馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

[悪党 楠正成」「自衛隊は暴力装置」・・・言葉の解釈て・・?

2010年11月28日 | 雑学
毎日新聞11月25日(木)朝刊の「木語:暴力装置?実際は正しい」と云う「コラム」を読みました。編集委員金子秀敏の署名記事です。
 国家とは何か。ドイツの社会学者マックスウェーバーは同時代のロシア人革命家、トロッキーを引用してこう言った。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。(トロッキーの)この言葉は、実際正しい」(岩波文庫「職業としての政治」)ウェーバーは、国家は暴力抜きには語れないと説いた。国家の法秩序は、軍隊や警察や監獄など暴力的な強制装置によって維持されているからである。社会学の常識だ。
 さて、国会だ。仙谷由人官房長官の「自衛隊は暴力装置」発言で、野党が辞任を求めている。マスコミも失言を批判している。仙谷氏本人も「適切を欠いた」と謝罪した。
 奇妙な議論である。自衛隊は、国家を支える武力組織である。一朝ことあれば、中国軍やロシア軍と戦うかもしれないのだ。中国軍やロシア軍は暴力装置である。非暴力では対抗できない。強力な暴力行使の能力こそ、自衛隊の存在意義ではないか。(中略)
 国家にとって暴力は善悪ではなく、正当か不当かが問題になる。国家の行使する暴力のみが「正当」である。国家以外の団体や個人には国家の許す範囲でしか暴力行使は認められない。自衛隊が暴力の「装置(国家機関)」であるというのは「正当」ということであって、悪口ではない。(中略)
 秩序維持のための国家の暴力を正当とする論理は、革命派に対抗する論理だ。「暴力装置」と聞いて、官房長官が左翼過激派だったと騒ぐメディアがあるが、これも的外れだ。

 僕は不案内なのでよく分かりませんが「暴力装置」という言葉は社会学や政治学の辞書を見てみますと上記と同様の内容で記載されています。
「暴力装置」はその方面の勉強をした人たちにしてみれば将に「常識」としての「術語」のようです。

 参議院で仙石官房長官の問責が可決された。問責の1つとして「自衛隊は暴力装置」と発言したことも含まれているようです。
発言後の各党のコメントで共産党の幹部が「術語」として認め、同情的な発言がありました。しかし、マスコミも含めて大方は「暴力」という言葉が持つ「マイナスイメージー」で「失言」として批難しているように思います。

 国会議員やマスコミ関係者と云うその世界のエキスパートが「マックスウェーバー」や又「暴力装置」と云う「術語」を知らないはずがないと思うのですが、仙石官房長官に対する「批難」は何なんだろうと不思議に思っています。

1997年6月3日NHKで放映された「堂々日本史」(シリーズ太平記後醍醐天皇 悪党を使って幕府を討つ)
「楠木正成、赤松円心、名和長年など“悪党”と呼ばれた新興勢力が、時代 を動かした14世紀を振り返る3回シリーズ。第1回めは、後醍醐天皇が 畿内の悪党勢力と宗教勢力と共に挙兵、1335年に幕府を崩壊させるま でを追う。また、悪党とはどんな集団だったのか、かれらの軍事・経済力 を解明。」という番組がありました。

これが放映された直後からNHKに抗議が殺到したそうです。主に右翼と称する人達からの抗議が多かったようです。
正成を祀った湊川神社が抗議する事件があった。タイトル「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったのではないか、と誤解を招くというのが、神社側の抗議の趣旨だ。
 これに対してNHKでは「悪党は悪い連中と言う意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」としている。

この「悪党」という言葉も「歴史用語」で教科書などにも通常に使用されています。抗議を受けたNHKの担当者にしてみれば「なんで!」という感覚だったと思います。

これも「言葉狩り」なんだろうか・・・。





「至」と「分」の違い。・・言葉にこだわる。

2010年11月27日 | 雑学
僕が愛読している「メルマガ」に【日刊☆こよみのページ】と云うのがあります。
2010/11/25 号 (No.1517)ですからほぼ毎日送られてきます。
大変な作業に頭が下がる思いです。
発信者は「鈴木充広 」という方で「暮らしに生かす旧暦ノート」(河出書房新社)のどの主に「暦」に関する著作のある方です。現職は「第五管区海上保安本部下里水路観測所専門官」だそうです。

 11月25日号に「なるほど!」と感心する記事がありましたので紹介します。

暦で「夏至」「冬至」「春分」「秋分」とありますが、夏・冬は「至」で春・秋は「分」と云うのは何故か?
「夏至」「冬至」「春分」「秋分」を「二至二分」と云うそうです。この「二至二分」はどのようにして決まったかを解説されています。以下要点を「コピペ」します。

「冬に太陽がもっとも南に至る日」 ⇒ 冬至・「夏に太陽がもっとも北に至る日」 ⇒ 夏至
 冬至は冬の一番寒い時期ではありませんし、夏至が一番暑い時期ではありませんから、冬の至り、夏の至りとはいってもこれは気候的な冬・夏の至りとはいえませんから、その点から考えても冬至や夏至は太陽の動きを表した言葉として生まれたと考えるのが妥当。
 二至が出来ると、冬至から夏至までの長さが決まりました。長さが決まったので「半分」にすることが出来るようになりました。そして半分に分けた点、二分の点が考え出されます。
 春分・秋分だって、「太陽が真東から昇る」という特別な日だと云われそうですが、そもそも「真東」という方位を古代の人たちはどんな方法で測ることが出来たでしょうか?
何もない状態から、「真東」を見つけるのは難しいことなのです。多分春分・秋分の日に朝日が真東から昇ると云う概念は、春分・秋分という概念が明確になって以降に生まれたものでしょう。


 古代史に興味を持っていろいろ首を突っ込んでいると「暦」の知識がないと理解できないことが沢山あります。
そこで「暦」の専門書などを読んでみると、これが結構難解で分かり難い。
しかし、古代中国の「暦法」の知識がなければ、例えば「記紀」を読みこなせません。「十干十二支」「宿星」「置潤法」・・・と悪戦苦闘します。
今日配信された【日刊☆こよみのページ】の「二至二分」の解説の様に明快な「暦」の本があればと思います。

安国寺「ドウダンツツジ」を見てきました。

2010年11月22日 | ドライブ・旅行

21日(日)豊岡市但東町安国寺へドウダンツツジを見に行ってきました。但東町にはシルク温泉と云う施設があり、今までに何度も行ったことがありますが、これといった名所旧跡がある訳でもない山里でした。しかし、最近TVの情報番組で「安国寺のドウダンツツジ」が何度か紹介され、観光ガイドにも掲載される人気のスポットになりました。

地元の人に聞きますと、4~5年前に地元のTV/サンテレビが、初めて安国寺のドウダンツツジの紅葉を放映したそうです。その美しさが話題となり、年々見学者が増え、隠れた人気スポットだったのが、今年になってから各TVが一斉に取り上げ、特にNHKが紹介したため、一挙に観光客が押し寄せたそうです。急ごしらえの駐車場はありますが、満車で静かな山里の道路には路上駐車の車の列ができています。案内板1つ無く、トイレは境内に1ヶ所あるだけです。恐らく近くの住宅の人は迷惑しているだろうと思います。

但馬国・安国寺は足利尊氏が夢窓疎石の進言で全国六十六国及び二島、計六十八の安国寺を設置したその内の一つだそうです。江戸時代中期に火災で焼失後、現在地に草庵が営まれたようですが、それも数度の火災を被り、明治三七年に現在の本堂が落慶したそうです。

 現在の本堂が落慶した時に、裏庭に植えられたドウダンツツジが成長して現在の見事な景観を作り出しています。ここのドウダンツツジは一つの株が見事に広がっていますが、普通はここまで大きくならない木だそうです。また、百数十年での成長にしては異常に大きくなっているとのことです。これとは別に本堂の前庭に一本ドウダンツツジが植えられていますが、樹齢三〇年そこそこですが、他の所のものと比較しても数倍大きいとのことです。どうもこの但東町相原の地味、気候が余程ドウダンツツジに合っているのでしょう。

ドウダンツツジは、それほど珍しい木ではなく身近に見かけます。園芸店では苗木を小鉢で売っています。 ツツジ科ドウダンツツジ属の落葉広葉樹です。漢字では「灯台躑躅」と書くそうです。 これは昔灯かりに使用した灯台は、三本の木をくくって上下を広げて油皿を置いた、その形にこの木の枝ぶりが似ていることに由来するそうです。 またまた、熊野に行った時の話になりますが、「ドウダンツツジ」を漢字でどう書くか?と聞かれました。自信がないので黙っていると「満天星」と書く、と言われました。半信半疑で調べてみると、確かに「灯台躑躅」「満天星」併記されていました。 これは、ドウダンツツジの花が写真のように「満天の星」の様に咲くことからきているようです。

「お前はO型だ!」(血液型の話)

2010年11月21日 | 雑学

 やはり同級生と熊野へ行った時の話です。血液型の話になりました。血液型で性格が分かるというやつです。この種の話は「悪意」さえなければ、その場を盛り上げ、誰でも参加できる話題として重宝なものです。血液型と云っても「ABO」のことです。「俺は何型?」と聞くと「お前はO型」とのことです。その人の解説によると「O型の人」は、犯罪者か超天才で、刑務所の収監者の多くは「O型」と云う統計があるそうです。仲間内の雑談で盛り上がる分には許されるのですが、これが定着して社会的評価になってしまうと大変なことになります。血液型性格判断の危険なところは、この様なところにあります。今宮高校3年4組は「理科系進学コース」だったはずです。理屈ぽくなりますが「血液型」について少し書いてみます。

通常我々が血液型と云う場合は「ABO式血液型」のことで赤血球の血液型のことです。血液型はRhやMN式など約300種類ほどあるといわれています。

「ABO式血液型」は赤血球表面に結合する糖鎖の違いに由来します。糖鎖の末端に「アセチルガラクトサミン」が結合していればA型、「ガラクトース」が結合していればB型、両方が結合していればAB型、両方結合していなければO型です。ABO式血液型の遺伝子は9番染色体に存在します。何故、ABCと云わずにABOと云うのか?それは「アセチルガラクトサミン」を結合させる遺伝子を、「ガラクトース」を結合させる遺伝子を,どちらも結合させない遺伝子を、と表記しますが、このOは0(ゼロ)、即ち働きがないゼロのことだからです。

血液型性格判断では「両親がO型とB型だから、O型だけれどB型寄りの性格」などと云う事があるようです。ここで、中学の理科の授業をを思い出してください。遺伝の法則の中に「優性の法則」と云うのがありました。表現型O型が出現するのは遺伝子型OOだけです。ですから親からBの遺伝子を全く受け継いでいません。中学の理科を履修した人であれば「B型寄りのO型」などはあり得ないことが分かるはずです。

 血液型の簡易検査でO型と判定されてもA型の遺伝子を持っている場合があります。「ボンベイ型」と云う血液型です。19番染色体にある「フコース」という遺伝子が関係して、A型の遺伝子を持っていてもO型と判定されてしまいます。この「ボンベイ型」は「ABO式血液型」の知識だけでは、例えば親子関係を説明できないことがあります。

また「シスAB型」と云う遺伝子AとBの両方の働きをする変異型の遺伝子による「AB型」もあります。この他にもさまざまな血液型があります。

血液型の話は誰でも盛り上がる話ですが、科学的には根拠のないものです。血液型を「統計学」を駆使して如何にも「科学」のようにマスコミに登場する人物がいますが、どだい「几帳面」「攻撃的」「心配性」・・・などの「性格」は極めて抽象的で客観的な基準と云うものがありません。それをどのようにして「仕訳」して「統計処理」するのか?不思議な話です。「健康食品」同様最大の「疑似科学」でしょう。

最後に、僕は「O型」ではありません。血液型性格判断も「間違い」もあるようです。


「これは岩か?島か?」

2010年11月19日 | 雑学

同級生と熊野三山詣でをした時、南紀枯木灘・熊野灘海岸の眺望の素晴らしさに一同感激しました。その時「あれは島か?」(写真参照)「島と岩礁の違いて・・・・」と云う会話になりました。「さて、急に云われても・・・」

普段、分かっているつもりのことが、いざ正面切って聞かれると返答できないことが多々あります。この「島とは」も同じで、写真の「岩礁」は「島か?」と聞かれ、正確に返答できる人はあまりいないのではないでしょうか。

帰宅して、早速調べてみました。図書館で関連の本を捜しましたが、殆んどありません。その点、インターネットには「溢れる」情報が瞬時に閲覧できました。常々ウィキペディア(Wikipedia)は最終ではなく最初の切欠と云っていた自分としては、「なるほど、便利なものだ」と再確認しました。そう云うことでインターネットからの引写しを列記します。

 国連海洋法条約第121条では、「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」で「オーストラリア大陸より面積の小さいものをいう。(オーストラリア大陸より面積の大きなものは大陸)。」

日本の地理を対象としている場合、北海道・本州・四国・九州の4島は島とは呼ばない場合もある。

昭和62年に海上保安庁によって発表された「島を数える上での定義」は、
1. 周囲が0.1km以上のもの
2.何らかの形で本土とつながっている島について、それが橋、防波堤のように細長い構造物でつながっている場合は島とし、それより広くつながっていて本土と一体化しているようなものは除外
3.埋立地は除外

上の定義に基づいて数えると「日本という国は現在のところ6,852の島で成り立っています」ということで、定義が変わると島の数も変わってくるということです。

1 択捉島北海道 3185.65
2 国後島(北海道) 1497.56
3 沖縄島沖縄県 1206.49
4 佐渡島新潟県 854.29
5 奄美大島鹿児島県 712.35
6 対馬長崎県 696.29
7 淡路島兵庫県 592.17
8 下島熊本県 574.01
9 屋久島(鹿児島県) 504.88

1泊2日で「熊野三山」詣でをしてきました。

2010年11月18日 | ドライブ・旅行

11月15日~16日4組同窓生等と熊野古道ウォーク最終コースを1泊2日で行ってきました。詳しくは3年4組HPに写真・動画がUPされていますのでご覧頂ければと思います。

15日午前7時30分、天王寺出発 → 阪神高速湾岸線・阪和自動車道 → 紀ノ川Sで第1回トイレ休憩 → 阪和自動車道・海南湯浅自動車道・阪和自動車道 → R-42号線 →

「志原海岸」(写真)で休憩。 → R-42 → イノブタ王国・すさみ海岸(道の駅)トイレ休憩 → R-42号 →

 潮岬・灯台見学 → 串本市内昼食 地元の隠れた名店「萬口」で「カツオ丼」 → 「橋杭岩」(写真) → 那智大社・青岸渡寺・那智大滝 → 新宮市・熊野速玉大社・地元の銘菓「梅香堂」の「鈴焼」を購入

新宮駅前にある「徐福公園」見学 → 熊野川村(現新宮市熊野川町)小口 小口自然の家着 宿泊

主役は「田原伸之君」で大盛り上がりの夕食後の談話の中で9割が田原君の発言。他を圧する迫力に他のものは「感心も得心」もしました。

2日目:午前6時、朝食。7時小口自然の家出発。一行は熊野古道「小雲取越」のウォーキング。僕は新宮市内へ。

12時30分:ウォーキング組、請川に到着。合流して車で「熊野大社」へ。旧社地・現大社 → 道の駅「奥熊野古道ほんぐう」 → 十津川村

『とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり』

 → R-168 → 十津川温泉 → 谷瀬のつり橋(写真) 

なかなかに 山のおくこそ 住みよけれ 草木は人のさがを言わねば (中将姫)

→ 五条 → 南阪奈道・近畿道・阪神高速 → 文の里IC → 「かごの屋・王子店」打ち上げ、中村重雄君参加。


「七五三」と童謡「七つの子」

2010年11月15日 | 雑学

11月15日は「七五三」だそうです。我家では一度もその様な「お祝い」の儀式はしたことがありませんのでよく分かりません。関東の一地方から始ったと聞いたことがあります。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に「子供の成長と健康を祈って」で「お祝い」をするそうです。昔は乳幼児の死亡率が高く、無事成人になる生存率は現在に比べれば格段に低かったようです。「神のうち」という言葉があります。今では「民俗学」の教科書でないとお目にかからない言葉ですが、つい40~50年前までの日本では普通に使われていた言葉です。子供が生まれて順調に育っても「5歳」までは「神のうち」で、不幸にも死んでしまっても「神さんの授かりもの」である「幼児」は、まだ「神さんの世界のもの」で、「人間界」から「授けた神さんの世界」に帰っただけ、と云う「悲しい」諦め方をしていた名残です。そして、なんとか無事「7歳」まで成長すると「一安心」、「神の世界」からも完全に「人間世界」の「子供」として成長して行きます。子供は何歳でも「可愛い」に決まっています。しかし、乳幼児の死亡率が高い時代では「5歳」頃までは、いくら「可愛く」ても何時「神さんの世界」に「帰って」しまうか「不安」が同居します。やっと「7歳」にまで無事育つと、その「可愛さ」も「安堵」と共にあります。ですから、昔から「7歳」と云うのは「子供の可愛さ」を端的に言い表わす表現だったのです。

童謡「七つの子」の歌詞「烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの 子があるからよ」は、「七つ=七歳」のことであり、決して「七羽」のことではありません。この歌詞を素直に読めば、説明の余地はないと思うのですが、「七つ」を「七羽」と解釈する人がいるそうです。詩人と云うものは「言葉」が「命」ですから、数詞と云えどもおろそかにしません。(カラスは、卵を3~4ケしか産みません。)

「七つの子」がどうして「七羽の子」と解釈されるのか、一つの大きな原因は「絵本」の挿絵ではないかと思います。絵本にはお母さんカラスと木の枝の巣に「七羽の子カラス」が描かれています。どうも、この挿絵の印象が強烈で、潜在意識にあるのではないかと思います。

 「ウサギとカメ」でも「お山の麓」まで「カケッコ」をするのですが、挿絵では決まって「山の頂上」で「カメ」が二本足で立って「旗」を持っています。そして、遅れを取った「ウサギ」が「山麓」の「クネクネ道」を慌てて「走る」姿が描かれています。はて、「ゴール」は「山頂」だったのかなァ。


パソコンがつぶれた!

2010年11月13日 | 日記

パソコンがつぶれた

今日、プリンター複合機の調子が悪いのでメーカーの電話ガイダンスのサービスを受けました。スキャナーが途中で動かなくなり、電源を強制終了してもシャットダウンしない。電源コードを引き抜いてしか終了できなくなってしまう状態で、作業ができない。仕方なく「電話サポート」を受けました。「ソフトを入れ直す」しか方法がないとのことです。何時もなら1時間でも2時間でも電話を片手に指示通りにサービスを受けるのですが、今日はメーカーのHPにソフトのアンインストールとインストールの方法がUPしてあるので、と云うことなのでHPを参考にすることにしました。先ず今入っているソフトを「アンインストール」する手順が表示されました。幾つかの手順を進み、最後に

ステップ6:レジストリの削除

  注意: 本作業ではレジストリの操作を行いますので、慎重に作業を行ってください。

この段階で、消してはいけないソフトファイルを削除してしまったようです。

再起動させると「初期画面」が立ち上がらない最悪の状態になってしまいました。でもまだその時は気楽なもので「4組の同級生にPCの専門家がいる」今から連絡して彼の家に行けば「10分か20分で直る」と多寡をくくっていました。早速、電話をして状況を説明すると「そらダメや。起動ソフトを消したらあかんワ」とつれない返事。サー困った!それからは電源を点けたり消したり、叩いたり揺すったり・・・。何せ、理屈が分かってイジッテいる訳ではないので、どうする事もでいません。夕方の4時過ぎにトラブルが発生し、今翌日の午前1時半、真っ黒の画面を「アァでもない、こうでもない」といじくりまわしていました。叩き潰してやろうかとイライラも頂点にたし、キーボードを「バー」と叩いた瞬間に「ファンクション2・・・・」と文字が流れました。兎に角F2を押すと「F4・・・・」とま文字が流れてすぐに消えました。「F4・・・]の表示は短時間で(後で分かったのですが2秒)消えて、また画面は真っ暗になります。何度か「F2」「F4」を繰り返したら「リカバリー」をする画面である事が分かりました。全て英語の表示ですから、これも当てずっぽうで選択を繰り返し、先ほどどうにかリカバリーができ、セットアップも悪戦苦闘の末、完了しました。

 あぁー疲れた!

アウトルック他のデーターは全て無くしてしまいました。メールアドレスも全滅です。よろしければ、空メールでも送ってください。メールアドレスを集め直さなければなりません。お願いします。


山国神社に行きました。・・・・・風流トコトンヤレ節考(4)

2010年11月11日 | 歴史
10日(水)桑田郡京北町(現京都市右京区京北町)の「山国神社」「山国護国神社」へ行きました。

 京都と云う大都会に隣接して「こんな田舎」がまだあるのか、と思うド田舎です。



毎年10月に行われる時代祭の先頭を切るのは「山国隊」がと云う事になっています。
丹波国桑田郡山国郷の農民兵が鳥羽伏見の戦直後、官軍に参加し岩倉具視が鳥取藩に所属させたのが「山国隊」です。

 映画などでお馴染みの東征軍の先頭で「錦の御旗」を護り「ピーヒャラオッタタ」と演奏しながら江戸に進軍するのが「山国隊」のイメージとして定着しています。

 しかし、「山国隊」が「西洋式音楽」の訓練を受けたのは、3月14日江戸入城後(京都府の地名)の事です。そして、それもごく短期間、基本的な事で終わっているはずです。
と云うのは「山国隊」は、上野戦争から東北戦線まで参加しています。
とても「音楽」が「堪能」になるような「訓練」を受ける機会は無かったはずです。

 薩摩藩など少数の藩に於いて「西洋式軍隊」の訓練を行っていた所は有りますが、大方は従来の「日本式」の「集団」でしかありません。
ですから「鼓笛隊」の「行進曲」に合わせて「隊列」を整えて行進するような「教育」を受けていない筈です。明治になり「西洋式教練」で隊列を組んで行進をすることができなくて、「右手と右足」を同時に出す「ナンバ歩き」や「歩幅」を合わせる事も出来ない、などお雇い外人を悩ませた「逸話」が幾つも残っています。

 「山国隊」が品川で行軍隊形を整え「錦の御旗」を押し立て「トンヤレ節」を歌って江戸に入った、とされていますが、これは事実なのか?

まず、現在の時代祭の「山国隊」(写真)のように「鼓笛隊」は持っていなかったのは確かです。これは明かに「活動写真」のイメージが定着してしまったためです。
 それでは「トンヤレ節」を「歌って」行進した、と云うのは事実だろうか?

慶応4年4月23日、宇都宮に近い「壬生」に進軍した時に「軍営」での「酒宴」で
「威風凛々山国隊の軍の仕様を知らないか トコトンヤレ トンヤレナ」
と歌い気勢を上げた、という記録があります。
そして壬生を引き上げ小田原藩帰順のため転戦し、その直後に品川に行くことになります。

「威風凛々山国隊の軍の仕様を知らないか トコトンヤレ トンヤレナ」は、30秒で歌い終えます。
「トンヤレ節」を「歌って」行進した、とありますが、何度も何度も同じ歌詞を繰り返し繰り返し歌ったのでしょうか?

 この様に考えて行きますと「鼓笛隊」の「ピーヒャラオッタ」のメロディーにしても「宮さん」の歌詞にしても当時の記録や状況から「説明」が付かない「おかしな」事が幾つもでてきます。

「鼓笛隊」があったのは「事実」で記録にも残っています。しかし、その「鼓笛隊」が「ピーヒャラオッタ」のあの「宮さん」の「メロディー」を演奏したと云うのはどうも信用し難いことです。(メロディーに付いてはまたの機会に検証します)

「トコトンヤレ」と歌いながら行進した、と云うのも僕は事実ではないと思っています。
明治新政府軍が西洋式軍隊制度を導入して「隊列行進」や「軍歌習得」などを訓練しましたが、記録に依ると当時の日本人は「メロディー通り」に歌えなかったり、隊列を整えて行進ができなくて、兵隊たちがその習得に大変苦労をした記録が沢山あります。

博物館めぐり

2010年11月03日 | 日記
週末から毎日、博物館や農事試験場、その近隣の名所を巡ってきました。
大阪府立弥生文化博物館兵庫県立考古博物館辰馬考古資料館

 弥生文化博物館では「秋季特別展 邪馬台国-九州と近畿-」が開催されていました。
人気のテーマとあって沢山の入場者です。同年代の数人のグループが何組も来ています。
どうもリーダーになる人は「声が大きい」のが特徴の様です。小脇に分厚い資料ファイルを抱えて、同行の仲間の人に展示品の前で得意げに解説しています。
 また、資料室を兼ねた休憩室では、数組の「おじさん」達が辺りを憚からず大声で激論を戦わしています。皆さんお歳の割に「お若く」て「熱い」。そして皆さん「学者」でいらしゃる。ただ、「貸し切り」でない事を「お忘れ」のようです。

 写真は明治17年3月東京都文京区弥生町で発見された壺。頭部は失われています。はじめは縄文土器の類と思われていましたが、後に独立した文化期を代表するものと分かり、発見場所の地名から「弥生土器」と命名された実物の壺です。


兵庫県立考古博物館では「-特別展-茶すり山古墳-巨大円墳に眠る但馬の王-」の展示がありました。
「茶すり山古墳」は古墳時代中期の巨大な円墳で但馬地方の豪族の首長の墓と考えられています。副葬品には大量の武器や武具が出土しており、丹波、出雲への要害の地で大和朝廷と深い関係があった事が推測されています。しかし、当時大和朝廷と関係が深い人物が競って造営した「前方後円墳」のスタイルを何故この但馬の首長は摂らなかったのかが大きな疑問の1つです。

写真は「茶すり山古墳」から発掘された武具を複製した当時の「兵士」像。


辰馬考古資料館では「秋季展 銅鐸 前 後 左 右」と銘打って銅鐸を2週間ごと90°回転して展示いたします。

銅鐸の起源はなお今のところ「よく分からない」のが定説です。この博物館には初期の小型銅鐸と朝鮮の鈴が展示されており、素人目には非常によく似ているように思われます。
銅鐸起源の「ミッシングリンク」がリンクしたかもしれません。