馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「脂肪燃焼」

2011年06月30日 | 雑学
TVコマーシャルや新聞・雑誌或はチラシ広告に「飲むだけで脂肪燃焼」と云った類いのものが溢れています。
これを飲むと「何故?脂肪が燃焼するの?」と思うのですが・・・。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」式の「怪しげな三段論法」なのでしょうが・・・・。
所が、前回「馬毛島」の「トノサマバッタ」の大発生を書きましたが、この「トノサマバッタ」が「脂肪燃焼」の「裏技」を持っている面白い昆虫なのです。

 名前が「トノサマバッタ」と言うので「日本特産」の様に思う人ともいますが、事実はその逆で、中東からロシヤに分布する「トビバッタ」の亜種で日本が分布の東端なのです。
トノサマバッタのほかにサバクトビバッタ(北アフリカ、中東、インド・・聖書などに出てくるもの)、アカトビバッタ(タンザニアアを中心に中部アフリカ)、チャイロトビバッタ(南アフリカ)、パンパストビバッタ(南北アメリカ大陸)、ロッキートビバッタ、オーストラリアトビバッタなどがあります。

 このトビバッタは有史以来大発生を繰り返し、人類と昆虫の闘いが続いています。そして、科学万能のこの時代にあってもこの闘いは解決のめどが着いていないのです。
 大発生をするトノサマバッタと通常草はらにいるトノサマバッタは別の種と考えられていました。
1921年、ロシア人の昆虫学者B・P・ウバロフがこの両者は全く同一のモノであることを発表しました。
今まで別種と思われていたのが、個体群密度の違いで引き起こされる単なる形態の違いであることを明らかにしました。
そして、高密度時の群生し活発に移動するタイプを「群生相」、低密度の群生しないタイプを「孤独相」、その中間のものを「転移相」と名付けました。

 群生相のバッタと孤独相のバッタでは同種でありながらいろいろな点で大きな違いが見られます。
体の色が群生相では「黒」に変色します。また、理由は分からないのですが前胸背の盛り上がりが孤独相の方が大きいそうです。
また、群生相のものは前翅長が相対的に長く、逆に後脚腿節長が相対的に短い、このことと相まって群生相の方が翼荷重が軽減されて長距離飛行に向いているなどの特徴があります。



通常、トノサマバッタは草むらで単独で生活をしています。そして、跳んでもせいぜい5m程度が普通です。
所が、大発生した「群生相」のトノサマバッタは、数百km記録では数千kmも飛翔し移動します。
開拓初期に十勝で発生した飛蝗も日高山脈を越えて石狩平野、札幌にまで群飛しました。なす術もなく軍隊が出動して「大砲」をぶっ放したそうです。

 孤独相のバッタの飛翔エネルギーは「炭水化物」で直ぐに燃焼してしまいます。
所が、群生相のバッタの飛翔エネルギーは「脂肪」で、脂肪はすこしずつ消費され、少量でもカロリーが高いので、長距離飛行ができるのだそうです。

 群生相のバッタが「飛翔」を始めると「炭水化物」から「脂肪」へとエネルギーの切り替えが行われるそうです。
これは、ペプチドホルモンと云うものが分泌されジグリセリドと云う脂肪が飛翔筋に運ばれエネルギーとして利用されるそうです。
 また、脂肪はそのままでは血液に溶けにくく、筋肉へは行きません。そこで、脂肪が血液に馴染み易いように包み、筋肉に運ぶ「リポポリン」と云うタンパク質が存在します。
この「リポポリン」を発見したのが北海道大学の茅野春雄です。
「リポポリン」という「運び屋」があって初めて「脂肪燃焼」が起こるのです。

 「燃焼系」と言われる「サプリメント」の効能を見ていても、このような「確証」があるようには思えません。
なにか「インチキ臭い」ものばかりです。
まァ、総理大臣が「ペテン師」の「能なし」の国では「燃焼系」サプリメントがよく売れても仕方ないか。



「馬毛島」に訓練基地移転か?

2011年06月28日 | 地名・地誌


政府は、「東京都・硫黄島で暫定実施している米軍空母艦載機部隊の陸上空母離着陸訓練(FCLP)の移転先として、鹿児島県西之表市の馬毛(まげ)島を検討していることを伝えた」というニュースがあります。
 FCLPとは「空母艦載機のパイロットが、陸上の滑走路を空母の甲板に見立てて離着陸の訓練」の事だそうです。

「馬毛島」は種子島の西約12キロにあり、民間開発会社が島の大部分を所有する無人島です。
この無人の「馬毛島」が一躍脚光を浴びたことがあります。
その時は、今回のように「基地移転」と言ったような「生臭い」事ではありませんでした。

 昭和61年~昭和62年(1986~7年)、面積820ヘクタール(周囲12km)の小さな無人島で「トノサマバッタ」が大発生した事があります。
以前、当ブログでも少し書いたことがありますが、日本ではトビバッタ「飛蝗」がoutbreakすることは非常に稀な珍しい出来事です。
 文献では江戸時代関東平野で幾度かそれらしき記事(太田蜀山人)が散見されますが確たる物証がありません。
明治に入ってからは明治13年~17年にかけて十勝平野を発生源とするトノサマバッタの大発生が有名です。
しかしこれらの例も特異なもので専門家は「今後も日本では飛蝗の大発生が起こる可能性は低い」としています。

 馬毛島でのoutbreakはNHKの取材映像が残されており、当時ニュースで放映されたので記憶されている方もあるかと思います。

 当時からつい最近まで、「開拓初期の十勝で大発生した蝗害」と「虫送り」という農村民俗行事をボチボチと調べていて、機会があればまとまったものとして刊行しようと思っていました。
そんな訳で「馬毛島」と云う名は大変懐かしい思い出のある名前です。
「基地移転」と云うような「生々しい」ことで話題になるとは複雑な思いです。

「黒蝶」(ダリヤ)が咲きました。

2011年06月25日 | 日記
ここ暫く「気忙しい」日が続きました。
別段、何時までに何をしなければならない、と云う事も無いのですが、何か心急かされるような余裕のない日々です。

 梅雨の中休みにしては「酷暑」です。
庭の植木や花の手入れを久し振りにしました。サボっていたので雑草がしっかり伸び放題です。
春先に鉢植えしておいたダリヤが満開になっています。
「黒蝶(コクチョウ)」と云う品種で最近人気の品種だそうです。
庭に出てみて不思議なことに気付きました。
今年は「蟻」と「蚊」の姿を全く見ないことです。何時もだと庭の茂みに近づくだけで「蚊」の群れに襲われ「痒くて」堪らないのですが、今年はそれが全くありません。
 また、忙しく「チョコマカ」と歩く回るはずの「蟻」が1匹も見られません。
何か異変でもあったのか?不思議なことです。

 最近、「散歩」と云うか目的も無く「ブラブラ」歩きをしていないのに気付きました。
所要のため自動車で目的地に行き、用を足せばまた車で戻って来る繰り返しです。
「そうだ!」「散歩をしよう」と箕面市の中心地を「ブラブラ」してみました。
箕面市役所の向かいに「箕面上下水道局」の庁舎があります。

その正面玄関に「水時計」があります。
2~3年前までは「日本でただ1つの水時計」と云う案内板があったのですが、いつ頃かその案内板は無くなりました。
ネットで「水時計」を検索しますと金沢駅前に巨大な「水時計」が設置されているのが分かりました。
この金沢の巨大水時計の出現で「日本唯一の水時計」の「謳い文句」が出来なくなったようです。

 福島原発事故のために「節電」が叫ばれています。
箕面上下水道局の部長のブログには「水道庁舎の正面玄関にある「水時計の停止」などを実施する予定です。皆さまのご理解、ご協力をお願いします。また、ご家庭においては、特に13時から16時の重点的な節電をお願いします」とあります。

 「浜岡原発全面停止」を得意満面で記者発表した内閣総理大臣が、同じ内閣で「休止中の原発の安全対策が完了した」ので「休止中の原発の再開」を「お願い」する記者会見をしています。
管轄大臣は通産大臣だそうです。
 所が「浜岡原発休止発表」の記者会見は、菅総理が横取りしたそうです。
「一将功成万骨枯」




「みそひともじ」の面白さ(3)

2011年06月24日 | 雑学
日本人は「折り句」と云う「言葉遊び」を平安時代初期の頃から楽しんでいたそうです。
一説には「万葉」の頃からだと云う人もいます。
 西洋にも同じような「言葉遊び」があるそうで「アクロスティック acrostic」と云うそうです。

 この「折り句」の一形式として「沓冠」「冠沓」(くつかぶり・くつかむり・くつこうぶり)と云うものがあります。
「沓冠」「冠沓」とは「ある語句を各句の初めと終わりとに一音ずつ詠み込むもの」(広辞苑)あります。


沓冠を用いて「借金を申し込む」話し、天皇の「謎かけ」を見事に解いた更衣の話し等、興味が尽きない物語が沢山あるようです。
 その一つとして兼好と頓阿の「沓冠の歌」の贈答の話しを見つけました。

 兼好、頓阿、慶運、浄弁は南北朝時代の四大歌人だそうです。
その兼好と頓阿が「沓冠の歌」の遣り取りをしたそうです。

兼好が、「よもすずしねざめのかりほた枕もま袖も秋にへだてなきかぜ」と送ったのに対して

頓阿が、「よるもうしねたくわがせこはてはこずなほざりにだにしばしとひませ」と応じました。

 兼好の各句の初めに「よねたまへ(米給へ)」と置き、各句の終わりに、下から「ぜにもほし(銭も欲し)」と置いて、「米給へ、銭も欲し」と言い送ったのに対して、            
 頓阿が各句の初めに「よねはなし(米は無し)」と置き、各句の終わりに、下から「ぜにすこし(銭少し)」と置いて、「米は無し、銭少し」と返したものです。
この謎解きはこちらへ

二人の歌が、それぞれ表面とは違った意味を伝えているところが、面白いところです。

友人から最初に「沓冠」の和歌をもらった時に「ブログのネタ」を提供してくれた旨の返礼をしました。
本来なら、頓阿のように気の利いた返歌をするべき所ですが、残念ながらその才がありません。

「みそひともじ」のおもしろさ(2)

2011年06月22日 | 雑学
同期生の友人から頂いた和歌は、高度の技が隠されています。

 「明日の日を 目守りて 立派な 屋を築き 救わる 読者 億まで数え」
    
  すのひを もりて っぱな をきずく くわるどくしゃ くまでかぞえ

5・7・5・・の各頭の文字(太字)を繋ぎ合わせると「あまりやすお」となります。
「折り句」と言われる「言葉遊び」の一種です。

 あすのひ まもり りっぱ やをきず すくわるどくしゃ おくまでかぞ

今度は、お尻から各節の末尾の文字(太字)を読むと「えしゃくなてを」となります。
友人の解説によると「えしゃくなてを」とは「得者宮南手を(人徳を得た者は宮の南手を面している;皇帝である)」と云うことなのだそうです。   
  
 「霧に中 早響く鐘 亡国は 憂きも気楽な 臭気満ちてし」

 りのな やひびく うこく きもきらく しゅうきみちて
 同様に読み解くと(太字)「きはぼうしゅ」=「季は芒種」、「しなはねか」「品は値か?」となります。
友人の解説には「6月5日は「芒種」で、その日に浮かんだものを」で「季節は芒種 品は値打ち物か?良く判らない)」「金は無し 集募破棄 (金は無いのに、集めた募ったものは破棄される)」となるそうです。
大震災の政府の無能ぶりを憂いたのもなのでしょうか。

 初めの「明日の日の・・」の句は、僕が当ブログをそろそろ閉鎖しようかと思っていることに対してのものです。
折り句であるから「語呂合わせ」もあり、歌の意味が大層なものになっていて気恥ずかしい限りです。

「みそひともじ」を捻り出すだけでも「おいそれ」と出来るものではないのに、「冠」と「踏」に「折り句」をするなんて云うう芸当はそんじょそこらの凡夫が真似できるものではありません。
ただただ「脱帽」

 和歌の世界では古来古くから日本人はこの「折り句」で「ことばあそび」を楽しんでいたそうです。





「みそひともじ」のおもしろさ。

2011年06月21日 | 雑学
青葉木菟(あをばづく)が鳴いてゐるよと告げきたに告げて応ふる人はあらずも  
今年の「歌会始」の永田和宏の一首です。
永田和宏は現代日本歌壇を牽引する歌人だそうです。永田和宏と云う方は奥さん共々「歌会始」の選者をされている人だそうです。その奥さん・河野裕子は昨年の8月に亡くなられたそうで「応ふる人はあらずも」とは他ならぬ「奥さん・河野裕子」のことでしょう。
 歌人として日本歌壇で活躍している永田和宏と云う人は「分子生物学」の分野でも有名な研究者だそうです。

 当・馬糞風を愛読して頂いている今高の同期生の友人が、事あるごとに励ましのメールを送ってくれます。
「ブログ開設3周年」の時も温かい「応援メール」を頂戴しました。

明日の日を 目守りて 立派な 屋を築き 救わる 読者 億まで数え

霧に中 早響く鐘 亡国は 憂きも気楽な 臭気満ちてし

他にも何種かの和歌を添えられていました。
何か気の利いた「返歌」でもと思うのですが風雅の嗜みがありませんのでついつい失礼を重ねています。

不調法の言い訳に「北海道の牛馬大学」で「文学」まして「風雅」の世界とは縁が無いことを口実にしようと思っていました。
所が、永田和宏のように分子生物学の世界に荷を置きながら「和歌」を嗜む人がいると、「牛馬大学」だからとは言い難くなります。

 因みに「和歌」を送ってくれた同期生も大阪大学で「生物物理」の先生でした。
どうも僕の教養の浅さが原因のようで恥じ入るばかりです。

 次回は
  
明日の日を 目守りて 立派な 屋を築き 救わる 読者 億まで数え

霧に中 早響く鐘 亡国は 憂きも気楽な 臭気満ちてし

この歌には「言葉」が隠されています。
お分かりですか?



ブログ開設3周年。ありがとうございます。

2011年06月17日 | 日記
今日17日から当ブログ「馬糞風」は3年目に入ります。
開設当初は1日のアクセス数が8人~15人と淋しいものでした。2~3ヶ月経つと25~30人前後まで増えてきました。
 当ブログの目的は、今高15期3年4組のHPへ少しでも誘導できれば、と云うことで「応援ブログ」のつもりで始めました。
クラスメートの数からすると50前後のアクセクがあれば役割を果たせたかなァ、と云う所です。
その50前後もしばらくするとほぼ安定して毎日クリアするようになり一安心しました。

 昨年の6月、2年目に突入する頃は100~120人前後までアクセス数が増え、突発的に200や300と云うアクセクがある時も出てきました。
昨年の秋口から急にアクセスが増えだし300前後のアクセスがありました。
また、今年になってからまたグーンと訪問者が増えたようです。

 gooブログを利用しているのですが、毎日1,550,000~1,600,000件前後のブログが公開されているようです。
そして、その百数十万件の中で上位10,000位以内のアクセスがあるブログにはランク付けされます。
当馬糞風も最近はランク入りすることも度々あるようです。

 応援ブログから可なり横道に逸れてしまった気もするのですが、「閲覧元UL」はやはり「今高15期3年4組」HPが断然多い所を見ると強ち「お役」に立っていないことも無いようです。

 毎日の新聞・TVからの「話題」はなるべく避ける、政治ネタも極力避ける、阪神タイガースも触れない、・・・・など自分なりに一応のガイドラインを維持しながら「ボチボチ」続けてみます。

ここ1週間の「梅雨の話」は将に「梅雨の長雨」のように「飽き飽き」されたと思いますが、所要が重なり忙しくなるため「前もって書き溜めた」たものを「予約投稿」したものですから「新鮮味」に欠けたかも知れません。
出来るだけ「新ネタ」をUPするように努めます。

これからも「ご愛読」の程お願いいたします。


梅雨の話・・・・(6)

2011年06月16日 | 雑学
「五月雨」などと言われていた長雨が江戸時代の初期の頃から「梅雨」や「つゆ」と云う表現に変っていったようです。

以下のことは「梅雨のはなし(3)」に登場した「倍雨」を信奉する「困ったサン」に教授先生が説明のため作成した資料を拝借したものです。ただ、「困ったサン」がこの資料を見ても殆ど理解できなかったそうです。教授先生曰く「中高生以下の知識レベル」で「そのくせ人の話を全く聞かず」「団子理屈をこねくり回す」「とんでもないヤツ」だったそうです。
 冷静に考えれば「そんなヤツ」だからこそ「常識では考えられない」「常人であれば恥ずかしくて言えないような」そんなことを平気で言えるのでしょうが・・・。また、「そんなヤツ」に真面目に応対しようとするのも学者と云う特異な生き物だからでしょうか・・・・・!?

「攝津名所圖會」に、東下の鷲尾氏と原野の栗花落氏の屋敷が山田の庄を二分する豪壮な邸宅が描かれている。
この栗花落氏の屋敷跡にある弁財天(写真)の床下に、普段は干上がってるのに梅雨(つゆ)の頃になると必ず清水が湧き出し、どんな日照りでも涸れることのない不思議な井戸がある。
 この井戸が「栗花落(つゆ)の井」と呼ばれるようになったのは、現 兵庫区都由(つゆ)乃町の「栗花(つゆ)の森」に
白瀧姫を祀る祠があり、日照りに苦しむ里人をあわれに思った白瀧姫が地面に杖を突き立てたところ清水がこんこんと湧き出たという伝説が残っている。

 「つゆ」の語源を「ついり」とする。室町時代の古辞書『文明本節用集』時節門に、「〓〔雨+咢ツユ〕又作墜栗〔ツユ〕」の用字が収載されている。
「易林本節用集」乾坤門には、「墜栗花〔ツイリ〕霖雨」とある。
これは、「青梅」より長雨にけぶる「栗」の花が墜ちる頃という詩的情景語の意味から「ツイくり」の語が「thuikuri」>「thuyiri」=「thuyu」と表現され、やがて「梅」の実による生活指向が進むに連れ、文字表記も詩的情景語「栗の花」から実的生活語「梅(の実)」に変じたかというところか。
連歌『至宝抄』(天正十三年頃成立)に「中乃なつ 一、五月雨〔サミダレ〕梅乃雨〔ムメノアメ〕と申す五月雨の事也」や『無言抄』(慶長二年成立)に、「梅雨 近来このまさることはなり」同書「一、梅雨 不審と新式にあるハ梅の雨ハ実の色つく時分ふる雨也。五月雨の事也。
「一、梅の雨 昔ハおほし。夢菴の句なとに有。
「はなひ草」に、「五月 五月雨〔さみたれ〕。墜栗花〔ついりか〕。「梅の雨」などと「梅雨」の表記が見えている。






梅雨の話・・・・(5)

2011年06月15日 | 雑学
「栗花落」「墜栗花」「五月七日」を何故「つゆり」「つゆ」と読むのかは、「梅雨の話(4)」の伝承ではよく分かりません。
「栗花落の井」にはもう1つ次の様な伝承があります。

 昔あるところに、水無瀬殿という大臣がいた。
彼は露姫という摂津国第一の美女を娶ったが、露姫は一年も経たぬうちに亡くなった。
大臣は悲しみのあまり、庭先に一宇の堂を建て、妻の霊を祀った。
栗の花の落ちる頃なので、露姫の代りに栗花落姫と当てた。
妻の遺言により堂脇に井戸を掘り、朝夕、水を汲んでは飲んだ。
水はどんな時でも涸れることなく、評判になり、水をもらいに来る者も出た。
堂宇はいつの間にか栗花落(つゆり)神社と呼ばれ、霊水は雨乞いの呼び水として知られるようになったという。
そして旧暦五月七日に栗花落祭りという雨乞いの祭りを行うので、この読み方のになったとのこと。

 この伝承の方が「栗花落」「墜栗花」「五月七日」を何故「つゆり」「つゆ」と読むのかの説明になっているようです。
この様な伝承や地名説話の多くは「後付け」の「こじ付け」で「本当のところ」がよく分からなくなっています。
学者先生の仕事は、そのような「縺れた糸」を地道にコツコツと解きほぐすことです。



梅雨の話・・・・(4)

2011年06月14日 | 雑学
摂津の国(現・兵庫県神戸市北区山田町原野)の限られた地区に「栗花落」「墜栗花」或は「五月七日」と云う「苗字」があります。
神戸市北区山田町原野に「栗花落(つゆ)の井」という井戸があります。写真は入口に立てられた表示板です。
「栗花落」「墜栗花」「五月七日」いづれも「つゆり」「つゆ」と読みます。
珍名・難読辞典には必ず載っている珍しくまた難しい読みの苗字です。



栗落花の井の前にある「栗花落武一」奉納の石碑です。

栗花落」「墜栗花」「五月七日」を「つゆり」「つゆ」と読む事については複数の伝承がありますが、どれも大筋は同じものです。ここでは地元に伝わる代表的なモノを紹介します。


由来は奈良時代にさかのぼります。
 淳仁天皇(在位七五八―七六四年)に仕えていた当地の郡司・山田左衛門尉真勝が右大臣の二女・白滝姫に身分違いの恋をした。天皇の仲介で恋は成就し二人は結ばれた。ところが姫は三年後に亡くなってしまう。悲しみにくれた真勝は、ここに社を建て弁財天を祭った。
 水が湧き始めたのはそれからだ。毎年入梅のころ、社の前の池に水が満たされるようになった。
伝え聞いた天皇は、真勝に「栗花落」姓を与え、井戸にも名が付いたのだという。
そして旧暦五月七日に栗花落祭りという雨乞いの祭りを行うので、この読み方のになったとのことだそうです。

 また、香川県高松市にある和菓子屋に「栗花落(ついり)」と云う銘菓があります。

奈良町界隈を散策してきました。

2011年06月13日 | ドライブ・旅行
6月11日(土)、厚い雨雲に覆われてはいましたが雨粒は落ちてきそうでも無いので知人の頼まれ物の「泥墨」を買うために奈良に行きました。

 猿沢池の近くの駐車場に車を止めて「奈良町」界隈を散策しました。京都とは違った古都の街並みは「ホット」とする風情があります。
 両側に古い町家の立ち並ぶ路地の一角に「奈良市杉岡華邨書道美術館」があります。
現在「尾崎邑鵬と門人展」と云うのが開かれていましたので覗いてみました。写真撮影禁止のためにwebギャラリーで作品をご覧下さい。(メニューバーのwebギャラリーをクリック)

尾崎邑鵬 「周而復始」・・・めぐりてまたはじまる。(碧巌録の句)
尾崎邑鵬 「若草山眺望」・・「遠望金峯近木川 下看寧楽萬家連 幽人別有苦吟處 幾點歸鴉閃暮天」
辻元邑園 「善隣」
石田雲鶴 「淮南子説林訓語句」
三岡天邑 「唐・項斯詩」・・「月落江路黒 前邨人語稀 幾家深樹裏 一火夜漁歸」
などを含めて三〇数点が展示されていました。

 昼食を取るために近鉄奈良駅の方に「ならまち通り・西寺林商店街」歩いていたら「ギャラリー勇斎」と云う所で「ZOO exhibition」と云う作品展をしていました。

 クラフト、写真、絵画、陶芸・・・など動物をモチーフにした作品が並んでいました。
僕にはあまり心の動くモノはありませんでしたが展示室の一番奥にひっそりと展示された二体の焼物の「ふくろう」がありました。

ギャラリーの片隅で「光って」いました。
他の作品には「売価」が貼ってありますが、この「ふくろう」には「売価」が付いていませんでした。
      
もし手持ちの「お金」で賄えるものなら「買ってもいい」と思いました。
作者は「羽倉正」と言う人です。


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梅雨の話・・・(3)

2011年06月10日 | 雑学
今時の大学の先生は安閑として学問に没頭している訳にはいかないのだそうです。
小泉改革の頃から大学の先生も非常に厳しい環境になったそうです。

 僕のお知り合いに関西では名門私大で国文学を研究している教授先生がいます。専門は近世江戸期の庶民文学だそうで、専門分野の関係で関西の芸能関係の人がよく訪ねてくるようです。中には落語界の重鎮と言われる人気落語家が教えを請いに来ることもあります。

 所が「小泉改革」とか「少子化」とかで大学経営も生き残りを賭けた生存競争に突入すると、天下の○○大学の大先生と言えども学生集めのために高等学校廻りのセールス活動をさせられたり、オープンキャンパスとやらで「漫談」紛いの講演会をさせられたりと・・・、大先生にとっては「屈辱」の一語に尽きる仕事が増えてきたそうです。そして、この大先生の最大の屈辱は、「ろくに日本語も喋れないバカ学生が、教授や講義内容を評価」することだそうです。「やってられくか!」と憤懣やるかたなし・・。

この大学で地域との交流を深めると云う趣旨で「地域交流公開講座」が開かれたそうです。
その一環で件の先生も講座を待たされたそうです。
その講座の中で「梅雨」の語源を話題にし「普段の倍の雨が降るからバイ雨」と云う、と軽い冗談のつもりで喋ったそうです。

 所が、一人の紳士がえらくその説に反応したそうで、「先生は俗説と頭から問題にしていないが・・」と食付いてきたそうです。
教授先生は、本題に戻り話を進めたいので「まァ、語呂合わせです」「常識的に考えてもあり得ない話です」と軽く交わしてその日は終わったそうです。
 そんなこともすっかり忘れて次の講座を始めようとした時、前回の紳士が「倍降るからバイ雨」説を延々と喋りだしました。
他の聴講の人たちに迷惑がかかるので辞めるように注意しても一向に辞める気配も無く、仕方なく日時を改めて個人的に話を聞く、と云うことでその場は収まったそうです。

後日、研究室で話を聞きました。60歳過ぎで別段特異な人物でもなさそうで、むしろ生真面目で人柄も穏やかな紳士という印象を持ったそうです。自己紹介によるとこの大学の商学部卒業生で、現在公認会計士として個人事務所を開いているそうです。
 教授先生は、概略を教えれば簡単に納得させられると解説を始めた所、一変して攻撃的になり「論拠」は何ですか?などと噛みつき、端から会話が成立しない状態になったそうです。そして、理屈にもならない理屈を並べ立て、どうしても「雨が倍降るから梅雨だ」と言い張るのだそうです。

 その後も突然訪れてきて「理科年表」や気象データーを広げて自説を展開するのですが、驚くほど幼稚で知識の集積も無いのに何処で聞きかじったのか「難しい術語を駆使して・・「梅雨前線が・・・」「温帯モンスーンで収束前線が・・」などと・・。
1年近くこの紳士の「倍雨」攻撃に悩まされたそうです。

 この話を同僚の歴史の先生にすると、歴史講座にはそんな連中が「ワンさ」といるヨ、とのことです。
そして、歴史の先生の分析によると、このタイプの人達には幾つかの共通点があるそうです。その共通点の1つに「普段、1人で仕事をしている人」があります。確かに件の紳士も公認会計士として個人事務所を開設していますし、その他の点にも歴史の先生の分析した項目と一致する要素を見いだせたそうです。

 そして、歴史の教授のこういう人達への対処方法は、兎に角関り合いになるな、無視することが一番なんだそうです。
間違えても親切に「教育」しようとか「矯正」しようとか「説得」しようとかしないことだそうです。
こんな連中は「オウム真理教の信者」と同じで、莫大なエネルギーを費やし、時には自らも傷つきながら「説得」しても多くの場合は不成功に終わり、また成功してもその益は全く無きに等しいのだそうです。

 


西郷隆盛の懐中時計・・・・(2)

2011年06月08日 | 歴史
当ブログで「西郷隆盛の懐中時計」を取り上げたことがあります。
 同窓生の親睦を目的としている当ブログですが、あれやこれやと取り留めもないことを書き弄っていますと目的から外れた話題もUPすることになります。
そんな中に「西郷の・・」もありますが、同窓生以外の方からのアクセスも結構多いようで、定期的に当ブログを訪問して頂いているようです。
 しかし、「西郷隆盛の懐中時計」はご期待(?)に反して前回以降何の新しい情報もなく申し訳ないことになっています。
そこで、今回は差障りのない程度で取り上げたいと思います。

 懐中時計やポケットウオッチのことを業界用語で「提時計」と云うそうです。
西郷隆盛のLONGINSは、どうも「1867年6月」製造と云う事のようです。
時計が進歩する過程の過渡期でもあったようで、新旧両タイプの構造を持っているそうで「提時計機械構造上、珍しい形です」とのことです。

 鹿児島県立博物館「黎明館」に西郷隆盛が愛用した懐中時計がもう1つ展示されているそうです。
「金側提時計です。天保暦表示に基づき、江戸幕府との戦争の指揮に使われたでしょう。ボロボロになった特殊な太いよりヒモの提時計ヒモと共に、ゼンマイ回し用の巻きカギはありません」と云うことです。
この懐中時計は「イギリスのロンドン造幣局の刻印入り」で「難しい特殊アルファベット」が刻まれているそうです。
「1842年」の製造との見解もあるそうです。

 この時計は、「機械を作り、機械内部をお見せすることが出来るでしょう。鹿児島県の博物館に置いてあります」と時計師の先生は言われているそうです。

機械の構造など詳しいことは、いずれ業界内の会報などで公表されると思いますが、現在公にされていませんので風の噂で聞いた範囲内で、問題のない所をこれまた風の噂で伝え聞き書いてみました。

梅雨の話・・・・(2)

2011年06月07日 | 雑学
永井荷風の小説に「つゆのあとさき」というのがあります。
こんな小説は高校生の16や17のガキが読むモノではありません。ただ、高校生になって一番変わったのは読書量が増えたことです。それも今までは頭に「子供○○」「少年XX]といった「子供仕様」の活字も大きく、文章も平易に書き換えられた本でした。が、高校生になると大人仕様の例えば「岩波文庫」のような活字も小さく文章もそのままのものを読みだしました。
 「つゆのあとさき」もこの頃読んだ記憶がありますが、随分と大人の女性を見る目が変った気がします。
話が横道に逸れますから、小説の話はこれ位に・・・。

 「つゆ」を漢字で「梅雨」と書きます。
「梅雨の語源」については沢山の本にも出ていますし、ネット上でも多くのサイトがあります。
語源については諸説あるようで、どれもこれも「モットも」と思えるものばかりですがハッキリと分かっている訳ではないそうです。

 「つゆ」と云う言い方は比較的新しいようで、江戸時代になってからだと云われています。
もともと「つゆ」は「五月雨」「芒種雨」「水取雨」「麦雨」「長雨」などと言われていたようです。
 
「梅雨」という表現は「江戸時代」になってからと云うのは一致しています。
1、梅が実る頃に降ることから「梅雨」となった。
2、中国で使われていた「黴雨=バイウ」が伝わり、語感が悪いので「梅雨」とした。
3、「梅」のつくりになっている「毎」は、連続して雨が降る梅雨」とした。
4、この時期は普段の「倍」雨が降るから「倍雨」が「梅雨」となった。
 などなどです。

「つゆ」と云う語源についても諸説あり、確定はしていません。
1、「露」から来ている。
2、「つぶれる」を意味する「潰ゆ(ついゆ、つゆ)」から来ている。

 これらは裏付けになる古文書などが残っている訳ではありませんので、推論でしかありません。
ですから、何方かが「いや、恐らくこうであろう」と新説を出しても「いや!それは違う」と断言はできないのです。
そこで、珍説・妄説が百出することになります。

 次回は「この時期は普段の「倍」雨が降るから「倍雨」が「梅雨」となった」と主張する公認会計士と有名私大・国文学科の教授の話を書きます。 



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梅雨の話・・・・(1)

2011年06月04日 | 雑学
今年の梅雨入りは平年より12日も早いそうです。早いから梅雨明けも早いかと云ううとそうでもないそうで、7月14日頃と予想されています。

 5月28日(土)~6月3日(金)の1週間の天気と僕の生活とを振りかえってみます。
5月28日(土):天気図のように台風2号と梅雨前線の活動で朝から「雨」
         西宮の酒蔵街・竹葉亭で会食。改装なったアベノのショッピングモールへ。鶴橋のコリアン街で焼き肉。
5月29日(日):台風2号通過で風、雨共に強く荒れた天気。
         滋賀県坂本・鶴喜屋で「そば」堅田・浮御堂、近江八幡、長浜へ。
5月30日(月):午前中まで雨が残る。午後から曇り・小雨。
         大阪美ゝ卯で「うどんすき」知人を送って新大阪へ。
5月31日(火):1日厚い雲に覆われたうっとうしい日。
         介護ケアーセンターなど。
6月 1日(水):梅雨空、雨が降ったり止んだりの梅雨空。
         今高4組の仲間と豊岡・出石・柏原へドライブ。        
6月 2日(木):曇り小雨
         在宅。
6月 3日(金):曇り小雨
         在宅。

この1週間は、前半台風の影響もあり強い雨の日もありましたが、じとじとと続く典型的な梅雨の振り方よりも、どんよりとした鬱陶しい曇り空の多いようでした。



4日(土)は天気図のように一転して「快晴」の1日でした。
昔は、この様な天気を「五月晴れ」と言ったそうです。
そう言えば「梅雨」のことは「五月雨」と言っていましたから、梅雨の合間の晴れを五月晴れなのでしょう。
旧暦と新暦との時間差が生んだ言葉の齟齬です。