馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

廃藩置県顛末あれこれ

2011年02月24日 | 歴史
 大阪府堺市に本願寺堺別院があります。
ここの本堂は、堺市内最大の木造建築だそうです。
このお寺の山門横に「明治天皇行幸記念碑」があります。その記念石碑の側面に「堺県庁址」と刻まれています。



堺県とは本願寺別院HPによると「堺の地に「堺県」が設けられていたことを、皆さんはご存知でしょうか。和泉・河内地方はもとより、遠く現在の奈良県までの行政区域だったようです。 江戸時代が終わった(明治元年)から、明治14年に大阪府に合併されるまでの14年間、歴史上に存在した県でした。慶応4年6月22日、大阪府から和泉国をさいて、堺県が行政上独立しました。堺の町は、大小路が摂津と和泉の境であり、大小路よりも北は大阪府、南は堺県となったのです。
明治2年には、河内県と狭山藩が堺県に入りました。明治4年に廃藩置県が行われ、大和川を摂津と和泉の境ときめるとともに、次々と周辺の県を合併しました。明治9年には隣の奈良県をも合併し、堺県は和泉、河内、大和をあわせた大きな県になったわけです。 県庁ははじめは、堺奉行所、のちに明治4年から同14年までの10年間、本願寺堺別院(北の御坊)に移りました。」とあります。

 最近、大阪府では「大阪都構想」なるスローガンで元気の良い知事さんが話題になっています。
何を言っているのかよく分からないスローガンですが、何事においても東京に負け続けている大阪人には「やれ!行け!」と鬱憤晴らしには格好の殺し文句です。
 ○○銀座が全国にありますが、今時○○銀座も古臭いネーミングで何処も振りむきもしなくなりました。
大阪都構想の根底には権威主義の権化の様な「中央崇拝」があるようで胡散臭さは否めません。

 そもそも「地方」という概念は、鎌倉時代に遡るようです。
中央に対する「地方(じかた)」と云うものです。
中央集権がその統制力を失い、地方に発生した自立性の高い勢力の台頭があります。
この頃になると、新興宗教が興り古代から中世へと時代が推移していきます。

 そもそも「国」とは、地方自治体の寄せ集めなのか、国が統治上各エリアを仕訳したのが「地方」なのか?
「思い付き」で国家の根幹を揺さぶる「愚挙」を許していいものだろうか・・・。

現在の都道府県誕生、廃藩置県について以前調べたことを別のブログにUPしておきましたからご一読ください。

備中松山・高梁市に行ってきました。

2011年02月23日 | ドライブ・旅行
22日(火)、桜が咲いてもおかしくない春真直中の日和に誘われて、例によって気の向くままドライブに出ました。
山陽自動車道を西へ西へと、前回は姫路西ICで疲れが出ましたが今日は快調で、岡山県に入り備前、和気も通り過ぎて岡山まで一気に走りました。SAでさてどうするかと一服をしながら道路地図を眺めて思案しました。
 岡山や総社に行っても別段見るところもないし・・・。
岡山自動車道が社会実験で無料との事ですから、北に向かいました。
賀陽ICで降りると、中国山地に点在する独特の集落があります。
大久保峠からは谷底にある高梁川とその左右にへばりつく高梁市街がジオラマの様に眺望されました。

 ここ高梁市は映画「男はつらいよ」の第32作「口笛を吹く寅次郎」のロケが行われたところだそうです。



狭い上り坂を行くとお城の様な「松蓮寺」があります。
その少し低い所に薬師院があります。
門前には立派な「男はつらいよ ロケ地」の記念碑が建っていました。
また、武家屋敷が立ち並ぶ一角にある「岡村邸」は第8作「寅次郎恋歌」の「ロケ地」になったところだそうです。

 ここ高梁市はそのほかにも東宝映画「県庁の星」、角川映画「バッテリー」のロケ地になったそうです。
バッテリーは見たことがありませんので、どのシーンか全く分かりませんが、冒頭の大久保峠の展望台や武家屋敷街が登場したそうです。
 「県庁の星」が舞台となったローカルスーパーは、高梁市旧市街地の一番西にあるこの街唯一の量販店「天満屋ハピータウン」でロケが行われたそうです。
そう言われれば何と無くそんなシーンが浮かびました。

 高梁市は備中松山の城下町で、散策するには丁度良い大きさの落ち着いた街です。
伊予松山は討幕軍、備中松山は幕府側だったため、明治維新の一時期、旧来の行政区画をそのまま引き継いで「藩」が置かれたときに伊予松山は「松山藩」、備中の松山は「備中松山藩」となったそうです。
 因みに、江戸時代には「藩」と云う行政組織は無く、江戸幕府が終焉を迎えて始めて「藩」が出来ました。
水戸黄門などの時代劇で「○○藩」などと気軽に言っていますが、あれはあり得ない表現です。

 また、秀吉の備中攻めで有名な「備中高松城」は、ズーと岡山市より(現岡山市北区)にあります。
今日も観光客の雑談の中に「備中高松」と「備中松山」がごっちゃになっている人がいました。

すき焼きの肉とこんにゃく・・・

2011年02月20日 | 雑学

「サントリー黒烏龍茶」のテレビCMで「肉とこんにゃくは離して焚かないと肉が硬くなる」と言っています。

 そのコマーシャルメッセージの中で女性が「そんなことだけはよく知っているのね」と・・・・。
このフレーズは嫁さんが絶えず僕に投げかける言葉です。
しかももう少し軽蔑の意を含めて「そんなショウムないことだけはよく知ってるね」と・・・。

「肉とこんにゃくは離して焚かないと肉が硬くなる」と云うのは調理人の常識の様です。
また、こんにゃくと練製品を一緒に炊くと硬くなり、返って歯応えがあり美味しくなるそうです。

 「肉を加熱すると、肉の赤身に含まれる筋原線維タンパク質は、60度から変化し出すが、この時点では筋形質タンパク質は凝固せず、肉は軟らかい状態で旨味が増す。それ以上の温度で肉を加熱すると、筋形質タンパク質が収縮し始め、凝固が始まり、肉が固くなって行く。
 この時、コンニャクから溶け出す石灰のカルシウム成分が、筋形質タンパク質の収縮を促進する。つまり石灰には、より早く肉を固くする働きがある」からだそうです。

 また、料理人に聞くと「すき焼きなんかでは、一緒に煮る場合豆腐なんかでガードした方が良いと言われるが、そもそも一緒に煮ない方がベストだ。 肉を煮た後の肉の旨味と脂の吸った煮汁で、コンニャクを煮れば良いのだ。一緒に煮なくったって、コンニャクの美味さの醍醐味は味わえる」とのことです。

 また余談ながら、昭和30年代後半、「筋収縮のカルシウム調節」機能を解明した東京大学医学部の江橋節郎博士がいました。
「筋収縮の開始には筋細胞中でのカルシウムイオンの濃度の一時的上昇が引き金となっていること、そして筋肉の収縮装置にはカルシウムイオンで駆動するスイッチが存在すること、を発見し、そのスイッチの中心にトロポニンと云うたんぱく質である」ことを解明したそうです。
 江橋博士らの研究はノーベル賞に値するもので、我が国の生命科学研究の歴史の中で特別の意義を持っているそうです。

江橋節郎博士の研究は多方面に亘るそうですが、生物物理の分野の開拓者でもあったそうです。
我が今高15期生に大阪大学で生物物理の研究をしていたT博士がいますので、機会があれば特別講義をして頂きたいものです。

西国第24番札所中山寺に行きました。

2011年02月19日 | ドライブ・旅行

18日、西国第24番札所中山寺に行きました。
身内に懐妊した人がいるためか、嫁さんが急に中山寺に行きたいと言い出しました。

 薄日はあるのですが北風が強く、結構寒い日和です。
どうも抹香臭いお寺と云うものは好きではないので「お寺詣り」に全く縁のない人間なので、近隣には名刹古刹が沢山あるにもかかわらずお寺参りをすることはありません。

 所が、最近嫁さんが「門戸厄神」に行こう、とか○○神社に行こう、とか「神仏」巡りを云うようになりました。
僕は社寺へはかなり多く行く方だと思います。
ただ社寺へ行く目的が「信心」から行くことが無いので、改まって「祈願」や「ご利益」「厄払い」などと言われると気が重くなるだけです。

 本堂に行く階段に並行して写真の様な立派なエスカレーターが設置されているのには驚きました。
またエレベーターも設置されているようで、高齢化社会に対応した良い設備だと思いました。

 北摂は箕面の滝に代表されるように古くから「修験道」の盛んなところで、箕面には「役の行者」のお墓もあるそうです。
修行の場ですから、人里離れた自然の険しい場所のはずですが、山を切り開いた新興団地がぎっしりと山麓に開けています。
昔の長閑な北摂の山並みは跡形もなく、中山寺も住宅に囲まれてしまいました。

 この山麓は、仏教が伝来する以前の歴史を伝える古墳があります。
中々面白い伝承の古代の遺跡があるのですが、今日は目的が違うので素通りしました。

 嫁さんは、安産祈願のお守りを買っていたようです。
そのお守りをあげる相手の人は「ベルナデッタ」と云う洗礼名を持つ人です。
はたして、お守りの効能は・・・・と心配するところです。


伊賀上野に行ってきました。

2011年02月17日 | ドライブ・旅行
奈良県東部室生寺の月ヶ瀬梅林が見頃だろうと思い西名阪自動車道に入りました。
今月の2日に長浜に云った時よりも奈良盆地は雪が多くありました。「針テラス」と云う日本最大の道の駅で休憩し、観光案内所で月ヶ瀬梅林の様子を聞くと「まだ一寸早いです」との事で「2~3分咲き」だそうです。
それよりも室生・月ヶ瀬方面の路は積雪が凍結して危険で行かない方がいいですよ、と忠告されました。
 現在の気温は7℃と順調に上っていますが、アメダスによるとここ針の今朝の気温は-11℃と放射冷却で冷え込んだそうです。そう云えばこの辺りは標高500m以上もあり内陸部ですから・・・。

 月ヶ瀬梅林を諦め、名張から伊賀上野に行きました。
上野城やその一帯の上野公園には伊賀流忍者博物館、伊賀焼工房やギャラリー、歴史民族館、だんじり会館、伊賀組紐等の観光施設が沢山あります。

 公設の駐車場に車を止め、観光案内所で観光地図をもらい、お勧めの遊覧コースを教えてもらいました。
駐車場のすぐ横に「芭蕉翁記念館」を見学しました。
あまり芭蕉や俳句には興味のある方ではないので、お勧めの俳聖殿、芭蕉翁故郷塚はこの芭蕉翁記念館見学で遠慮する事にしました。
 なぜ芭蕉に興味がもてないか、言い訳する必要もないのですが、病み上りの迫力のない経済財政大臣のお爺さん・鉄幹が「芭蕉の寂をよろこばず」と代弁してくれてます。


 伊賀上野城は名高き「藤堂高虎」が自ら縄張りをした天下の名城で「白鳳城」の雅名を持ち、天守は端麗な白亜三層です。
現在の天守は、昭和一〇年に復興したそうです。
地元の川崎 克(かつ)が私財を投じて天守閣復興したそうで、この時鉄筋コンクリートを排して、桃山形式の木造建築を採用したそうです。

 三階の天井は格天井になっていて、1メートル角の大色紙に建築当時の各界の著名人が揮毫しています。


白鳳城に因んで「白鳳飛」と揮毫しているのは宇垣一成。当時は陸軍大臣か(?)
余談ながら、宇垣は広田弘毅の後、組閣の命を受けるが、陸軍が陸軍大臣を出さなかったため組閣が流れた幻の総理大臣です。
桜会のクーデター三月事件で軍事内閣の首班に押されていた宇垣は、クーデター蜂起を中止させたことがあり、宇垣組閣に対して意趣返しを陸軍が行った格好になりました。
 字は人柄を表すと云いますがこの宇垣一成の「白鳳飛」は如何にもそれを証しているような字に思えました。


 「至正」咢堂
宇垣一成とは正反対の凛乎とした気迫が漂う見事な揮毫に思いました。
咢堂・尾崎行雄の書です。

続・言葉遊び「なぞなぞ」?

2011年02月15日 | 雑学
言葉遊び「なぞなぞ」?の続きです。

 看板の「なぞなぞ」

一三里・・・焼芋屋(栗よりうまい=九里四里うまい→一三里)

 焼芋屋の看板を「一三里」と書くのは上記の説明が多いようです。
でも、へそ曲がりの僕としては「本当?」と疑ってみたくなる悪弊が首をもたげました。
そこで、暇にまかせてお金にも実生活にも何の役にもならないことに首を突っ込みました。

 サツマイモ(甘藷)は、元禄時代に入って来たようです。
焼芋屋が現れたのは宝永年間だそうです。まず最初は上方で焼芋を売り歩く商売が出現したそうです。
そして間もなく、焼芋屋の常店が普及して云ったそうです。
そんな焼芋の常店の中で、京都にあった焼芋屋が「八里半」と言う看板を出していたそうです。
当時の焼芋の味はまだ「栗」(九里)には及ばなかったようで、「栗」(九里)に近いという「なぞかけ」で「八里半」と言う看板を出していたそうです。
 江戸には寛政年間に初めて 焼芋屋ができ、この店も「八里半」と書いた行燈を出していましたが、やがて小石川に「十三里」と言う看板を掲げた店が現れました。
栗「九里」より「四里」うまいと言う洒落だたそうです。

 「本当かなァ?」とまたまた・・・・・・。
そうすると、もう1ツの「一三里」説がありました。

 八代将軍徳川吉宗が、サツマイモの栽培を奨励しました。
そして、川越城主の松平大和守が、十代将軍徳川家治(いえはる)に、川越でとれたサツマイモを献上したところ、色の美しさと味の良さから”川越イモ”という名称が起こりました。以後、埼玉県産のサツマイモの代名詞として使われるようになりました。
 江戸日本橋から川越札の辻まで十三里あったそうです。
そこから、川越の芋は「九里よりうまい一三里」となったという説です。

 売声を集めた本の中に焼芋売りは「栗より美味い十三里半」と云ったと書いてあります。
これは「一三里」よりも「旨い」と云うことなのでしょう。

 埼玉は「イモ」が多い、などと云うと「ヒンシュク」ものですが、チョッと垢抜けしないことを「ダサイ」といいますが、これは「だからサイタマ」から来ているそうです。
江戸時代の「サツマイモ」の名産地の名残なのでしょうか?

 今回は「バレ」噺の落ちはなしです。

続きはまたの機会に・・・。

不動産価格の衝撃

2011年02月14日 | 日記
昨日のブログで書きました「郊外住宅の暴落」は衝撃でした。

 実は、昨日紹介しました岬町の住宅団地は僕の身内が開発当初に購入し、バブル期に手放しそれなりの資産形成に役立った所です。ですから、その経緯、内実をよく知っているだけに、昨日の不動産屋のオヤジが提示した「価格」は驚愕でした。

国土交通省のレポートに「国土の長期的展望について」と云うものがあります。

 この手のお国の発表するレポートは余程警戒して読まないとひどい目にあうことがあります。
全国の赤字空港、高速道路利用予測などなど・・・・今までにどれだけ出鱈目なレポートで被害にあったことかを考える必要があります。

 ただ、今回はその様なことを横に置いておき、レポートに書かれた将来の日本の姿を覗いてみました。

 「国土の長期展望に向けた検討の方向性について」には、2050年には日本の国土の6割以上の地点で現在の半分以下に人口が減少し、21.6%は無居住化、つまり人が住んでいない状態になると予測しています。
 日本の総人口は2004年をピークに今後100年間で100年前(明治時代後半)の水準に戻っていく。2050年の人口は9515万人、2005年から約3300万人、25.5%の人口減になるという。
また、所有者不明の不動産が激増するそうです。
(詳しくは、国交省のHPをリンクしましたので)

 また、最近「限界集落」などと云う言葉をよく目にします。

あれやこれやを考えると、大都市以外のところでの「土地の価格」は無いに等しい、と云うよりも「土地を必要とする」人間がいなくなるようですから、「値段」などが発生することもなくなってしまいます。
そうすると、昨日の「驚愕の価格」も日本の近未来を投影した非常にリアルな「価格」であったのだと改めて驚愕した次第です。

難しいことは分かりませんが、政治家やお役人さん、今なすべき大切なことを見誤っていませんか?!


久し振りの「田舎暮し」物件探し。・・・…大阪府最南端の町

2011年02月13日 | ドライブ・旅行
北海道十勝から月に1度大阪に帰ってくる友人とドライブに行きました。
僕の家の近所にマンションを所有しており、母親の様子と家賃集めのために帰ってきます。
十勝では結構な住宅で独り住まいを堪能していますが、ここ3~4年前から「冬の寒さ」が耐えられなくなった、とのことで冬の生活の場を捜しています。
大阪から1~2時間の範囲で「温暖なところ」を条件にあちこちと物件巡りをしています。そして僕がドライバーとしておつき合いをしている訳です。当ブログにもその様子を何度か取り上げました。

 今までは瀬戸内沿岸に目が向いていましたが、日本地図を眺めて大阪府南部から和歌山の方が瀬戸内より南にあることに気付いたようで「南に行ってみませんか」と云うことになり、関空道から旧国道26号線で「みさき公園から深日~多奈川~加太」を見て回り、和歌山市に出て孝子峠から「みさき公園」に戻ってきました。

 この岬町は大阪府の最南端の町で、和泉山脈が海岸まで迫る所です。
この海岸べりに日本で初の自然展示の動物園兼遊園地が開園したのが昭和30年代前半のことでした。僕たちも開園直後のみさき公園に遠足に行った記憶があります。

そして昭和35年から山を切り開いて宅地が造成されだしました。大阪への通勤にも便利で、また和歌山の住友金属へも電車で2~30分と云うことで、この団地は人気の分譲住宅となりました。また、新開地と云うことで1区画も60~100坪とゆとりもあり、大阪の途中の市町村(堺市・高石市・泉大津市・岸和田市・貝塚市・泉佐野市・・)の新興建売住宅より値が高かった様に思います。そして、高度経済成長や不動産バブル、それに指呼の場所に関西国際空港の計画などが発表されると、このあたりの不動産は沸騰しました。最高値は坪当たり130万まで高騰したそうです。

 友人が見晴らしが良さそうなので見て行こう、と言うので「ここは高いぞ」と忠告したのですが、見るだけと云うので住宅地の坂道を登って行きました。40年も経つと街全体がそれなりに落ち着くチョッとしたお屋敷街の体になっていました。
ご時世なのかポツポツと「売り物件」の看板が掛ったところがあります。
友人が「ナンボ位するか参考に聞いてみる」と団地内にある不動産屋に入って行きました。

 「12~3万ですなァ」と探り探りの様子で不動産屋のオヤジが答えました。
40~45万/坪かァ、えらく下がってしまったなァ、と思って話を聞いていると、僕はチョッと信じられなかったのですが「12~3万ですなァ」と云うのは坪当たりなのです。
幾ら不動産が下がったとはいえ痩せても枯れても大阪府下で南海本線の特急が停車する「みさき公園駅」から徒歩7分の住宅が12~3万/坪とは・・・・!!!

 現に不動産屋が案内してくれた物件(写真)は、敷地面積約70坪、軽量鉄骨・硬板造り2階建で総額700万、リホーム代金交渉の余地あり、とのことです。
高台の頂上付近で、関空は目の前に眺望し、大阪湾越しに神戸・六甲、明石大橋、淡路島から紀淡海峡が一望できるのは、北海道の広さに慣れた友人にも「内地の住宅の狭さ」を感じさせなかったようです。

 今回は「成約」の可能性「大」の様な雰囲気でした。

それにしても、日本の不動産価格がここまで暴落しているとは、驚きでした。

大相撲 八百長問題。(つづき)

2011年02月07日 | スポーツ・人物

八百長の語源は、矢張り相撲にかかわっているそうです。
 「明治時代の八百屋の主人「長兵衛」に由来する。長兵衛は通称「八百長」といい、相撲の年寄「伊勢海五太夫」の碁仲間であった。碁の実力は長兵衛が勝っていたが、商売上の打算から、わざと負けたりして勝敗をうまく調整し、伊勢海五太夫のご機嫌をとっていた。やがて、事前に示し合わせて勝負する意味もふくまれるようになり、相撲以外の勝負でも「八百長」という言葉は使われるようになった。」(語源由来辞典より)

 八百長試合で一番有名なのは「力道山VS木村政彦」のプロレスの試合です。
力道山と木村はタッグを組み、1954年2月19日にはシャープ兄弟と対戦することとなる。試合は日本テレビ、NHKによって初めてテレビ中継され、プロレスの人気は不動のものとなった。
 1954年12月22日、蔵前国技館で開催されたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦「昭和の厳流島」と呼ばれる戦いで力道山は木村政彦と雌雄を決する闘いをします。
所が、この試合は筋として東京などの大きな会場では、勝ったり負けたり引き分けになったりしながら、地方へ行って勝敗をジャンケンで決めて、全国を興行する予定ではあったが、初戦で試合中、突然力道山が反故にし、陰惨な試合となり木村は敗退してしまう。木村は晩年、NHK福岡の取材に「最初の試合は引き分けで、次回からは順番で勝敗を決めるという話だった」と証言した。(猪瀬直樹 「力道山とテレビの揺籃期」大下英治 「永遠の力道山―プロレス三国志」その他参考)

 木村政彦に勝利した力道山は、日本のプロレス界を統一し、周知の通り国民的ヒーローになります。
が、プロレスが八百長崩れであることが明らかになったために、全国紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れ、プロレスはスポーツとしてではなくショーとしての扱いになります。
 また、力道山にしてもプロレス興行界自体も「裏社会と一体」で、山口組、安藤組、東声会、関東国粋会・・・・などその社会との関係が耐えず噂になっています。

 しかし、テレビ、映画での力道山は「ヒーロー」であり、慈善団体に莫大な寄付をする善意の人として取り上げられます。
決して「マイナス」の材料を伝えることはありませんでした。
力道山のお陰で東声会は莫大な利益を上げます。同じようにプロレスを独占中継していた「日本テレビ」も大きな恩恵を受けます。正力松太郎は「プロレスの灯を消すな」と遺言したと言われます。

 「胡乱」と云う言葉があります。
 胡乱(ウロン)正体の怪しく疑わしいこと。(胡・ウ、乱・ロン 共に唐宋音)

大相撲や興行界は将に「胡乱」

大相撲 八百長問題。

2011年02月06日 | スポーツ・人物
2011年2月5日 石原知事定例会見(2)


 またぞろ大相撲で八百長問題が噴出しました。
当ブログも何度か大相撲について取り上げましたが、今回のことに関して石原慎太郎東京都知事の記者会見の発言内容は、その辺の事情を適格に表現していると思いました。

 現在の「大相撲」という興行形態を国技に祭上げているところに大きな問題があるのは確かです。

どうでしょうか、大方の人達は大相撲で「星の貸し借り」が行われていることは暗黙のうちに了解しつつ相撲を楽しんでいるのではないでしょうか。
 それを正面切って「八百長の証拠がある」なんて騒ぎ立てられると困ってしまう人達が沢山出てきます。
昭和天皇も今上陛下も大層大相撲を楽しみにされておられるそうです。優勝力士には「天皇賜杯」まで「下賜」されています。
日本職業野球連盟が悲願としている「天皇杯」下賜も思うに任せないのに、大相撲と云う興行には下賜されています。
そこに「聖域」が生まれ、また利権が生じます。NHKBSなどは誰も見ていない序の口・幕下の相撲まで中継しています。
視聴率なんてここでは全く関係ありません。おかしな話です。

 全国高等学校野球大会の中継を注意して見て下さい。
甲子園の外野のフェンスの広告はこの時期だけ「消えている」はずです。
公共放送に「広告」を映さないようにする処置です。大相撲の「懸賞の垂幕」もカメラワークで映しません。
公共放送の「矜持」なのでしょうか?

 NHK杯全日本フィギュアスケート大会(?)と云うものがあります。会場のスケートリンクのフェンスには大会前に綺麗に企業広告が掲げられます。
大手広告代理店が高額の広告料を取っています。そして、この会場からNHKは中継放送をします。
非常におかしな話です。しかし、これは放送業界や広告業界の常識です。誰もこのことを俎上に挙げる様なことはしません。

 仮に今、この事を今回の「八百長事件」の様に騒ぎ立てたとしたら、相撲協会やそれに関わる多くの業界や人達が、当惑気味に「建前」として「事実の徹底究明」とか「膿を出し切って」などと「白々しい」コメントをする事でしょう。

(つづく)



新撰組三番隊隊長・斎藤一・・・・・・「薄野心中」

2011年02月04日 | 歴史
写真は明治5年の創成川付近のものです。 船山馨の「幕末の暗殺者」の内「薄野心中 新撰組最後の人」の時代設定は明治4年のことです。 僕が下手な解説をするより「雑記帳」にそのまま転載しておきました。 興味のある方は一読してみてください。勿論、小説ですから「true history」ではありません。  最近、タブレットタイプのPCが普及しているそうで、そのためかどうかは知りませんがスキャナーの機能も充実してきました。 この「薄野心中」もOCRを利用すれば30分ほどでそっくりそのままPCに取りこんでしまいます。 余談になりますが、祖父母や父母の時代の「写真帳」それに自分自身の古いアルバムなど、こんなものを残しておけば子供たちが処分に困るだろうと、ぼちぼちPCに取りこんで「古いアルバム」を処分しています。 ラグビーの真髄は「ノーサイド」にあるそうです。 試合中は、あれだけ闘志むき出しの死闘を繰り広げていても「ホイッスル」が鳴れば「ノーサイド」、敵味方なく健闘を讃えあう精神が素晴らしいのだそうです。 幕末維新、京都で勤皇だ!佐幕だ!攘夷だ!開国だ!と命のやり取りをした連中も、ご一新ともなると「ノーサイド」。 人斬りと恐れられた薩摩の中村半次郎と同じく新撰組第一等の人斬り斎藤一とが、友情に似た懐かしさを感じたとしても不思議ではありません。  この二人は、再び敵味方に分かれて白刃の下を掻い潜る巡り合わせの人生を送ります。 西南戦争で、中村は西郷軍を指揮し、斎藤は政府軍の「抜刀隊」(警察)に加わります。 斎藤一は、大正四年まで生存しています。 維新から僅か半世紀ほどの時間が経過しただけです。 それでも、日本人は「日清・日露」を経験し、工業を興し、兵を養い世界の列国に与して行きます。 この間の時間の流れの速さは、今までに経験した事のない速度で変化しました。 明治は遠くなりにけり、嘆息した俳人が、今、昭和すら遠くなってしまった平成の御世を果たしてどのような感慨で眺めるのだろうか?

雪景色が見たくなりました。

2011年02月02日 | ドライブ・旅行

急に雪が見たくなりました。

今日から一挙に気温が上がり天気も最高に良く北陸自動車道で長浜まで行きました。

予想していたより雪は少なく、残雪が見られたのは彦根付近からで米原も薄っすらと残雪がある程度でした。

長浜で降りたのは、それより以北(木之本IC)はタイヤチェーンが必要なためです。

僕の予想では長浜もひょっとしてノーマルタイヤでは「やばい!」状態かと思っていましたが、殆ど運転に支障はありませんでした。

ただ、除雪がされていないところは結構積雪がありました。写真は長浜駅構内の様子ですが、連日TVで報道されている北陸山陰の雪の状態を予想していたので拍子抜けでした。

大河ドラマ「江」の舞台とあって「浅井三姉妹」一色の長浜市です。

別段興味もありませんし観光スポットの「黒壁エリア」も目新しいものもなさそうですから「慶長館」の「長浜盆梅展」を覗いてみました。

これが大当たり、見事な盆梅が展示されていました。盆梅はあちこちで何度か見ましたが、この長浜の盆梅は見事というほかありません。

それに梅の芳香が素晴らしかった。梅がこんなにも良い臭いを放つとは知りませんでした。

ここでも「浅井三姉妹」の盆栽が展示されています。右から「茶々・初・江」と名付けられた盆梅です。

慶長館の雪の庭も見物でした。

慶長館の向かいに「長浜鉄道スクエア」(旧長浜駅舎・長浜鉄道文化館・北陸電化記念館)も見学しました。 場違いな「菊池錦子書画展」が開かれていました。菊池錦子と云う人は大河ドラマ「江」の題字を書いた書道家だそうです。 慶長館から10分ほど歩くと「成田美術館」がありました。アールヌーヴォーのガラス工芸作家ラリックの作品だけを展示する「私設」の美術館です。

湖岸道路長浜ドームから伊吹山がくっきりと見えました。

米原から彦根の街をぶらぶらして帰りました。


新撰組三番隊隊長・斎藤一

2011年02月01日 | 歴史

森進一 - 北の蛍

「一刀斎夢録」(上)(下)浅田次郎「文芸春秋」を読みました。「一刀斎夢録」は週刊文春に連載されていたそうです。

新聞広告のキャッチコピーは「新選組最強の剣士・斎藤 一は死に場所を求めるごとく戊辰の戦場を転戦し、ついに警視庁抜刀隊の一員として西南戦争を迎える。そこで待つ、数奇な縁で結ばれた少年隊士との慟哭の運命――。生死の相克が胸をうつ、浅田版新選組の真骨頂!」とあり、久しぶりに小説を買って読みました。

斎藤一が主人公なのに何故「一刀斎」なのか不思議に思っていましたが、小説の中で「斎藤一を逆様にすれば一刀斎」となる、との説明がありました。

読み物・娯楽小説ですから「スラスラ」と面白く読める内容でした。

 新撰組や近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八や斎藤一関連の読物は歴史ブームもあり沢山あります。

昔、「薄野心中」(「幕末の暗殺者」船山 馨「廣済堂出版」)という小説を読んだことがあります。

何時頃だったかと思い書庫を捜して見ると「昭和44年出版」とありました。出版社名と年代から北陸方面の営業を担当していた頃、移動中の車中で読むため「キヨスク」かどこかで買った物の様です。

「幕末の暗殺者」は短編10本が納められた娯楽読み切り小説です。「清川八郎暗殺事件」「姉小路卿暗殺事件」「岡田以蔵暗殺録」「池田屋騒動」「佐久間象山暗殺事件」「孝明毒殺事件天皇」「新撰組の落日」「坂本竜馬暗殺事件」「芳賀宜通謀殺余聞」それに「薄野心中 新撰組最後の人」です。

40年も前に読んだ読切小説をなぜ未だに覚えているか自分でも不思議なくらいです。

ただ、そのご映画で「北の蛍」というのがあり、歌謡曲でも森進一が「北の蛍」を唄っているからかも知れません。

この「北の蛍」の舞台・時代背景それに物語のかなりの部分が「薄野心中」に似ているからかも知れません。

船山馨の「薄野心中 新撰組最後の人」は明日書きます。