馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

摂津国と播磨国の境 須磨公園

2009年12月30日 | 地名・地誌
30日急遽明石市江井ヶ島と云う所に行く用事が出来ました。
久し振りに未だ日が昇らない内に家を出ました。

 29日「田舎暮らしの物件探しPart 2 岡山県備前市鶴海」で書こうかと思いましたが本題と離れるので見合した事があります。

JR赤穂線に「備前福河」と云う駅があります。
「備前」を冠しているようにこの集落は旧国「備前」に属します。
兵庫県はこの備前を含めて「播磨」「但馬」「丹波(一部)」「摂津(一部)」「阿波(淡路島)」「伯耆(東南の一部)」の旧7国で構成されています。
これは他の都道府県を圧倒しています。(千葉県が旧国5ヶ国)
現在の都道府県の体制は云うまでもなく明治維新の「廃藩置県」から始まります。
その線引きは律令時代の「国」をベースにしています。
1国1県=奈良県などは分かりやすいのですが、複数の旧国、しかもその一部を割って構成された県などがあり、複雑な成立過程があります。
1国1県=奈良県でも一時期、大阪の東部・南部と一緒に成り「堺県」を構成したこともあります。

 「福河」集落は岡山県(備前国)和気郡福河村でしたが、1963年9月1日に兵庫県に編入されました。このため、駅名に「備前」という名残がのっています。 電気は赤穂市鷆和(天和駅)までは関西電力の管轄で、福浦(備前福河駅)は中国電力の管轄だそうです。
この場合、兵庫県が「旧国7国」と云うのは明治の廃藩置県とは縁が無い様ですが全国各都道府県の成立を調べるのも「知られざる逸話」が沢山あり面白いものです。

 「摂津国」は、神崎川で分割されて大阪府と兵庫県に分かれました。
この摂津国と播磨国の境は現在の神戸市須磨区と垂水区になります。
山陽電鉄「須磨浦駅」と「山陽塩屋駅」との間です。
そこに見落とすほど小さな川が流れています。「境川」と云う川ですが、この川を境として古代の昔から「摂津国」と「播磨国」の国境に成っています。
現在は「須磨区」「垂水区」との境です。

 現在、関西では「三都」といわれ「神戸」「大阪」「京都」と性格の違う大都市があります。
しかし、「神戸」「大阪」は元々「摂津国」に属し、しかも神戸などは山麓から浜辺までが500mほどの狭い所にあった貧しい寒村でした。
だから「神戸気質」などと云うものはここ150年ほどの間に出来上がったものです。
「神功皇后伝説」の「武庫」、「源氏物語」の「須磨寺」、平家物語」の「福原遷都」「一の谷」「敦盛」なども全て「摂津国」での出来事です。

 そんな思いで明石市江井ケ島から国道2号線でゆっくりとドライブしながら帰ってきました。
年末と云うのに帰省ラッシュもなく穏やかな須磨界隈でした。
そう云えば公園に「敦盛塚」がありました。

 


田舎暮らしの物件探しPart 2 岡山県備前市鶴海

2009年12月29日 | ドライブ・旅行
岡山県日生から西に直線距離で10km程の所に「鶴海」と云う集落があります。
JR赤穂線「日生」から2ツ目「西片上」が最寄り駅です。
田舎暮らしで人気の「牛窓」との中間にあります。
瀬戸内海国立公園内にあり誠に長閑な所です。
物件は、現在老夫婦が生活をされているので写真を公開することはできませんが、40坪の母屋と25坪の離れがあり、畑を含めて550坪の敷地があります。
提示価格は「650万円」とのことです。
丘の中腹にあり見晴らしも良く、現在も居住者が生活しているので建物もしっかりとした物件です。
久久井湾が陸地の奥深くに入り込んだ絶景の場所です。
近隣にはログハウスもあり、久久井湾にはヨットハーバーもあり、申し分のない所です。
アクセスも大阪から2時間圏内でもあり、日常生活は車さえあれば備前市や岡山市に近く、国道2号線に出れば大型のショッピングセンターも多くあります。

 備前の焼物や長船の刀剣など見どころもあり、海産物も豊富で特に牡蠣が名物です。
北海道からの友人は「一応候補物件」にファイルするそうです。
僕は「水」の確保を調べておいた方がいいよ、とアドヴァイスしておきました。
暮れの29日、いくら天候に恵まれた日とは云え、田舎暮らしの物件探しに大の大人2人、暇な男が居たもんだ、と顔を見合わせて苦笑いの1日でした。

俊寛・鬼界ヶ島の末裔

2009年12月24日 | 雑学
今宮高校3年4組の同級生が7人集まり、ミニ同窓会をしました。
40数年ぶりの再会のクラスメートもいて、2時から「ワイワイ」と盛り上がり、気付けば5時でした。
女性お二人は、年を経て益々品格高潔な麗人に成られ、会に大輪の花を添えてくれました。男性陣も年相応の風格と貫録がありました。
ただ、老いの気配も、1人を除いては、致し方ない事ですがまた感じられました。
1人だけ、年齢詐称ではないかと思うくらい「お若い」のです。
頭髪は真っ黒で、マジックインクで描いたのではないかと疑っています。
その黒髪をオールバックになでつけて、青年が羽織るカジアルスーツの出で立ちです。キット彼は学年違いの同窓会に出てきたのだと思います。

盛沢山な話題の中で、出身地の話がでました。
水彩画の妙手、趣味の域をはるかに超えた書き手である同級生のオリジンが「喜界島」で俊寛の末裔、との話が出ました。
あり得ない事ではありません。
芥川龍之介は、小説「俊寛」で「現地妻との隠遁生活」を書いています。
その龍之介がヒントを得たと思われる菊池寛の小説「『俊寛』では、 俊寛は島の娘と結婚し、健康に暮らしていたという、ロビンソンクルーソーのような話を書いています。

 我々のイメージは、平家物語の「足摺」や倉田百三の戯曲『俊寛』 (有王から俊寛の家族はみな死に絶えたと聞き、俊寛は岩に頭をぶつけて自殺する)と云う悲惨なものがありますが、案外、龍之介や菊池寛の小説の方が史実に近いのかもしれません。
そうすると、同級生が冗談交じりで云った「俊寛の末裔」と云うのも強ち冗談ではないのかもしれません。

 時代は新しくなりますが、西郷隆盛の事が思い浮かびます。
西郷には三度の結婚経験がある。
1度目は嘉永5年28歳のとき「須賀」と結婚した。

2度目は奄美大島の龍郷村で6石扶持一軒家で自炊していた際、島の名家であった龍家の佐栄志の娘・愛加那(あいがな、意味は愛子)と結婚。
35歳の安政7年1月2日 (旧暦)に菊次郎(後の京都市市長)・文久2年にお菊(のち菊子、大山巌の弟と結婚)の二人の子供をもうけた。
この子供たちは庶子として扱われた。
文久元年末に、鹿児島に帰る際、島妻は鹿児島へ連れ出せない規則があったので別れた。
愛加那は明治35年死去。陶芸家の西郷隆文は、菊次郎の四男・隆泰の子。

3度目の妻は慶応元年岩山八郎太の23歳の娘、糸子で、39歳のときに結婚。
寅太郎(侯爵)・午次郎・酉三の3人の子供をもうけ、先の妻、愛加那の二人の子菊次郎、お菊を引き取った。
第2次佐藤内閣第2次改造内閣の法務大臣西郷吉之助は寅太郎の子。

 階級制度・身分制度の時代には、「血の正当性」が最大の正義ですから、雄略天皇の後継者抹殺で皇統が途絶えようとした時、「血の純血」故に播磨から「顯宗天皇、允恭天皇」を見付出したり、その皇統も危うくなった時「越前三国より継体天皇」を、これまた「血の正当性」を持って迎えた事があります。

 貴種が、何らかの事情で地方に下向して土着しても、貴種故の「血の正当性」は現在のわれわれの想像以上に尊ばれたのは事実だと思います。

写真は「小田岳堂作・平家物語(連作の内) 足摺」50号屏風仕立て

「忖度」「そっ啄」・・難しい熟語

2009年12月23日 | 雑学
 この頃、マスコミで「謀が幹事長をソンタクして・・・」などとよく見聞きするようになりました。「忖度」と書くようです。
僕は初めて出会う言葉です。毎朝行く喫茶店の常連さん数人に「忖度」の読みと意味を聞いてみました。
既に新聞・TVで知っている人は別として、僕の周りには「忖度」を読める人も意味が分かる人もいませんでした。
また、新聞・TVで知った人も、それまでは「知らなかった」そうです。

早速、広辞苑、大漢和辞典を引っ張り出しました。
「忖度」=「忖」も「度」もはかる意。 他人の気持ちをおしはかること。推察。
「忖」=寸は手の指1本のこと。「忖」は会意兼形声文字で、指をそっと置いて、長さや脈をはかるように、そっと気持ちを思いやること。
「度」=は、尺と同系のことばで、手尺で長さをはかるように測定すること。
「忖度」=他人の気持ち・考えを、そっと推しはかる。 

以前に同じようなことがありました。
「三木総理には惻隠の情が無い」とロッキード事件で田中角栄が逮捕された時によく云われたフレーズです。
随分時代めいた表現をするものだと思ったものです。
幸い「惻隠の情」は知っていましたが、「惻隠の情」にしても「忖度」にしても時代錯誤の感を否めないのは僕だけでしょうか。
それとも「政治」と云う特殊で「ヤクザ」な世界の出来事を表現したためなのでしょうか。
一層の事「俺の眼を見ろ 何にも云ううな 男同士の腹の内」と書いた方が詩情豊かな任侠劇になるのだが・・。

 「日本辺境論」がベストセラーだそうです。
たまたま、新聞広告を見て買ったのですが、その後、書評などで取り上げられることが多いようです。
その文中に「啐啄」と云う言葉が出てきます。

「啐啄」=「啐」は雛(ひな)がかえろうとするとき、雛が内からつつくのを「啐」、母鳥が外からつつくのを「啄」という。
1、 禅において、師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。
  機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときにいう。
2、得難いよい時機。

養鶏場で原種卵を扱っていた経験のある僕は「啐啄」は流石に知らないとは言えません、が、日本辺境論や辞書にある「禅」や「武術」の極意に至る心境を表すものだとは知りませんでした。

ガマの油売りの口上に「・・・・鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら とんと解らん・・」と何か変わりがあるのだろうか?

写真は「啐啄」直後、この世に生を受けた雛たち。

野洲市立民俗博物館

2009年12月15日 | 歴史
昨日「野洲市立民俗博物館」通称「銅鐸博物館」の事を書きましたが、補足として今日も「銅鐸」の事を書きます。

 銅鐸の保存に尽力した今宮高校先輩の考古学者「水野正好」さんの事をもう少し補足します。
 昭和 37年、小篠原地先の東海道新幹線の土取工事現場から、計10個の銅鐸が発見された時、明治の銅鐸が散逸してしまった事を知っていた当時の滋賀県文化財課の水野正好(現奈良大学学長)は、直ちに知事に掛け合い保存センターを琵琶湖畔に設け、中央と掛け合ってこれを全て滋賀県に残す事に成功しました。 そのおかげで、この時の10個の銅鐸は今も滋賀県蔵としてこの博物館にあります。
 知事との掛け合いの時に、水野さんは「明治14年に発見された大岩山銅鐸を、滋賀県人は、目先の欲望に負けて、世界に誇る、日本一の冠たる貴重な文化財を失ってしまった」と明治の銅鐸散逸の失敗を訴えた事が、「野洲町立民俗資料館」設立に成ったのです。

 「ひろてん」さんの示唆された「銅:鉛:錫」の比率による「鋳造の失敗」について
この銅鐸博物館が「復元実験」で「 "鋳造失敗と完成品」が並列展示されています。
兵庫県久田谷銅鐸や愛知県椛(なぐさ)銅鐸のように破片が何枚も重なる形で発見されています。発見当初から破片が重なっていた事、破損した銅鐸片の断面にも錆が回っていたことなどから自然に細かく割れるとは考えられないことから、意図的に破砕して埋納されたと考えられています。

 全国で銅鐸は500以上発見されていますが、上記のように破砕された銅鐸の例は数例しかありません。
むしろ特殊な例だと僕は思っています。

 僕の思い出としては、銅鐸博物館学芸員の先生をお招きして勉強会をした事があります。
参加メンバーは、全員素人ですが「一家言」を持つ歴史愛好家たちです。
中には箕面如意谷銅鐸の発見者もいました。
ちょうど島根県で「荒神谷」と指呼の加茂岩倉で銅鐸39ケが発見され大騒ぎになっていたころです。(平成8年)
僕も延べで2カ月ほど現地や関係場所に張り付きました。
そんな背景での勉強会ですから、熱気ムンムン激論の場となりました。

 お招きした学芸員の方は、新進気鋭の優秀な考古学者でしたが、素人の「思い込み」の塊のような「おっさん」連中からの集中口撃(?)に最後は「涙目」になってしまいました。
 気の毒な事をしたものだと、今も慙愧の極みです。

「右手」「馬手」「妻手」「勝手」・・みんな「みぎて」だとサ

2009年12月11日 | 雑学
当ブログ12月9日「雨は降る降る・・」で「右手=めて」の事を書きました。
「右手=めて」は本来「馬手」だそうですが、「妻手」とも書かれるそうで、いずれも「みぎて」のことだそうです。
また、「勝手=かって」も「右手=めて」のことだそうです。

 「勝手=かって」と云う言葉は幾つもの意味があり、日常多様な使われ方をしています。
「勝手」を辞典より抜粋しますと
【我が儘】【台所】【都合】【無断】【様子】【暮らし向き】【具合】・・・。
また、江戸時代の役職に「勝手方」「勝手用人」などは「財務・会計」担当。
茶道用語としては「茶室に付属し、茶事の用意を整える室。水屋とも云い、そこでの用に従事することも「勝手」と言うそうです。

 「勝手」という言葉の多様さが分かりますが、更に次のような意味があります。
「利き手」使いやすいほうの手。通常右手であるため、ことに(弓を射る時に弦を引くほうである右手をこの名で呼ぶ。
日葡辞典(弓を引く右手)。貞丈雑記(弓を射る時、左の手をおし手といひ、右の手を苅手=かつてと云う。古はかつてと云詞聞えず。ひき手と云しや」

 弓道の入門書を見てみますと「勝手」と云うのは、もっと限定された使用法があるようです。
弓道の作法で射る動作には、下記のような一連の動作があるそうです。

1.足踏み(あしぶみ)
  射位(しゃい:弓を射る位置)で的に向かって両足を踏み開く動作。
2. 胴造り(どうづくり)
  足踏みを基礎として、両脚の上に上体を安静におく動作・構え。
3. 弓構え(ゆがまえ)
  矢を番えて弓を引く前に行う準備動作。
4. 打起し(うちおこし)
  弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。
5. 引分け(ひきわけ)
  打起こした位置から弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす  動作。
6.会(かい)
  引分けが完成(弓を引き切った状態)され、矢は的を狙っている状態。
7.離れ(はなれ)
  矢を放つ、或は放たれること。
8.残心(ざんしん:残身とも書く)
  矢が放たれた後の姿勢。

2. 胴造りの状態の時、左手には弓を持っていますが、右手は「自由」な状態です。この状態を「勝手」と云うそうです。
そこから派生して現在使用している色んな「勝手」が生まれたと云う語源説もあるそうです。

写真の右から2番目の射手の状態が「胴造り」の状態に近いものと思います。
 



よかったら、買って下さい。

2009年12月10日 | 日記
当ブログ(6月27日)で紹介しました「エアーダイブ社」の田中宏明君が絵本「サンタクロースとちいさな木」を刊行しました。
お孫さんのクリスマスプレゼントに如何ですか。
「義男の空」も併せてお勧めします。
詳しくは「エアーダイブ」のHPまで。

雨は降る降る人馬は濡れる・・・

2009年12月09日 | 歴史
「庭木の葉刈り」で「謡が降る降る・・・」と書いていたら、「フム??」似たようなフレーズがあったなア・・、と気に成り出したが中々思い出せませんでした。
スーパーで買い物をしていた時「雨は降る降る人馬は濡れる・・」と「田原坂」を思い出しました。
 会社をリストラされて直に嫁さんと「大分・熊本」へ旅行し事があります。
航空会社の優待か、何かのイベントの招待だったと思います。
天候に恵まれなかった「ショボ」い旅行でしたが、最終日に田原坂に行った時に不思議なほど天気が良くなった事を覚えています。

◎民謡 田原坂 聞きかじり
 明治十年、この田原坂(熊本県鹿本郡植木町)の地で南下する官軍と北上する薩軍による激しい戦いが繰り広げられました。
これが、日本史上最大にして最後の内乱である『西南の役』です。
この戦いは一七日間にも及び、多くの少年兵を含む約六五〇〇人の死者が出たと言われています。
弾と弾が空中でぶつかり合ってつぶれた弾丸も発見されて、無数の弾丸が飛び交う壮絶な戦いであったことが想像できます。

雨は降る降る 人馬は進む  
     此処は古戦場の田原坂

風よふけふけ 雨なら降るな 
     俺の鉄砲の火が消える

右の歌詞は植木町に残る元唄です。

この歌の発生については緒説あります。明治三七年に九州日日新聞記者入江白峰が作詞し、熊本の芸者留吉が歌ったのが始まりとも云われています。
 信用すべき資料として、陸軍中将深水武平次(済々黌出身)の話が残っています。
それに依ると「熊本・佐々木隊麾下岡本源次が、明治二一年済々黌の学生を連れて戦場田原坂を訪れ、当時の苦戦の様子を説明した。その時丁度雨が降ってきたので、その場で感慨を歌ったのが右の元唄である、とのことです。
元唄は、二番しかなかったとそうですが、日露戦争以後西南戦争とダブルイメージされお座敷遊びの歌として、定着していったようです。
歌の系統には、明治三〇年ごろまでの「元唄」、昭和初期のレコード化された以降の「民謡調」、昭和三〇年代に作られた「音頭調」の3つがあるそうです。 
里謡・俗謡の性格上、流行り廃りが激しく、また流布する過程で様々に変容するものです。
例えば「、「雨は降る降る 人馬は濡れる」の「人馬」は元々は「陣場」だとか「右手に血刀 左手に生首」など様々な歌詞が、次々とうまれたようです。歌詞は数えきれない程あるそうです。

◎ 右手に血刀 左手に手綱
一 雨は降る降る 人馬は濡れる  越すに越されぬ田原坂
二 右手に血刀 左手に手綱    馬上ゆたかな美少年
三 山に屍(しかばね)川に血流る  肥薩の天地秋さびし  以下省略
 現在流布している代表的な歌詞ですが二番の冒頭「右手に血刀 左手に手綱」をどう読みますか?
「右手」=(めて)馬手・右手。
「左手」=(ゆんで)弓手。左手。
 当時、「めて」や「ゆんで」など普通に使っており、一般に理解されていた様です。その意味で庶民の教養の高さに恥じ入るばかりです。

◎ 馬上ゆたかな美少年
 明治一〇年三月二〇日、田原坂陥落を熊本・二本木薩摩軍本営に急報すべく、馬上血刀をふるって敵の包囲を突破した人吉藩士三宅伝八郎(二〇歳)、 薩将村田新八の長男村田岩熊、熊本協同隊高田露(二四歳)或は熊本隊最年少者高橋長次(一五歳)と諸説があります。
昭和六二年・日本テレビ年末時代劇スペシャル「田原坂」では村田岩熊説を採用しており岩熊役は野村宏伸、新八を三浦浩一が演じていました。

写真は「田原坂公園」内にある無数の「弾痕」がある建物。

庭木の葉刈り

2009年12月07日 | 日記
庭木の葉刈りをしてもらいました。
我家の庭は、ホームセンターの園芸コーナーで500円、1,000円程度の苗木を、空間があればそこに植えただけの雑然としたものです。
数年前までは市のシルバー人材センターに頼んで葉刈りを兼ねた庭掃除をしてもらっていました。

 ご近所には、名のある庭師が作った立派な庭があります。
玄関前の「五葉松」だけでも「ン十万円」とか「ン百万円」するとかの噂です。
そのお宅が季節毎に「庭師」が手入れに入ります。二~三日かけて手入れをしていくようです。
 犬を散歩していると、上の方から「おはようございます」とか「こんにちわ」と云うあいさつがあります。
立派なお屋敷の植え木の上から職人さんが声を掛けてくる様はチョット粋なものです。

 北島三郎の「加賀の女(ひと)」の三番に「謡(うた)が降る降る加賀宝生の・・・」と云う一節がありますが、僕は何時もその場面が浮かんできます。
数年前にNHK大河ドラマで「利家とまつ」と云うのを放映していました。
ちょうどその頃、件(くだん)の職人さんが例によって散歩中「おはようございます」と剪定中の樹の上から挨拶をくれました。

 職人さんたちがお茶の時間で休憩をしている時に出くわして、会釈をしたのが切欠で雑談をしている内についつい「加賀の女(ひと)」の話をし、僕は樹の上から挨拶されると何時も「加賀の女(ひと)」の歌を思い浮かべる、と言いますと、その話が盛り上がり、僕も職人さんの輪の中に入り座り込んで話し込みました。
棟梁が「謡(うた)が降る降る・・」の意味を聞いてきましたので、例によって知ったかぶりで講釈を一席ぶちました。

 大河ドラマでは、利家亡き後の加賀100万石については何も触れていませんでした。
偉大な戦国武将利家亡き後、嫡男利長が家督を継ぎましたが、まつは「時代の流れが徳川」と読んだのか「利長には父利家ほどの技量がない」と見たのか、ひたすら「お家大切」と「加賀100万石」を守るため「徳川家」への「恭順」「服従」「忠誠」を示す努力をしました。
その為、謀反の疑いを避けるためひたすら文化文芸を奨励しました。
金沢は京都にも勝る「雅」の世界があるのはそのためで、町人・職人はじめ一般庶民にまで「芸」ごとが浸透するようになりました。
加賀の植木職人が樹の上で剪定をしながら「謡」を鼻歌交じりに歌っているのは、まつの「加賀100万石」を守り抜いた象徴なのです。

 そんな話をしてからは、この植木職人さんと親しくなり、我家の葉刈りをしてくれるようになりました。
本来は、我家の500円、1,000円の雑木を扱うような職人さんではないのですが「若造のハサミの使い方」の練習と云って気軽に手入れをしてくれます。
それも格安で。本来「1日ン十万円」の職人さんだそうですが「ン万円」で「犬の糞」まできれいに掃除をして行ってくれます。


 

田舎暮らしの物件探し

2009年12月06日 | ドライブ・旅行
北海道で1人暮らしをしている友達が、60歳を過ぎた頃から「北海道の冬の寒さが耐えられなくなった」と云って、今度は温暖な処に移住しようとしています。
 当初は「宮崎県」をターゲットに九州で物件を探していましたが、宮崎は結構自然災害が多くあり、また交通アクセスが非常に悪いそうで、最近は家族との関係もあり、大阪を中心に2時間圏内を探しています。
 彼の実家は豊中にあり、月に1度、3~4日豊中にいますので、その間に物件探しをしています。

 僕も暇のものですから、よく一緒にドライヴ方々同行しています。
今日は、何回か訪問した「たつの市」の「田舎暮らし」専門で物件を取り扱っている不動産屋に行き、諸条件に合いそうな物件を案内してもらいました。

写真の物件は「赤穂郡上郡町」の中心地から10kmほどの中国山地の天辺の尾根の急な傾斜に建てられた「別荘」仕様の物件です。
見晴らしは360°の展望で、眼下に千種川や上郡町の街並み、遠くたつの市まで見渡せます。

 だだ、物件にたどり着くまでの道路が、1車線で対向車が来れば「すれ違い」は無理、それにガードレールはおろか路肩を示す白い車線もありません。
それが、深い谷間をヘヤーピンカーブの連続「年間5万キロ、浪速のドライバー」の僕でも一寸ビビるところです。

 驚いたことには、この山深い所にある物件から更に100メートル程行くと、山間にそっぽりと隠れた北側の斜面に、5~6件の集落があり、現在も何所帯かは生活しています。
同行した不動産屋に聞きますた、江戸時代から続く集落だそうで「平家の落人」伝説があるそうです。

 物件は「地目:山林。地積:約1997坪。延床面積:約12坪 1LDK風呂トイレ付。
 家具、テレビ、カラオケセット、冷蔵庫、大型ストーブ、食器、寝具など今日からでも生活できる状態で450万円だそうです。
友達は即座に断っていましたが、物件事態はいいものでした。
"
 他にこの近辺で数か所見てまわいました。
僕は、この写真の物件に少し心が動きました。

弥生の銅鐸は復元できない。

2009年12月03日 | 歴史
ひろてんさん、コメントありがとうございました。
考古学も学際化して「冶金学」の知見が「銅鐸」研究に大きく貢献しています。
その代表的な成果が、「銅鐸」に使用されている「銅」は大陸から輸入された銅のインゴットとされていたのを、国産銅を使用した事を解明した久野雄一さんの研究です。

 久野さんは、三国が丘高校から東大工学部で冶金学を学んだ後、父・晴雄氏が創業した「三宝伸銅工業」に入り、他界した父の後を継いで30代で社長に就いたが、社長業のかたわら「銅」の研究を続け、日本における「銅」研究の第一人者と目されています。
 また、日本の古代金属に関心をもち、それまで大陸から渡来したとされる「銅鐸」について、その成分を分析して日本国内で産出した銅や鉛、錫で造られたものであることを実証し、従来の定説を覆しました。

 久野雄一さんの弟邦雄さん(故人)が奈良県立橿原考古学研究所に在籍していたことから、久野さんが銅鐸を復元して付属博物館に寄贈しました。

 この銅鐸は三宝伸銅の久野さんの会社でこしらえたものです。大きさ、形、模様といい、銅プラス錫プラス鉛の成分といい、本物の銅鐸と寸分違わず復元銅鐸を作りました。ところが作った久野さんがいつも「この音は実物とは違います」と言っています。現在のトップ技術で作っても厚さが分厚い物しかできないのです。今度、加茂岩倉遺跡で出土した一番いい銅鐸は2ミリです。現在2ミリで全部鋳物で仕上げる技術はありません。日本のトップレベルの技術者がいくら挑戦してもできないのです。現在の技術では厚さが5ミリぐらいが限度です。久野さんは復元銅鐸を旋盤で削れば薄くなるということを知っていますが、弥生時代の技術はすごいんだぞというので、彼は復元銅鐸を削っていないのです。だから久野さんはいつも「あの音は実は違います、弥生の音ではありません」と言っているのです。

 久野雄一さんは、2009年4月25日心不全のため逝去されました。

ひろてんさんのご指摘の「鋳造失敗説」傾聴に値すると思いますが、ただ出土した処に工房跡が見つからないことが説明がつきません。
再利用したと思われる「炉」の跡が見つかっている例はあるようです。

 僕も銅鐸が意図的に破壊されたとは思っていません。
今回実験を見に行きましたのは、復元銅鐸を実際に見たかったからです。
東大阪市の上田合金の上田富雄社長が、現在銅鐸研究に協力されています。

 写真の復元銅鐸を持たせてもらいましたが、「やはり重たい!」と実感しました。
復元モデルの銅鐸のデーターと全く同じなのですが、「重さ」だけが3倍近くありました。
結局、2mmの厚みでは現在の技術では作れないようで、5mm近くありました。