万葉の時代から日本人は四季に応じて繊細な色彩を生み出してきました。そしてその色の名前も直裁的ではなく豊かな感性に根ざしてつけられています。伝統的な日本の色彩は呼び名すら分からないものも沢山あります。同じ系統色でも実に微妙でヴァリエーションが沢山あります。
当ブログは連作として平安貴族を描いてきました。参考にしている日本画の写真集や当時に衣装、染色などの本などには結構「鶯色」が出てきます鶯色といっても可也のヴァリエーションがあるようで、当ブログは「鶯茶緑」(吉祥 26)を使用しています。鶯色の衣装が平安時代のあったのかについてはどうも判然としないのです。
ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに 水くくるとは
在原業平朝臣、百人一首17番の歌です。からくれない=韓紅とは「紅花で染めた濃い紅赤色のことです。奈良時代には「紅の八塩」と呼んでいました。八塩とは八回染め重ねるの意で濃染のことをいいます。「呉の国からやってきた染料」という意味の「呉藍(くれあい)」が紅という色目に転化しました。平安時代には濃い紅花の赤色は、舶来の赤の意味と美しさを強調するために「唐紅、韓紅」となったといいます。ちなみにここでの「韓」の字は朝鮮半島の三韓ではなく、紅花の産地であった中国を意味しています。」
雨はふるふる 城ケ島の磯に 利久鼠の 雨がふる 雨は真珠か 夜明けの霧か それとも私の 忍び泣き
北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」です。「利久鼠てどんなネズミ?」と動物図鑑を開いてはいけません。、「利休色」という言葉があります。千利休が好んだと伝えられる暗い緑みの茶色のことです。同じく利休鼠とは緑みがかった中明度の灰色です。千利休の名を借りた色名で、粋好みの江戸人に愛好されたと思われます。そのクールで微妙な色調が好まれ、明治後期にも流行色として再登場したそうです。「城ヶ島の雨」で歌われた「利休鼠の雨」とは「暗い緑に灰色をまぶしたような雨」「陰鬱な雨」の表現とされています。歌詞としての「利休鼠」は「リキュウネズミ」ですが染料業界や色の名前としては「リキュウネズ」というそうです。(りきゅうねずみと読むのは誤り。)なお、白秋は「休」の字を忌み「久」を用いたと言われています。
「憲法黒」の由来は意外なものです。京都一乗寺下り松で宮本武蔵と決闘し破れたのが吉岡道場一門です。吉岡道場と武蔵は三度にわたり決闘しています。最初が清十郎との洛北蓮台寺野。二度目が三十三間堂における伝七郎(清十郎の弟)、そして最後が一乗寺下り松の決闘で、相手は清十郎の嫡子又七郎を奉じた七十名余の門弟たちであったといわれる。吉岡一門は、京都の兵法家・吉岡憲法(けんぽう)を開祖とする剣法の一派で、足利将軍家の兵法で師範を務めた名門です。武蔵との決闘のその後、吉岡家は紺屋を始めたそうです。そして独特の「黒染」を開発し評判となったようで、その黒染のことを「憲法黒」と呼ばれ黒染の代名詞にもなったそうです。
当ブログは連作として平安貴族を描いてきました。参考にしている日本画の写真集や当時に衣装、染色などの本などには結構「鶯色」が出てきます鶯色といっても可也のヴァリエーションがあるようで、当ブログは「鶯茶緑」(吉祥 26)を使用しています。鶯色の衣装が平安時代のあったのかについてはどうも判然としないのです。
ちはやぶる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに 水くくるとは
在原業平朝臣、百人一首17番の歌です。からくれない=韓紅とは「紅花で染めた濃い紅赤色のことです。奈良時代には「紅の八塩」と呼んでいました。八塩とは八回染め重ねるの意で濃染のことをいいます。「呉の国からやってきた染料」という意味の「呉藍(くれあい)」が紅という色目に転化しました。平安時代には濃い紅花の赤色は、舶来の赤の意味と美しさを強調するために「唐紅、韓紅」となったといいます。ちなみにここでの「韓」の字は朝鮮半島の三韓ではなく、紅花の産地であった中国を意味しています。」
雨はふるふる 城ケ島の磯に 利久鼠の 雨がふる 雨は真珠か 夜明けの霧か それとも私の 忍び泣き
北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」です。「利久鼠てどんなネズミ?」と動物図鑑を開いてはいけません。、「利休色」という言葉があります。千利休が好んだと伝えられる暗い緑みの茶色のことです。同じく利休鼠とは緑みがかった中明度の灰色です。千利休の名を借りた色名で、粋好みの江戸人に愛好されたと思われます。そのクールで微妙な色調が好まれ、明治後期にも流行色として再登場したそうです。「城ヶ島の雨」で歌われた「利休鼠の雨」とは「暗い緑に灰色をまぶしたような雨」「陰鬱な雨」の表現とされています。歌詞としての「利休鼠」は「リキュウネズミ」ですが染料業界や色の名前としては「リキュウネズ」というそうです。(りきゅうねずみと読むのは誤り。)なお、白秋は「休」の字を忌み「久」を用いたと言われています。
「憲法黒」の由来は意外なものです。京都一乗寺下り松で宮本武蔵と決闘し破れたのが吉岡道場一門です。吉岡道場と武蔵は三度にわたり決闘しています。最初が清十郎との洛北蓮台寺野。二度目が三十三間堂における伝七郎(清十郎の弟)、そして最後が一乗寺下り松の決闘で、相手は清十郎の嫡子又七郎を奉じた七十名余の門弟たちであったといわれる。吉岡一門は、京都の兵法家・吉岡憲法(けんぽう)を開祖とする剣法の一派で、足利将軍家の兵法で師範を務めた名門です。武蔵との決闘のその後、吉岡家は紺屋を始めたそうです。そして独特の「黒染」を開発し評判となったようで、その黒染のことを「憲法黒」と呼ばれ黒染の代名詞にもなったそうです。