馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

ここはお国を何百里・・「戦友」作詞者・真下飛泉

2020年03月27日 | 歴史


新型コロナウィルス騒動の最中、福知山に行きました。(3月25日)
当ブログは2009年12月に《お爺ンたちの忘年会Part2 「戦友」の唄
》と題する記事を掲載しました。その後、記事の30%を整理削除した時にこの一文も削除しました。今回、久しぶりに大江町に行ったのを機会に復活します。
尚、現在大江町は福知山市に合併されています。


京都府加佐郡大江町宮川河畔に「ここは御国を何百里離れて遠き満州の・・」で知られる「戦友」の歌碑があります。
「戦友」は、大江町川河守新町出身の真下飛泉が作詞をしました。
真下飛泉の経歴を、町教育委員会冊子などから抜粋します。
明治十一年十月十日、男子四人兄弟の次男として生まれました。
本名は瀧吉、文筆名を飛泉・瀧郎などと称しました。
小学校卒業後、隣家「丹要」に丁稚奉公をするも、学才を惜しむ恩師の勧めで京都師範に進み、卒業後、京都市内の小学校で三十年近くの教員生活を送ります。教壇を去った後、市会議員となり、大正十五年十月二十五日宿痾(心臓病・喘息の持病?)のため府立病院にて死去。享年四十九歳。


真下(ましも)飛泉(ひせん)資料室と北タンゴ鉄道宮福線大江駅近辺
真下(ましも)飛泉(ひせん)の資料室を、北近畿タンゴ鉄道・大江駅が入る町地域振興会館二階(町総合会館隣)に移した。資料は町が収集したものもあるが、大半は親族から寄贈を受けた。現在書簡など六九七点を所有し、その中の約六〇点を展示しているという。(両丹日々より)この記事を見て資料室を訪ねました。商工会の会議室の様な所で、常設ではなく事前に連絡が必要だそうです。
隣接した図書館で郷土資料から飛泉関係を閲覧していると、親切な司書さんが役場に電話をしてくれて、特別に資料室を開けてくれました。
この日は、兎に角暑い日で大江駅の二階にある資料室は冷房が切られていたので、一〇分も我慢できない状態で、親切はありがたいのですが、早々に退散しました。
真下飛泉と云えば「戦友」のイメージですが「戦友」と相前後して「出征」「露営」「凱旋」・・・等々の詩集を世に問うています。若くして文芸に傾倒して、教員に奉職してからは、与謝野鉄幹に師事したので「明星派」の影響を強く受けたようです。資料室で自筆の自詠の軸が何本かありましたので書き写してきました。



行きながら 見ながら人は ほゝゑみぬ 歌にさまよふ 宮川つゝみ
 
山多き丹波の国の 朝霧は 物を思いて行くによきかな 

病院の明けぬ暮れぬとけふ五日 咎められつゝ歌書きにけり

この一帯は、平成十六年の台風二三号の集中豪雨で大変な被害に遭いました。観光バスが水没してバスの屋根の上で一晩救助を待ったのもこの時です。
真下資料室のある大江駅周辺には、町の主要な施設が集中していますが、どの施設も水没の被害に遭いました。

 


発禁になった「戦友」
戦友は、哀調のあるメロディーと歌詞が厭戦的で「歌う」のを禁止された事があります。
日露戦争を歌った詩に与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」がありますがこれも厭戦的として軍部の反感を買いました。両者とも意識したとは考えにくいのですが、明星派の作風なのか・・。
兎に角国民歌謡として絶大な人気がある「戦友」は、軍部としては何としても排除したくてなりません。難癖を付けたい軍部は、4番の歌詞「軍律厳しき中なれど是を見捨てて置かりょうか・・」を俎上に上げ「軍律を破るとは何事だ」と発禁にしました。
飛泉は「戦友」の序で「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ」の御勅語の御趣意を以ってかいてみた、と述べ彼自身が健康であれば、戦場に臨みたかった思いを詩にしたと思います。
最近、我々より若い世代に「教育勅語」などに賛意を示す人が増えてきたように思えます。この様な手合が「美しい国」なんどと言い出すものです。
発育不全の石原慎太郎が増殖しないことを願うのみです。

④ 軍律厳しき中なれど 是が見捨て置かりょうか「確りせよ」と抱き起こし 仮包帯も
弾丸のなか

もう一つの歌碑
「ここは御国を何百里」の歌碑がもう一つあります。
真下飛泉の墓所がある京都市東区の知恩院の塔頭「良正院」前です。
大江町の歌碑は昭和四一年建立ですが、良正院の歌碑は、飛泉の死後二年目、昭和二年に建てられたそうです。

由良川右岸に「戦友」の歌詞の大きな看板がありました。
。(2009年8月)
 
度重なる水害で河川改修が行われた。現在の現場です。(2,020年3月)

 

現在「戦友」の歌詞の大看板は大江駅に隣接した一角にあります。(2020年3月25日)






「幸せの黄色いハンカチ」原作者ピート・ハミル

2020年03月12日 | 映画
新型コロナウィルス騒動で気の滅入る日々が続きます。そんな中で昨晩(3月11日)BSテレビ東京で映画「幸せの黄色いハンカチ」を放映していました。前々から気になっていたのですが、原作ピート・ハミルと言うテロップが今回はやたらと気になりました。ピート・ハミルがどういう人物なのかは全く知りません。ですから「幸せの黄色いハンカチ」の原作と言っても、山田洋次監督がその原作をどのように脚色したのかも全く分かりません。例えば戯曲シラノ・ド・ベルジュラックを新国劇が上演するに際して「白野弁十郎」とし、舞台を幕末の京都に移し日本風に改竄しながらストーリーそのものは原作に忠実に作り上げたものなのか、或いは原作のモチーフだけを残して全く創作に近い脚色をしたものなのか興味のある所です。

 早速ネットでピート・ハミルを検索してみました。このピート・ハミルを恥ずかしながら僕だけが知らないようで、結構有名な作家のようです。しかし、一番知りたい「幸せの黄色いハンカチ」の原作そのものの情報が見つかりません。次々とネットサーフィンでやっと原作に辿り着きました。それは「Going Home」と言うタイトルだそうです。大阪弁以外日本語も心もとないので、況して英語などとんと分かりませんので、身近に多少英語の分かる人間がいますので「チョッと、これ訳して」とお願いしました。彼女の返答は「アメリカ版幸せの黄色いハンカチ」とのことです。それは分かっているんですがねェ・・・・。
 思ったよりも遥かに短編で、「梗概(あらすじ)か?」と彼女に聞くと、「これが原作と思う」とのことです。彼女は「これリーダーダイジェストで読んだことがある」と言います。その後で分かったことですが、山田洋次監督もリーダーダイジェストでこの一文を読み映画「幸せの黄色いハンカチ」を思いついたそうです。
日本で「幸せの黄色いハンカチ」が大ヒットしたので本場アメリカでも「The Yellow Handkerchief」としてリメークされたようです。また昨年、阿部寛で「幸福の黄色いハンカチ」と言うタイトルでリメークされたようですが、やはり山田洋次監督作品と比較すべくもありません。
河出文庫「ニューヨーク・スケッチブック」が正月早々に届きました。改訂版最終章に「幸せの黄色いハンカチ」として収録されていました。

 「黄色いリボン」と言えばまず思い浮かぶ子供の頃の思い出があります。

子供の頃、まだ戦後の混乱や貧しさが身の回りに沢山残っていた頃、ラジオから「バッテンボー・・・・バッテンボー・・・」と軽快なアメリカの歌が流れていたの思い出します。「ボタンとリボン」という歌です。訳も分からずに「バッテンボー、・・バッテンボー・・」と真似ていたものです。その頃、同じようにラジオから流れていたアメリカの軽音楽があります。西部劇「黄色いリボン」の主題歌です。
 アメリカには伝統的に「黄色いリボン」を身に着けたり飾ったりする風習があるので、ジョン・ウェイン扮する騎兵隊員も首に黄色いスカーフを巻いているのだと思っていました。しかし、ネットで調べてみると騎兵隊が黄色いスカーフを巻いているのはそういう風習からではないのだそうです。ネットでは「南北戦争時代(1861~1865年)には、兵士らのユニフォームの色づけの規則として、Infantry(歩兵)は青、Cavalry(騎馬兵)はYELLOW、そして砲兵(Artillery)はREDという決まりがあったようで、 このうちの「Cavalry(騎馬兵)=YELLOW」という配色の仕方が、後の「黄色いリボン」につながったのではないかと考えられるかと思います」だそうです。
 アメリカ合衆国で黄色いハンカチ或いはリボンが「何か願いを叶える」シンボルとして用いられた歴史は新しいという説があります。同じくネットでは「ウォーターゲート事件において選挙運動本部長であったジェブ・スチュアート・マグルーダーが逮捕・投獄され、彼の妻がポーチに黄色いリボンを巻きつけて監獄からの夫の帰りを待つ姿がアメリカのイブニングニュースで報道される。(1975年)」だそうです。1977年、山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」が劇場公開される。ピート・ハミルの原作が発表されたのは1971年のことです。そして、一躍「黄色いハンカチ」が全米に広がったのは1979年に発生したテヘラン米大使館占拠・人質事件で、人質の無事帰還を願って全米で「黄色いハンカチやリボン」が飾り付けられました。
 どうやら、1970年代頃からの風習のような記事が多いようです。しかし、ピート・ハミルの「Going Home」以前にも似たような物語や言い伝えは在ったようですが、当ブログの感心もそれ以上のものではありませんので深追いをするのは止めておきます。

 僕の身近にいる多少アメリカ文化に興味のある御仁が仰るには「ジョン・ウェインの黄色いリボン」は「SHE WORE A YELLOW RIBBON」でピート・ハミルやイラン大使館人質事件の際の表現は「Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree」と「WEAR(WORE)」から「TIE」へと変化しているのだそうです。・・・・・????

新型コロナウイルスが不安を拡大しています。

2020年03月03日 | 自然
久しぶりにブログを更新します。当ブログも年齢の所為か以前のようにグダグダと駄文を書く気力がなくなりました。
「銃・病原菌・鉄」という本がベストセラーになったことがありました。当ブログも2015年10月に取り上げました。今回は今一番の心配ごと新コロナウイルスを人類史の観点からどのように考えればいいのか読み直してみました。参考になれば・・。