ここの本堂は、堺市内最大の木造建築だそうです。
このお寺の山門横に「明治天皇行幸記念碑」があります。その記念石碑の側面に「堺県庁址」と刻まれています。
堺県とは本願寺別院HPによると「堺の地に「堺県」が設けられていたことを、皆さんはご存知でしょうか。和泉・河内地方はもとより、遠く現在の奈良県までの行政区域だったようです。 江戸時代が終わった(明治元年)から、明治14年に大阪府に合併されるまでの14年間、歴史上に存在した県でした。慶応4年6月22日、大阪府から和泉国をさいて、堺県が行政上独立しました。堺の町は、大小路が摂津と和泉の境であり、大小路よりも北は大阪府、南は堺県となったのです。
明治2年には、河内県と狭山藩が堺県に入りました。明治4年に廃藩置県が行われ、大和川を摂津と和泉の境ときめるとともに、次々と周辺の県を合併しました。明治9年には隣の奈良県をも合併し、堺県は和泉、河内、大和をあわせた大きな県になったわけです。 県庁ははじめは、堺奉行所、のちに明治4年から同14年までの10年間、本願寺堺別院(北の御坊)に移りました。」とあります。
最近、大阪府では「大阪都構想」なるスローガンで元気の良い知事さんが話題になっています。
何を言っているのかよく分からないスローガンですが、何事においても東京に負け続けている大阪人には「やれ!行け!」と鬱憤晴らしには格好の殺し文句です。
○○銀座が全国にありますが、今時○○銀座も古臭いネーミングで何処も振りむきもしなくなりました。
大阪都構想の根底には権威主義の権化の様な「中央崇拝」があるようで胡散臭さは否めません。
そもそも「地方」という概念は、鎌倉時代に遡るようです。
中央に対する「地方(じかた)」と云うものです。
中央集権がその統制力を失い、地方に発生した自立性の高い勢力の台頭があります。
この頃になると、新興宗教が興り古代から中世へと時代が推移していきます。
そもそも「国」とは、地方自治体の寄せ集めなのか、国が統治上各エリアを仕訳したのが「地方」なのか?
「思い付き」で国家の根幹を揺さぶる「愚挙」を許していいものだろうか・・・。
現在の都道府県誕生、廃藩置県について以前調べたことを別のブログにUPしておきましたからご一読ください。