馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

今季最強の寒波来襲。渤海国使のこと。

2018年12月28日 | 歴史
寒波到来。夏の残酷な「暑さ」の頃は、もう日本には「冬」が無くなってしまったのかと思っていましたが、自然は正直に季節を巡らしてくれます。 年末寒波が来るそうです。気象予報によると今日12月27日から年末、年始にかけて今季一番の「寒波」が来襲して大荒れになるとの予想です。
西高東低の気圧配置
気象衛星「ひまわり」の画像を見るたびに、当ブログは亡くなられた上田 雄さんを思い出します。

冒頭の写真は「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真です。
一目瞭然「渤海国使」はこの北西の季節風を利用して「帆走航海」をして来日した事が分かります。
そして帰国する時は、太平洋から吹き上げる「南寄り」の季節風を受けて「帆走航海」したと考えられます。


(A)孟秋尚熱 仲秋已冷 季秋漸冷 季秋極冷 孟冬漸寒 秋暉欲暮
(B)春景漸和 夏景初蒸 季夏甚熱 夏中已熱 夏首正熱 春首余寒 「四文字熟語」ではありません。
(A)は渤海国使が携えてきた「国書」に書かれている「時候の挨拶」(B)は渤海国使が持ち帰った「返書」に書かれている「時候の挨拶」 何が言いたいのかと云うと「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているということです。

日本は島国ですから縄文時代以前から「海」を渡って「人間」をはじめ多くの文物が流れ込んできました。
その為、「海上の道」がいろいろ議論されてきました。
黒潮に乗って琉球列島を伝ってくる道。黄海・東シナ海を渡ってくる道。朝鮮半島を南下して対馬、壱岐を経由する朝鮮海峡の道。これらのルートは、教科書にもよく紹介される将に古代史の「花道」です。

 6世紀後半から7世紀初めにかけて、即ち「飛鳥時代」に「高句麗」の使節が何度か来朝しています。
当時の朝鮮半島は「高句麗」と「新羅」が鋭く対立しており、そこに「百済」が加わり複雑な緊張状態にありました。
当時の日本の歴史は「高句麗文化」の影響が強く、百済・新羅よりも関係は親密であったと言われています。
この様な状況で「高句麗」の使節が日本に来るルートは、一般に考えられているような「朝鮮海峡~対馬・壱岐~北九州~瀬戸内海」には無理があります。

 日本には今まであまり脚光を浴びていない「第4の海上の道」即ち「日本海を縦断する道」があったのです。
従来の歴史では、「小さな木造船」で冬の荒れた日本海を航海できる訳がない、とされていました。
また、歴史家でありながら「暦日」の換算ができなかったり「暦」すら理解できなかったりで「・・季節風を知らず、ただやみくもに航海したので、ほとんど毎航ごとに遭難した」(森克己)などと云う「滅茶苦茶」な議論がなされていました。

 遣唐使船が復元され「実地航海」などが話題になります。所がこの「復元遣唐使船」の復元資料は「鎌倉時代の絵図」をもとにしていることもあまり知られて今いことです。

これらの疑問を丁寧に解明したのが「上田 雄」さんです。馴染みの喫茶店の常連客同士のお知り合いでしたが、上田さんの執念とも云える探究心には敬服したものでした。大著「渤海使の研究」を上梓し刊行された時のあの笑顔が今も鮮明に浮かんできます。
TVの天気予報を見ていて、冬の「ひまわりの画像」を見れば「分かるやろ!」と解説されていた元気な上田さんを思い出しました。


童謡「さっちゃん」の歌碑

2018年12月05日 | 雑学
童謡「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」などを手掛けた作曲家の大中恩(おおなか・めぐみ)さんが12月3日夜、死去した。94歳だった。新聞、TVで報道されました。当ブログは平成21年(2009年)9月30日に童謡「さっちゃん」の歌碑訪ねた時の記事を掲載しました。
今回、作曲者の大中恩さんを忍んで一部改編してUPします。

さっちゃん
1、さっちゃんはね さち子っていうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから
  自分のこと さっちゃんて 呼ぶんだよおかしな さっちゃん
2、さっちゃんはね バナナが大好き ほんとだ だけど ちっちゃいから
  バナナを半分しか たべられないの かわいそうね さっちゃん
3 さっちゃんがね とおくへいっちゃうって ほんとかな だけどちっちゃら
ぼくのことわすれて しまうだろ さびしいな さっちゃん

 平成18年(2006年)10月14日(土)大阪市阿倍野区阪南町にある南大阪幼稚園で童謡さっちゃんの歌碑の除幕式があり、在阪の報道機関は一斉に報道しました。
昭和34年、松田トシの「うたのおばさん放送開始十周年記念リサイタル」のため従兄弟の大中恵から依頼を受け、初めて書いた童謡で、昭和36年にレコード化され、広く知られるようになった、とあります。
尚、主人公の「さっちゃやん」は現在も関東地方で健在だそうですが、取材に対して「どうか静かにしておいて下さい」との事だったそうです。
 阪田寛夫は「さっちゃやん」以降に92篇の童謡を作詞していますが、その内、従兄弟の大中恵が作曲したのは29曲あるようです。
寛夫の父素夫は新聞用印刷インクの製造で成功し、現在サカタインクス株式会社に改称、資本金75億円弱、連結売上1,190億円強の上場企業となっています。
母京の実父大中寅二は、島崎藤村が作詞した「椰子の実」の作曲者として知られる音楽家です。寛夫の従兄弟恵は母方の家系と云うことになります。
年譜にもあるように両親とも熱心なクリスッチャンであったので寛夫も幼少から教会に通い、後年洗礼も受けています。
さっちゃんの歌碑のある南大阪教会と背中合せに阿倍野高校がありますが、逸見君は「アベ高」から早稲田に進んだと思います。
そこから西南に一キロ程の所に阿倍野王子神社があります。この神社は熊野九九王子の一つで、大阪市内にある王子で唯一平安時代から鎮座地の変わっていない神社です。
卓球の福原愛で有名になった「王子サーブ」の生まれた場所でもあります。
王子商店街で八百屋を営みながら近くの王子卓球センターで指導している作馬六郎さんが考案したそうです。
この王子神社から旧熊野街道をバス停二つ南に播磨町の交差点があります。
播磨町交差点西南角に三菱銀行北畠支店があります。ここが日本の犯罪史に残る梅川事件の 現場です。
旧熊野街道を境に西側には手塚山のお屋敷町、東側に我々が住んでいた長屋群が広があります。 
阪田寛夫が住んでいた帝塚山は関西の有名人が多く住むお屋敷街で、谷崎潤一の小説に芦屋とともによく出てくるところです。

 当時は結構溜池などもあり、万代池桃が池、鉄砲池など結構楽しい遊び場で、その一つに長池と云う池がありました。その池の縁に当時は驚くような大きなビルが建ちました。(私が小学校5年の頃?)それが世界のシャープの本社ビルです。長池から阪和線で二駅向うが臨南寺のある長居です。当時は野原らで競馬場があり、我々の格好の遊び場でしたが、今は長居競技場や植物園、自然史博物館などを併設した広大な長居公園となっています。
セレッソ大阪のホームグランド、世界陸上競技会場と随分様変わりしました。
その様な思い出多い阪南町に所縁の深い人が、童謡さっちゃんの作詞者阪田寛夫です。尚、阪田寛夫さんは平成17年(2005年)3月22日、肺炎のため79歳で亡くなっています。