馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「商売は道によって賢しとやら・・・」

2015年09月30日 | 雑学
二代目広沢虎造「森の石松 三十石船道中」の件(クダリ)。お馴染みの「お前ぇさん、江戸っ子だってねぇ」「寿し食いねぇ、酒呑みねぇ」の場面の前段階のセリフ。「商売は道によって賢しとやら、自分の渡世の話になる。もうそろそろ親分次郎長の名前が出る時分・・・」。「商売は道によって賢し」とは「それぞれ自分の専門とする商売については、さすがに良く知っているものだ」という意味です。  それ程大袈裟な事ではないのですが、先日つくづく専門家は凄いと感じたことがありました。本筋はチョッと込み入っているので割愛します。ただ、当ブログの無知浅薄を曝した誠に恥ずかしい経験でした。  知人に能面師だった人がいます。能面師と云うのは非常に厳しい世界なのだそうです。能面師と云うからにはプロです。ですから打たれた面は、観世流、和泉流、・・・○○流の能楽師が舞台で使用されます。百貨店の美術コーナーで仰々しく売られているインテリア商品ではないのです。1年も2年も精進潔斎し心血を注いで完成した面を師匠の前に差し出し評価を待つそうです。師匠は数分間その面を凝視いて、無言でやおら手にした木槌でその能面を叩き割ってしまうそうです。「心が伝わっていない」の一言で終わりだそうです。古くから続く伝統の世界ですから能面師と云うのは能楽界に隷属するような職能集団の感が未だに残るところのようです。その知人は、結局能面師としては大成することなく、かと言ってインテリアの能面を打つことも潔しとせず挫折して師匠の下を去ったそうです。現在は自ら切り開いた独自の技法による「刻字」作家として活躍しています。
  
     般若                    真蛇
 知らないと言うことは恐ろしいもので、時としてとんでもない恥ずかしい思いをしていても気付かないでやり過ごしていることが多々あります。今回は前段で「能面」を取り上げましたので、それにまつわる話をします。当ブログは「能楽」については全く縁も所縁もありませんので、能面がどうのこうのと云う知識は全くありません。それはそれで自慢することでもなく、単に常識がないだけの話です。水墨画の集まりで「般若を描きたい」と云う人がいました。参考にと能面の写真集などを持ち込んで「あぁでもない」「こうでもない」と画題さがしをしていました。当ブログが何気なく「これはどうですか」と指し示めすと「あなた!これは般若じゃありませんョ」と笑われました。「えェ?」とキョトンとしている当ブログに他の人が「何でもよくご存知の貴方が・・」とチョッと小馬鹿にしたような口振で「これは蛇ですョ」と・・・。物知り雑学博士の皆さん、般若と真蛇の違いがわかりますか? 「物言えば唇寒し秋の風」
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「秋分の日」・岐阜県揖斐郡・西濃をドライブ。

2015年09月25日 | ドライブ・旅行
24日(水)秋分の日はまたとない好天になりました。シルバーウイークとのことで、高速道路の渋滞を心配しましたがそれも全くなく快適なドライブとなりました。前回岐阜県に行ったのは当ブログでシリーズとして描いていた芭蕉の奥の細道が終わるのを機会に「奥の細道結びの地」大垣市でした。
 岐阜県は大まかに旧国美濃国と飛騨国のエリアになります。厳密に言うとわずかに「越前国」「信濃国」「伊勢国」「尾張国」の区域も含まれています。また、平成17年に平成の大合併で話題となった「越境合併」即ち、長野県木曽郡山口村が岐阜県中津川市に編入されました。
この内、美濃エリアは更に西濃・岐阜・中濃・東濃に分けることがあります。
「西濃」と言えば皆さん直ぐに思いつくのはカンガルー印の「西濃運輸」だと思います。この西濃運輸は本社を西濃の中心都市大垣市に置いています。創業者田口利八は大八車1台から作り上げた伝説のある立志伝中の人物です。実は大八車ではなく月賦で購入した中古トラック1台からのスタートだったようです。昭和5年のことだそうです。当時の日本では、まだ物流はそれこそ大八車、馬車が主流であったのを考えると、それほどの教育もない農家の子倅の先見の明は大したものです。また、田口利八・西濃運輸と保守政界の大立者・大野伴睦との関係もつとに有名な話です。
  
 関ヶ原ICからR24バイパスに出ると直ぐに垂井町に入ります。垂井町の見所は「竹中半兵衛ゆかりの菩提山城」と「美濃国国府跡」です。岐阜県美濃地域には揖斐川・長良川・木曽川という3大河川が流れています。今日、ドライブするエリアは揖斐川水系のルートです。この上流部には貯水量日本一とも言われる「徳山ダム」があります。徳山ダムは完成してからも未だに問題の多い公共事業として検証が必要のところですが、例によって日本人の物忘れのよさからすっかり忘却のかなたに置き去られています。愛知用水、長良川河口堰、徳山ダム、・・・は古代からこのエリアが抱える治水問題の本質を物語る事業ですが、あれだけ反対運動が盛り上がった長良川河口堰など今、人々の口の端に上ることもありません。徳山ダムの景観は四季折々見事であり今や人口に膾炙する状況です。
岐阜県は先程も言ったように三河川が濃尾平野を分断しているので、地政学上それぞれの河川流域に独自の文化が成立しています。そして流域に沿って各集落が発展しました。その見本のように岐阜県には今もレトロなローカル線が3河川に沿うように頑張っています。揖斐郡には三重県桑名市から揖斐まで「養老鉄道」が長閑に沿線を走っています。
 
谷汲には「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願の寺として知られ「谷汲山華厳寺」があります。平成17年まで谷汲には名鉄谷汲線が走っていました。旧駅舎は保存されて往時の「赤電車」もそのまま停車しています。駅舎の一角は何故か「昆虫館」として営業しています。駅舎の管理をしているおばあちゃんが「電車が新岐阜まで通っていたころは賑やかだったヨ」と市と仕切り昔話を聞かせてくれました。



  


 岐阜県は見所の多い山紫水明の土地です。

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おしどり夫婦・・・・落語「百年目」

2015年09月17日 | 大衆演芸
街で偶然知人に出くわしました。「マァマァ、・・・お茶でも」と喫茶店へ。先方さんは奥さんとご一緒でした。知人とは長いお付き合いですが奥さんに会うのは初めてのことです。知人は俗に言う「ガレージカンパニー」のオーナー社長で、可なり個性の強い強引な人で、当ブログなどと違ってマァ人の言うことなど聞く耳を持たない人です。当ブログは常々「コイツの嫁さん、どんな人だろう?」と思っていましたが、どうにも想像が付きかねていました。初めてお会いしましたが、飾り気・衒(テラ)いのない極々普通のおばさんでした。その奥さんが知人を「家の旦那 家の旦那」と云います。一方、旦那は奥さんを「おかあさん、おかあさん」と呼んでいます。この夫婦には成人した息子が二人おり、既に独立して今は夫婦二人きりの生活だそうです。子供が出来てから「おかあさん」と呼び、そのまま続いているようです。奥さんによると「家にはヤンチャナ坊主が三人いる」とのことです。そう言えば普段あの傍若無人、我侭放題の知人の立居振舞いも今日奥さんの前では幼稚園児が保母さんに上手に扱われているような滑稽さです。何はともあれお二人を見ていると何んともにこやかな仲の良い「おしどり夫婦」です。
 世間で自分の連れ合いを他人に紹介する時どう言うのだろうか。当ブログは「僕の嫁はん」です。「女房」「妻」「家内」「かみさん」「おばはん」「オカア」「やまのかみ」「連れ合い」「カカア」「ワイフ」「相方」・・・・。女性側からは「夫」「主人」「亭主」「旦那」「宿六」「ハズバンド」「パートナー」・・・・。所で、当ブログの嫁はんは、他人に当ブログを何んと言っているのか?そう言えば当ブログはそのことを残念ながら知らないのです。
 件の奥さんが「旦那、旦那」と云うのには何某かの理由があるのだそうです。結婚当座は「夫」と言っていたそうです。それが「旦那」に変わったのは、ある仏事でお坊さんが「旦那」と云うのは夫婦間で上下、従属の関係ではなく「平等・対等」で男女「共生」の関係を表す言葉だと言う内容の説教を聴いたからだそうです。奥さんにしてみれば、このヤンチャ坊主が自分にとって「主人」でも「亭主」でもまして「大黒柱」でもない、お互いになければ生きていけない「共生」の「パートナー」としての存在なのだそうです。だけど「旦那」とは「パトロン」のことで「主人」などよりよっぽど女性を蔑視した言い方のように思うのですが・・・。
語源由来事典などを調べてみるとやっぱり「パトロン」のようなものです。
●旦那の由来・語源:本来は仏教語で、「檀那」と書き、寺院や僧侶に布施をする信者のことをいった。サンスクリット語Dana patiの音訳「檀那波底」の略で、Danaは布施、施しを意味する。「面倒を見てくれる人」「お金を出してくれる人」
 仏教語であることには間違いないようですが奥さんの言うような意味合いはないようです。奥さんの聞き違いかお坊さんのいい間違いなのか・・・?

 落語に「百年目」と云う演目があります。その中で○「一家の主を旦那と言ぅのは、どぉいぅとっから来たか知ってなはるか? 知らん。そぉじゃろなぁ。この歳になるわしが今まで知らなんだんじゃ。こら、寺方の方から来た言葉じゃそぉななぁ。こないだわしゃ聞ぃてきたんじゃが。」「天竺。天竺も五天竺あるそぉなが、そん中の南天竺といぅところに赤栴檀(しゃくせんだん)といぅ見事な木があるんじゃてなぁ、見る人誉めざるなしといぅ木。ところがその根元に難莚草(なんえんそぉ)といぅ見苦しぃ雑草がはびこるのじゃて。赤栴檀は結構じゃが、この難莚草がどぉも具合が悪いっちゅうて、そいつをむしり取ってしまうと、この赤栴檀が枯れるのじゃて。

■つまり、この下で難莚草といぅ雑草がほこえては枯れ、はびこっては枯れするのが、赤栴檀にとってまたとないえぇ肥やしになる。また、赤栴檀の下ろす露が、難莚草にとってはこの上ないといぅえぇ肥やしになるんじゃそぉな。

■そこで赤栴檀がさかえりゃ、下の難莚草もほこえる。難莚草がほこえて枯れることによって赤栴檀はますます育つ。寺方と檀家といぅものはこれでなかったらいかんといぅので、赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、在家の人のことを「だんな」といぅものはこっから出たんじゃといぅて聞ぃてな。

■まぁ年寄りの耳学問じゃ、違ごてても笑ろぉてくださるなじゃが。わしゃなぁ、えぇ話やと思たで。世の中はこれやなかったらいかん「有無相持(うぶあいもち)」っちゅうやっちゃなぁ。まぁこの家でいぅたら、さしずめわしが赤栴檀じゃろ。この頼んない赤栴檀、こんたといぅえぇ難莚草が居てくれるお陰で、えらほこえにほこえさしてもろてる

 どうもお坊さんは落語の「百年目」を参考にして説教したものと思われます。
因みに「難莚草(なんえんそう)」=実体は不明だが「莚」の字は「草がのびてはびこる」の意味。



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60年代ヒットナンバー・Wonderful World

2015年09月14日 | 映画

ケーブルTVで「刑事ジョンブック・目撃者」を放映していました。主人公の刑事ジョンが自動車を修理していると、何とかバッテリーが通電してカーラジオから懐メロ「ワンダフル・ワールド」が流れてきます。現代アメリカ社会で厳しい戒律を守り禁欲的な生活を送っているアーミッシュの未亡人とダンスをする場面です。
 サム・クック「ワンダフル・ワールド」は当ブログの高校時代に大ヒットした曲です。同世代の学生のほのかな恋心を歌っていて、何とも懐かしい曲に出あったものです。「歴史のことなんかそんなに良く知っていない」(Don’t know much about history)、「歴史も、生物学も、科学も、フランス語も、地理も、三角法も、代数学も学ばなくちゃ素敵な世界にならないよ。」と云う風な内容の歌詞だったと思います。「ドロップアウト」した当ブログのような学生は、歌詞にあるような 「an ‘A’ student」優等生など夢のまた夢でしたから「For maybe by being an ‘A’-student baby.I can win your love for me.」片思いの惨めなものでした。歌の世界のような「what a wonderful world this would be」とは程遠いものでした。

毎日放送の昼の情報番組「ちちんぷいぷい」に絵本作家長谷川義史の「飛び出せ絵本」と云うコーナーがあります。このコーナーのBGMがウルフルズの「 ワンダフルワールド」が使われています。後半部分は日本語の歌詞なっています。
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美作・津山に行ってきました。

2015年09月12日 | ドライブ・旅行
9月11日(金)北関東や東北では大変な災害に見舞われていますが、西日本では久し振りの好天となりました。何かと気忙しい毎日でゆっくりと物思うことが無かったので日帰りのドライブに出かけました。岡山県津山市に向かいました。津山市は好きなところで年に何度か訪れます。
そのため、当ブログには何度か取り上げています。多くは「男はつらいよ」のロケ地めぐりの話題が多いと思います。
津山城は室町時代に守護大名・山名氏が鶴山城を築いたのが始まりですが、その後山名氏が衰亡すると城も取り壊されました。そして1603年(慶長8年)森忠政が18万6千石で入封し津山藩が立藩。、城地の名を「鶴山」から「津山」に改め新たに築城、それに伴い城下町を整備しました。森氏は四代続きましたが跡継ぎが途絶えたため1697年(元禄10年)森家は断絶します。以後、津山藩は越前から松平家が入封し明治まで九代続きました。しかし、津山の人たちは松平より初代藩主森忠政に親しみを感じているようで、城址内には森忠政を顕彰して像が建てられています。因みに森忠政は織田信長の小姓森蘭丸の異母弟です。

 今日は夏の名残の日差しと蜩の鳴き声、しかし空はめっきり秋めいて赤とんぼも飛び交っています。場内には彼岸花もちらほら、また萩も咲き始めています。


  
津山城の南麓にある津山基督教図書館(南面)。現在は森本慶三記念館として利用されています。内村鑑三の弟子森本慶三が、キリスト教文書伝道を目的として、大正15年(1926)に設立した我が国唯一の基督教図書館です。


 当ブログの亡き母親は熱心な内村鑑三の信奉者でした。15年前母が亡くなった時、内村鑑三関連の蔵書、研究資料を当館に寄贈する予定になっていました。所が書籍類の多くは既に収蔵されているものが多くありました。図書館側としては重複する書籍は研究者に貸出用として寄贈するように要望されましたが、在庫していない書籍数百冊と研究資料全部を寄贈しました。特に聖書の研究や無教会主義など展示物の中に見覚えのある小紙がありました。又展示品の中に内村鑑三が各地で開いた聖書研究会の記念の集合写真があります。その中に大阪で撮られた集合写真に当ブログの母親の父、即ち当ブログの祖父が写っている物があります。戦災で家財を消失して父親の写真を失くした母は何度かこの写真を見るために当館を訪れていたようです。
 因みに母の蔵書の残りは、太田夫妻のご尽力で地元の教会に収めることが出来ました。
当館に展示されている内村鑑三直筆の色紙

東京・多磨霊園  内村鑑三の墓

 また、太田夫妻から「聖書を読んだサムライたち」-もう一つの幕末維新史ー 守部喜雅;著 を貸してもらいました。意外な人が当時禁教とされたキリスト教の聖書を読んでいました。幕末維新史の隠れた秘史です。勿論、内村鑑三も取り上げられています。この本を読んで触発されて津山に行きたくなったのかもしれません。

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映画「日本のいちばん長い日」

2015年09月04日 | 映画
4組の映画の会で「日本のいちばん長い日」を観ました。昭和42年に同名の映画が公開されています。当ブログも当時ワクワクしながら観たのをつい最近のように鮮明に覚えています。結論から言いますと今回の「日本の・・・」は何とも緊張感の無い、また何が言いたいのか分かり難い出来上がりで、旧作と比ぶべくもないように思いました。
 原作は旧作は大宅荘一編、新作は半藤利一著となっています。しかしこの本は文藝春秋新社が当時の生き残っていた関係者を集めて座談会を文章化したものです。その速記を文章化しチェック、体裁を整えたのが半藤利一でした。出版にあたり半藤が若干33歳の若手編集者と言うことで、当時の大御所大宅壮一が序文だけを書いて大宅壮一編として刊行しました。その後、若干の加筆訂正をして半藤利一著として再出版されたものです。
「日本のいちばん長い日」のタイトルは1967年公開されたハリウッド映画「The Longest Day(史上最大の作戦)」に倣ったものです。

 当ブログは、旧作と新作の出来具合の差は何処から来ているのかをいろいろな資料、ネットなどから集めて対比表を作ってみました。
        
左から順番にクリックして下さい。

 旧作は昭和42年、東宝35周年記念として東宝の名に懸けて製作したオールキャストの大作です。日本映画屈指の偉大な監督岡本喜八がメガホンを執り、脚本は数々の名作を手掛けた橋本忍とあればさもありなん、の感です。本来「日本のいちばん長い日」は昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間です。ですから新作のように天皇陛下、鈴木貫太郎総理、阿南陸軍大臣などの私生活やエピソード挿入は帰って映画の筋書きを解らなくするだけではなく何とも緊張感の無いものにしてしまいます。
 旧作は飽くまでも追い詰められた崖っぷちの大日本帝国の窮状、それを取り巻く連合国側からの無条件降伏受諾を迫る・・・。追い被せるように日本各都市への無差別爆撃、広島・長崎への新型爆弾投下、ソ連軍参戦・満州進撃・・・。「157分と長尺にもかかわらず、最初から最後まで緊張感を持続させ、数多くの登場人物をさばいた岡本喜八の手腕が光る。スタッフ・キャストともに素晴らしい仕事ぶりで、日本映画の底力を見せつけた。」と賞される名作です。「昭和天皇実録」によると昭和天皇が家族とともにこの映画を鑑賞されたとしています。
 ● 新作独自のシーン(幾つかの新しいエピソードの内から・・)
東条英機:旧作では8月14日~15日までの24時間が舞台ですから東条英機元首相や岡田啓介元首相などを登場させるのは話を混乱させるだけのように思います。

鈴木貫太郎総理のルーズベルト大統領死亡への弔意。
 大戦末期の45年4月12日、敵国アメリカ大統領ルーズベルトが脳出血で急死した際に鈴木貫太郎総理が弔意を表します。一方、ナチスドイツは欣喜雀躍し 罵詈雑言を尽くしました。このことは、日本の「武士道精神」として好感を持つ海外メディアの報道もあったようですが、映画の筋立てとはあまり関係が無いように思います。

● 分かり難い国の組織と人間関係。(当時の内閣、軍隊などの組織系統及び登場人物の相関図画が解り辛い)
 当時の政治形態、特に軍隊の組織や系統役割などは現在の我々には全く解らない部分です。陸軍省、海軍省、参謀本部、近衛連隊、東部軍管区、・・・これらの人達の上下関係や役割などを理解していなければ松阪桃李演じる畑中健二少佐などの本土決戦を唱える若手将校たちが近衛連隊や参謀本部、・・・、などへ決起同調を求めて走り回る理由もわかりません。ですから映画ではメン玉を引き剥いてバタバタと走り回って何をしているかわからない事になってしまいます。旧作でも同じことですが、旧作ではそれをキャスチングでカバーしています。旧作は東宝のオールキャストと云うこともあり、僅か1シーンであっても当代の名優が演じていますので、それだけでも「この人物は重要なのだ」とのある程度の判断が付きます。
 東宝はこの「日本で・・」の成功で以後8・15シリーズとして毎年昭和47年まで6年間続きました。

● 気になった俳優
旧作で鈴木一(総理秘書官)役を演じた 笠徹は、鈴木貫太郎(内閣総理大臣) を演じた笠智衆の息子だそうです。
新作で鈴木孝雄(鈴木首相の弟)で 時代劇の斬られ役福本清三が1カット写っていました。(このシーンも何故必要なのか全くわかりません)

 他、まだまだ書きたいことは沢山ありますが、半藤利一が寄稿している週刊ポスト平成27年8月28日号「誰も責任を取らない日本」を是非お読みになることをお勧めします。現在進行形の「東京オリンピックのゴタゴタの原因」もよくわかります。



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