馬糞風リターンズ

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道明寺の合戦・平重衡受戒の地・伊賀上野・・・・・あちこちドライブ記

2013年02月24日 | ドライブ・旅行
19日(火)道明寺界隈に行きました。道明寺天満宮の梅林もこの寒さでまだチラホラ咲きの状態です。
 
梅林内の観梅橋も寒々としています。境内の盆梅展に白梅に紅梅を接ぎ木し盆栽がありました。
 
言うまでもなくこの古市一帯は巨大古墳群があり、この道明寺もすぐ横には允恭天皇陵があります。倭の五王の時代、河内王朝と呼ばれる時代の古墳群です。巨大な古墳はここ河内にありましたが王宮があったわけではありません。境内に置かれた修羅。一団のグループに出会いました。この近辺は「土師ノ里」で菅原道真の菅原氏(土師氏)の本貫地です。グループのリーダーの方が「土師」についての説明をされていました。
 
道明寺の合戦から400年だそうです。今では後藤又兵衛や眞田十勇士などにワクワクする少年たちもいなくなりましたが、我々の子供の頃は講談本や紙芝居、映画などのヒーローでした。大坂冬の陣で敗北し大阪城は外堀を失くしたとはいえ、秀吉が心血を注いで建てた難攻不落、天下の名城大阪城の本丸を残しています。徳川方の優勢は決定的な中、豊臣方の取りうる戦術は籠城戦か城を打って出て乾坤一擲、玉砕の総力戦のどちらかです。籠城を主張する真田幸村らと城を出て戦う後藤又兵衛らの意見が対立しました。ここで一番してはいけないことは兵力を分散させないことです。しかし、頼るべき絶対的なリーダーがいない豊臣勢は、この過ちを犯してしまいます。淀殿は真田幸村、後藤又兵衛双方の面目を保つために、少ない兵力を分散させ籠城組と戦闘隊とに分けてしまいました。更に総大将秀頼を戦陣に立たせることを拒み、全軍の士気を低下させてしまいました。
 僕の亡くなった母親が「女が口出しすると家が滅びる」とこの大坂の陣を例によく話していたのを思い出します。
悲劇の英雄にはよく「生存譚伝説」が生まれます。後藤又兵衛も道明寺の合戦で憤死しましたが、九州まで落ち延びたとして大分県中津市の耶馬渓に「後藤又兵衛の墓」が残っていたり、奈良県宇陀市で隠遁生活を送り、屋敷跡と伝えられる場所には「又兵衛桜」が残っています。
 
21日(木)京都東寺の弘法市に行きました。境内の堀割に彫刻のようにサギが羽を休めていました。いろんな品物を売る露店が並ぶ中で、人気はやはり骨董を扱う店のようです。「お宝鑑定団」などで「私を連れて帰って」とか「オーラを放っていた」など一目惚れしてガラクタを衝動買いする人がいるようですが、写真の骨董店でも20万円の現金を支払ってお皿を買っている人がいました。僕などには汚いガラクタにしか見えなかった皿ですが・・・。その後も、こぶし大の盆石を「15万」いや「10万」と交渉しているお客がいました。
 
境内には何カ所か食べ物を売る露店がありました。その1軒で食べた「おでん盛合せ」1皿500円。京都の味付けに似合わない「濃い」味で、大根などはよく味が染込んでいて大変美味しかったです。
 京都駅から東寺に向かう油小路八条交差点南西、セレモニー会館敷地に「平重衡受戒の地」という真新しい石碑を見つけました。建立は2011年暮れだそうです。下司の勘ぐりでもないのですが2012年の大河ドラマが「平清盛」だったので、大河ドラマ人気にあやかろうと急遽この碑を立てたのではと・・・。
 

 
22日(金)、名古屋の中日新聞に孫の通っている保育所が写真入りで掲載されていると知らせて来ました。そのは新には孫も写っているらしいということです。そこで中日新聞を買いに行くことにしました。名古屋まで行くのも大層なので、中部圏で近鉄沿線なら売店で買えるだろうということで伊賀上野に向かいました。近畿の「道の駅」人気No.1にランクされている西名阪沿いの「針テラス」へ。標高が300m以上あるので写真の通り残雪が結構あり風も身を斬る冷たさです。
伊賀上野は針ICから数十分走った上野ICで降りれば30分程度で行けるところで、何もカーナイビを使う必要もないのですが「伊賀上野駅」を検索、設定して走り出しました。カーナビの案内通りに走っていると全く方向が違う峠道に差し掛かりどんどん上野とは違う青山高原の方に向かっていきます。急ぐ用事でもないのでカーナビの誘導設定がどんな風になっているのか知るのもいいか、と思いながら小一時間走ると「目的地周辺です」とのこと。画面をよくよく見ると「伊賀上津駅」となっています。老人ボケか「伊賀上○」と見ただけで「伊賀上野駅」と早とちりしての大失敗。同乗の嫁さんに馬鹿にされたりボヤかれたりで・・・。
 やっと「上野駅」で中日新聞を購入しましたが、残念ながら「三重県版・伊賀板」で「名古屋市内版」ではないので保育所の記事は在りませんでした。
帰路は伊賀上野から信楽を通り新名神を利用することにしました。伊賀は信楽に隣接して「伊賀焼」でも有名です。
この辺りは太古の昔、琵琶湖があったそうです。400万年前に最初に伊賀上野あたりに出来たのが大山田湖、300万年前には阿山湖、270万年前には甲賀湖、250~180万年前には蒲生湖、100万年前には堅田湖と言うように次第に移動して、今の位置にたどり着いたそうです。


ドライブテクニック

2013年02月18日 | 日記
18日は一日中冷たい雨となりました。何ヶ月振りになるのか本当に久し振りに筆を執りました。昨年末で書道と墨彩画、篆刻の教室を脱会しました。一言でいえば「幾ら習ってもこれ以上上手くなりそうになさそうだから」です。
先生からの課題やお手本無しで気軽に時間潰しのつもりだったのですが「お手本」が無いと何も描けないのです。課題や展覧会出品と言う区切りがあるとどうあれ何とか作業は進むのですが。さてフリーの状態ですとどれもこれも落書きで恰好がつかないのです。結局塾をやめる前に最後に頂いた「だるま」を描いてみました。3枚とも「お手本」に似るようにと無意識になってしまいます。
先生のお手本通りに描く事が楽しみなのか?例えは世の中には名作と言われる作品は沢山あります。それを忠実に復元する技量を身に着けるために練習するのだろうか?
 現在では画像処理の性能は格段と上がったのでコンピューターを使えば真贋見分けがつかないものが作れるそうです。そんなことを目標に先生に付いた訳ではありません。
自動車の運転もそれなりの技量と知識があれば、何時までも仮免の時のように絶えず先生が横に座ってもらう必要はなくなります。絵でも書道でも、あるレベルの基礎は教えてもらわなければ話にはなりません。しかし、運転免許のような目に見える基準は在りませんが何時までも仮免運転手よろしくお手本や先生に頼らなければ何も描けないのも悲しい話です。
 別に絵や書で飯を食うわけでもないので、飽く迄も楽しみ、趣味の世界の事ですから、それが阻害されるようであれば本来の目的から外れてしまいます。僕の先生方は、強制したり押し付けたりする方ではありませんが、習うということが苦痛になったのも事実です。
熟展などでよく感じることですが、絵にしても書にしてもその塾の先生の作風にそっくりな作品が並ぶことがあります。それが良い悪いということではなく、絵や書を書きたいという思いと少し違うように思うのです。
 自動車免許を持てば、一人で自分の思った時に思ったところにドライブしたいものです。その為に自動車教習所に通うのだと思います。
大体「うまい下手」とは何を基準にして言っているのだろうか?「うまい下手」があるのは事実ですが、「これを書きたい」「書いていれば楽しい」と言うこととは別物です。技量の優劣は一種生まれつきのようなところがあり、他人様の評価基準をクリアするためにやたらと技量研さんに励むようなことはどうも性に合いそうもありません。「この絵、この書」が「俺の書きたい」「俺の書き方」だ、と納得できるものができれば楽しいだろうなァ。ちょうど自動車で好き勝手に行きたいところに行けるように。

 ある方からメールを頂きました。当ブログであちらこちらへドライブに行ったことを紹介していますが、できれば同乗願えないだろうか?と言う趣旨のものです。勿論、ご希望の場所で日時が合えばいつでも歓迎します。どうぞご連絡ください。



「清水寺は?」「坂の上」・・・・あちこちドライブ記

2013年02月15日 | 歴史
10日(日)岡山県倉敷市玉島に行きました。倉敷と言っても美観地区のある倉敷市中心部ではなく、旧玉島市です。旧児島市などが合併して現在は倉敷市玉島です。
 大学の7年上の大先輩のお宅にお邪魔しなければならない用事がありました。都会の総合大学では、同学年はおろか同学部、場合によっては同じゼミの仲間であっても全く知らないというようなことがあるようです。その点、地方のしかも単科大学のせいもあって同学年は勿論、上下10年くらいの卒業生は何らかの交流がある学校です。ですから7年も先輩とのなれば直立不動で応対しなければならない雲上人です。朝早く出発。玉島はすでに春到来の瀬戸内の暖かい光いっぱいです。大先輩との話が思いのほか弾み随分長居をしてしまいました。

 時間に余裕があれば玉島を観光しようと事前に調べておきましたが今回は立ち寄るだけのあわただしい観光になりました。
玉島の名所と言えば良寛さんが修業をした「円通寺」です。
   

独特の雰囲気のある玉島の街は映画のロケ地にもなっています。「藤戸饅頭店」はALWAYS三丁目の夕日で一平と淳之介が淳之介の母に会いに行ったシーン。水門は母親に会いに行った帰り市電に乗るお金が無くて困り途方に暮れるシーン。だだし、この水門は昨年取り壊されて現在は在りません。
 また玉島黒崎海岸は「釣りバカ日誌18」のロケが行われたそうです。この時のマドンナは壇れい。
 
 21日(木)またまた大学の同窓生との打ち合わせで京都祇園に行きました。この日も「光の春」で道路の気温表示は15℃まで上がっていました。打ち合わせの後、久しぶりに清水寺に行きました。清水寺に続く坂道には多くの観光客がいました。でも殆どが中国、台湾、韓国の団体さんのように思えました。
 境内の参道に「阿弖流為・母禮」の碑があります。今日初めて気付いたのですが、石碑の表面には日本地図の東北地方が陰刻されていてその中に「阿弖流為・母禮之碑」また地図では青森・岩手の海岸にあたるところに「北天の雄」と彫られています。
2人のインド人ビジネスマンを案内している女性が「何と書いてあるんですか?」と聞いてきたので「アテルイ・モレ」と教えると、この若い才女は全くご存じないようで「何ですか?それ」と・・。そこで簡単に坂上田村麻呂と清水寺の関係や大和朝廷の東北進出、蝦夷との攻防、阿弖流為・母禮謀殺について話をしました。同行のインド人は「スズキ」の関係者のようです。この案内役の女性も多分「スズキ」の人だと思います。これだけ流暢に英語を話し、インド人ビジネスマンに臆することなく堂々と遣り取りしているキャリアーウーマンが「日本の東北進出」の歴史知識が全く欠落しているのに「オイ、オイ」大丈夫か?との思いがしました。きっと日本政府の沖縄(琉球)処分なんてこともご存じないのだろう。基地問題やオスプレイーなどの問題の出発点なんだけど・・・。
 その御嬢さんに坂上田村麻呂と清水寺の関係を話した後で、小咄を教えてあげました。「清水寺はどこですか?」「坂の上」
庶民はこの小咄で笑うだけの知識があったのですが・・・・。
昨年オープンした「うどん博物館」に行きました。全国のうどんが食べれると情報番組で紹介されていたので期待していきました。「稲庭うどん」を注文しました。旨いとか高い、安いは人によって価値観が違うので何とも言えませんが期待ほどではありませんでした。


初めての陶芸。阿倍野区民センター生涯学習ルームで。

2013年02月09日 | 日記
陶芸の先生が「兎に角何でもいいから作ってみなさい」「百篇理屈を聞くより1回やってみなさい」という教え方の人なので、訳も分からず花瓶(?)と皿を作りました。自分としては粘土をこねて、成形して絵付け、釉薬をかけて焼成すればどうなるかを知りたくて作業をしたものです。とても人様の目に晒すものではありません。所がご覧の通り人様の目を汚す結果となりました。先生に「これは試ですから」と言うと「枯れ木も山の賑い」「うまい人と下手がいないと習いに来る人が来にくい・・」と一蹴されました。
 


 



田舎暮らし。物件探し。和歌山県九度山町

2013年02月08日 | ドライブ・旅行
北海道十勝で田舎暮らしをしている友人が豊中に帰ってきました。前々から北海道の冬の寒さが耐えられなくなった、とこぼしていましたが、ことに今年の寒さは厳しいようで逃げ出してきたようです。何時もは月に1度、2度豊中に帰ってきて、2~3日で十勝に帰っているのですが、今回は1週間ほど滞在するとのことです。また、3年後の免許の更新があるそうで、その時、免許の更新が難しいようであれば自動車には乗れなくなります。自動車に乗れないと北海道での生活は無理になるので、どちらにしても冬用の田舎暮らしの住宅を探さなければなりません。
 彼との「田舎暮らし物件探し」は当ブログでは何回となく紹介してきましたが、いよいよ現実味を帯びてきました。今回は高野山の登り口である九度山町に行くことにしました。大阪から高速道路で奈良県葛城に入り、そこから南に葛城古道に沿って南下して五條市に。奈良と和歌山の県境にある食堂で昼食を摂ることにしました。たこやき&お好み焼き、インド料理そして寿司和食の店が並んでいる所です。勿論、寿司和食の店に入りました。彼との暗黙のルールで、ドライブに出た時は、運転・ガソリン・通行料金などは当方が負担し、飲食や車以外の経費料金は彼が負担することになっています。本日のサービス定食は「海鮮チラシ寿司定食・500円」を注文しました。これが「大当たり!]」で大森のチラシ寿司の上に甘海老、マグロ、タイ、ハマチ、トリガイが2貫乗っている丼、赤出汁、煮魚、小鉢、香の物。これで500円とは「安い!」そして食後のコーヒーが50円。旨くて安いのはありがたいのですが、ここまでする必要が果してあるのだろか?
 五條から和歌山県橋本市に入ると直に「隅田」と言うところがあります。ここには「隅田八幡」があります。同行の彼が歴史や名所旧跡には全く興味のない男なので素通り。
九度山町は真田幸村隠棲の地、また柿の産地、弘法大師が生母のために建てた「慈尊院」のど見どころは沢山あるのですが、これらもパス。
 町役場企画課で移住者支援などの制度や情報を教えてもらいました。同行のかれ自身が十勝で、移住者支援などのコーディネーターをしているので事前にかなり詳しい情報を持っているので「住民、所有者」と接触しないことを条件に空拳の物件を紹介してもらいました。

 

 写真とは関係ありませんので誤解の無いように!!。見て回った物件の一番安かったのは「150万円」庭・畑付きの物件で「500万円~750万円」他にも1,200万円と言うものもありました。
ただ、地形が山間の谷筋であるため「開放感のある広さ」は望めそうにないのが問題のようです。
 帰路、華岡青洲の里もありましたがここも素通り。

南部・岩代梅林。チラホラ咲き。

2013年02月04日 | ドライブ・旅行
2日(土)はすっかり春です。南部梅林岩代梅林に行って来ました。南部梅林はチラホラ咲きですがここ2~3日の気温の上昇で来週あたりから見ごろになりそうです。聞きたいことがあるので「うめ振興館」に立ち寄りました。建物に写真のようなプレートがはめ込まれています。
この施設は「ウルグアイ・ラウンド」対策資金で建設されたそうです。「コメ1粒たりとも輸入させない!」とムシロ旗をおったてて反対したウルグアイ・ラウンド締結のお土産で国は8兆6千億円の対策費を農業につぎ込みました。しかし、このウルグアイ・ラウンド対策資金ではうめ振興館のような「道の駅」や観光施設のような俗に言う「箱もの」に使われ、中には温泉施設などが作られた例もあったようです。
 
岩代梅林は2日がオープンの日でしたが駐車場はご覧の通りで観光客は全くいませんでした。岩代梅林はみなべ梅林より標高の高い所にあるのでその分、開花は遅いようで「つぼみ膨らむ」と言うところ。国道42号線沿いに「有馬皇子結松記念碑」があります。有馬皇子については当ブログは何度も取り上げています。特に「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」の解釈で、文学者と考古学者で違いがあるそうです。

 我が家の庭に樹齢40年の白梅の木があります。この梅の木も2~3日前から蕾が膨らみ、2~3輪花を開きました。毎年結構実を付けて6月には梅酒を作っていました。しかし、ここ4~5年、年々実がつくのが少なくなり、ここ2年は花は例年通り咲くのですが、実がつかなくなりました。そろそろ樹勢が衰えて来たかと思ったり、ここ2年ほど開花期の気温が低いのでハチやハエと言った昆虫が少ないので受粉しないのでは、とかアブラムシの害かも、といろいろ考えました。そこで思いついたのが我が家の周辺の住宅事情が大きく変わったことです。我が家の周辺では高齢所帯が2所帯住宅に建て替えたり、土地を売却してそこに2~3軒の建売住宅なったりしています。今まで庭木として植えていた梅の木が無くなってしまったようです。
 梅の木は種類にもよりますが「自家受粉」が難しいそうです。そのため梅の実を結実させるためには「受粉樹」と言うものが必要なんだそうです。いままでご近所の庭の梅が我が家の梅の受粉樹の役割をしていたのが、近所に梅の木が無くなってしまったので、我が家の梅が受粉しなくなったのではないか?と思いつきました。
 そのことを確認したくて「うめ振興館」に行った訳です。
受粉樹になればと白梅と紅梅の苗木を買って梅の木のそばに置きました。開花期が一致しなければ意味が無いのですが何とか人工授粉をして結実させたいと思っています。