馬糞風リターンズ

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舞鶴、生野銀山・羽淵鋳鉄橋・和田山竹田城祉・・・ドライブしてきました。

2011年03月22日 | ドライブ・旅行

19日(土)舞鶴市西神崎の知人宅に行きました。
3連休の初日と云うことで高速道路は宝塚トンネル付近を先頭に大渋滞でした。
東北関東大震災の影響らしきものは全く無い、平穏な休日の高速道路でした。
北タンゴ鉄道の特急列車が何があったのか「神埼駅」に停車していました。
神埼駅は1両仕立ての普通列車が停車する無人駅なのに珍しいことがあるものです。
この北タンゴ鉄道も例に洩れず「赤字路線」で「廃線」の噂があります。
北タンゴ鉄道が「廃線」になればこの丹後地域のアクセスは大変不便なものになり、唯でさえ元気のない舞鶴・宮津・天橋立・網野などの観光経済は大打撃を受けそうです。
何とか「廃線」だけは避けてほしいものです。



21日(春分の日)、月1度北海道十勝から豊中に帰ってくる友人から電話がありました。
話すことも無いので「ドライブでもするか」と但馬方面に出かけました。
例によって宝塚で渋滞していましたが、土曜日と違うのは災害派遣から帰ってきたのでしょう救急車や消防車が隊列を組んで走っています。
西宮名塩SAで給油をしようとすると、ガソリンスタンドは消防車が数台順番待ちをしています。
車体には「災害派遣」の目印が張られており、愛媛県消防と高知県消防の車でした。
SA内にはその他にも多くの緊急車両が止まっており、制服姿の隊員が休憩していました。
給油の順番が来て「レギラー満タン」と云うと「給油制限で20リットルまでです」との事です。

友人は「生野銀山」に行ったことが無い、とのことで「銀山遺跡」に行きました。
坑道内を見学し、資料館などももぞ来ました。
生野で目新しいものとしては「昭和の名優・志村喬記念館」が出来たことです。
志村喬は生野鉱山・三菱生野鉱業所・口銀谷公11号社宅で生まれたそうです。


羽淵橋は生野精練所に鉱石を運ぶために掛けられた日本最初の「鋳鉄橋」だそうです。



和田山竹田に日本最大の山城「竹田城祉」があります。
古城山(標高353m)の山頂部全体が竹田城(虎臥城)で、冬の雲海に浮かぶ姿が美しいので有名です。
歩くのが苦手なので、天守跡まで登ったことがありませんが、友人が「1日1万歩」と盛んに云うもので、仕方なく急な山道を頑張って登りました。

天守跡から眼下に播丹自動車道の「臥竜橋」です。


帰路は「北近畿自動車道」を利用することにしました。
北近畿自動車道のSA[道の駅・但馬のまほろば」の敷地内に「朝来市立埋蔵文化財センター」があります。
この近辺も開発が進み、道路建設が格好の試掘抗の役目を果たし、考古学の新しい発見が相次いでいます。
「メスリ山古墳」やその近辺の古墳から「近畿大和王権」との強い関係を裏付ける遺物が大量に発見され、話題になっています。
大和王権が「出雲」を「何時」服従させたかが判明するのもそう遠くない時期だと思います。

◎ 大久保利通の正夢」をUPしました。よろしかったら覗いてください

[断・捨・離」・・(2)

2011年03月20日 | 日記
古いスクラップブックを捨てるため整理していたら、配合飼料メーカーに在籍していた頃の業界雑誌が出てきました。

 記事の中に恥ずかしながら僕のことが書かれていました。
もう40年も前のことで「時効」ですから「そんな昔もありました」と云う懐古談としてご容赦ください。







乾電池が店頭から消えてしまった。

2011年03月15日 | 日記
またしても大震災が起こりました。
当ブログもしばらくは「謹慎」して記事のUPを遠慮していました。

 大学の同級生3人が仙台市内にいます。
地震発生から何度となく電話を入れて安否を確かめていましたが、今日、やっと3人とも無事であることが確認できました。
「仙台の3バカ」も何とか不自由ながら頑張っていて何よりでした。

 昨日、朝早く神奈川県に住む身内から電話がありました。
何事が起きたのかと「ドキドキ」しながら電話口に出ると「乾電池」を大量に送ってほしい、との依頼です。
「計画停電」とかで照明用の「ランタン」とラジオの電池が必要なためで、店頭から電池、ほか生活必需品が消えてしまっているそうです。

 お安い御用とばかり早速大型電気量販店に行きました。
所が電池売り場には全く商品がありません。開店と同時に売り切れてしまった、との事です。
「電池」の調達はできませんでしたが、幸い九州と舞鶴で必要量のものは確保できて発送してくれたそうです。

 ところで、今回の東京電力の社長の記者会見の態度は何なんだろう!
また、日ごろ「国民の生活が1番」なんてかっこいいことを言っていた政治家先生は何をしているのだろう?
政府に協力して「政治休戦」をしたら、後はのんびりと選挙対策か!
こんな連中に税金で支えている国民は悲しい!

 政治主導の小沢さん、あなたの選挙地盤の岩手が悲惨な状態になっています。
日ごろの「剛腕」ぶりはどうしたんでしょう。
せめてパフォーマンスでも良いからヘルメット姿で「ガレキ」の中で走り回るくらいのことをしなさいヨ。
世間一般の評判とは裏腹に小沢一郎と言う男ほど「小心」で「臆病」で「嫉妬深く」「猜疑心が強く」「強欲」で「助平」な政治家はいないそうです。「正義感」「理念」「信念」「理想」など欠片も持っていないそうです。
今回の大震災と原発事故で恐怖心で押入れの中で布団を被ってブルブル震えてでもいるとしか思えません。
世間の人たちはどうしてこんな男に振り回されているのか不思議でなりません。そろそろ小沢伝説から卒業してはどうでしょうか・・。






「馬欠場」は地名ではなかった。

2011年03月09日 | 地名・地誌
奈良県と三重県境の大台山系は、山歩きを趣味とする人達にとって有名な所だそうです。
登山愛好家のブログには沢山の踏破記事が出ています。

 そのエリアの地図を眺めていると「馬駆場」と云う所があります。



高見山~国見山~明神岳~池木屋山(台高山脈)の尾根筋を南下すると日出ヶ岳、大台ケ原に至ります。
 この尾根道は古代の「スーパーハイウェー」です。
吉野から放射状に山道を駆け抜ければ、西は紀伊・紀ノ川から瀬戸内海へ、熊野本宮から熊野川を下れば太平洋、熊野へ通じています。東に向かえば伊勢、尾鷲と東国への玄関口に出ます。


 新宮市教育委員会の女性の担当者から電話を頂きました。
昨年、新宮市教育委員会文化振興課のHPの「お問い合わせ」に「馬欠場」について「お教え頂きたい」とメールーを入れておきました。

「馬欠場家伝」によると、
 新宮市は、紀州徳川家付家老水野家三万五千石の城下町でお城は丹鶴城です。
「馬欠場家」は、この丹鶴城内にあった馬場、即ち馬駆け場の管理をお殿様から任されていた家柄だそうです。
その職務から家名を「馬駆場」と名乗ったそうで、「駆」の文字が「画数」が多いため「欠」を常用したのが定着して「馬欠場」となった」との伝承があるそうです。
 ただ、記録文章などでは今のところ記載事実がありませんので、あくまでも馬欠場家に伝わる伝承です。
本格的に調査を行ったことが無いので断言はできませんが、この家伝はほぼ真実を伝えていると思われます。
馬欠場家は職務から推測して、当然士分であり恐らく新宮市内に菩提寺があるものと考えられので、菩提寺の過去帳などの調査を行えば、この事実を裏付け、また、家系図なども辿れるのではないかと思われます。

 以上の様なことを教えて頂きました。
「馬欠場」さんは由緒正しき家系の様です。

なお、地名としての「馬欠場」は「無い」そうです。
どうも僕の想像した山間のチョッとした「開けた土地」で、高知県の山間にある「奈路」のような地形ではなさそうです。

 そうすれば冒頭の地図にある「馬駆場」はどうなるのでしょうか?
また、お殿様から任された丹鶴城の「馬駆場」は、本当に城郭内にあったのだろうか?
丹鶴城の古地図をゆっくりと捜してみます。

 ただし、今回の「馬欠場」さんの由来は、新宮市教育委員会から教えて頂いた内容が、正解の様です。
これで「馬欠場」さんの疑問は解決しました。

北海道方言「ほっちゃれ」・・・「さかなクン」

2011年03月08日 | 雑学

ちょくちょくテレビで見る奇妙なタレントに「さかなクン」と云う人がいます。
得体の知れない人で、テレビで見かける度に「何者だろう?」と不思議に思っていました。

 天皇誕生日の記者会見で、絶滅したと思われていた「クニマス」の生存を確認したことに関して、「この度のクニマス発見に東京海洋大学客員准教授さかなクン始め多くの人々が関わり、協力したことをうれしく思います」と天皇陛下がコメントされて脚光を浴びました。

ネットでは人気者だけに「さかなクン」に関する多くの情報があります。
本名は「宮澤正之」だそうです。その他にも「経歴」や「エピソード」などが沢山紹介されていて、改めてその人気者ぶりに感心しました。

 今日、その「さかなクン」に関したニュースがネットで紹介されていました。
「クニマス生存確認論文 さかなクンも著者に」と云うものです。
その論文は「日本魚類学会英文誌(電子版)」に掲載されたそうです。

 クニマスと確認した「論拠」は、形態・解剖学的所見、生態的所見、またDNA鑑定などによるものだそうです。
しかし、門外漢の者としては当然理解不能で「はァ、そんなものか」位が関の山です。
所が、1か所だけ「なるほど」と素人ながら分かった様な気になった個所があります。

 今回「クニマス」と断定されましたが、一般には「ヒメマス」では?と疑問視されていました。
ヒメマスを始め国内のマス類の産卵期は「秋」と決まっています。
北海道では産卵後のマスのことを「ほっちゃれ」と言います。
秋口以降に魚屋に「ほっちゃれ」が並ぶことがあります。本来「よれよれ」で「脂味」もなく「不味くて」「放ってしまえ」という「代物」ですから「ほっちゃれ」と言ったそうです。

 内地から行った者は知らない「方言」です。
「ほっちゃれ」とは、年増、とかよれよれの不美人とかの意味合いで使用することがあります。
入学したての頃は、先輩から「あの人にほっちゃれと言えばよろかばれる」「美人と云う意味だ」などと騙されて「貴方、ほっちゃれですネ」と言って失敗したりしたことがあります。

 今回の山梨県西湖で確認された「マス」は、春先にメスの1個体から卵が確認されたほか、産卵後間もない形跡が見つかった、そうです。
また、西湖周辺の人達は春先に「ほっちゃれ」がいる、と云う噂をしていたそうです。

 この春先に産卵すると云う事実から「早春に産卵するサケ属は日本国内ではクニマス以外は知られていない(中坊教授)こともクニマスである根拠とした」そうで、この事は実によく分かる論拠で、また懐かしい北海道の思い出を呼び起こしてくれました。 

「赤報隊とええじゃないか」をUPしてあります。よろしかったら覗いてください


断・捨・離

2011年03月07日 | 日記
「断・捨・離」と云う言葉があるそうです。
ネットで調べてみると「ヨガの断業、捨行、離行という考え方を応用、不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというものだ。10年ほど前、金沢市に住む主婦が提唱し、ブログを通して広がった。」と書かれています。

 生活リズムも変化し、興味の対象も随分と変わってきたので、僕もいろいろなものを整理しています。
昨年から古い写真をPCに取り込む作業もほぼ終了しました。
所が、写真自体の処理をどうするか、これがチョッとした悩みの種でした。
不思議に「姿・形」の写っている写真を「オイソレ」と「ゴミ」に出すのも憚られます。
と云う訳で大きな紙袋に保管したままになっており、結局嵩張るのは同じ状態です。

 ここ暫く大量に保管している「民俗学」の「農村年中行事」関連の資料コピーの処分です。

何十年に亘り機会を見ては現地の図書館や資料館でコピーした僕にとっては「お宝」ものです。
地域別、項目別・・・など細かく分類したものが大量ににあり、可なりのスペースを占拠しています。
他人さんから見れば「ゴミの山」ですが、この資料は学生時代からほんの数年前まで、時には仕事も放り出して時間と経費とを費やして集めたものです。
 何時かは「まとまった形」に仕上げたいと思っていながら遂に本当の「ゴミの山」になってしまいました。
仕事を辞めた時にも感じなかった「虚しさ」みたいなものがあります。

 1ツ1ツばらして大きさ別に仕訳し、次の古紙回収日に出すつもりです。

そして、写真は焼却炉で燃やしました。

民俗学の農村調査資料で刊行され製本されたものは、某私立大学の民俗学同好会が「よろこんで」引き受けてくれることになりました。

 まだ、他の分野のコピーや資料を順次整理しなければなりません。
こうして「捨ててしまう」ものであれば、仕事を疎かにまでして掻き集めなければならなかったのか、今思うと「大きなロス」をしたような気がします。

鯰絵

2011年03月01日 | 歴史
2月22日、ニュージーランド南島のクライストチャーチでM6.3の強い地震が発生。犠牲者も多く出て被害は甚大だそうです。今日現在も日本人留学生を含めて多くの人達が行くへ不明のままです。
毎日、現地から伝えられる現地の様子を見て、一人でも多くの人が救助されることを祈るばかりです。
 クライストチャーチ直下を東西に走る未知の活断層が動いたそうです。

阪神淡路大震災も野島断層と云う活断層が動いて引き起こされた都市直下型の大震災でした。
淡路島北淡町では野島断層が露出した所があり、そこには北淡震災記念公園が整備され、野島断層保存館が震災を忘れないようにと建設されました。

 この野島断層保存館で「地震はなにがおこすのか?-日本人の地震観の変遷」と云う企画展が開催されたことがあります。
その時の展示を紹介して、NZの地震被害者を応援したいと思います。

 冒頭の「鯰絵」は「しんよし原なまずゆらひ」(東京大学地震研究所蔵)


「地震どう化大津ゑぶし」(北淡町教育委員会蔵)


「地震のすちゃらか」(北淡町教育委員会蔵)


「鯰と鹿島大明神の首引き」(東京大学地震研究所蔵)


「地震・雷・過事・親父」(東京大学地震研究所蔵)


「太平の御恩沢に」(北淡町教育委員会蔵)


「切腹鯰」(東京大学地震研究所蔵)


「生捕りました三度の大地震」(東京大学地震研究所蔵)


「世直し鯰の情け」(東京大学地震研究所蔵)


「江戸鯰と信州鯰」(東京大学地震研究所蔵)


「鯰の力ばなし」(北淡町教育委員会蔵)

 個々の絵の説明は、時期が時期だけに「誤解」を招きかねないものがありますので、またの機会に譲ります。
江戸の庶民は、地震と云う自然現象にやり場のない怒りを、擬人化した地震鯰にぶつけることで憂さを晴らしたのでしょう。