馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

地名「みなべ」・・・・梅はつぼみ硬し。

2012年02月20日 | 地名・地誌
嫁さんが「南部へ行く」と仰せなのでお供をしました。
南部には古い知人がいて、この時期に訪問するのが行事のようになっています。
たまたま、29日に4組の仲間と南部梅林等にドライブする予定があるので、下見にもなると思いドライバーを努めました。
下見の結果は後段に報告しますので参考にして下さい。

 知人の家はJR南部駅から2~3分の所にあります。その直ぐ傍に「三鍋王子」があります。
中右記に、藤原宗忠の一行は、切目を出発し「南部山を超へ王子社に奉幣、南部庄内、亥の野村人宅に宿す。今日多く海浜野山を過ぐ、今日の行程八十町ばかりか」とある。三鍋王子社は、明治10年12月3日、埴田の須賀神社に合祀、社殿も移された。
しかし、明治42年7月30日、その須賀神社に鹿島神社が合祀、社名は「鹿島神社」と改称された。したがって、旧三鍋王子社の社殿は現在、鹿島神社の本殿として伝わっている。境内には、喉の渇きを覚えた小栗判官が飲んだ井戸水とされる「小栗井戸」の井桁だけがあり、保存されています。

 地名等にそれほど興味のない人にすれば「南部」を何故「南部」と言うのかなどと聞いてみても「ソラ南にあるからやろ」位の返答しか返ってこないと思います。確かに何となく「南」に位置しているイメージーはありますが、「南部」よりまだ南に串本など多くの街があります。何処から見て「南」なのか判然としません。
要するに「南部」の由来は「南にある」ということではないようです。
古い記録では「みなべ」は「三鍋」と表記されていたようです。それでは「三鍋」の由来は何かと調べてみますと「鹿島神社は南部駅から南東約700mほどのところにある。そこから海岸に出ると、2kmほど沖合いに鹿島という島がある。この島の形が3つの鍋をひっくり返したように見えることから「みなべ」(三鍋、南部)の地名の由来になったと伝えられる」と地元では言い伝えられているようです。

 現在最も有力な「みなべ」の地名解は、古代の部民制の「御名代部」に由来するという説です。

南部と言うと「梅干」ですが、海産物も沢山あります。嫁さんは国道沿いのこのお店で何時も土産を買います。


豊中から岸和田SAmまで約一時間15分~20分、岸和田SAから道成寺まで同じく1時間20分。
道成寺では駐車代500円。また有名な絵解き説法を聞くには600円の参観料が必要となります。この絵解き説法は大変面白いので1度聞くといいのではと思います。
道成寺で説法を聞くと11時30分を過ぎる頃になります。南部梅林で弁当を予定していますが、会場の人に聞くと大変な人ででなかなかいい場所がなく、落ち着いて弁当を使うことはムツかしいそうです。
 国道沿いに「朝日楼」というホテルがあります。ここの女将は美人で有名です。
食事も本格的でお勧めです。とりあえず12名予約しておきました。(予算はちょっと贅沢ですが1,500円が最低料金です)
午後1時、南部梅林。梅林は散策コースA,Bの2コース。更に自動車で回るコースがあります。(入園料250円、駐車代金500円)Aコース:約4km・1時間、Bコース:約3km40分です。
その後の行程は、様子を見ながら現地で相談して決めたら良いのでは。

 南部梅林は、平年は2月中旬が見頃ですが、今年は寒波の影響で、今日現在冒頭の写真のように「ツボミ硬し」で、月末あたりがちょうど見頃になりそうです。

「牡蠣」を食べに赤穂市坂越港に行きました。

2012年02月18日 | ドライブ・旅行
カニを食べに行きたいのですが、今年は日本海側が豪雪で日帰りが出来そうにありませんので「牡蠣」に変更しました。同行の友人がインターネットで評判の所があるということで赤穂市坂越港に向かいました。

相生から瀬戸内海を見ながら海沿いに赤穂まで気温は低いのですが日差しは「光の春」を思わせる長閑な風景でした。
  

 赤穂の坂越港にある「海の駅 しおさい市場」は大変な人気スッポとだそうで、平日の今日でも順番待ちの状態です。
テーブル席と座敷があり、特にテーブル席の「牡蠣食べ放題」という焼きガキのバーベキューが大人気で連日の大入りだそうです。友人はインターネットでその辺の情報は集めていたようで、座敷席の「坂越定食」が一番「お得」なメニューなのだそうです。
  

この「坂越定食」は、焼きガキ、カキフライ、カキの土手鍋、酢牡蠣、牡蠣入の茶碗蒸し、それに刺身、小鉢、吸い物、香の物一式がセットで「2,500~3,000円」程度です。(支払いは友人がしたので正確な金額はわかりません)
 確かに「お得」なように思いました。毎年、この時期には日生から相生の何処かに「牡蠣」を食べに来ますが、比べれば確かに牡蠣料理の代表的なものを全て食べれて、しかも味も満足に行くもので、単品を揃えれば5~6,000円以上はするだろうと思います。
人気があるのも頷ける店でした。
(食べログで「やらせ」が問題になっていますが、これは「やらせ」ではない正直な感想です)

2200年前の鋳型から復元された銅鐸

2012年02月15日 | 歴史
東大阪市役所ロビーに復元銅鐸が展示されています。
この銅鐸は、30年ほど以前に東大阪市弥生町の鬼虎川遺跡から発掘された銅鐸鋳型の破片を基に復元されやそうです。
鬼虎川遺跡は、弥生時代河内北部一帯にひろがっていたか河内湖の東岸にあり、銅鐸や銅剣、腕輪などの青銅器鋳造の一大拠点であったようです。

 東大阪は「ものづくり」の町として知られています。そこで、2200年前にも「ものづくり」の拠点であったことから、古代青銅器復元技術の第一人者でもある東大阪の「上田合金」がこの鬼虎川遺跡からの銅鐸鋳型の破片から当時の銅鐸を復元して東大阪の「ものづくりの町」をPR仕様と企画されたそうです。


鬼虎川遺跡から発掘された銅鐸鋳型の破片は、上図の右端で銅鐸の右辺底部です。しかし、この鋳型で鋳造された銅鐸が出土していないので全形を復元することができませんでした。
 その後、島根県加茂岩倉遺跡から39個の大量の銅鐸が発見されました。その中の1つ、12号銅鐸は鬼虎川の鋳型の推定品と大きさ、文様などが同じ特徴があることから、鬼虎川で製作され加茂岩倉に運ばれたと考えられています。
今回の復元作業は、この加茂岩倉12号銅鐸を参考に全形を復元したそうです。
  

 高さは加茂岩倉12号銅鐸に合わせて31cmとし、4区袈裟襷文銅鐸としたそうです。
身の厚みは加茂岩倉12号銅鐸の2~3mmにできるだけ近づける努力をしたそうです。(実際にはそこまで薄くはできなかった)
 素材は12号銅鐸と同じ銅にスズを約13%加えてやや白みがかった金色としたそうです。

復元工程は、先ず12号銅鐸を熟覧観察、調査の上、復元図を作成します。
復元図に基づき木型を作成します。(本来は石の鋳型ですが作成上のリスクが多いため木型にしたそうです)
木型の上に珪酸ソーダを含む鋳物用の砂を押し付け銅鐸の型をとります。この砂に炭酸ガスを吹き付け硬化させた鋳型を作ります。硬化した鋳型に離型剤を塗布して鋳型面を焼き固めれば鋳型が完成します。
 同じようにして中型を作り、2枚の外型の間に中型を取り付け、合わせた鋳型がズレないように全体を縛って鋳型が完成します。1200度の鋳造材料を湯口から流し込み、温度が下がったら鋳型を外し、鋳バリ等を除去すれば完成。

 でも、東大阪の職人の技を以てしても弥生時代の銅鐸の厚みを再現することは出来ないそうです。
古代人はどんな技を持っていたのでしょうか?


サミエル・ウルマンの詩「青春」

2012年02月14日 | 雑学
「50年目の文化祭」が思いのほか盛況裏に終了しました。
4組の同級生から応援と激励のメールを頂きました。そこに「青春」の詩が書かれたHPのアドレスが貼り付けてありました。


青春 原作 サミエル・ウルマン(邦訳 岡田義夫)
青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相をいうのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や、孤疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
いわく「驚異への愛慕心」、「空にきらめく星辰」、「その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰」、「事に処する剛毅な挑戦」、「小児の如く求めてやまぬ探求心、人生への歓喜と興味」。

人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、 そして偉大の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え。悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて、神の憐れみを乞うるほかはなくなる。

サミエル・ウルマンの「青春」を久しぶりに目にしてフット思い出したことがあります。
自民党の派閥全盛期、中曽根後継でまたぞろ生臭い政治劇が繰り広げられた時のことです。
何度か総理総裁になるチャンスを自ら固辞した二階堂進が、田中派を割って出た竹下登と対立して総裁選に立候補しようとして50名の推薦人を集められず無念の撤退をしたことがあります。
 本来、二階堂が田中派の正当なボスであるはずですが、時流は派を離脱した竹下に流れ、二階堂率いる田中派は「二階堂グループ」と準派閥扱いと凋落してしまいました。

当時、竹下は60代前半、二階堂は70代で竹下は政界若返りを唱えニ階堂の高齢を批難しました。
その反論として二階堂が引用したのがサミエル・ウルマンの「青春」でした。

サミエル・ウルマンの「青春」はマッカーサー元帥が座右の銘としたことでも知られています。
太平洋戦争のヒーローは大統領を目指しましたが宿敵トルーマンにその夢を阻止され議会であの有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」を行いました。

マッカーサーほど話題性もないしドラマ性もない話ですが変に僕の記憶に残っています。


「後家倒し」・・・・日本永代蔵・川端の九介

2012年02月10日 | 大衆演芸
江戸時代の農具を調べていたら「後家倒し」と呼ばれた「千歯扱き」がありました。
辞書で調べてみると「1 《後家の賃仕事である稲こきを取り上げる意から》千把扱(せんばこ)きの異称。2 《後家をたらしこむ意》色男。ごけなかせ。」とあります。
 2の《後家をたらしこむ意》色男は文字通りで分かるのですが、何故1の千歯扱きが出てくるのかが分かりません。

井原西鶴の「日本永代蔵」巻五に「大豆一粒の光り堂」という話があります。
粗筋は「大和の朝日の里に川端の九助という小百姓がいた。牛ももたず、馬小屋のような家に住み、年に 一石二斗の年貢をやっとおさめ、五〇余歳になるまですごしていた。毎年、節分の夜には疫鬼をはらうために戸口や窓に鰯の頭や柊をさし、心祝いの豆をまくのであった。ある年、九助は夜が明けてから豆を拾い集め、その一粒を野に埋めた。すると、夏には青々と葉がしげり、秋には実って一合ばかりの収穫があった。これを溝川のところにまき、毎年繰り返すうちにしだいに収穫がふえ、一〇年もたつと八八石にも達した。この代金で九助は大きい灯龍をつくらせ、初瀬の街道に立てて常夜灯とし、今も豆灯寵とよばれている。
 こういった心がけなので、九助はしだいに家も栄え、田畑を買い集めて大百姓となった。
四季そ れぞれの農作物に肥料をほどこし、田の草をとり、水をあたえて手入れするので、稲の実りもよく、 綿の栽培も順調であった。九助はいつも油断なく働き、そのうえ、万事に工夫をして便利な農具も発明した。鉄の爪をならべた荒おこし用の鍬、調製用の唐箕や千石どおし、さらに後家倒しの異名のついた千歯扱もつくった。また、女の綿仕事の能率化をはかつて唐弓という綿打ち道具をつくって成果をあげ、四、五年のうちに大和にかくれもない綿商人となり、財宝をどんどんたくわえた。 こうして三〇年あまりで一000貫目の身代となり、八八歳で世を去った。
 遺言状をみた親族たちはおどろいた。有金一七00貫目はすべて一子九之助にゆずり、親類たちには木綿の袷とか、襟巻・肩衣・帷子・蒲団・足袋などを一品ずつ分けあたえただけで、親類たち 金銭は少しもあたえなかった。あきれはてた親類たちはこの家をみかぎって去った。
 あまりのことに九之助はあきれはて、遺言にそむいて親類や召使いたちに銭を分けあたえた。人びとはよろこんでまた出入りをはじめたが、九之助はいつしか遊興にふけるようになった。酒と色とのこつで身体をこわした九之助は三四歳の若さで頓死する。
集まった人びとはとりあえず書置を開いてみてびっくりした。親ゆずりの一七00貫目の銀は使いはたし、残したのは九之助が借りた借金だけであった。勤倹・努力の九助と放蕩三昧の九之助、まさに両極端の人生哲学を体現した親子であった。」と言うものです。

 太字で表記したように「後家倒し」はこの川端の九助が考案した「千歯扱き」と分かりました。
随分と便利な画期的な脱穀器具であったようです。
「千歯扱き」そのものが脱穀機としては画期的な発明であったようですが、当初の千歯扱きは、横木に竹を打ったものでイネの籾には不向きで主に麦用として使用されていました。それを九助が鉄製の歯を取り付けた千歯扱きを考案してからは稲にも使用が可能となり、また作業効率は従来の3倍近く上がったとされています。そのため、脱穀作業の臨時雇いの必要がなくなり、女性の賃仕事であった脱穀作業が無くなったため「後家倒し」と呼ばれたそうです。
 





「今、再びの青春」・・・昭和36年今高2年4組

2012年02月03日 | 日記
2月4日(土)豊中市本町の「アートギャラリー ヒルズワン」で今高15期3年4組の仲間たちの作品展兼懇親会があります。「50年目の文化祭」と云うことで告知ハガキには2年生の文化祭で仮装行列をした写真が使われています。
会場では、この写真を拡大して「この人誰?」と名前当ても行われる予定です。仮装行列のため「ミイラ」に扮装した人が包帯をグルグル巻きにしているので顔が全く分からない人もいます。それでもそのうちの1人はその雰囲気やクセのある姿勢から「あいつだ!」と判明するから面白いものです。念のため、仮装をしていないクラス写真も準備しておくとか・・・・。

 この文化祭があったのが「昭和36年の秋」です。そうすると、あれから満50年の歳月が過ぎ去ったことになります。
「今、再びの文化祭」と銘打ってのセンチメンタルジャーニーとなった次第です。

昭和36年は、池田内閣が「所得倍増計画」で日本が高度経済成長に突入した年です。右翼少年が中央公論社・嶋中社長宅を襲った嶋中事件、タロー、南極から帰国、第2室戸台風、三無事件・・・。特に第2室戸台風では新築間もない自宅の屋根瓦が全部吹き飛んで仕舞い小学校の行動に避難したことがありました。この年夏休み後年「第1次釜ヶ崎暴動」と言われる騒動が起こりました。どんな用事であったのか記憶が薄れているのですが、この日学校に立ち寄り、その後難波・千日前あたりをうろついてそろそろ帰ろうかと思った頃、街全体が異様な雰囲気になりだし、「釜ヶ崎で労務者が騒いで大変なことになっている」とのことです。
 我母校・今宮高校と指呼にある「釜ヶ崎」で起こった大事件です。難波から南海線に乗ろうとしましたが、本線は運行しているようですが、どうも騒動の影響で止まっている電車もあるとかで、駅構内も混乱していました。その間もサイレンを鳴らした警察車両等が激しく行き交いしており何か心臓がドキドキ高鳴る異様な雰囲気だったのを覚えています。
南海線は危ないと思い、確か市電を乗り継いで天王寺から阪和線で泉大津まで帰ったように思います。

 冒頭の仮装をした文化祭の写真は、僕にとっては「慚愧に堪えない」苦い思い出があります。
この文化祭の数日前、教室の後ろに入場門設営用の2mばかりの垂木が置かれていました。これも記憶が薄れているのですが、放課後この教室で担任の高木先生と何が原因なのかも忘れましたが言い合いになり、僕はその垂木で高木先生を殴ってしまったのです。米マツか何かの安物のもろい垂木だったのが幸いして、振り下ろす途中で垂木は真ん中から折れてしまったので、高木先生の肩口に当たることは当たったのですが、それほどの衝撃もなかったと思います。
 結末等を語るのも恥じ入る次第ですが、いずれ機会があれば・・、とも思います。
そんな訳で、この写真は特別な思い出のある写真です。