金の掛からない遊びに「言葉遊び」と言うものがあります。
「しりとり」「なぞかけ」「回文」「語呂合せ」「山号寺号」「早口言葉」「無理問答」・・・・などなど。
「お釈迦」=作り損なった作品や使い物にならなくなったもの。博打で無一文になること。「お釈迦」は、元々「江戸っ子」でないと理解できない言葉遊びの一種です。鋳物職人の隠語で、微妙な火加減に失敗して鋳損ねた時に「お釈迦になった」などと言ったそうです。江戸っ子は「ひ」と「し」が同じ訛りで区別がつけられません。「火が強かった」=「しがつよかた」→「四月八日」(お釈迦様の誕生日)だそうです。もっとも他に「阿弥陀様」を鋳るつもりが「お釈迦様」を鋳てしまったからとも言われています。また、博打で無一文になるのを「お釈迦」と言うのは「花祭りでお釈迦さんが裸にされ水を掛けられる」ことに由来すると言われています。
PC世代の言葉遊びに「変換ミス」があります。(ネットから拝借)
八日以後お願いします。→要介護お願いします。
これが京都バス→これが今日飛ばす
高級白桃→高級は苦闘・・・・・・・・・・・・・などなど。
当ブログで「折り句」や「なぞなぞ」の「言葉遊び」を扱いました。
また、地名の話で「そこが問題ないなべ市」と題して平成の市町村大合併で誕生した「三重県いなべ市」を紹介した時に①「そこが問題な、いなべ市」②「そこが問題ない、なべ市」と読むことができます。 ①だと「いなべ市」②だと「なべ市」となります。「いなべ市」は在りますが「なべ市」は在りません。
これも一種の「言葉遊び」で古くから庶民が楽しんだ「ぎなた読み」です。つまり、文章の区切りを間違えて読むこと、および、わざと文章の区切りを意図的に変えて読む遊びです。
池田市畑と箕面市新稲は隣接した街です。この地域で「新稲(ニイナ)の火」と言う「判じ物」の言葉があります。地域の民俗資料に記録されているくらいで、この地区でもすっかり使われなくなった言葉です。
新稲村で火事があれば畑村が迷惑する、ことから「新稲の火事」とは「畑迷惑=傍迷惑」の洒落言葉です。
「しりとり」「なぞかけ」「回文」「語呂合せ」「山号寺号」「早口言葉」「無理問答」・・・・などなど。
「お釈迦」=作り損なった作品や使い物にならなくなったもの。博打で無一文になること。「お釈迦」は、元々「江戸っ子」でないと理解できない言葉遊びの一種です。鋳物職人の隠語で、微妙な火加減に失敗して鋳損ねた時に「お釈迦になった」などと言ったそうです。江戸っ子は「ひ」と「し」が同じ訛りで区別がつけられません。「火が強かった」=「しがつよかた」→「四月八日」(お釈迦様の誕生日)だそうです。もっとも他に「阿弥陀様」を鋳るつもりが「お釈迦様」を鋳てしまったからとも言われています。また、博打で無一文になるのを「お釈迦」と言うのは「花祭りでお釈迦さんが裸にされ水を掛けられる」ことに由来すると言われています。
PC世代の言葉遊びに「変換ミス」があります。(ネットから拝借)
八日以後お願いします。→要介護お願いします。
これが京都バス→これが今日飛ばす
高級白桃→高級は苦闘・・・・・・・・・・・・・などなど。
当ブログで「折り句」や「なぞなぞ」の「言葉遊び」を扱いました。
また、地名の話で「そこが問題ないなべ市」と題して平成の市町村大合併で誕生した「三重県いなべ市」を紹介した時に①「そこが問題な、いなべ市」②「そこが問題ない、なべ市」と読むことができます。 ①だと「いなべ市」②だと「なべ市」となります。「いなべ市」は在りますが「なべ市」は在りません。
これも一種の「言葉遊び」で古くから庶民が楽しんだ「ぎなた読み」です。つまり、文章の区切りを間違えて読むこと、および、わざと文章の区切りを意図的に変えて読む遊びです。
池田市畑と箕面市新稲は隣接した街です。この地域で「新稲(ニイナ)の火」と言う「判じ物」の言葉があります。地域の民俗資料に記録されているくらいで、この地区でもすっかり使われなくなった言葉です。
新稲村で火事があれば畑村が迷惑する、ことから「新稲の火事」とは「畑迷惑=傍迷惑」の洒落言葉です。
万博公園、太陽の塔が立体スクリーンに変身。
このイヴェントはイルミナイト万博X’masで、そのメインが太陽の塔にビームペインティングと言う技術で3D画像を投影します。画像もダイナミックですが地面からハラワタにまで響く大音響の迫力もすごいものです。
冬至のこの日、4時半ころに会場に到着したころから「ショボショボ」と雨が降り出しました。5時15分には暗くなり映像の投影がはじまりました。
自然文化園の散策路もイルミネーションで飾られ、テント張りの出店も並んでいました。天候が良ければ結構楽しめる催事です。
ただ、行かれるのなら古女房でない人と行かれることをお勧めします。
このイヴェントはイルミナイト万博X’masで、そのメインが太陽の塔にビームペインティングと言う技術で3D画像を投影します。画像もダイナミックですが地面からハラワタにまで響く大音響の迫力もすごいものです。
冬至のこの日、4時半ころに会場に到着したころから「ショボショボ」と雨が降り出しました。5時15分には暗くなり映像の投影がはじまりました。
自然文化園の散策路もイルミネーションで飾られ、テント張りの出店も並んでいました。天候が良ければ結構楽しめる催事です。
ただ、行かれるのなら古女房でない人と行かれることをお勧めします。
京都の護王神社のジャンボ絵馬も来年の干支「巳」の絵柄に架け替えられています。護王神社のジャンボ絵馬は12月に入ると新しく来年のものに架け替えられ、京都のTV局では師走の風物詩として報道されます。この絵馬の原画を書く先生の話によると「絵馬を背景にした写真」で年賀状を作る人が多いそうで、早めに飾るのだそうです。
大騒ぎの総選挙も落ち着くところに落ち着きそうです。日本国民は穏やかでお人好しと言うかある意味成熟した民意で無難で賢明な選択をするようです。社会学専門の先生と話をしていると、ここ数年の日本の政治・社会情勢は、極端なイデオロギー政党の台頭や民衆暴動が起こってもおかしくない状況だそうです。一部ではヒットラー出現当時のドイツの社会状況に似ている危惧する向きもあったようです。何故、日本ではこのように穏やかなのかをいろいろと解説してくれましたが「なるほどなァ」と思うことが多々ありました。
週刊誌の記事で嘉田知事の「日本未来の党」に参加した小沢一郎や亀井静香、山田某・・・などの有象無象の政治家を「マネーロンダリングならぬ政治家ロンダリング」と書いてありました。さすがにプロの文筆家は「言いえて妙」適格な表現をなさる。
当ブログが極端に小沢一郎を嫌うのは不愉快、とのご指摘があるようです。生理的に小沢が嫌いなこともありますが、小沢一郎が自民党を離党してからの20年弱の間、日本は「失われた20年」と言う不幸な時代が続いています。本来なら政治が結束して国内外の困難な問題に取り組み、問題解決のため種々の政策を遂行すべき時だったはずです。小沢の一番の罪悪は、この時期に政策ではなく政局に終始して、政治をヒッ掻き回して政策遂行の邪魔をして、結果、適時・適応した施策が行うことができず、ズルズルと日本全体を衰退させたことです。
具体的な例を紹介します。
2007年7月の参議院選挙で小沢一郎が代表を務める民主党が大勝利をしました。この時の民主党のマニフェストに農家に対して「戸別所得補償」と掲げて農村票の獲得に成功しました。この「戸別」と言う用語自体小沢流だと言われています。一般には「個別」と表記します。それが何故「戸別」となったのかと言うと、小沢一郎の選挙の原点は「候補者が1戸1戸、戸別訪問するのが選挙の要諦」と日頃からどぶ板選挙を標榜している事によります。この戸別所得補償は、従来の価格支持による支援とは異なり国から農家に直接現金が支払われるという財政支出で支援する重大な政策転換です。即ち、価格支持は消費者負担タイプの政策ですが、所得補償は財政、納税者負担タイプの政策です。
財政支出を伴うために財源を「土地改良事業費」を半減すると言うウルトラCの奇策を考え出します。
そして民主党が大勝して政権交代をする総選挙が2009年8月に行われました。 政権を取った民主党の農業政策は稚拙で場当たり的、まさに選挙対策ツールだけの臆面もないものでした。当時の新聞記事(2009年11月19日・日本経済新聞朝刊)に戸別保障制度の予算を圧縮したい財務省の姿勢に、当時の赤松農水大臣が小沢幹事長に直訴「これでは選挙が戦えない」。それに対して小沢は「そうだ。しっかりやってくれ」と応えた、とあります。1国の食料と農業の最高責任者の発言が「選挙は戦えない」は笑い事では済まされない不見識もいいところです。
民主党の考えた別所得保障制度のポイントは2ツ。1ツは補償金を従来のルート「JA(農協)」を経由せずに農家に直接支払う。もう1ツは、財源確保のための「土地改良費の半減」です。どう言うことかと云うと「JA・土地改良団体」は強固な自民党の支持団体だからです。
これが剛腕と言われる小沢流の選挙対策です。そこに「日本の農業の未来像」などを慮る政治的理想のかけらもに受けられません。
結果、実施された戸別所得保障は「砂漠に水を撒くような虚しい、無駄なもので」国民の財産が消えてしまい、日本の農業に何の効用ももたれされませんでした。
我々一般庶民はそれほど深く政策を研究するわけではありません。マスコミから流れる政治家の言葉や報道から判断するしかありません。その情報が小沢のパワーゲームの動向ばかりであれば、一般庶民はもう政治に飽き飽きして無関心、政治離れが起きても仕方ありません。
其処をついて小沢のような政治ゴロが暗躍する隙が生まれるのです。本来なら政策決定の過程が透明化され、その議論が国民の前にオープンにされるべきことが、パワーゲームの成り行きばかりに関心がゆき政策が等閑視されることが一番の悪弊なのです。その政治手法の典型が小沢一郎なのです。
大騒ぎの総選挙も落ち着くところに落ち着きそうです。日本国民は穏やかでお人好しと言うかある意味成熟した民意で無難で賢明な選択をするようです。社会学専門の先生と話をしていると、ここ数年の日本の政治・社会情勢は、極端なイデオロギー政党の台頭や民衆暴動が起こってもおかしくない状況だそうです。一部ではヒットラー出現当時のドイツの社会状況に似ている危惧する向きもあったようです。何故、日本ではこのように穏やかなのかをいろいろと解説してくれましたが「なるほどなァ」と思うことが多々ありました。
週刊誌の記事で嘉田知事の「日本未来の党」に参加した小沢一郎や亀井静香、山田某・・・などの有象無象の政治家を「マネーロンダリングならぬ政治家ロンダリング」と書いてありました。さすがにプロの文筆家は「言いえて妙」適格な表現をなさる。
当ブログが極端に小沢一郎を嫌うのは不愉快、とのご指摘があるようです。生理的に小沢が嫌いなこともありますが、小沢一郎が自民党を離党してからの20年弱の間、日本は「失われた20年」と言う不幸な時代が続いています。本来なら政治が結束して国内外の困難な問題に取り組み、問題解決のため種々の政策を遂行すべき時だったはずです。小沢の一番の罪悪は、この時期に政策ではなく政局に終始して、政治をヒッ掻き回して政策遂行の邪魔をして、結果、適時・適応した施策が行うことができず、ズルズルと日本全体を衰退させたことです。
具体的な例を紹介します。
2007年7月の参議院選挙で小沢一郎が代表を務める民主党が大勝利をしました。この時の民主党のマニフェストに農家に対して「戸別所得補償」と掲げて農村票の獲得に成功しました。この「戸別」と言う用語自体小沢流だと言われています。一般には「個別」と表記します。それが何故「戸別」となったのかと言うと、小沢一郎の選挙の原点は「候補者が1戸1戸、戸別訪問するのが選挙の要諦」と日頃からどぶ板選挙を標榜している事によります。この戸別所得補償は、従来の価格支持による支援とは異なり国から農家に直接現金が支払われるという財政支出で支援する重大な政策転換です。即ち、価格支持は消費者負担タイプの政策ですが、所得補償は財政、納税者負担タイプの政策です。
財政支出を伴うために財源を「土地改良事業費」を半減すると言うウルトラCの奇策を考え出します。
そして民主党が大勝して政権交代をする総選挙が2009年8月に行われました。 政権を取った民主党の農業政策は稚拙で場当たり的、まさに選挙対策ツールだけの臆面もないものでした。当時の新聞記事(2009年11月19日・日本経済新聞朝刊)に戸別保障制度の予算を圧縮したい財務省の姿勢に、当時の赤松農水大臣が小沢幹事長に直訴「これでは選挙が戦えない」。それに対して小沢は「そうだ。しっかりやってくれ」と応えた、とあります。1国の食料と農業の最高責任者の発言が「選挙は戦えない」は笑い事では済まされない不見識もいいところです。
民主党の考えた別所得保障制度のポイントは2ツ。1ツは補償金を従来のルート「JA(農協)」を経由せずに農家に直接支払う。もう1ツは、財源確保のための「土地改良費の半減」です。どう言うことかと云うと「JA・土地改良団体」は強固な自民党の支持団体だからです。
これが剛腕と言われる小沢流の選挙対策です。そこに「日本の農業の未来像」などを慮る政治的理想のかけらもに受けられません。
結果、実施された戸別所得保障は「砂漠に水を撒くような虚しい、無駄なもので」国民の財産が消えてしまい、日本の農業に何の効用ももたれされませんでした。
我々一般庶民はそれほど深く政策を研究するわけではありません。マスコミから流れる政治家の言葉や報道から判断するしかありません。その情報が小沢のパワーゲームの動向ばかりであれば、一般庶民はもう政治に飽き飽きして無関心、政治離れが起きても仕方ありません。
其処をついて小沢のような政治ゴロが暗躍する隙が生まれるのです。本来なら政策決定の過程が透明化され、その議論が国民の前にオープンにされるべきことが、パワーゲームの成り行きばかりに関心がゆき政策が等閑視されることが一番の悪弊なのです。その政治手法の典型が小沢一郎なのです。
「光のおくりもの」をテーマに光の写真家 光明の写真展を開きます。12月12日(水)~12月18日(火) 11:00~19:00です。
作家の詳しい情報はhttp://www.office-sora.jp/をご覧下さい。
アートギャラリーヒルズワンの情報はヒルズワンのHPをご覧下さい。
師走の忙しい時期ですがよろしかったら足をお運びください。
乾君と中村君が尾園君に逢いに行くとのことで例によって運転手役を務めました。
中村君は府大農学部で一緒であったことで、卒業後もしばらく交流があったようで、最近は接触はないにしても共通の知人・友人があるようでお互いの様子はそれなりに伝わっているようでした。しかし、やはり直接会うとまた格別のようでした。
「お笑いを一席」と落語家の師匠ではありません。中村重雄君の粋な和服姿と自宅のペンキ塗りの作業を中断して喫茶店に案内してくれた尾園茂君。
乾君は直接会うことはなかったようですが、電話でチョクチョク情報交換をしていたようです。出来るだけ多くの仲間が行事に参加するようにと気配りを絶やさない乾君の努力でまた1人級友が戻ってきました。
中村君は府大農学部で一緒であったことで、卒業後もしばらく交流があったようで、最近は接触はないにしても共通の知人・友人があるようでお互いの様子はそれなりに伝わっているようでした。しかし、やはり直接会うとまた格別のようでした。
「お笑いを一席」と落語家の師匠ではありません。中村重雄君の粋な和服姿と自宅のペンキ塗りの作業を中断して喫茶店に案内してくれた尾園茂君。
乾君は直接会うことはなかったようですが、電話でチョクチョク情報交換をしていたようです。出来るだけ多くの仲間が行事に参加するようにと気配りを絶やさない乾君の努力でまた1人級友が戻ってきました。