馬糞風リターンズ

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「倭人と文字の出会い」(府立近つ飛鳥博物館)へ行きました。

2011年04月29日 | 歴史
ゴールデンウイークの初日29日(金)、大阪府立近つ飛鳥博物館に行ってきました。
連休初日、好天とあって高速道路は大渋滞です。
 
桜も終わり、藤・ツツジが見事に咲き誇る二上山山麓葉室の里は絶好のハイキングコースで、竹ノ内街道・叡福寺聖徳太子廟・推古天皇墓から流れてくるハイカーが列をなしていました。
また、博物館の巨大なテラスでは地元南河内の高等学校4校の軽音楽部のコンサートも行われ、場所柄に似合わない賑やかで華やかです。
 館内も珍しく多くの観覧者がいました。展示館の一廓では「第3回ふるさと俳画展」もあり、30点ばかりの作品が展示されていて、出品者や会員、愛好者が大勢訪れていました。

「倭人と文字の出会い」と云う特別展は、当博物館・文化庁・朝日新聞が主催し堺市・太子町・河南町・近畿日本鉄道などが後援しています。
特別展趣旨案内には「倭人は、中国や朝鮮半島との交流の中で漢字を受け入れ、学び使いこなし、徐々に独自の 文字世界を作り上げてきました。
文字は「記録」としての重要性とともに、国家の形成や王権、 そして支配とも深く結びついた存在です。
私たちは、文献資料以外のさまざまな文字資料を通じて、古代の日本の歴史と文化を豊かにより深く学ぶことができます。
この展示では、発掘された文字資料を中心に倭人と文字の歴史を考えていきます。
弥生時代から古墳時代、そして飛鳥時代にかけて、倭人たちがどのように文字を使い、記録して きたのか、文字によって明らかにされる倭人の歴史にスポットをあててみたいと思います。」とあります。

プロローグ(倭人がはじめてみた・ふれた文字)
 倭人が始めて出会った文字は中国や朝鮮半島からもたらされた金印や鏡・銭などを展示しています。
主な展示品は、「漢委奴國王」の志賀島出土の金印。教科書などに写真が乗っていますが実物は非常に小さく印面の一辺は2.23cm(漢時代の一寸)の大きさです。
この金印については「後漢書」東夷伝、光武帝建武中元二(57)年「倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」と云う記録に合致することから「漢の倭の奴の国王」と訓むのが素直で、他の一連の事象との整合性もあるように思います。
 しかしこの「漢委奴國王」は「邪馬台国論争」にたびたび登場、議論百出でいろいろな「読み方」をする人がいますが、どれもこれもかなり無理がある様に思います。

中国の異民族支配の伝統的な手法として「冊封体制」がありますが、この金印の文字はその「冊封」の象徴です。
「漢」は王朝名、「倭」と云う民族の「奴」と云う部族、「国王」は外臣を格付けする五段階の筆頭で領域の支配権を保証した事を表しています。

 あまり独自性を出そうとして「井戸を深く掘り過ぎる」人がいるようです。



ワンクリックにご注意!・・・アダルトサイトは怖いヨ

2011年04月22日 | 日記
「小人閑居して不善を為す」
雨も降るし、することも無いのでアダルトサイトにアクセスして無料動画を楽しんでいました。
クリックする度に次々とサイトに飛んで行きます。

知らないうちに「有料サイト」をダウーンロードしたようで、入会の通知と2日以内に3万円を振り込むよう二・・・・、との画面が表示されました。
この画面はインターネットを切っても、PCをシャットダウーンしても再起動すると現れます。
振り込みが確認されれば「この画面は消える」仕掛けになっているようです。

 ここで慌てて会員登録などしてしまうと相手の「思う壺」です。
この時点では、相手にはプロバイダーまでの情報しか分からず、個人の情報は分かりません。
また、「電子商取引・・・」何とかと云う法律で、この契約は無効だそうです。
ですから「無視」すれば問題ないのですが、この「アダルト有料サイト入会」の画面が何時までも表示されます。

 嫁さんとPCを共同で使用してますから、これは困ったもんです。
嫁さんに知られたら「フライパン」で頭を「ガ~」と殴られます。

こんな場合「IPA独立法人情報処理推進機構」のHPにアクセスすれば問題は解決します。
このサイトの「情報セキュリティー」に解決方法が記載されています。

 ご同病の御同輩、くれぐれもご注意を!

「塩」と「鹽」

2011年04月20日 | 歴史
写真は復元された塩田(赤穂塩田公園)

塩と云うものはいろいろと面白い話題が尽きない代物です。
昨日、塩の道祭のことに触れましたが、不思議なことに「塩」の神さんは居ないのです。
東日本大災害にあわれた鹽竃神社の祭神は「塩竃」と言う「製塩道具」です。
また、日本神話には「ワタツミ」の様な「海の神」や「潮」の神様は登場しますが、「塩」そのものを「神」とする事はありません。これはまことに不思議なことだと思うのですが、学者先生でも諸説あり、なかなか納得する説明に出くわしたことがありません。
 また、海洋深層水の広告などで体液と海水の塩分濃度が同じなどと言うモノを見かけますが、どうもインチキの様です。
海水の塩分濃度は場所により当然「濃い薄い」がありますが、この塩分濃度の差が、地球の海水に「海流」と云うものを生み出した1要素だそうです。

 徒然草に面白い話があります。短い文章なので全文掲載しておきます。
医師篤成、故法皇の御前に候ひて、供御の参りけるに、「今参り侍る供御の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。 一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、「有房、ついでに物習ひ侍らん」とて、「先づ、『しほ』といふ文字は、いづれの偏にか侍らん」と問はれたりけるに、「土偏に候ふ」と申したりければ、「才の程、既にあらはれにたり今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし」と申されけるにどよみに成りて、罷り出でにけり。

 学才を鼻に掛けた篤成に対して有房卿が「しほ=しおと云う文字は何偏か?」と尋ねたところ篤成が「土偏」と答えます。
そうすると有房卿は「学識の程は、それでもうわかってしまった。もう結構です。これ以上聞きたいことはありません」と言うと一座の人々が大笑いし、篤成は退出した、という内容です。

 貴族社会の陰険さをまざまざと伝える話ですが、この件の解説文に「・・・1つの陥穽を持っていた・・」とまた何とも気取った事が書かれていました。僕は貴族や文化人とはお付き合いはできそうにありません。

しほ(しおの古語)という漢字は「塩」「鹽」とがあります。
(これ以外にも「しお」と言う漢字は他にも数種類あるようですが・・)

鹽は「鹵の部」13画(鹵自体に天然塩、岩塩の意味がある)
塩は「土の部」10画
漢和辞典をみると「塩」は「鹽」の俗字とあります。(諸橋・大漢和辞典でも白川静の一連の辞書でも)

 中国の古い文献に「天生は鹵と曰ひ 人生を鹽と曰ふ」とあります。
また、日本においては「塩」と言う文字はかなり古くから輸入されていたようで、古文献・古写本では通用され特に「本草和名」「医心方」などは全て「塩」が使用されていたそうです。(だから医師の篤成が「土偏」と答えたのは当然のことです)

 漢字は、幾多の変遷を経て成立して行きます。現在使用している「漢字」は秦の始皇帝が整理統合したものを基礎にしていると言われています。
中国から文字を輸入してきた日本でも、その流れの中で漢字を使用してきました。古事記と日本書紀では使用した漢字(音韻も含めて)のベースが違うため、地名・人名に仮借する文字が全く違ってきます。

 「鹽」の文字は「宋」王朝で再編された「文字列」として日本に入って来たようで、医者の篤成がこの新来の文字を知らなかった事を「才の程、既にあらはれにたり」と評価されたようです。

「鹽」と「塩」は本来別の成り立ちを持つ文字です。それが世界に誇る漢字研究の偉人・諸橋博士、白川博士が「塩」は「鹽」の俗字とされるのは僕にはよく分かりません。更に深いモノがあるのだろうと思われます。

※ この項を書き終わり、ネット検索していたら以前当ブログに書き込みをして頂いた「葛の葉」さんのHPに既に「塩は何偏」という記事をUPされていました。また葛の葉さんのHPに僕のブログを紹介して頂いたコーナーもありました。
汗顔の至りです。僕の「才の程、既にあらはれにたり」この辺りで退出します。

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恒例・白馬村ツァー・…今年は「塩の道祭」に参加。

2011年04月18日 | 日記
今高15期3年4組HPで長野県白馬村ツァーの参加を呼びかけています。
白馬村訪問は、3年4組の恒例行事として定着した感があります。
今年は「白馬村ロッジ」のオーナー太田さんの提案・企画で「塩の道祭り」に参加して「千国街道」を歩き、民俗・歴史を学びながら地元の人たちと交流するものです。
地元の事情に精通された太田さんの企画ですから飛び入りではない楽しい体験が期待できます。
北アルプスの山並みを背景に花真っ盛りの千国街道ウォークはさぞ楽しい事だろうと思います。

 前にも書いたかも知れませんが、このルートは日本海方面から糸魚川・姫川を遡上して3千m級の険しい山を越えて、松本・諏訪から塩尻への古代からの交易路です。
塩尻と言う地名からも「塩」の搬入路で「塩街道」とも言われます。
全国にはこの様な交易路が沢山あります。近畿地方では舞鶴・宮津から由良川を遡り福知山に至るルートなどが有名です。

 塩の道や鯖街道、また世界地図ではシルクロードと呼ばれる交易路があります。
言うまでも無く塩の道・鯖街道・シルクロードであれ「塩・鯖・絹」だけを運んでいた訳ではありません。

 「塩」については、現地で見聞することになりますからその時の改めてレポートします。
姫川・糸魚川を遡上して諏訪に至るこのルートは、どうも縄文時代からあったようです。
和田峠産の黒曜石で作られた「鏃」が全国各地広い範囲に分布しています。有名なものでは三内丸山遺跡からも出土したそうです。
 諏訪大社のご祭神「建御名方神」は、古事記の「大国主の国譲り」に登場する神さんです。
建御名方神は出雲から諏訪に逃れてきます。また、建御名方神の母は「沼河比売」というお名前です。
万葉集に
「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」と言う詠み人知らずの詩があります。
この渟名河は沼河で現在の「姫川」とされています。そして、「底なる玉」とは姫川に産する「ヒスイ」の事と解釈されています。

 この地域を「安曇野」といいます。「アズミ」とは言うまでも無く「海人族」のことです。
この列島に流れ着いた海人族が、勢力を拡大して行く中で、海岸線から川を遡って内陸に移動する様子が伺える所です。
仁科三湖と呼ばれる「青木湖・中綱湖・木崎湖」には「ソリ舟」と言う出雲系統の舟が残っているそうです。

 中世・近世以降、「塩の道」という物流の象徴的な名称で呼ばれるようになりましたが、縄文の太古からの営々とした日本民族の足跡が残る道筋です。

[茶筅作り体験」余談・・「荼」と「茶」

2011年04月14日 | 雑学
」(ダ)  「」(チャ・サ)
「荼」は「荼毘」などの梵語の音訳以外に使用することは無いようです。
現在は「茶」の異体字の様に使用しているようです。
写真の掛川茶の商品名も「荼三郎」(チャサブロウ)と読ませているそうです。

 日本の古代について考える時、国語学的な分析で案外簡単に固有植物と外来植物を区別できることがある。
日本人が「さくら」と呼んでいた木を、漢字と中国語を知った日本人は中国ではそれが「オウ」と呼び、「桜」と書くことを知った。そこでこの字を「オウ」と読む音読みと、「さくら」と読んでしまう訓読みが成立したのである。 この場合は固有植物である。
 一方、「万葉集」にまったく出てこない菊(キク)のように、 奈良時代以後にはじめて渡来した植物には本来の日本語がなく、したがって訓読みがない。
 「茶」もまた中国音を写した音読み「サ、チャ」しかなく、日本固有の呼び名にもとづく訓読みがないのである。
それは茶が中国の漢字よりあとになって日本に伝わったものであることを示していることになる。

 中国でチャをあらわす漢字として、古くは「」が使われていた。
日本では曼荼羅、荼毘、荼枳尼天という仏教語に使われるが、いずれも梵語に由来する仏教語のダという音に漢字をあてたもので、一般的には使われない。
 中国でこの字は本来はニガナ(苦莱)、すなわち苦みをもっ野菜を意味していたが、その正体については諸説がある。
それがチャをも意味するようになったのだが、苦みをもった餅茶がなんの葉を乾燥させてつくられたかがわからず、発音が近いか同じだった「茶」からつくられたと誤解されたためらしい

 ダとチャが別のものであることがわかり、七三五年に唐の玄宗皇帝が撰した「開元文字音義』(散逸して現存しない)で、横棒の一本少ない「茶」の字がつくられたとされる。したがっ て七六O年頃に書かれた「茶経』より以前の文献にみられる茶は、実は荼と書かれていたのであって、内容から茶のことと判断されたものである。

正倉院文書などの「荼」
もっとも、茶の字がつくられたとしても、しばらくは荼の字が茶の意味でも使われ続けただろう。唐の都長安から遠く離れた日本ではなおさらである。

 そうした時期の正倉院文書に「荼」があらわれるのである。 天平十一年(七三九)八月十一日の「写経司解」がある。
この荼は茶ではないと解釈されるのである。 正倉院文書には、こうした「荼」の用例が31例あるそうです。

 近年発掘されるようになった奈良時代の木簡からも「荼」を書いたものが二点見つかっている。
ひとつは長屋王邸跡、もうひとつは平城京左京二条二坊二条大路濠状遺構から出土したそうです。
2点とも、記載内容などから「荼」とされた品物は「茶」である可能性が高いと考える人もいる。
 将来「茶」の字がはっきり書かれた木簡が発見されることを期待したいが、少なくとも現在 までに発見された木簡の「荼」については、やはり茶とみるべきではないだろう。

 また、音声学の立場から「荼」(ダ)「茶」(チャ・サ)が漢音、呉音に無いことなどから、方言を仮借したのが日本語に定着したとの見解もあります。

 これらは、日本への「茶」の渡来・飲茶史の解明につながります。
更に、漢字と云う外国語を使用して日本語を確立する過程の解明の一助にもなります。



[茶筅」OR[茶筌」?・・湧三さんへ

2011年04月12日 | 雑学
4月11日、奈良県生駒市高山で「茶筅作り体験」をしました。

詳しくは今高15期3年4組HP掲示板をご覧下さい。

 
「ちゃせん」を変換しますと「茶筅」と表記されます。
ここ高山では「茶筌」と表記している工房が圧倒的に多いようです。

 一緒に行った人からメールで「筅」と「筌」について調べたことを送ってきました。
筅と筌の違いについてです。pcと電子辞書で調べてみました。

◎筅(せん、ささら):ささらは先端が細かく割れること 
◎筌(せん、うえ):うえ=うけ;細かく割った竹を編んで筒形あるいは籠状に作り、水中に沈めて魚・エ ビなどをとる(入ったら出られないように変えしがついている)漁具。とありました。
要するに、筅は竹をどれ程に細かく裂くかと言うことに重きを置き、筌は細かく割ったうえで返しに重点をおいた作りを目指しているのではと思いました。」

「茶筅」イワレ。
茶筅は中国で発明されたようです。
中国では茶筅が発明される前は、 茶を入れた金属製の茶匙で激しく攪拌した。それを「撃払」(げきふつ)という。
当然建盞(けんさん)※1の底が傷つくことになります。
 中国での茶筅の初見は1110年頃に成立した『大観茶論』であり、竹でつくった「筅」の記事があるそうです。
筅は竹の先を細かく割ったものだが、先が広がらず、鍋の底を洗うササラ※2のような形をしていたことがわかる。
実際、茶筅はササラを応用したものであり、「筅」の字はササラ を意味し、本来の字体は竹冠に洗と書いた。
竹製の洗うもの、という意味の字であった。

 日本では鎌倉時代後期に「ちゃせん」が史料には出るようになり、金沢貞顕は茶筅も称名寺から入手した、との記録があるそうです。
当初は穂の部分が一重のかんたんなもので、 先が広がっていないほうが底のせまい建盞・天目では点てやすかった、と言われたそうです。

※1建盞(けんさん):茶を飲む器。福建省建窯でつくられた天目型茶碗(茶盞)のことで、底が狭く直線的に上部が広がる逆円形をして、黒褐色の鉄釉が掛けられていた。
※2ササラ:(簓)とは竹や細い木などを束ねて作製される道具の一つである。洗浄器具として用いられる。なお、札幌市の路面電車では積雪時、軌道での除雪を行う際に竹製のブラシを取り付けた除雪車両を運行する。この車両は「ササラ電車」と呼ぶ。

 茶筅は、本来「竹冠に洗」であったのが現在の「筅」になったようです。また、本来的に「茶筌」より適格であるように思います。

それでは何故「茶筌」と表記するのか?
奈良県高山茶筌生産協同組合に電話で聞きますと「竹全てを活かす」意味合いから高山では「茶筌」と表記するそうです。











福井県高浜・大飯町・原発銀座に行ってきました。

2011年04月08日 | ドライブ・旅行
僕の住む街では桜が見頃で、すっかり春になりました。
気温も20℃を超えるとのことで、天気もポカポカと最高です。

 思う所があって原発銀座と言われる若狭大飯・高浜に行きました。
この若狭路の海岸沿いには

日本原子力発電(株)敦賀発電所 
1号機(沸騰水型軽水炉・出力35万7千キロワット)2号機(加圧水型軽水炉・出力116万キロワット)

日本原子力研究開発機構新型転換炉ふげん発電所
ふげん(新型転換炉・出力16万5千キロワット)・運転終了:2003年(平成15年)3月29日

日本原子力研究開発機構高速増殖原型炉もんじゅ
もんじゅ(高速増殖炉・出力28万キロワット)・2005年3月 ナトリウム漏えい対策等工事の準備工事開始

関西電力(株)美浜発電所
1号機(加圧水型軽水炉・出力34万キロワット)2号機(加圧水型軽水炉・出力50万キロワット)
3号機(加圧水型軽水炉・出力82万6千キロワット)

関西電力(株)大飯発電所
1号機(加圧水型軽水炉・出力117万5千キロワット)2号機(加圧水型軽水炉・出力117万5千キロワット)
3号機(加圧水型軽水炉・出力118万キロワット)  4号機(加圧水型軽水炉・出力118万キロワット)

関西電力(株)高浜発電所
1号機(加圧水型軽水炉・出力82万6千キロワット)2号機(加圧水型軽水炉・出力82万6千キロワット)
3号機(加圧水型軽水炉・出力87万キロワット)  4号機(加圧水型軽水炉・出力87万キロワット)

 これら若狭路沿岸にある原発の総発電電力量は約878.9億キロワット時で、福井県内で年間に消費する電力量の約12倍に当たります。その大部分の電気は関西方面に送られ、関西圏で使われる電気の約6割を福井県内の原子力発電所が支えているそうです。


原発はさて置き、舞鶴若狭自動車道・大飯高浜ICを降りると直ぐの所に「若州一滴文庫」があります。
随分前に訪れた時には、道も整備されてなく「畦道」の様な所に文庫(図書館)だけがあった様な記憶がありますが、今は施設も随分充実して「竹人形館」「六角堂」ほか庭園も綺麗に植栽されていました。


水上勉の蔵書2万冊が納められています。

僕は水上勉の作品は代表作程度しか読んだことがありませんが、嫁さんが結構フアンで詳しいようです。
ただ、陰鬱さはどうしても好きになれなくてちょっと苦手です。

若狭路の桜は「蕾膨らむ」段階で、こぶしの花が満開でした。
冒頭の写真は「道の駅・シーサイド高浜」で光明石天然鉱石温泉と銘打った「温っぷる」と云う温泉設備があり、嫁さんが楽しんだようです。

「バカは死ななきゃ治らない」

2011年04月07日 | ぼやき
二代目広沢虎造の演目「石松三十石船」の名セリフです。(僕の得意の隠し芸です)

産経新聞の記事に「なるほど」と納得しました。
民主党幹部議員がリーダーを分類すると4タイプに分かれる、という内容のものです。
その4つとは、
1、有能有為
2、有能無為
3、無能有為
4、無能無為
だそうです。
そこで、1番困るのが「無能有為」のリーダーなのだそうです。

 我々市井の小市民が総理大臣の動向や性格など直接知る訳もありませんが、マスコミから流れてくる噂話ではどうも現総理は「無能のくせにやりたがる」困ったお人のようです。

何代か前の総理大臣が「貴方とは違うんです!」と捨て台詞を残して辞職しましたが、この人の方がまだ「自分をわきまえて」いたようで、珍しく「高潔」な政治家もいたもんだと今になって感心しきりです。

 でも、菅総理や清水東電社長の様な人間がこの時期にトップにいたことが、大震災の後に不幸な人災を招いているように思えてなりません。

 総理大臣や大企業の社長程で無くても、身近に案外このタイプの人間は居るもので、この様な人物が、例えば町内会、趣味の集まり、・・などのリーダーになると、時として困ったことになる場合がままあります。

 学校の先生に偶に見受けられるタイプで「客観的」に自分を見れない、また、ズレていても修正する切欠を見出せない人生を送っている人。

 道を聞いて「明快」に説明できる人はまず間違いなく「仕事ができる」人です。
道を聞いて「あっちの・・」「こっちの・・」「あそこの・・」など自分の視界でしかものの云えない人はまず「仕事のできない」人です。

 そして、決定的に困るのは「自分の思い込み」が「絶対」で、その間違いを指摘されても「修正」出来ないことです。
要するに「馬を鹿」と云い張る「バカ」で、教えても説得しても絶対に直らないタイプの人です。

「バカは死ななきゃ直らない」
昔の人は良いことを云っています。

 菅総理もそろそろ清水社長と同様「病気休養」に時期ですか・・・・・。
そうにでもしなければ被災者が可愛そうです。

 

「ベルトダウン」て何?・・・・・

2011年04月04日 | ぼやき
孫正義さんが義援金を寄付されました。
金額の大小ではないのは当然ですが、孫さんの行為は文句なく立派です


当ブログでは何度も登場するリタイヤーした「生きがい探し」のご近所さんが遊びに来てくれました。
話題は当然「東日本大震災」のことから始まりました。

 大層博識なのは以前から紹介していますが、今日は「プレート地震」のメカニズムからの講義が始まりました。
不思議なことにその喋り口がTVの人気者の「池上彰」に似ているのもご愛嬌で、この人は記憶力もモノマネにも非凡な才能があるのだと感心して聞いていました。
「今回の津波」は「想定外」の巨大なもので・・・・・、とのお説です。

神社や古地震学の研究者には比較的有名な神社があります。
今回の地震と津波で壊滅的な被害を被った仙台市若林地区に「波分神社」と云うのがあります。
この神社は「貞観大地震」の直後、津波が「ここまで」きた目印・記憶として建てられた神社です。
 この三陸沖で起こる「巨大地震」は1000年周期とも言われています。
そして「貞観地震」から1142年後の2011年3月11日に東日本大震災が発生しました。
決して「想定外」のことではないのです。
 「想定外」と云う言葉で「誤魔化されない」見識が必要です。

 ご近所さんの話は今度は「福島原発」になりました。
今高15期3年4組の担任は物理の畑田先生でしたが、特に「物理」はドロップアウトした最たる学科で、残念ながら今起こっている事故を理解するだけの知識がありません。
「周期律表」を意味も分からず「水兵のリーベーは僕の船(?)・・・・・」と丸暗記した事や「αー崩壊・βー崩壊」等の単語が断片的に思いだされます。

 「マイクロシーベルト・シベルト」「ベクレル」・・・・などと耳慣れない単位やセシウム・ウラン・プルとニューム・・・、燃料棒・隔壁・圧力容器・原子炉格納容器・復水器・・・・・など全く日頃は耳にしない言葉が飛び交います。
また、スリーマイル島・チェルノブイリ原発事故と我々一般人にしてみれば「どれが本当で」「どれがインチキか」の区別さえつかない世界の話です。

 でもご近所さんは「池上さん」顔負けの「説明上手」で解説してくれます。
ただ1つ気になることがありました。

ご近所さんが仕切に「ベルトダウン」「ベルトダウン」と云うことです。
僕の聞きかじりの生半可な知識では「メルトダウン」だと思うのですが・・・・・

ベルトがダウンすればズボンが落ちると思うのですが・・・・・


男性の髪形・・・「丁髷とは」

2011年04月01日 | 歴史
俗に言う「丁髷」「髷」は、本来男髷の種類の一種の呼び名だそうです。
まげの形が踊り字の「」に似ることからいう。(冒頭の写真がゝ髷

モノの本によると「髪の少ない老人が結う小ぶりな髷をその形から「ゝ髷」(ちょんまげ)と言った。現在丁髷と呼ばれるものは時代劇などでよく登場する銀杏髷、本多髷や相撲の力士が結う大銀杏で本来の丁髷では無い。現在見られるものでは力士が稽古時に結う髪型が(月代(さかやき)は剃っていないものの)一番近い。
 明治4年8月9日に散髪脱刀勝手令(いわゆる断髪令)が太政官布告され、さらに明治6年明治天皇の断髪に至ると、伝統的な男髷を結う男性は激減し、洋髪やざんぎり頭が流行した。それでもなお保守的な男髷姿の人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになり、現在、この呼称が男髷全体の名称として用いられるようになった。」とあります。

 それでは、「ゝ髷」と言われる「男髷」の種類にはどのようなものがあるか調べてみました。
下の写真はその一部です。まだまだ細かく分類されるようですが根気が続きませんので今回はこれだけにしておきます。

        
1、いなせ風 2、たぶさ 3、烏帽子下 4、疫病本多 5、冠下

          
6、金魚本多 7、銀杏頭 8、月代 9、講武所風 10、糸鬢 11、儒者頭

          
12、小銀杏 13、垂髪 14、相撲銀杏 15、総髪茶筅 16、尊王風 17、大月代二つ折

          
18、奴髷 19、浪人髷 20、若衆髷 21、蝉折 22、総髪撫付 23、束髪

   
24、断髪 25、野郎髷
出典:「黒髪の文化史」大原梨恵子著、築地書館株式会社発行