馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

長崎 高1殺人事件。・・・・・・人は時として魔性を宿す。

2014年07月31日 | 歴史
「何でもあり」のご時勢でも今度の長崎県佐世保市の高校1年女子の同級生殺人事件は衝撃でした。事件の様子が報道される度にその異常さ、残虐性、猟奇性に言葉を失うばかりです。今回の事件の犯人がそうであるのかどうかは分かりませんが、人間、数の中には稀に嗜虐性というか心に魔性を宿した人がいるようです。
 徳川家康の孫・越前六十七万石のお殿さん松平忠直とその愛妾一国御前の悪虐は常軌を逸しており、日本歴史上でも特筆される異常振りでした。
 福井に伝わる「片聾記(ヘンロウキ)」「続片聾記」と言う古文書があるそうですが、それに拠ると忠直は1万人も人を殺し(戦場ではなく)、その悪虐は次第にエスカレートしていったそうです。石の上に横たえた人の頭を鉄の槌で叩き割ったり、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出したりするようになったそうです。忠直には「一国(イツコク)」と言う愛妾がいました。忠直が「一国にもかえがたい」と溺愛ししたことで「一国」と名付けたのだそうです。
この一国御前が嗜虐性の強い魔性の女で、一国の目の前で死罪人を惨殺させると、一国は目を輝かせて「こんなに心を奪われることは無い」と感じ入ったと言うことです。これが悪癖となって惨殺が繰り返されて、越前領内に死罪人が全くいなくなってしまったそうです。それでも一国は人が殺されているところを見たがり、死刑囚に限らず獄門に繋がれている囚人が次々と惨殺されました。そしてついに牢獄が空になってしまうと、周りにいる小姓たちに些細なことで言掛りをつけて一国の目の前で殺されたそうです。更に一国は単に殺すだけでは飽き足らず残虐な殺し方へとエスカレーターを加速させたそうです。ほんの些細なことで罪に問われた小姓の中には、櫓の上から突き落とされ石垣に頭をカチ割られて死ぬのを見て嗜虐を満足させたと言われています。
 松平忠直は徳川家康の孫です。父は家康の次男・結城秀康です。長男・松平信康が父家康の命により20歳の若さで切腹させられたので、本来ならば二代将軍には秀康が付くのが筋道ですが、弟の秀忠が二代将軍になります。もし父・秀康が二代将軍になっていれば忠直は三代将軍となりますが、三代将軍には従兄弟の家光がなります。そのような鬱積した不満が忠直の心の闇に異常な残虐性を育んだのかも知れません。忠直の最大の武勲は、大阪夏の陣で真田幸村を討ち取り、忠直軍は、三千以上もの首を上げたことです。しかし、論功行賞の評価は思いのほか低かったと言うことです。
忠直の異常な行状は、小説や映画演劇でも取り上げられています。
 ある日、忠直が夕涼みをしていると女性の絵が描いてる紙切れが落ちていました絵に書かれた女性が思いっきり自分のタイプだったので、側近達に「この絵にそっくりな女を捜して来い」と命令、側近達は探しまくりましたがなかなかいないで、とうとう関ヶ原まで行き、やっとこさ似てる女性を探し当てました。その女性は「おむに」という問屋の娘で、ものすごい美女でした。忠直は一目見るなり気に入り、「お前なら一国と引き換えにしてもいいくらいだ」ということで「一国」と名づけ寵愛しましたがこのおむにがとても残虐性のある女性だったのです。
 忠直の正室は三代将軍家光の妹、即ち二代将軍秀忠・お江の娘・勝姫です。忠直はこの正妻勝姫をも殺そうとしましたが、これは侍女が身代わりとなって殺されるという悲惨な結果になってしまったのです。とうとうこの残虐非道な暴挙が二代目将軍秀忠の耳に入ることになり、豊後萩原に配流後は5000石の捨扶持を与えられ、城主竹中采女正重次にあずけられました。忠直は同地で56歳まで生きて病死、配流の地では異常な振る舞いの記録が無いので、穏やかな日常を送ったと考えられています。
隠居後は出家して一伯と名乗ったそうです。豊後(大分)では「一伯」と言う銘菓があるそうで、地元では越前出のような悪評は全く無いようです。



ボケたのかなァ! 今日もまたまた思い込みが、失態に・・・。

2014年07月29日 | 日記

7月28日(月)。定例の4組月曜ハイキングの日です。行先は「能勢の三草山(564m)&長谷の棚田 と 野間の大ケヤキのアオバズク親子見物」です。この月曜ハイキングは、通常箕面駅を基点に箕面の山を歩くことが多いようです。しかし、今日は能勢町へ遠出なので、箕面駅から車で移動します。参加者は10名で5人乗りの乗用車が2台準備してあるそうです。窮屈そうなので当ブログも車を提供して運転手を買って出ました。
9:00に3台の車は箕面駅前ロータリーを出発しました。この能勢町長谷は、過去に4組の仲間と3度行っています。ですから道筋は迷うことの無いルートです。一番簡単なのは池田からR-173号を北上すれば自然と行き着きます。そこで、当ブログが少々サービス精神を発揮して五月山ドライブウエーを通って箕面の山からの眺望を見てもらおうと遠回りしてR-423号経由で行くことにしました。この時点で後続車とははぐれてしまっています。でも一応携帯電話で連絡をして、それぞれ目的地見向かうことにしました。順調にR-423号を北上して妙見口から野間峠を越えてR-173号に向かっていました。が、後続の2台の車が目的地に着いたとの電話が入りました。内心「えらく早くついたなァ!」とは思いながら「道に迷ったので少し遅れる」と連絡。少し急ぎながら野間峠を越えて野間稲地の「野間の大けやき」前を快調に通過。すると同乗者から「何処へ行くんや!」とお叱りの声が・・。「????」第一目的地は「野間の大けやき」だったのです。当ブログの頭には目的地は「能勢の長谷の棚田」と思い込んでいたので「えェ!???」とチョッとびっくり・・・・。
  
野間の大けやきには毎年フクロウが営巣をして雛を孵すので最近は大変な人気スポットになっているそうです。今年も数日前に巣立って行ったそうで押しかけていたカメラマンの姿も無く長閑なたたずまいに戻っていました。
    
さていよいよ最終目的地三草山麓の慈眼寺へ。野間の大けやきから田尻郵便局を左折して名月峠を超えて栗栖の交差点を超えて岐尼神社前を通過して小川沿いに長谷の棚田を左に見て道なりに行けば目的地です。絶対に間違うことの無い道ですが念のためカーナビをセットして出発。しかし同乗者は「先導者に付いて行け」と不安がります。今までの行程は「迷った」とは言いながら当ブログにしてみれば何処も間違っていた訳ではなく予定通りのルートです。ただ、目的地が「野間の大けやき」とは全く思いもよりませんので、それは思い込みによる間違いでした。それで「鶏口となるも牛後となる無かれ」でもありませんが、先導車の後塵を拝するのはご遠慮して先頭を切って飛び出しました。ただ思い込みで間違ってはいけないとカーナビを案内を優先しようとだけは心の中で決めました。そしてカーナビに従って田尻郵便局の交差点まで着ました。本来なら左折して名月峠へ向かうのですが、我がボロ車のカーナビは間違いなく「右折」と指示しました。可笑しいなァ!と思いながらもカーナビを優先すると決めていましたので素直に右折しました。すると間も無く未舗装の山道にになり、これは誰が見ても間違いとUターン。カーナビに従い戻ると野間の大けやきの手前まで逆戻り。再び田尻の交差点に戻り名月峠を通過、後は予定のルート通に進んで川沿いに棚田を左に目的のお寺を目指しました。しかし、先ほどの間違いで大きく時間を浪費したので先行車は既に目的地に到着し電話でナビをしてくれます。当ブログは運転中のため同乗者の電話のやり取りを聞きながら「可笑しいなァ!」と・・・。その頃になると同乗者全員から信頼を失い「人の言うことを聞かん男だなァ」と非難轟々。当ブログの頭ではあと1kmも走れば到着するのに、と思いながら同乗者の電話のやり取りを聞いていると、どうも対岸の三草山側の道のようです。再度カーナビに住所を打ち込んで再探査すると、やはり川を挟んで西側の道を表示します。何と無く腑に落ちないながらカーナビに従いやっと「慈眼寺」に到着。
 何故この様な間違いが起こるのか、答えは簡単です。当ブログの頭の中には目的地の「慈眼寺」は長谷の「妙国寺」と思い込んでいたからです。3年前、同じく4組の仲間と長谷の棚田の彼岸花を見に来たときの駐車したのが妙国寺だったので、今回もお寺の駐車場と聞いたとたんに妙国寺と思い込んでしまったのです。いやはや笑い事ではなくチョッと真剣に対策を考えないと大変なことになるかもと・・・。


ボケたのかなァ! 思い込みが、失態に・・・。

2014年07月27日 | 日記
関西帯広会の「暑気払い」が7月27日(日)午前11時30分からミナミのビヤーホールである、との案内がありました。当ブログはお酒を飲まないので何時もは不参加です。が、ミツバチを一緒に飼っている農家さんが今回の世話役と言うこともあり急遽参加することにしました。
久し振りに道頓堀界隈をブラブラと見て回りました。兎に角目に付くのは外国からの観光客の多さです。過って当ブログなども経験した団体の海外旅行です。ツァーガイドが小旗を持ち、その後をゾロゾロと旅行者が付いて行く、それを地元の人々が異様な目で眺めている、その逆の状況がミナミの繁華街で見受けられます。中にはマナー違反の傍若無人な振る舞いの一団もありますが、一昔前の日本人の「買春ツァー」などの恥さらしと比べればご愛嬌かもしれません。
 
ミナミの観光名所戎橋たもとのかに道楽前で奇声を上げてたむろしている東アジアからの観光客の一団と道頓堀筋をスケッチする人たち。このミナミの喧騒の街の風景は画題としては面白そうですが、当ブログなどはとてもこの雑然としたエネルギッシュな光景を切り取って絵にすることはできないだろうと思います。街の喧騒を描くのは本当に難しいことだと思いますが、このスケッチをしている人達は中々手馴れて人達のようで見事に表現していました。
しかし、都会の無関心なのか絵を覗き込もうとする通行人はいませんでした。
 さて、時間も差し迫ってきたのでミナミのビャーホール「キリン会館」に向かいました。が、お目当てのキリン会館がありません。
当ブログにしてみればミナミのビャ-ホールといえば「キリン会館」しか思いつきません。しかし、このミナミの名所であったキリン会館は2007年に閉館しその後全く新しい複合ビルに立て変わっていたらしいのです。当ブログの道頓堀は中座、角座があり天牛の古本屋がある当時のままでファストフードや風俗などの無い昔のままです。とは言え「暑気払い」の会場はハテ何処でしょう・・・?不参加のつもりだったので、案内状などは「チラ」と見ただけで破棄してしまったので困ったことになりました。近くにいたガードマンに「この辺にビャーホールはありませんか?」と訊ねても分かるはずも無く、困ったなァ・・・。
 ありがたいことに親切なガードマンさんが「ミューヘンかも知れまへんで・・。」と千日前の「ミューヘンミナミ大使館」を教えてくれました。
しかし、残念ながらここは「暑気払い」の会場ではありません。またまた困ったなァ・・・・。ここでも「他にビャーホールおまへんか?」と・・・。
どうも御堂筋沿いに「ミューヘン倶楽部」と言うところがあるらしい、と言うので今度は電話で確認すると「ハイ、お待ちしております」
ヘトヘトになりながら何とか会場にたどり着きました。

 とんだ失態を演じました。そして、懇親会でおだてられて「スピーチ」をしたのですが、何時もはそこそこ「笑い」をとる話しをするのですが、「ミツバチ」の話ということで、ついつい真面目な理屈ポイ話を少し長めにしてしまい不評を買ってしまいました。「場を読めない」ヘンコツ爺に思われたかも・・・。



住んでみたい街NO,1「夙川」・・・・・「夙川」地名解

2014年07月19日 | 地名・地誌
京阪神で住んでみたい街NO,1にランクされたのが西宮市の夙川界隈だそうです。最近は夙川土手の桜並木も大変な人気で、人手の多さに土手の土が踏み固められて桜の寿命が短縮されて景観が守れないほどなのだそうです。
  
夙川と言えばカトリック教会の尖塔みごとです。昔は夙川の土手の松林越しに見えた尖塔も今では大きな建物が乱立して見ることはできません。また、教会の前は山手幹線道路が開通し往時の面影は失われつつあります。この教会は遠藤周作が洗礼を受けたことでも知られています。
夙川界隈の町は、高級住宅街が連続する阪神間の中でも屈指のお屋敷町として有名で、特に駅の北西は豪邸が立ち並び環境に恵まれた住宅地です。
「夙川」と言うのは西宮市内をを流れる二級河川の名前で他には「夙川駅」(阪急)「さくら夙川駅」(JR)の駅名にだけ使われています。所でこの「夙川」とはどの様な意味があるのか考えて事がおありだろうか?問題は「夙」にあります。この夙と言う字は「夙川」以外に使われることがマズ無い文字です。た府県の「夙川」を知らない人に、例えば電話で説明した経験のある人なら分かるのですが、夙の字は誠に説明が難しい文字です。
諸橋大漢和辞典から類推すると「流れの速い」ことから「夙川」となったとも言えそうです。しかし、古い記録には「夙川」を「守戸川」と表記したものがあるそうです。これらの文献は、差別問題から現在は閲覧に制限があるそうで、当ブログも源資料の確認は行っていませんが、二次資料として引用されたものは見ています。
「守戸」とは「」のことだそうです。
また「夙」には漢和辞典とは別の特殊な意味合いがあったようです。

管見の当ブログは「夙川」の本格的な地名解を未だ見たことがありませんが、当ブログの推論もあながち的外れではないような気もします。
「夙川ブランド」と言うものがあるそうです。住んでみたい街・人気NO.1の「夙川」も由来来歴を辿れば言をはばかる様な事もあったようです。



こんな晩

2014年07月11日 | 雑学
各地に伝わる民話の中に「こんな晩」と呼ばれる怪談話があります。民俗学では「六部殺し」とも呼ばれます。

「貧しい百姓家に六部が一夜の宿を請う。その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める。夫婦は急速に裕福になる。夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。すると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。」

 話の基本は上記の通ですが、ここで話が終わる場合もあり、また主人が驚きの余り急死して終わる場合もあり、繁栄していた家が再び没落する因果応報の結末まで語る場合もあります。六部ではなく漂泊僧、香具師、単なる旅人・・・などの場合もあります。

 「自分」は、闇のなかを歩いている。背中におぶっていた子供が、いつの間にか、盲目になり、大人のような喋り方で、自分の心を見透かしたようなことを言い始める。「自分」は徐々に怖くなっていき、森に子供を捨てようと思いながら歩いている。杉の木にさしかかったところで、背中の子供が「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う。 その瞬間、子供は石地蔵のように重くなる。
 夏目漱石の夢十夜の第三夜です。これも典型的な「こんな晩」型のはなしです。

 夫婦で営む小さな居酒屋へ、毎晩やってくる60才過ぎの男性が居た。老人は変わった酒の飲み方をしており、一合の酒を一度に呑まず、まず「半分だけお願いします」と五勺(一合の半分)だけ注文し、それを飲み終わると「もう半分」と 言ってまた五勺の酒を注文していた。理由は「その方が勘定が安くなり、量を多く飲んだ気がするからだ」と言う。
 ある日、いつものようにもう半分もう半分と何合かの酒を飲んだ老人は、店に風呂敷包みを忘れていく。酒屋の夫婦が「また明日も来るだろうから」と包みを仕舞っておこうとすると、やけに重い。不審に思い包みを開くと、そこには五十両という大金が入っていた。「この金があれば念願の大きな店が持てる」、悪心を起こした夫婦は横領を決意。慌てて取りに戻ってきた老人へ知らぬ存ぜぬを通し、終いには「娘が吉原へ身売りして作った金だ」と涙ながらに説明する老人を戸締り用の心張り棒で打ち据えて店から追い出してしまう。追い出された老人は、酒屋の夫婦を呪いながら橋から川へ身を投げた。
 それから数年後。望みどおりに大きな店を持った酒屋夫婦に、子供が出来る。だが生まれてきた子供は、数年前に身を投げた老人そっくりの女の子だった。女房は子供を見たとたんショックで死んでしまう。亭主は「子供を育てることが老人の供養になる」と思い、乳母を雇うが、何故か雇う乳母がみんな一晩で辞めてしまう。困り果てた亭主は物事に動じない強気な乳母を雇うが、やはりその乳母も一晩で辞めたいと申し出てきた。亭主が何があったか訊いてみると、乳母は「自分の口からはとても言えないので、亭主の目で確かめてほしい」と言う。
 その晩、亭主は乳母と赤ん坊が寝てる隣の部屋に隠れ、何があるかを見届けることにした。そして丑三つ時、それまで寝ていた赤ん坊が急に起きあがると乳母の寝息を窺い、枕元の行灯の下に置いてある油さしから茶碗に油をついで、それを美味そうにグビグビと飲み干した。これを見た亭主は怖いのも忘れて襖を開けると「おのれ爺ぃ迷ったか!」と部屋へ飛び込んだ。すると赤ん坊が細い腕を亭主へ差し出して「もう半分」と言った。
 五代目古今亭今輔の特異ネタ「もう半分」これも「こんな晩」型の話を落語に仕立て直したものです。

映画「超高速参勤交代」を観ました。内藤忠勝乱心事件

2014年07月08日 | 映画
前回、湯長谷藩内藤家は「内藤忠勝乱心事件」を食い止めた功績などを賞されて丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増されたことを書きました。今回はその内藤忠勝乱心事件のことなどを書いてみます。
  延宝八(1680)年五月八日、四代将軍家綱が没し芝増上寺で大法会が営まれることとなりました。この大法会の奉行を鳥羽(志摩)3万5千石の藩主内藤和泉守忠勝、丹後宮津7万3千石藩主永井信濃守尚長らに命じます。そして事件は六月二十四日、大法会当日の申の刻(午後3時頃)、 内藤和泉守が突然永井信濃守に斬りつけ殺害してしまいました。
この時、刀を持ったままの内藤和泉守忠勝を後ろより抱きとめ、刀を奪って目付に引渡したのが湯長谷藩初代藩主内藤政亮でした。内藤政亮はこの功により丹波氷上・何鹿に2千石を拝領することとなります。
 既にお気付きのように後年江戸城松の廊下で起こった浅野内匠頭の刃傷事件とそっくりの出来事です。増上寺が江戸城松の廊下、内藤和泉守忠勝が浅野内匠頭、永井信濃守尚長が吉良上野介義央、内藤主殿頭政亮が梶川頼照(通称与惣兵衛 旗本)と・・・・。因みの梶川与惣兵衛は、この功により五百石を加増されています。しかし、与惣兵衛は赤穂浪士の討ち入りで高まっていく浅野贔屓の空気の中で「武士の情け」「惻隠の情」の分からない芋侍と不評を買い辛い思いもしたようです。その意味では湯長谷藩主内藤政亮はラッキーだったかも知れません。
加害者の内藤和泉守と被害者の永井信濃守の屋敷は隣接していて親同士は大変親しかった。(クリック→拡大)
この増上寺刃傷事件の原因は何であったか?
幕府編纂の「徳川実紀」(正しくは「常憲院殿御実紀」)は、「この日増上寺の法場に於て、内藤和泉守忠勝失心し、佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。」と内藤忠勝の乱心が原因と記しています。「御当代記」には、「永井信濃守・内藤和泉守両人義、於増上寺御法事の節喧嘩仕相果候ニ付、跡を御絶し被成候」と原因については触れていません。一方、幕府の公文書とも言える「柳営日次記」には「七過(午後4時頃)、増上寺本堂で、乱心した内藤和泉守が永井信濃守を脇差で「切殺候」と記しています。和泉守は同座していた遠山主殿頭(陸奥国湯長谷一万石の藩主)に抱きとめられ、伊奈兵右衛門にお預けとなったとも書かれています。
 民間人の書いた随筆に「永井信濃守と内藤和泉守の屋敷は小路をはさんで隣り合っていたが、信濃守が屋敷内に物見を建てたため、信濃守の屋敷から和泉守の屋敷内が丸見えになってしまった。和泉守はこのことを深く恨んでいた」かてて加えて「警備役には老中から奉書で指示が達せられたが、信濃守はこれを自分だけ見て、和泉守に見せようとしない。和泉守が「見せてください」(「奉書を御廻し候へ」)と言っても、信濃守は「見せる必要はない」(「御覧に及ぶまじ」)と突っぱねた。信濃守の尊大な態度に和泉守の怒りは極限に達し、ついに信濃守に恨みの刃を浴びせた」ということです。
所が、両者の父親(内藤飛騨守忠政と永井右近大夫尚征)はたいそう親密で、それぞれの息子に「父亡きあとも仲良く交際するように」と遺言してこの世を去ったという。初めのうちは連れだって登城するなど父親の遺言を守っていた和泉守と信濃守だが、やがて信濃守の態度が冷淡になり、二人は不和になったとのことです。
とは言え巷間「内藤忠勝乱心説」が広く流布するにはそれなりの理由があります。
 志摩鳥羽藩第2代藩主内藤忠政には男子3人、女子4人の子供がいました。長男・忠次は家督を継ぐことを固辞して廃嫡された、次男の忠勝が三代藩主となります。また、女子のうち四女・波知は播磨赤穂二代藩主浅野長友の正室となります。長友と波知の間に生まれたのが播磨赤穂三代藩主浅野内匠頭長矩です。偶然というか奇縁というのか増上寺刃傷事件を起こした内藤忠勝と殿中刃傷事件を起こした浅野長矩とは伯父甥の関係だったのです。忠勝も長矩も癇癪持ちで、しかも内藤家は精神病の家系だったのではといわれています。忠勝の兄の忠次が家督を辞退したのは精神障害だったためとも推測されており、忠勝にもその障害があったのではないかとされています。このことから、増上寺刃傷事件も殿中刃傷事件も事件当事者の「乱心」が原因であるという説が広く流布されることとなります。





映画「超高速参勤交代」を観ました。湯長谷藩内藤家

2014年07月04日 | 映画
映画「超高速参勤交代」で佐々木蔵之介が演じる内藤政醇(ないとう まさあつ)は湯長谷藩の第4代藩主で実在の人物です。江戸時代中期(享保~寛保)丁度暴れん坊将軍吉宗の時の藩主です。将軍吉宗役は4代目市川猿之助が演じています。
 内藤家には幾つかの系統があるようです。その中でも有力だったのは「藤原北家秀郷流内藤氏」のようです。この藤原北家秀郷流内藤氏にも幾通りかの系統があるようです。因みに今や世界の大都市「新宿」の地名の由来となった「内藤新宿」は、信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部などの土地を幕府に返上させて宿場用地としたことによります。この高遠藩内藤家も藤原北家秀郷流三河系の家系で、陸奥平藩・湯長谷藩内藤家と同族のようです
 

 さて、湯長谷藩内藤家は以下のようなものです。
元和8年(1622年)、内藤政長が上総国から磐城平藩7万石の藩主として入部、平藩2代藩主内藤忠興が隠居し長男内藤義概に家督を譲る際、7万国のうちの1万石を次男内藤政亮に分与し磐城平藩の支藩として湯長谷藩が成立しました。初代藩主となった政亮(まさすけ)は、延宝4年(1676年)に湯長谷城を築城し湯本にあった藩庁を移転、城下町の建設に尽力しました。延宝8年(1680年)には内藤忠勝乱心事件を食い止めた功績などを賞されて丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増される。貞享4年(1687年)には大坂定番を命じられたことから河内国内に新たに3000石を与えられ、合計1万5000石を領することとなります。この初代藩主政亮は名君の誉れ高い人物で 「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育て奢ることしない。誉れの将なり」と高く評価されています。佐々木蔵之介が演じた内藤政醇は4代目藩主ですが、以後湯長谷藩は明治維新まで14代に亘り存続しました。なお、本家に当たる平藩内藤家は、延享4年(1747年)に日向延岡に転封され明治を迎えました。(つづく)

映画「超高速参勤交代」を観ました。

2014年07月02日 | 映画
中々評判の良い映画のようで、平日の昼間なので観客も疎らかと思っていましたが客席はほぼ満席でした。磐城湯長谷藩主内藤政醇(佐々木蔵之介)が参勤交代で帰藩したばかりにも拘らず、悪役老中松平信祝(陣内孝則)の陰謀で、通常でも8日かかる参勤交代を5日で江戸へ再び出府するように無理難題を押し付けられます。このピンチを奇想天外な作戦の数々で切り抜けようとする時代劇。肩の凝らない娯楽映画で結構楽しめました。尚、道案内役の忍者・雲隠段蔵役の伊原剛志は、今宮高校34期だそうで最近映画・TVで大活躍しています。
  
画像をクリックすると拡大図になります
 娯楽時代劇と言えどもそれらしく見せるにはそれなりの時代考証が必要となります。幾ら「作り物」だからと言っても時代劇である限り背景にビルが映っていたり電柱や電線は絶対に禁止です。少し凝った監督であれば衣装などにも細かい注文があるそうで、室町時代、戦国時代、江戸前期、元禄以降、江戸末期、幕末でやはり衣装、髪型、所作、・・・・などに違いがあり、あまり時代考証に拘り過ぎると「虻蜂取らず」でつまらない作品になってしまいます。時代劇で普通に使用している「○○藩」という「藩」は当時は滅多に使うことの無いもので、例えば「岸和田藩」なら「泉州岡部美濃守ご城下」「岡部美濃守ご家中」などと言っていたようです。しかし、だからと言って今、「岸和田藩」と言わずに「岡部美濃守ご城下」などと言ってしまうと分かりにくい話となってしまいます。この様に時代劇としての「お決まり事」として、様々な舞台設定や所作などが暗黙の了承事項として作品が作られています。
 藤沢周平は架空の藩「海坂藩」を舞台にした作品が有名です。所が、「超高速参勤交代」の磐城国の小藩・湯長谷藩、藩主・内藤政醇は実在の藩であり人物です。
徳川幕府は諸大名の勢力を裂く方策として「参勤交代」「妻子の江戸在住」などの政策を実施しました。特にこの参勤交代は大変な財政負担となったようで、例えば加賀百万石前田家の参勤交代の1回の費用は5億円掛かったとされていますのでその負担の大きさが窺い知れます。
今回の湯長谷藩が通るルートは本来ならば磐城・陸前浜街道から水戸街道で江戸に出るのですが、金がない・時間がない・人手が無いの「無い無い尽くし」のため高萩宿から山越えをして牛久宿までショートカットを敢行します。今の常識からすれば、湯長谷藩であれば小名浜から海路で大洗か鹿島に行けば3日あれば充分江戸に到着で競うに思うのですが・・・・・。江戸時代の旅で一番費用が掛かったのは船の旅だったそうです。一説には陸路の10倍以上掛かったと言われています。東海道があるにも拘らず中仙道を利用し遠回りしたのは中山道には「川越」が無かったためなのだそうです。(この項つづく)