馬糞風リターンズ

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日々雑感

2012年11月29日 | ぼやき
 
「柱ごよみも だんだん痩せて 残るどの日に 逢えるやら」

僕の下手な書画は、我が家では一切飾ることは禁止されています。ただ唯一「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」だけはお許しいただけるものです。今年も早いものでまた一茶の句を引っ張り出しました。

 年末の総選挙が決まりました。国会での党首討論で「16日に解散します」と野田総理が捨て身の「解散宣言」です。論敵の安倍総裁が驚きの表情を見せ狼狽えてしまいました。予想外の「解散宣言」でそれ以降の党首討論は「ドッ白け」でした。特に、安倍総裁の次に登場した小沢一郎の哀れな姿は他党からも「何かかわいそうだったね。」と同情されるテイタラクでした。20年にわたり日本の政界を掻き回し続けた政治ゴロの終焉を見た人も多かったことでしょう。「小沢は終わった!」と思ったのですが・・・・?
 自民党の幹事長として宮沢内閣を作りましたが、自分の思い通りにならなくなると自民党を離党、新生党その後、新進党、自由党、と次から次へと政党を作っては壊してきました。最後の自由党の頃には側近も離反して「極小政党」になり、当時の森総理大臣に「もう小沢一郎氏は、政治家として終わりだ」という発言も飛び出し、多くの国民もそう思いました。ゾンビ小沢を蘇らしたのが鳩山、菅らの民主党で、当時民主党は政党の体を成していないことから小沢一郎が合併をもちかけ、平等合併をして民主党を手に入れました。そして政権交代を実現しました。が、またまた意のままにならなくなった民主党を離党「国民の生活が第一」なる政党を懲りずに作りましたが、その存在も希薄で党首討論での弱弱しい姿に「小沢は終わった!」の感を強くしました。
 
嘉田滋賀県知事が立ち上げた「日本未来の党」へ作ったばかりの「国民の生活が第一」を解党しそのまま合流してしまいました。
 これて自由党から民主党に移った時と同じパターンでは?小沢一郎は政権交代可能な「二大政党論者」だったのが、小沢の離党が引き金で一〇以上の政党が乱立しました。あの「二大政党論」は嘘か!また、民主党を離党した理由は「消費増税反対」だそうですが、平成19年秋、当時の福田康夫首相に小沢氏側から(自民党と)一緒に消費税増税をやろうということで話があり幻の大連立成立寸前だったはずです。結局、小沢一郎と言う男には主義主張があるわけではなく、政治ゲームをしているだけの男です。自民党を離党してから19年、この間日本では「失われた20年」と言われる空しい時間が経過しました。今度こそ小沢一郎が話題になることが無い賢明な選択が行われることを切に願います。
 僕は嘉田由紀子知事のファンです。俗に言うタイプの人です。今回の合流の報道を見て嘉田知事が小沢や亀井など時代劇の悪代官のような連中に操を汚される苛立たしさを感じて嫉妬しています。


映画「のぼうの城」を観ました。

2012年11月27日 | 映画
映画「のぼうの城」を観てきました。
忍をはじめ関東に地縁血縁が無いので、事件事故が報道されても土地勘が無いので中々位置関係や距離感、周辺の事情が理解できないことが多くあります。忍城についても殆ど知識がありませんので、小説、映画で紹介してもらえるのはありがたいことです。小説や映画、ドラマに登場する「忍城」は難攻不落の名城のようです。当時の関東の拠点「小田原」と「越後」また「甲斐」や「信濃」への交通の要所であったようで、戦国の雄「相模の北条」「越後の上杉」「甲斐の武田」の陣取り合戦のたびに「忍城」は包囲される運命にあったようですが、幾度となくその苦境を耐えて落城することなく持ちこたえたようです。上杉軍と北条軍の戦い「河越夜戦」以降、北条氏が関東に勢力を伸ばし、成田氏はこれに反発したため、北条氏康は「忍城」を攻めるものの、攻略に失敗しています。(風林火山、天と地と)北条と上杉の攻防は繰り返され、上杉謙信が小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。その為に上杉謙信に忍城が包囲されるが、持ちこたえています。(ドラマでは直江兼続)
 豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。従兄弟の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に籠城。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城します。
「のぼうの城」はこの三成との攻防を舞台にした結構楽しいエンタテーメントです。
映画では敵役となる豊臣方総大将石田三成の人物設定として、豊臣秀吉子飼の家臣の中で加藤清正や福島正則のように絶えず戦場で武勲を立て強者ではなく、理財などの才で重きを成したため武闘派の面々から嫉み疎まれる存在としてされています。
実際に三成自身「武功がない」ことに引け目を感じていたようで「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるように当代一の「剛の者」と謳われた大和の浪人「島左近」を自らの扶持四万石の半分二万石で召し抱え、北近江に難攻不落の巨城「佐和山城」を築き、武辺であることを盛んにアピールしたようです。

 「史記」に「一旦の功、万世の功」と言う故事があります。戦場で大きな戦功を上げてもそれは「一旦の功」であり、戦場には行かなくても、兵糧、兵器、兵士などを補給し戦闘の態勢を整えることはもっと大切。これを「万世の功」とする、と言う話です。
加藤清正や福島正則よりも石田三成を重用した秀吉の「人心掌握術」を見ることができます。



黒船が来る!大変だァ・・・。

2012年11月22日 | 時事問題
嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に4隻の黒船が姿を現した。午前8時頃、濃い靄の中に黒煙を吐く異形が久里浜沖に来航した。旗艦サスケハナ、ミシシッピー、サラトガ、プリマウスからなるアメリカ艦隊は全艦大砲、砲弾、兵員とも戦闘態勢を整えていた。
 ご存知の「黒船来航」です。日本中はこの出来事で大騒ぎです。浦賀からは早馬が注進のため砂埃をあげて江戸に向かい、気の早い江戸っ子は家財を大八車に積んで疎開を始めるという混乱ぶりです。
「日本を茶にして来たか蒸気船 たった四杯で夜も寝ささん」と醒めた目で世相を観ている人もいました。

 また、太平の世に慣れた旗本、御家人、武士たちはただただ慌てふためき狼狽するばかりです。長年土蔵の奥に仕舞い込んでいたカビだらけの鎧・兜などの武具を引っ張り出しました。「甲冑は 異国の陰で 土用干し
旗本・御家人・侍の中には先祖伝来の武具甲冑を質入れしたり売り払ってしまった者は、大慌てで武具屋・馬具屋で戦装束を整えました。そして押っ取り刀で江戸湾警備に駆けつけました。しかし、黒船から望遠鏡で眺めたアメリカ人には旧式な防備は滑稽なものに映ったことでしょう。これらの沿岸警備はアメリカ艦からの艦砲一発で吹っ飛んでしまうものです。しかし、日本隊の火器は一番大き大筒でさえ敵艦には届きません。。それどころか、虚仮威しかお寺の梵鐘を大筒に見立てて砂浜に並べたりもする始末です。「武具・馬具屋 アメリカ様とそっと言い」

 そして、10日後ペリー艦隊は日本中を震撼させて去っていきました。「唐人の早く帰ってよかったね また来るまでも少しお間
 
 ペリー来航は、日本史上「近世」から「近代」と変わる画期となる事件です。幕末とは何時からを言うのかと言う時、多くの人はこのペリー来航からとするのです。そして日本は激動の幕末維新の動乱を経て明治政府の欧化政策により世界資本主義市場に組み込まれて行きます。まさに歴史の大転換点です。
 それでは何故この時期にアメリカ東インド艦隊が日本に派遣されたのか?素直に従来言われている通り「日本近海におけるアメリカ捕鯨業の保護・発展、中国貿易や日本との通商」と言うアメリカ経済の事情によることは間違いありません。

 本棚を整理していると面白い本が出てきました。濱屋雅軌著「黒船来航の経済史的背景ー石炭関連業の利益と思惑ー」(高文堂出版社)と同じく濱屋雅軌著「開国期日本外交史の断面」の2冊です。

 
「黒船来航の経済史的背景」は、従来言われていた遠征理由の他にアメリカ経済界のなかに遠征を促進させる何らかの要因があったのではないかと言う視点からペリー艦隊遠征を分析しています。結論だけを書きますと「アメリカ東インド艦隊に石炭を納入する利権争奪の熾烈な競争があり」その競争を行った商社や商人の思惑が日本遠征を推進した、との見解です。即ち、産業革命の進展で鉄道建設や蒸気汽船建造の目覚ましい発展で飛躍的に生産を拡大したアメリカの石炭業界の思惑、更にその背後には産業革命で飛躍的に進展しているイギリスの石炭業界が新たな市場を求め、大きな利益に結び付き、遠征のもたらす膨大な石炭需要とその結果もたらされる莫大な利益に注目した商社・商人の思惑こそがペリーの日本遠征の背景の一つの大きな要素である、と結論しています。

 一方「開国期日本外交史の断面」は、画異国船の通行と来航、欧米列強からの開国要求という外圧によって生じた諸問題を解決するための制作がどのように模索され、最終的に避戦論から開国政策にアプローチしたかを検証しています。検証は「異国船打払令」の変遷、撤回から復活またその都度都度の国内事情などが詳しく論考されています。
 当初は太平の夢が残る文政8年(1825年)に発した「無二念打払令」(外国船打払令)のように「問答無用」何が何でも外国船は打ち払うという無謀なものでした。所が、アヘン戦争での大国清の惨敗の情報により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、天保13年(1842年)には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、異国船に対する方針を大幅に変更しました。が、国内の政治状況の変化で再び「異国船打払令」を復活させようとの評議が繰り返し行われます。
欧米列強による侵略の脅威に怯えながらの打払令復活議論は、一様ではなく様々な理論背景の意見がでてきます。特に京都の孝明天皇が極端な夷人嫌いであったため攘夷実行を強硬に幕府に要求しました。しかし、現実に海防負担は幕府、各藩には莫大過ぎてただでさえ疲弊した幕府・藩財政を疲弊に追い込みました。そこで現実を直視しだした為政者の中から「打払令復活」に反対する意見が多く出だします。しかしその反対論も一様ではなく混迷、迷走を続けます。
 「貿易を肯定する」か「貿易を否定し」の立場は異なりますが打払令復活を阻止する意見の台頭です。そしてこの打払令復活反対論は、現状認識がはるかに適格で現実的であり幕閣には説得力がありました。そして様々の国内外の軋轢の中、幕府中枢は次第に打ち払いの非現実性と避戦の現実性を認識し日米和親条約締結に至ったのです。

 200年前の出来事は「検証」することができます。しかし、将来・未来のことは適格に予見することができません。その将来を予見する1つの材料として歴史の検証が役に立ちます。そして多少とも適格な将来をイメージしながら現実の問題を選択する必要があります。
100円ショップの店頭のような「安もんの政党」の叩売りが始まりました。明確な将来像がイメージできないと心理的に先ず変化を避けます。兎に角「現状維持」が一番安心できます。だから「兎に角反対」を唱えます。そんなイマジネーションの乏しい人たちがこの国家の将来を「どうこう」としゃしゃり出ること自体おこがましい限りです。

 

知恩院三門特別公開。

2012年11月14日 | ドライブ・旅行
この時期、京都では普段非公開の文化財を特別公開されています。
その中の1つ東山の知恩院三門を観てきました。寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しているそうです。
三門の内部は勿論、周囲の風景写真も遠慮するようにとのこです。ただ、風景写真は参拝の多くの人たちが「パチ、パチ」とシャッターを押しているので、当方も数枚のスナップを撮影しました。三門の二階は、見学者の顔を見分けられないほど薄暗く、そんな中で安置されている仏像、天井画、建物の構造などの解説がありました。二階の回廊からの見晴は清水の舞台からの眺めにも劣らない素晴らしいものでした。
寒波の南下で猫の目のように天候が変わる日で、ピーカンの青空が三門を降りた途端に真っ黒な雨雲から大粒の雨が激しく降ってきました。かと思えば10分も経つとまた秋晴れの青空に戻り、しばらくするとまた時雨れるといった状態が続きました。

 不安定な天候の中、同行者は本堂も見学すると更に奥の方へ上がっていくので、門前のテント張りの出店で待つことにしました。
栗善哉を食べながらお店の人と話をしました。「映画やドラマのロケがしょっちゅうあるの?」と聞くと、お店の人が「よくそう言われるのですが、ここではロケを見たことがありません」とそして「南禅寺か大覚寺は多いそうですョ」
風景写真さえ遠慮してください、と言う場所でドラマのロケは無いか、と納得しました。
 同行者は、まだ次の所へ行きたそうでしたが、この天候でウロウロするのも・・、と思い早々に帰路につきました。


カマキリは積雪を予想する気象予報士か?(2)

2012年11月09日 | 雑学
新潟県魚沼地方の雪景色です。雪国ではこのような景色が普通です。一体カマキリはこの広い雪原の何処に卵を産んでいるのでしょうか?この雪原も春になれば雪が解け、真っ黒な土が現れ草木が芽吹き、田んぼは代掻きがされ豊かなコシヒカリの村になります。花が咲きチョウチョが飛び交います。オタマジャクシもトカゲ、ヘビもアリンコも活動を始めます。野原にはミツバチ、てんとう虫、バッタがいます。もちろんカマキリも誕生します。
 えェ!雪に埋もれたカマキリの卵は孵化しないのでは?・・・・・・・・
  
「カマキリの雪予想」とは、オオカマキリ(Tenodera aridifolia)は、大雪の年は高い位置に、雪が少ない年には低い位置に産卵するというものです。この仮説は前回書きましたように新潟在住の民間研究者・酒井與喜夫が38豪雪を機会に40年にわたり調査研究して科学的に証明したとされています。
しかし、この科学的に証明されたという仮説は、先程の雪原でも疑問があるようにカマキリの生態と一致しないことが多くあります。
「昆虫と自然」(ニューサイエンス社)Vol.46 No.13(2011年12月号)は「特集・カマキリの生物学」に弘前大学名誉教授・安藤喜一の「カマキリの雪予想は本当か?」という小論文が掲載されています。その中で安藤は「カマキリなら雪予想できるのではないかと言う期待と、“え!ほんと”と驚くような研究結果に著名な研究者がお墨付きを与え、各メディアがこぞって賛同し、報道しつづけたので全国津々浦々まで(カマキリの雪予想)は真実である信じられた」
そして、安藤は「カマキリの雪予想は科学とは程遠いフィクションであり、間違いであることが明らかになった」としています。そもそも酒井の「カマキリの雪予想」の原点は「卵のうが雪に埋もれると孵化できなくなるので、それを回避するため、・・・卵のうの位置が高すぎると鳥に捕食され易いので、最深積雪より少し高い位置に産卵する」と考えたからです。要はカマキリの卵のうが雪に埋もれると孵化できない、と信じたことから実験を開始したことです。
そもそもカマキリはどのような場所に卵を産むのか?やはり弘前大学の安藤の調査によると「ニレ(卵9個) 平均高さ179.9cm、ススキ(卵20個) 平均高さ59.4cm、ナワシロイチゴ(卵47個) 平均高さ17.9cm」つまり、「木の種類」によって産み付けられる高さはまちまちだったのです。ニレの木は大きいので高いところに、イチゴはほとんど地面すれすれといってもいいくらいの高さ。では、この年の弘前市の最深積雪はというと、139cmですから、ススキやナワシロイチゴに産み付けられた卵はすべて雪の下にあったということになります。もし、この俗説が正しいとすれば、青森のような豪雪地域では、カマキリはそもそもススキやナワシロイチゴといった樹高の低い木には卵を産まないはずです。
 カマキリの卵のうは雪に埋もれると孵化しない、と言う前提は本当なのか?と言う基本問題があります。表、カマキリ卵の耐雪性は「産地」弘前・新潟(雪国)、富津(千葉)・下田(静岡)・宮崎の積雪のない所、5か所から採取した卵のうを75日~60日の間、雪の下に埋めてその孵化率を調べたものです。
 カマキリの卵は、雪に埋もれても寒さにもその後の融雪で浸水しても孵化率は99%近くあり、積雪の影響はないようです。
と言うことは、カマキリは何も積雪の深度を心配する必要が無いのです。

 余談ながらカマキリ(Mantidae)は「占い師・預言者」と言う意味があるそうです。
明治新政府が新しい暦を作るにあたり「改暦の詔書」に「妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ(でたらめで根拠のない、人知の発展発達を妨げるもの)」と戒めています。




カマキリは積雪を予想する気象予報士か?(1)

2012年11月08日 | 雑学
今日は「立冬」です。TVの情報番組でもラッセル車の試運転の様子や公園の樹木の「菰囲い」が話題になっています。
当ブログでアクセスの多い記事の1つに「カメムシが多い年は雪も多い」がありますが、その記事の最後に「積雪量が多い年にはカマキリの卵嚢の位置は雪の中に埋らないように高い位置にあり、積雪量が少ない年には低い位置にあるというのです。」と紹介してその後そのままにしていました。今回はその続きです。
昭和38年は「38豪雪」と言われる大変な大雪の年でした。この年の3月下旬、僕は新潟経由で北海道帯広に行きました。当時、時刻表通りだと28時間で到着しましたが、この時は大雪のため直江津、秋田、函館で特急が立ち往生して出発してから3日目に帯広に着く大変な年でした。
  

38豪雪を機会に「カマキリの雪予想」を研究しだした人がいます。そしてその研究は40年に及び「カマキリの卵ノウ高さと最大積雪深との相関に関する実証的研究」として1997年、長岡技術科学大学の学位論文としてまとめられました。
 この研究論文をまとめた人は「酒井與喜夫」と言う民間人です。
酒井與喜夫はこのカマキリの雪予想の研究で国立長岡技術科学大学の博士号(工学)を取得し民間人であることも相まって一躍有名人になりました。そして、日経サイエンスで優秀賞、また一般読者向けに「カマキリは大雪を知っていた」(農文協)を出版、大反響となりました。更に雑誌「暮らしの手帳」に「カマキリの雪予想」と言うエッセイを書いたところ、その年のベスト・エッセイに選ばれ超有名人になりました。

「カマキリの雪予想」の概略は「カマキリは卵のうが雪に埋もれてしまわないように産むという。というのは「カマキリの卵のうはウレタンのような発泡状をしており、一定の断熱効果や緩衝効果をもっています。しかし、気温によって膨張と収縮をくり返す深い雪の中で、長時間は耐えられません」さらに「雪は、表面はサラサラしていても、積もった下のほうは水分を含んで重く、比重は上部の2~3倍にもなります。もし、中途半端の高さに産み付ければ、卵のうは重く沈む雪に引きずられ、枝からも脱落してしまいます。そうすると卵は水に浸かったようになり、窒息状態となって、ふ化するのがきわめて難しくなってしまいます。といってあまり高いと、雪はクリアできてもエサ不足の冬の鳥の餌になりかねません」という。そのため、カマキリは、最深積雪に等しい高さの枝に産卵するのだという。」

 この研究はマスコミで大々的に取り上げられました。NHK総合テレビ「偉いぞカマキリ」また朝日新聞や読売新聞でも大きく紙面を割いて紹介しました。また、図鑑や昆虫写真集に「カマキリは雪に埋もれない高さに産卵する」と説明文が書かれ、天気予報や民放のヴァラエティー番組などでも紹介され「カマキリの雪予想」は定着してしまいました。

 酒井は「カマキリは地面から振動を察知して産卵する高さを決める」と言う仮説から、振動感知器を開発して今もその仮説を実証すべく研究を続けています。
但し、この振動感知の仮説は学位論文からは指導した学者の指摘で削除されています。
つづく

芸術の秋。展覧会めぐり・・・。

2012年11月04日 | 日記
第5回静想会展(豊中市民ギャラリー・10月30日~11月 4日)「パールフト本生図3・鶉の復讐」10号白鳳。
  
2012砂煙会展(ナルミヤ戎橋我画廊・11月 2日~11月 7日)藤田典子・乾 弘二
  
第49回仏教美術展(きらっ都プラザ・11月 3日~11月 5日)太田 博

 11月3日、4日の2日間、案内を頂いたり興味のある展覧会を一挙に観てきました。上記3会場以外のもので面白かったものを紹介します。
第56回立命書道会(ギャラリーカワニシ11月 1日~4日)
 
手ひねり・癒しの世界 藤田利親 陶展(画廊シャノワール・10月29日~11月3日)
和田眞一展(画廊ぶらんじゅ・10月31日~11月11日)
  
出口 彰水彩画展(ギャラリー池田・10月31日~11月5日)旧山田村にて
江原和足展 大阪に残る街道風景(ギャラリーVEGA 10月31日~11月5日)

  
山上憲一作品展(MU東心斎橋画廊・10月23日~11月4日)
  
陶三人展&切抜陶板画展(ギャラリーキャナル長堀・10月30日~11月4日) 





映画「アルゴ」を観ました。

2012年11月01日 | 映画
映画「アルゴ」を観てきました。
アメリカ映画のお馴染みのド派手な「ドンパチ」もカークラッシュもありません。それでも「ハラハラドキドキ」の結構楽しい作品でした。
この人質救出作戦は「実話」だそうです。60年後半から70年代にかけて人気のあったTVドラマ「スパイ大作戦」と基本的には同じ筋立てです。ただ、実話ですから「そんなアホな」と言う飛躍もなく、お金を懸けているだけスマートで緊迫感がある映画です。

 スパイ大作戦では「おはようフェルプス君。…そこで今回の君の使命だが…。例によって、君もしくは君のメンバーが捕らえられ或いは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、このテープは自動的に消滅する。成功を祈る」と言う決め台詞が流行しました。
スパイ大作戦ではこの決め台詞の前に「実行不可能な指令を受け頭脳と体力の限りを尽くしこれを遂行するプロフェッショナル達の秘密機関の活躍である」と言うナレーションがあります。
映画「アルゴ」はまさに「実行不可能な指令を受け頭脳と体力の限りを尽くしこれを遂行するプロフェッショナル達の秘密機関の活躍である」そのものでした。

 実際はどうなのか実情をよく知りませんが、アメリカと言う国は「自国民の救出・保護」に関しては万難を排して決行するように思います。
相手国の主権の侵害や人権問題、国際法上の問題、・・・などヒチ面倒なことはさて置き「自国民の救出・保護」と言う目的1点に集中して事を運びます。そして「ヒーロー」が誕生します。
アルカイダのウサーマ・ビン・ラーディン殺害などパキスタンの主権侵害、また裁判も無い殺人行為など非難することは山ほどある筈ですが、それでもテロへの報復の1点でまとまってしまいます。

この映画を拉致被害者の家族が見ればどんな思いをされるだろうか。日本国は何か拉致された自国民を取り戻すための「ミッション」を進行させているのだろうか・・・?
表面に見えているのは「名前だけの拉致担当大臣」と国会議員の胸に白々しい「青いリボン」が付けられているだけです。

 拉致被害者の家族が、必死に被害を訴え、救出を訴えた時「日本政府が食糧支援をさせないために最近になって創作された事件である」と拉致の存在そのものを否定し、また「拉致被害者石岡亨さんが家族にあてた手紙の件を朝鮮総連兵庫支部に連絡し、 石岡亨さん・有本恵子さんらを窮地に追いやった」と言う国会議員が衆議院議長を務めるお国柄です。
 これらの人達が、北朝鮮の拉致が明らかになった時、どんな態度をとったかは周知のことですから・・・。
彼らは何の責任も取ってくれません。北朝鮮にそれほど強い大きなパイプがあるなら「ダメなものはダメ」とお得意の決め台詞で北朝鮮に迫っていればまだしも・・・。拉致実行者の釈放運動をするというオマケつきです。

 人権や主権侵害、お隣の国とは仲良く・・・、なんてきれいごとを言っている奴ほど無責任な奴はいないのです。
今も、東日本大震災に瓦礫の持ち込み反対とかオスプレイ反対とか○○反対・・など言っている連中の無責任ぶりを暴き出さないと拉致被害者とその家族はいつまでたっても救済されることは在りません。