馬糞風リターンズ

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三田・花山院、立杭・丹波焼の郷へ行きました。

2011年07月31日 | ドライブ・旅行
関西帯広会暑気払いで三田・花山院、立杭大熊窯に行きました。
西国霊場大本山花山院は花山法皇の菩提所で西国四十九薬師霊場第二十一番札所だそうです。
 この境内からの眺望は絶景で、遠くは小豆島まで見張らせるそうです。今日は小豆島は見えませんでしたが、姫路の街並みまでは見渡せました。

 

窯元の大熊窯には日本最大の登り窯があります。現在は45mだそうですが元々は80m以上の大きな登り窯だったそうです。
1kgの土でそれぞれ思い思いの作品作りに挑戦しました。

果たして1か月後にどの様なモノに焼きあがって帰ってくるか楽しみです。
丹波焼の郷で昼食を採り、立杭にある全窯元の作品が販売されている「窯元横丁」で買物をしたり、広い園内を散策したりしました。

 今回お世話になった会員の自宅で、収穫されたばかりの新鮮な野菜をお土産に頂きました。
お城の様な豪邸は、矢張り日本建築は良いなァと思わせる「ホット」する安心感があります。

この方が、移動のバスの中で「三田」の歴史や地名の由来なども紹介して頂きました。

この関西帯広会は、前にも書いたかもしれませんが兎に角「楽しい」「気の張らない」集まりです。
多くの同好会などが、年々衰退するのが通例ですが、この関西帯広会だけは、会合がある度に参加者が増える不思議な魅力があります。

 そんな楽しい人々と「熱中症」になりかけらがらも楽しく過ごした1日でした。






「第12回祈りの彫刻展」を観に行きました。

2011年07月30日 | 日記
第12回祈りの彫刻展(仏像彫刻教室仏刻会合同展)が30日(土)~8月1日(月)大阪市中央公会堂3Fで開かれています。

太田博さん作「聖観音像」の立像と仏頭





十二神将が囲んで守られている真ん中は「薬師如来」でしょうか?

 原木から刻み出す訳ですから、余程の「3Dイメージ」がないと完成形が描けません。
3月14日、阪神百貨店で木彫体験教室に参加して小さな仏像彫刻を体験しました。

この時は、8割ほど完成した「お地蔵さん」を仕上げるだけでしたが、それでも僕は全くできませんでした。
他の人達は、それぞれ個性あるそれなりの「お地蔵さん」に仕上げていました。

 僕の様なイマジネーションの乏しい人間にしてみると、どうしてこんな精巧な彫り物が出来るのかただただ驚嘆するばかりです。



和歌山県紀ノ川市桃山町へ行ってきました。

2011年07月25日 | ドライブ・旅行
紀ノ川沿岸の5町が平成の大合併で紀ノ川市になりました。
以前は那賀郡桃山町で町名通り「桃」の産地です。
現在、名産の桃の最盛期で、国道沿いには直売所が設けられて大賑わいです。

ここの「桃」は「白鳳」と云う品種です。

何となく親しみを感じて知人に送り、また自家用に購入しました。

 ここ桃山町には有吉佐和子の「紀ノ川」が映画化された時の撮影場所があります。


現在は桃源の郷「宮折」として整備されて公開されています。

この屋敷は明治時代の大地主庄屋「津田家」のものです。
現在の当主は東京に在住しているそうで、長い間「空家」のまま放置されていました。
久し振りに来てみると綺麗に整備されて一般公開されて、町の観光資源になっていました。

有吉佐和子原作の映画「紀の川」のロケ地となりました。 津田家は「宮折」という屋号を持つ紀州の大地主庄屋の面影を残しています。約6000㎡の敷地に木造2階建ての屋敷と4つの蔵、長屋門さらに美しい庭園が四季折々の風情を楽しませてくれます。


天神橋商店街ぶらぶら。

2011年07月22日 | 日記
頼まれモノの「画材」を買うために天神橋商店街に行きました。
この日曜日から天神祭が始るので商店街も何となく祭り準備で「ウキウキ」気分です。
馴染の画材屋で品選びを終えてから、日本一長い商店街「天神橋商店街」の4丁目から6丁目までを「ブラブラ」しました。

 この商店街はマスコミ風に言うと「昭和レトロ」が残る、となるのでしょう、どの店にも店主や店員がいてお隣、お向かいのお店同士で「世間話」が飛び交っています。
街全体が「平仮名」で、あちこちにできる「ショッピングモール」のような「カタカナ」はありません。
どの店にも「何かおもろいもんあるか?」と気軽に入れます。
またありがたいのは喫茶店や食い物屋が沢山あることです。

 大好物の「けつねうろん」(きつねうどん)を食べ、満足した所でタバコのヤニが染みた喫茶店で「冷コー」(アイスコーヒー)を啜りながらのタバコのうまいこと。

大阪くらしの今昔館」に入りました。

この博物館は時折面白い企画展をするので結構有名です。
今は「鉄道模型展」を開いているようですが興味が無いのでパスしました。
常設展示は江戸時代の街角を復元している8Fと明治・大正・昭和初期の大阪を紹介している7Fがあります。

7Fの床がガラス張りになっていて、そこに大正12年発行の大阪市街地図が拡大印刷されていました。
写真を撮ったのですが「ピンボケ」で失敗しました。
その大きな地図の「西南」の端が丁度今の浪速区木津あたりで「今宮中学」がハッキリと書かれていました。



酷暑の浜松に行ってきました。

2011年07月18日 | ドライブ・旅行
浜松に行ってきました。
浜松城は言うまでも無く徳川家康が築きました。

元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、浜松城を築城しました。浜松城のある三方ヶ原の丘は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる要害の地です。
 家康はこの浜松城に29歳~45歳までの17年間を過ごしました。この17年の間に姉川、長篠、小牧・長久手の戦、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。
浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言える一方で天下盗りの起点となったことから、浜松城は「出世城」とも言われています。

 家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家と所縁の濃い譜代大名が入城しています。
明治維新後、城郭は壊されましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建されました。

 浜松市では、家康にまつわる市内の歴史旧跡を結んだ「家康の散歩道」というものがあります。
市内に残る家康ゆかりの場所13ヶ所を巡る歴史散策コースです。
その「家康の散歩道」の1つに「大刀洗の池」と云う所があります。


浜松医療センターバス停前に、太刀洗の池の史跡碑があります。太刀洗の池は、家康の家臣が築山御前を殺害したあと、血のついた太刀をここにあった池で洗ったと伝えられています。
 現在は土地開発により史跡碑が建っているだけですが、当時はこの南10メートル位の場所に藪に覆われた池があったそうです。

家康は、織田信長の命とはいえ正室の築山御前を殺害し、築山御前との間にもうけた嫡男信康を二俣城に幽閉、自害に追い込んでいます。

「大刀洗の池」の史跡碑の背後に映っている建物は「県西部浜松医療センター」で、その5階に新生児室があります。
今日も新生児が誕生したそうです。
この新生児たちは5階からこの「大刀洗の池」をどんな思いで眺めることでしょう。

「この世に苦労が あるとも知らず 十月十日で 呱々の声」


粋な「ダジャレ」

2011年07月17日 | 日記
近くの和食専門のファミリーレストランには写真の様な色紙額が飾られています。

絵手紙風の野菜の絵とダジャレが1つの作品になっているので「ダジャレ」だけを紹介しても面白味が無いのですが、写真は額にガラスが入っていて反射して失敗しました。

   「こまめ ふでまめ えだまめ」

   「むらおこし とうもろこし」

   「あたらずも とうがらし」

   「おいも 若きも さつま芋」

   「わが家の だいこん柱 おとうさん」

   「寝耳に水なす」

   「焼け石にみずな」

   「身の丈 まいたけ 首ったけ」

 既製品では無いようで全て手書きです。
余程、書き慣れた人の作品のようです。
店長によると、お客さんからの問い合わせも多いそうです。でも店長は何も聞いていないそうです。

 僕も「サラサラ」と気軽にこの様な洒脱なものが書けるようになりたいものです。




彦根に行ってきました。(続)

2011年07月11日 | ドライブ・旅行
 彦根に行ったのには彦根城に地震と関係するものが残っている、と日本城郭研究会の知人が勧めたからです。
写真は「天秤櫓」に懸かる橋です。
この天秤櫓の石垣をよくよく見てみると、左右(東西)で石垣が違うのが分かります。



天秤櫓を橋の方から見て右(東)側の石垣は「牛蒡積み」と呼ばれる石組です。
個の石組は彦根城築城当時そのままの石垣です。



一方、左(西)側の石垣は、明らかに違っています。
詳しく調べていませんが「亀甲積」に近いもので、牛蒡積みのように隙間に「小さな石」を沢山詰め込むと云うような事が無く、石材を成形して隙間をなくして積み上げています。

これは、嘉永7年(1854)6月15日未明、近畿地方を中心に大地震が発生、彦根城の石垣が崩壊したため修理したからだそうです。
この時期は歴史に残る震災が立て続けに起きた時でもあります。
彦根城の石垣が崩壊した「伊賀上野地震」はM7.4、その前後して安政元年11月4日にM8・4の安政東海地震、安政元年11月5日にM8・4の安政南海地震が発生し、安政2年10月2日のM6・9の安政江戸地震(通称、安政の大地震。震源は一説に現東京湾北部・荒川河口付近)と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。さらに、安政元年11月7日には震源を豊予海峡とするM7・4の「豊予大地震」も起きていた。安政2年2月1日にM6・8の飛騨地震、安政5年2月26日にM6・7の飛越地震が発生しています。
 時の将軍は家定はであり“地震公方”といわれました。家定は病弱な将軍とされていますが、これらの一連の震災に対しての対応は迅速であったと言われています。また、幕閣も今とは比べ物にならない情報不足の中、上下心を一つにして被災民の救済に当ったと言われています。

 彦根城内には「地震の間」があります。
「地震の間」は御所や江戸城のほか大名屋敷などに造られたもので、地震の際の一時避難所の様なものだったようです。
皇居では大正時代まであったそうです。

「地震の間」については機会があればまた書く機会があるかもしれません。





彦根に行ってきました。

2011年07月09日 | ドライブ・旅行
「彦根」と云う地名もよく分からない地名です。
この土地は嘗ては「犬上郡」に属していました。その始祖「犬上県主の祖」が「天津彦根命」です。そこから「彦根」となったと言われています。何時頃の話なのか、詳しいことは何も分かっていません。

 彦根と言えば「井伊掃部頭直弼」です。掃部頭とは律令の宮内省に属する令外官で「頭」は従五位下に相当します。
また、衰退した徳川幕府の大老として朝廷の裁可無く「日米条約」を締結し「開国」を決断した人物です。
将軍継嗣でも「原則論」を貫き、攘夷派に対しては徹底した「血の粛清」も行いました。
これらの恨みを一身に被り万延元年3月3日、桜田門外杵築藩邸門前で水戸浪士などに暗殺されます。
 この様なことから井伊大老ほど「毀誉褒貶」の激しい人物も珍しいのではないかと思います。

舟橋聖一「花の生涯」がNHK大河ドラマの第1回の作品です。
直弼は尾上松緑、村山たかを淡島千景、長野主膳を佐田啓二が演じました。昭和38年のことです。
印象に残っているのは直弼のライバル水戸斉昭に嵐寛寿郎が扮していたことです。

 彦根藩主の十四男として生まれた直弼は、藩から三百俵の宛行扶持(あてがいふち)で一生を送る運命にありました。
そこで住居を「埋木舎=うもれぎのや」と名付けます。現在も「埋木舎」は残っていて観光名所になっています。
ただ、直弼の偉い所は「埋木舎」で埋れ木として朽ちることなく文武に励んだことです。

世の中をよそに見つつもうもれ木の埋もれてをらむ心なき身は

「埋木舎」時代、直弼は文武の道に研鑽を重ね自らを高めています。
主に「禅」「居合」「茶道」に出精し、どれをも極めて一派を立てるほどであったと言われています。
特に茶の湯は名人の域に達していたとも言われ

そよと吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳


 一四男が巡り合わせて「彦根三五万石」の藩主となり、また混迷を極める幕府の大老にまで上り詰めて行く生涯は舟橋がいみじくも「花の生涯」と言わしめるに相応しいものです。
そして、生涯を共にした長野主膳と村山たかの一生も将に散りゆく「桜=はな」の生涯でした。

長野主膳の辞世

飛鳥川 昨日の淵は今日の瀬と かわる憂世を わが身にぞ知る




本当のラスト侍・中島三郎助

2011年07月08日 | 歴史
新聞のTV番組欄に「歴史秘話ヒストリア幕末にこんなカッコいい男がいた!ラスト侍・中島三郎助の激動人生五稜郭」と何とも長いタイトルの番組がありました。
僕は残念ながらこの番組を見逃したので、どの様な内容か分かりません。ですから番組と重複しているかもしれませんし、全く批評が違っているかも知れません。

 中島三郎助は、新撰組土方歳三や勝海舟、榎本武揚などに比べて一般に認知度が低い人物です。しかし、彼の活躍はそれらの時代のヒーローと同一、またはそれ以上の人物です。
ただ後年、彼を主人公にした小説や演劇などが無いためにやがて忘れられた存在になってしまったのではないかと思います。

 維新の頃は地元でも全く無名であった坂本竜馬が、地元の新聞紙で「汗血千里駒」と云う小説を坂崎紫瀾が掲載したことからその存在が知られだし、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でナショナルヒーローとなりました。

中島三郎助のライバル勝海舟は、子母沢寛の「親子鷹」で人気を博しました。
清水の次郎長は天田五郎の小説が演劇・浪曲に脚色され「やくざ」が「任侠の徒」として偉人伝の仲間入りをしています。
また全く無名の人物を小説家が掘り起こし有名人にした例も沢山あります。例えば河合継之助などはその代表かもしれません。

 そんな意味で中島三郎助を主人公にした読物は殆んどありません。
僕の蔵書に「浦賀与力 中島三郎助伝」と云うのがあります。著者の木村紀八郎と云う人は防衛大学から陸上自衛隊勤務の後著述に専念しているようです。
ただこの「浦賀与力 中島三郎助伝」は一応小説のジャンルに入っているようですが巻末には学術論文よろしく参考文献・引用文献が11頁に亘り掲載されれいるのです。
 これではヒーローとして中島を描くことはできません。所詮小説ですから「絵空事」であり虚構が無ければ読み手としては魅力に欠けます。丁度絵描きが「デッサン」を巧く書きあげた様なもので、作品で無いのと同じです。絵のことはよく知りませんのでピント外れなことを言っているかもしれませんので誤解があればご容赦を。
デッサンとは「素描」と書くように小説の「ネタ」のようなもので、素材を幾ら正確に並べ立てても小説にはなりません。
「浦賀与力 中島三郎助伝」は非常に丁寧に善く書けた「デッサン=素描」で、とても司馬遼太郎の「竜馬がゆく」には及ばないようです。

 横道に逸れましたが、土方にしても竜馬にしても高杉にしても歴史ファンのヒーローですが、その名前が地名に成ってまで地元の人達から慕われた人物はいません。所が「中島三郎助」は地名になって今も慕われています。
函館市中島町がそこです。ここは中島三郎助が戦死した所です。そして中島町では今でも「中島三郎助祭り」と云うものが毎年行われています。
 陸軍と海軍の違いはあっても箱館・榎本軍での中島と土方は全く同等であり滞在期間も同じです。それでも地元の人達は中島の死を悼みその名を永く地名に残し、百数十年後までも「中島祭」でその遺徳を偲んでいます。中島三郎助が如何に立派な人物であったかが伺い知れます。

 赤報隊の相楽総三の様に殆ど記録が残っていなくて実像が分からない人物とは違い中島三郎助は、記録も伝承も逸話も事跡も沢山残っています。
先程の例で言うと「デッサン画」の良質なものは沢山残っています。ただ今までそれを作品にした人がいなかっただけです。
もし、司馬遼太郎が「中島三郎助」を書いていたら、竜馬以上のヒーローに仕立てたかも知れません。

 「矜持」と云う言葉が死語になってしまった感がありますが、中島三郎助の人生は「矜持」とは何かを教えてくれているようです。常に背筋を伸ばし、周囲がどのように変わろうと時代がどんなに変動しよう、人が変わっても「下級役人 浦賀与力中島三郎助」は変ることが無い人生を送りました。

勝海舟以上に日本海軍創成期の功労者でありながら海舟の後塵を拝するのは、海舟は政治家であったと云うことです。
中島三郎助はその意味でテクノクラートであったかもしれません。
 




但馬・生野銀山と竹田城跡に行きました。

2011年07月07日 | ドライブ・旅行
7月5日(火)4組&その友達つながり10名で「但馬・生野銀山と竹田城跡」をドライブしてきました。
最近、私事で落ち着かない毎日で4組HPへの報告も出来ないでいます。
幸い、管理者の太田さんが早々と「写真」「動画」をUPしてくれましたのでそちらをご覧ください。
 動画は坑道内の「切羽」に「発破」を仕掛け「爆破」の様子を「音と光」で再現したもので、70前の「おじんとおばん」が大騒ぎしている様子です。

「梅雨明け」はしていませんが、当日は好天に恵まれました。
参加者の日頃の行いの良さのせいとしておきましょうか・・・・。


宇治・三室戸寺に行ってきました。

2011年07月02日 | ドライブ・旅行
真夏を思わせる日が3~4日続き、6月なのに猛暑日を記録しました。 7月になるなり梅雨が戻ってきました。 朝から梅雨らしいじとじとした雨が降り続いています。  雨でも楽しめる所は何処だろう?と云うと「雨に合うのはアジサイ」と返って来たので、アジサイの名所に行くことにしました。 アジサイほど雨に合う花はありません。 奈良の「アジサイ寺」矢田寺も考えましたが、矢張りアジサイと言えば宇治の三室戸寺が有名だと云うことで宇治を目指しました。    西国十番の観音霊場、明星山三室戸寺は光仁天皇勅願寺の名刹です。花の寺としても知られています。 アジサイは盛りを過ぎたとはいえ境内庭園に見事に咲き誇っていました。何種類のアジサイが植えられているのかは知りませんが八重咲きの赤紫の手毬状の珍しい株もありました。 本堂前には、これも季節になると話題となる「ハス」の花もそろそろ開き始めていました。 三室戸寺の近くには沢山の観光地がありますが、平等院などは何度も行っているし雨足も強くなってきたのですぐ傍の「源氏物語ミュージアム」に入りました。 生憎の天候で平日でもあるのに結構な入館者で、特に若い女性が多いように見受けられました。  あまりその方面に関心が無いので「源氏物語」がそんなに大騒ぎするほどよくできた小説とも思えないのですが、・・。 売店の関係書物の大部分が「瀬戸内寂聴」の著作で占領されていました。 ただ、館内の軽食喫茶店で出された「お茶」はさすがに「おいしかった」