政権の東国支配を朝廷が追認、公文所・問注所などの統治機構が整う」時とすれば1183年に、「全国に守護・地頭を設置し、頼朝は貴族社会における武門の頂点となった」時であれば1185年となるのだそうです。これらは歴史事実をどう認識するかと云うことで、事実が代わった訳ではありません。
源頼朝と言へば頼朝の肖像画が有名ですが、研究が進み頼朝ではなく足利尊氏の弟・直義との説が有力になっています。
足利尊氏像も研究の結果、尊氏を描いたものではなく高師直など諸説があり、人物を特定できない単に騎馬武者像とされているようです。

聖徳太子像も最近では「別人」ではないかとの説が有力となっているそうです。最近の教科書では「伝・聖徳太子」と説明したものも多いそうです。当ブログは「別人」というよりも奈良時代の絵師が聖徳太子を想像して描いたのではないかと思っています。
最近話題になった小中学校の歴史教科書の聖徳太子表記です。小学校では「聖徳太子(厩戸王〈うまやどのおう〉)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記することになったそうです。これは「聖徳太子は存在しなかった」という学説が大きくなってきたからだそうです。「聖徳太子はいなかった」などと云う単行本もあります。ネットでは10万件以上もヒットするそうです。
 最近本を読むことが芽っきり少なくなって当ブログは中々自分なりの考えがまとまらないのですが、そんな中で最近読んだ本で非常に説得力のある一文がありました。
聖徳太子の大きな事績である「憲法十七条」の十二条「国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓」。ここで出てくる「国司」と云う言葉・制度は、聖徳太子の時代には存在しない後の律令時代の用語だそうです。仮に大正時代の文章とされるものの中に「第一次世界大戦」などと云う表現があればこれは明らかに偽書と断定できます。理由は「第一次世界大戦」と云う言葉は「第二次世界大戦」が起こってから生まれた表現であるからです。でも当ブログは多くの聖徳太子の事績、伝承は創作が多いとは思いますが、聖徳太子なる人物そのものの存在を否定するのには賛成しかねています。