寒波到来。夏の残酷な「暑さ」の頃は、もう日本には「冬」が無くなってしまったのかと思っていましたが、自然は正直に季節を巡らしてくれます。 年末寒波が来るそうです。気象予報によると今日12月27日から年末、年始にかけて今季一番の「寒波」が来襲して大荒れになるとの予想です。
冒頭の写真は「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真です。
一目瞭然「渤海国使」はこの北西の季節風を利用して「帆走航海」をして来日した事が分かります。
そして帰国する時は、太平洋から吹き上げる「南寄り」の季節風を受けて「帆走航海」したと考えられます。
(A)孟秋尚熱 仲秋已冷 季秋漸冷 季秋極冷 孟冬漸寒 秋暉欲暮
(B)春景漸和 夏景初蒸 季夏甚熱 夏中已熱 夏首正熱 春首余寒 「四文字熟語」ではありません。
(A)は渤海国使が携えてきた「国書」に書かれている「時候の挨拶」(B)は渤海国使が持ち帰った「返書」に書かれている「時候の挨拶」 何が言いたいのかと云うと「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているということです。
日本は島国ですから縄文時代以前から「海」を渡って「人間」をはじめ多くの文物が流れ込んできました。
その為、「海上の道」がいろいろ議論されてきました。
黒潮に乗って琉球列島を伝ってくる道。黄海・東シナ海を渡ってくる道。朝鮮半島を南下して対馬、壱岐を経由する朝鮮海峡の道。これらのルートは、教科書にもよく紹介される将に古代史の「花道」です。
6世紀後半から7世紀初めにかけて、即ち「飛鳥時代」に「高句麗」の使節が何度か来朝しています。
当時の朝鮮半島は「高句麗」と「新羅」が鋭く対立しており、そこに「百済」が加わり複雑な緊張状態にありました。
当時の日本の歴史は「高句麗文化」の影響が強く、百済・新羅よりも関係は親密であったと言われています。
この様な状況で「高句麗」の使節が日本に来るルートは、一般に考えられているような「朝鮮海峡~対馬・壱岐~北九州~瀬戸内海」には無理があります。
日本には今まであまり脚光を浴びていない「第4の海上の道」即ち「日本海を縦断する道」があったのです。
従来の歴史では、「小さな木造船」で冬の荒れた日本海を航海できる訳がない、とされていました。
また、歴史家でありながら「暦日」の換算ができなかったり「暦」すら理解できなかったりで「・・季節風を知らず、ただやみくもに航海したので、ほとんど毎航ごとに遭難した」(森克己)などと云う「滅茶苦茶」な議論がなされていました。
遣唐使船が復元され「実地航海」などが話題になります。所がこの「復元遣唐使船」の復元資料は「鎌倉時代の絵図」をもとにしていることもあまり知られて今いことです。
これらの疑問を丁寧に解明したのが「上田 雄」さんです。馴染みの喫茶店の常連客同士のお知り合いでしたが、上田さんの執念とも云える探究心には敬服したものでした。大著「渤海使の研究」を上梓し刊行された時のあの笑顔が今も鮮明に浮かんできます。
TVの天気予報を見ていて、冬の「ひまわりの画像」を見れば「分かるやろ!」と解説されていた元気な上田さんを思い出しました。
西高東低の気圧配置
気象衛星「ひまわり」の画像を見るたびに、当ブログは亡くなられた上田 雄さんを思い出します。冒頭の写真は「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真です。
一目瞭然「渤海国使」はこの北西の季節風を利用して「帆走航海」をして来日した事が分かります。
そして帰国する時は、太平洋から吹き上げる「南寄り」の季節風を受けて「帆走航海」したと考えられます。
(A)孟秋尚熱 仲秋已冷 季秋漸冷 季秋極冷 孟冬漸寒 秋暉欲暮
(B)春景漸和 夏景初蒸 季夏甚熱 夏中已熱 夏首正熱 春首余寒 「四文字熟語」ではありません。
(A)は渤海国使が携えてきた「国書」に書かれている「時候の挨拶」(B)は渤海国使が持ち帰った「返書」に書かれている「時候の挨拶」 何が言いたいのかと云うと「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているということです。
日本は島国ですから縄文時代以前から「海」を渡って「人間」をはじめ多くの文物が流れ込んできました。
その為、「海上の道」がいろいろ議論されてきました。
黒潮に乗って琉球列島を伝ってくる道。黄海・東シナ海を渡ってくる道。朝鮮半島を南下して対馬、壱岐を経由する朝鮮海峡の道。これらのルートは、教科書にもよく紹介される将に古代史の「花道」です。
6世紀後半から7世紀初めにかけて、即ち「飛鳥時代」に「高句麗」の使節が何度か来朝しています。
当時の朝鮮半島は「高句麗」と「新羅」が鋭く対立しており、そこに「百済」が加わり複雑な緊張状態にありました。
当時の日本の歴史は「高句麗文化」の影響が強く、百済・新羅よりも関係は親密であったと言われています。
この様な状況で「高句麗」の使節が日本に来るルートは、一般に考えられているような「朝鮮海峡~対馬・壱岐~北九州~瀬戸内海」には無理があります。
日本には今まであまり脚光を浴びていない「第4の海上の道」即ち「日本海を縦断する道」があったのです。
従来の歴史では、「小さな木造船」で冬の荒れた日本海を航海できる訳がない、とされていました。
また、歴史家でありながら「暦日」の換算ができなかったり「暦」すら理解できなかったりで「・・季節風を知らず、ただやみくもに航海したので、ほとんど毎航ごとに遭難した」(森克己)などと云う「滅茶苦茶」な議論がなされていました。
遣唐使船が復元され「実地航海」などが話題になります。所がこの「復元遣唐使船」の復元資料は「鎌倉時代の絵図」をもとにしていることもあまり知られて今いことです。
これらの疑問を丁寧に解明したのが「上田 雄」さんです。馴染みの喫茶店の常連客同士のお知り合いでしたが、上田さんの執念とも云える探究心には敬服したものでした。大著「渤海使の研究」を上梓し刊行された時のあの笑顔が今も鮮明に浮かんできます。
TVの天気予報を見ていて、冬の「ひまわりの画像」を見れば「分かるやろ!」と解説されていた元気な上田さんを思い出しました。