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馬糞風リターンズ

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純信・お馬・・・・恋の結末。

2024年05月04日 | 大衆演芸

物見高いは人の常です。金比羅の宿屋高知屋で捕縛された純真・お馬は高知で関所破りの罪で受牢後3日間晒者にされました。この時、一目彼らを見ようと大勢の人達が押し寄せたそうです。そして純真と・お馬は高知を追放されました。純真は土佐国以外(伊予国川之江)にお馬さんは安芸川から東へ追放されます。お馬さんは神峰寺(安芸郡安田町)の麓の宿屋で働き平穏な日が戻ってきました。しかしそれも束の間、純信が行商人に身をやつして、お馬を連れ戻しに来るという事件が起きました。結構な騒動となったようです。そして純真とお馬は再び追放処分を受けます。

  
土佐市市野々にある純信・お馬の看板。 野々市の純信堂

純真は再び土佐国外に追放となり支援者のいる川之江に行きます。一方お馬は今度は仁淀川以西へ追放となり、須崎の池ノ内の庄屋にお預けとなります。お馬さんが須崎に護送される道中、土佐国高岡郡戸波郷市野々村(現 土佐市野々市)に差掛ったた時には、お馬さん見たさに大勢の村人が押しかけたそうです。ここ野々市は純真の出身地です

  


 須崎市にはお馬堂があり須崎道路には「お馬トンネル」と言う所もあります。須崎でのお馬さんは、庄屋預かりとなりました。余談ながらこのお馬さんの監視役が幕末土佐の志士・吉村寅太郎だったそうです。須崎ではお馬さんは住み込みで百姓の手伝いをして、真面目に働いたそうです。そして縁あって地元の大工・寺崎米之助と言う人と所帯をもち4人の子供にも恵まれます。明治18年(1885)に家族が東京に引っ越し明治36年、65歳で亡くなったそうです。

  
川之江にある純信堂


川之江に戻った純真は名を岡本要と改め土地の顔役娚石亀吉(めおといしかめきち)の世話で寺子屋を開きその高い教養を認められ、文人墨客たちとも交わり安定した日々を送っていました。が、やはりお馬のことを諦めきれなかったようで河田小龍なる人物にお馬宛の手紙を託します。しかし、小龍はお馬の幸せな家庭生活を見て純真からの手紙を渡さなかったそうです。

 

 

お馬に渡ることのなかった手紙です。中程にはっきりと「たとい何年かかりても連れに行き申すべく候」と書送っています。残念ながらお馬さんの元には届くことはありませんでした。
 世話になっていた娚石亀吉の死後、純信は愛媛県美川村東川で慶翁徳念和尚 俗名・中田与吉として明治21年(1888)69歳で没したようです。
続きます。



純信とお馬さん、恋の逃避行

2024年05月01日 | 大衆演芸

女犯の破戒僧という烙印を押された純信は、お馬と新生活を求めて意を決して京都を目指して逃避行に出ます。安政二年(1855)五月一九日のことだそうです。この時、純信三七歳、お馬一七歳です。お馬を稚児姿であったそうです。楠目村の安右衛門なる人の道案内で、現在の国道195号を東北・高知と阿波の国境に向かいます。

四国山脈の山奥深い杣道なので記録に残るルートだけを記述します。今は便利な時代でGoogle Earthで地名を検索すれば大体のことが分かると思います。R-195号→永瀬ダム→林道松床楮佐古線(舗装工事がされ整備されたときに「恋の峠」の記念碑を建立 五月二十日午後、二人は此処を越えたといわれる ⇒Google Earthには写真がリンクされています)→大栃→笹(番所・関所があった。ここで阿波に抜けるより讃岐へとの助言がある)

番所を抜け、琴平(香川県)へたどりついたところを追跡の役人に捕らえられ、二人は高知城下へと連れ戻されます。関所破りの罪は重い。取り調べの上、二人は繋がれて山田橋、松け鼻、思案橋の番所で、3日間さらし者にされた。純信は国外(土佐藩以外)川之江へ、お馬は安芸川から東へ追放され、神峰寺(安芸郡安田町)のふもとの宿屋で働き、一応の決着がついたかに思われました。
 しかし、純信はお馬さんを忘れることができず、またまた騒動を起こします。つづく




「よさこい節」・・・純信とお馬さん

2024年04月28日 | 大衆演芸

当ブログは高知県には何度となく行っています。仕事での出張もありますが、高知県には「奈路」と云う特有の地名があります。それに興味を覚えて高知県ほぼ全域を走り回りました。当時は気付かなかったのですが高知県内には「純信・お馬」ゆかりの地がこんなに沢山あるとは思いませんでした。

  

純信・お馬の恋の始まりの地は五台山竹林寺です。竹林寺の脇坊に妙高寺があったそうです。純信はこの妙高寺の住職でした。妙高寺跡は現在牧野植物園になっています。竹林寺の東参道入口に鋳掛屋・大野新平宅があったそうです。この鋳掛屋の娘が「馬」ことお馬さんです。お馬さんがお寺に洗濯物などを届けるなどの用事で出入りするうちに純信と恋仲になったのが事の起こりです。一説によるとお馬さんは当初「わりない仲になったのは純信ではなく学僧であった慶全」であったと言われています。お馬さん17歳、純信37歳、慶全の年齢は不明ながら若い学僧との記録から20台と思われます。年齢からしても恋のお相手としては慶全のほうが自然であろうと思われます。純信の下にいた修行僧の慶全は純信により追放されてしまいます。純信が慶全を追放したのは恋のさや当てからなのか、慶全から純信にお馬さんの心変わりがあったのか?その辺りの事情はよく分かりません。なお、慶全は実在の人物で大月町柏島出身。

さて、有名な「はりまや橋で坊さん簪買うを見た」です。坊さんが簪を買った店は「橘屋」と云う小間物店なのだそうです。「橘屋」は元々戦国時代、土佐の武将・国吉五左衛門幸親で長曾我部に仕えたり、豊臣秀吉四国征伐後土佐の領地に戻っていたが関ケ原の合戦では西軍に組し、敗北し下総に落ち延びていたが大坂夏の陣に豊臣方に参戦しこれまた敗北し土佐に戻った武将が遠祖である。国吉甚左衛門親綱から8代目の子孫・伝兵衛は麹の製造や回漕業を営み成功し、名字帯刀をも許されました。天明8年(1788)高知城下はりまや橋東側南詰に小間物商「橘屋」開きます。

「純真お馬逢引の岩」


 はりまや橋袂の小間物屋橘屋で簪を買ったお坊さんは純信か慶全か?一般には純信がお馬さんにプレゼントするために買った、とされています。これは当時高知では純信とお馬の道ならぬ恋仲が大きなスキャンダルとなり衆人の注目を集めていたからでしょう。しかし、本当は、慶全がお馬の気を引こうとして簪を買ったんだけどその事で寺を追放され、その腹いせに「かんざし買ったのは純信だ」と言ったことがたちまち高知城下に噂が広まりとの説もあります。
 兎にも角にも純信とお馬の恋仲は高知上下では公然の秘密となり、追い詰められた純信はお馬を連れて京都に駆け落ちを決行することになります。
→つづく





「よさこい節」土佐の高知の播磨屋橋で・・・・

2024年04月26日 | 大衆演芸

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」 幕末頃から歌われだしたそうで、今では日本人であれば誰でも知っているお馴染みの高知県の民謡です。「よさこい よさこい」と云う囃子詞には幾通りかの解釈があるそうですが、一般には「夜さり来い(夜にいらっしゃい)」が変化したとされているようです。続いて「はりまや橋」ですが、当ブログが始めて高知市を訪ねた頃には「がっかり橋」と揶揄される存在感のないものでした。その後、橋は架け替えられて一帯を親水公園として整備されていました。はりまや橋は元々山内氏の藩政初期(1600年頃)に堀川を挟んであった「播磨屋宗徳」と「櫃屋道清」が双方の家を行き来するために架けた私設の橋が原型だそうです。

播磨屋の初代宗徳は播磨国飾磨の人で天正6年(1578)に長宗我部元親が讃岐出兵した際、軍用金と兵糧を用立てたことが縁で、土佐に招かれ浦戸城に移住し商人となり、長宗我部氏が滅び山内氏の藩政になっても特権商人として栄えたと言う。
 一方、「櫃屋」は初代松本太郎右衛門重利は天正18年(1590)に生まれた人で、櫃屋道清と言う。道清の父親・長勘解由重長は紀州松江(現・和歌山市)の人で天正13年(1585)の織田信長と羽柴秀吉による紀伊征伐の戦乱を逃れて長宗我部元親を頼って土佐に来て、浦戸に住み五台山櫃ヶ谷に領地を与えられたと言う。屋号の「櫃屋」は此処に由来します。山内一豊の入国後は高知城下に移り、2代目・櫃屋道清の代で特権商人として仕え財を成し御用商人となり、播磨屋宗徳らと共に町年寄を務めるがです。「はりまや橋」は、江戸時代の始めに城下の竪堀「堀川」の南側に住んじょった櫃屋道清と、北側に居った播磨屋宗徳が互いに両家を行き来する為に架けた橋。
 高知観光の目玉の「はりまや橋」も時代時代で随分と景観も変わって行ったようです。
 愈々本題に入ります。「坊さんかんざし 買うを見た」の件です。

五台山竹林寺の僧・純信と鋳掛屋の娘・お馬の恋物語です。時は安政年間、世の中は天保の大飢饉、安政の大地震などの天変地異、加えて異国船の襲来など内憂外患騒然とした時代です。庶民が日々大変な生活を送っている最中、聖職者たる寺僧が高知の繁華街の小間物店で「かんざし」を買っている「けしからん!」と云う雰囲気もあったのでしょう。純信とお馬の恋も口さがない人々の絶好の材料となったようです。
 かんざしを買ったのは純信ではなく純信よりも若い僧・慶全だったとの説もあるようです。
次回からは「純信・お馬」の恋物語を書いてみたいと思います。







1・17「今月今夜のこの月を・・・」(続)

2019年01月20日 | 大衆演芸
尾崎紅葉の「金色夜叉」は、明治30年(1897年)1月1日から明治35年(1902年)5月11日まで読売新聞に連載されたそうです。金色夜叉は、新聞連載中に尾崎紅葉が急逝したため未完成のままです。明治を代表する小説だそうですが、ありふれた通俗小説でそれほど評価するようなものなのかと言うのが読後感でした。その後、戯曲に脚色されて舞台で公演されたり映画化されました。間寛一が宮さんを蹴飛ばす熱海の海岸の場面は特に有名になりました。
熱海の海岸の場面では、打ち倒れるお宮さん、第一高等中学校の制服制帽にマントを羽織り高下駄の間寛一、背後にはお宮の松、空には満月が舞台設定です。
 「今月今夜のこの月・・」即ち、今月=1月、今夜=17日、満月だからこそ絵になるのです。
月の満ち欠けを基本にした旧暦であれば「今月今夜のこの月・・」は、来年であっても、再来年であっても、10年後であっても1月17日の月齢は同じと考えられます。しかし、小説が発表された明治30年当時は既に太陽暦が採用されています。太陽暦では来年の今月今夜の月は、満月であるとは限らないのです。

今年   1897/1/17 ⇒ 旧暦 12/15 (十五夜・・・ほぼ満月)
来年   1898/1/17 ⇒ 旧暦 12/25 (二十五夜・・明け方の細い月)
再来年  1899/1/17 ⇒ 旧暦 12/ 6 (六夜・・・・上弦の月の前日)
十年後  1907/1/17 ⇒ 旧暦 12/ 4 (四夜・・・・三日月の翌日))
因みに、金色夜叉が発表された明治30年(1897年)から 116年後、平成25年(2013年)今月(1月)今夜(17日)の月は六夜の月。満月にはほど遠い細い月です。

 ネットには便利な情報が沢山あります。月齢計算なども年月日を入力すれば即座に月齢が分かるサイトがあります。大変利用用途の多い楽しいサイトです。

尾崎紅葉の頭には旧暦が色濃く残っていたのでしょう。新暦が定着するにはまだもう少し時間が掛かったのかもしれません。


1・17「今月今夜のこの月を・・・」

2019年01月17日 | 大衆演芸
今日は1・17阪神淡路大震災24年目のメモリアル・ディーです。そんな日に不謹慎を承知で「金色夜叉」のことを書きます。
 「一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此の月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いて居ると思ってくれ」尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の熱海の海岸での一節です。映画・演劇でも有名な場面です。僕の子供の頃には漫才のネタでもありました。
ミス・ワカナ 玉松一郎の漫才が有名ですが、僕らの子供の頃は中田ダイマル・ラケットが書生節と言われる「金色夜叉」の歌をネタにしたものでした。
 「金色夜叉」の歌は大正7年(1918)に、後藤紫雲・宮島郁芳という2人の演歌師によって作られたそうです。当時(大正・昭和)の演歌師はバイオリンを伴奏として流していたようです。漫才では「熱海の海岸散歩する~・・」と片方が歌うと相方が口演奏で「ギィヤギィヤ・・」と口でバイオリンの伴奏を入れるのですが、そのタイミングや声の大きさ、テンポなどの食い違いで爆笑を呼ぶまさに名人芸でした。
多くの人(多分)は小説「金色夜叉」を読んだことが無いと思うのですが、このような大衆演芸などでそのストーリーを知ったものです。「婦系図」の湯島の白梅「早瀬 月は晴れても心は暗闇だ。…………お蔦 切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい」「不如帰」の浪子が「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」などなど小説を読まなくてもこうした漫才・講談・浪曲などの大衆演劇でその知識を得ていました。

1 (男女)
  熱海の海岸散歩する
  貫一お宮の二人連れ
  共に歩むも今日限り
  共に語るも今日限り

2 (男)
  僕が学校おわるまで
  何故に宮さん待たなんだ
  夫に不足が出来たのか
  さもなきゃお金が欲しいのか

3 (女)
  夫に不足はないけれど
  あなたを洋行さすがため
  父母の教えに従いて
  富山一家に嫁かん

4 (男)
  如何に宮さん貫一は
  これでも一個の男子なり
  理想の妻を金に替え
  洋行するよな僕じゃない

5 (男)
  宮さん必ず来年の
  今月今夜のこの月は
  僕の涙でくもらせて
  見せるよ男子の意気地から

6 (女)
  ダイヤモンドに目がくれて
  乗ってはならぬ玉の輿
  人は身持ちが第一よ
  お金はこの世のまわりもの

7 (男女)
  恋に破れし貫一は
  すがるお宮をつきはなし
  無念の涙はらはらと
  残る渚に月淋し
僕が「金色夜叉」を読んだ記憶は、今高三年の時、遅刻したので学校に入るのが億劫になり、あみだ池の大阪市立中央図書館での事だと思っていました。今日、改めて蔵書を引っ張り出すと裏表紙の「昭和43年4月。桑名市明文堂」とメモ書きがあるところを見ると社会人になってからのようでした。

添田啞蝉坊・・・・明治・大正の演歌

2016年08月24日 | 大衆演芸


金々節


金だ金々 金々金だ 金だ金々 この世は金だ 金だ金だよ 誰が何と言おと 金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ 金だ金々 その金欲しや 欲しや欲しやの顔色目色 見やれ血眼くまたか目色

一も二も金 三・四も金だ 金だ金々 金々金だ 金だ明けても 暮れても金だ 夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ バカが賢く 見えるも金だ 酒も金なら 女も金だ 神も仏も 坊主も金だ

坊主可愛や 生臭坊主 坊主頭にまた毛が生える 生えるまた剃るまたすぐ生える はげて光るは つるつる坊主

坊主抱いてみりゃ めちゃくちゃに可愛い 尻か頭か 頭か尻か 尻か頭か 見当がつかぬ 金だ金だよ医者っぽも金だ

学者・議員も政治も金だ 金だチップも賞与も金だ 金だコミッションも賄賂も金だ 夫婦・親子の中割く金だ

金だ金だと 汽笛がなれば 鐘もなるなる ガンガンひびく 金だ金だよ 時間が金だ 朝の5時から 弁当箱さげて

ねぼけ眼で 金だよ金だ 金だ工場だ 会社だ金だ 女工・男工・職業婦人 金だ金だと 電車も走る

自動車・自転車・人力・馬力 靴にわらじに ハカマにハッピ 服は新式 サラリーマンの 若い顔やら 気のない顔よ

神経衰弱 栄養不良 だらけた顔して 金だよ金だ 金だ金だよ 身売りの金だ カゴで行くのは お軽でござる

帰る親父は 山崎街道 与市べえの命と 定九郎の命 勘平の命よ 三つの命 命にからまる サイフのひもよ

小春・治兵衛 横川忠兵衛 沖の暗いのに 白帆がみえる あれは紀の国 みかんも金よ 度胸どえらい 文左衛門だ

江戸の大火で暴利を占めた 元祖・買い占め・暴利の本家 雪の吉原 大門うって まいた小判も  金だよ金だ

お宮貫一 金色夜叉も 安田善次郎も 鈴弁も金だ 金だ教育 学校も金だ 大学・中学・小学・女学

語学・哲学・文学・倫理 理学・経済学・愛国の歴史 地理に音楽 幾何学・代数 簿記に修身 お伽に神話

コチコチに固くなった頭へ詰める 金だ金だと むやみにつめる 金だ金だよ 金々金だ そうだ金だよ あらゆるものが

動く・働く・舞う・飛ぶ・走る ベルがペン先が ソロバン玉が 足が頭が 目が手が口が 人が機械か 機械が人か

めったやたらに 輪転機が廻る 金だ金だと うなって廻る「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」「都」「読売」「夕刊報知」

捨子・かけおち・詐欺・人殺し 自殺・心中・空巣に火つけ 泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴 貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ

金だ元から 末まで金だ みんな金だよ一切・・金だ 金だ金だよ この世は金だ 金・金・金・金 金金金だ

 添田啞蝉坊の「金々節」です。添田啞蝉坊関連の本は沢山あります。その多くなものの中で秀逸は親交のあった小沢昭一の一連の著作及び語りです。
「演歌の明治ン大正テキヤ」を購入しました。
  
添田啞蝉坊の本は「カビ臭く」それでいて「変に理屈ポイ」ものが多いのですが、この本はスマートでストレート。入門書でもエッセンシャルな内容ぎっしりです。
添田啞蝉坊で検索すると沢山ヒットします。また、YouTubeで啞蝉坊の演歌を聞くことができます。
添田啞蝉坊やジャンルは違いますが宮本外骨などはもっともっと注目されていいのではないでしょうか?


おしどり夫婦・・・・落語「百年目」

2015年09月17日 | 大衆演芸
街で偶然知人に出くわしました。「マァマァ、・・・お茶でも」と喫茶店へ。先方さんは奥さんとご一緒でした。知人とは長いお付き合いですが奥さんに会うのは初めてのことです。知人は俗に言う「ガレージカンパニー」のオーナー社長で、可なり個性の強い強引な人で、当ブログなどと違ってマァ人の言うことなど聞く耳を持たない人です。当ブログは常々「コイツの嫁さん、どんな人だろう?」と思っていましたが、どうにも想像が付きかねていました。初めてお会いしましたが、飾り気・衒(テラ)いのない極々普通のおばさんでした。その奥さんが知人を「家の旦那 家の旦那」と云います。一方、旦那は奥さんを「おかあさん、おかあさん」と呼んでいます。この夫婦には成人した息子が二人おり、既に独立して今は夫婦二人きりの生活だそうです。子供が出来てから「おかあさん」と呼び、そのまま続いているようです。奥さんによると「家にはヤンチャナ坊主が三人いる」とのことです。そう言えば普段あの傍若無人、我侭放題の知人の立居振舞いも今日奥さんの前では幼稚園児が保母さんに上手に扱われているような滑稽さです。何はともあれお二人を見ていると何んともにこやかな仲の良い「おしどり夫婦」です。
 世間で自分の連れ合いを他人に紹介する時どう言うのだろうか。当ブログは「僕の嫁はん」です。「女房」「妻」「家内」「かみさん」「おばはん」「オカア」「やまのかみ」「連れ合い」「カカア」「ワイフ」「相方」・・・・。女性側からは「夫」「主人」「亭主」「旦那」「宿六」「ハズバンド」「パートナー」・・・・。所で、当ブログの嫁はんは、他人に当ブログを何んと言っているのか?そう言えば当ブログはそのことを残念ながら知らないのです。
 件の奥さんが「旦那、旦那」と云うのには何某かの理由があるのだそうです。結婚当座は「夫」と言っていたそうです。それが「旦那」に変わったのは、ある仏事でお坊さんが「旦那」と云うのは夫婦間で上下、従属の関係ではなく「平等・対等」で男女「共生」の関係を表す言葉だと言う内容の説教を聴いたからだそうです。奥さんにしてみれば、このヤンチャ坊主が自分にとって「主人」でも「亭主」でもまして「大黒柱」でもない、お互いになければ生きていけない「共生」の「パートナー」としての存在なのだそうです。だけど「旦那」とは「パトロン」のことで「主人」などよりよっぽど女性を蔑視した言い方のように思うのですが・・・。
語源由来事典などを調べてみるとやっぱり「パトロン」のようなものです。
●旦那の由来・語源:本来は仏教語で、「檀那」と書き、寺院や僧侶に布施をする信者のことをいった。サンスクリット語Dana patiの音訳「檀那波底」の略で、Danaは布施、施しを意味する。「面倒を見てくれる人」「お金を出してくれる人」
 仏教語であることには間違いないようですが奥さんの言うような意味合いはないようです。奥さんの聞き違いかお坊さんのいい間違いなのか・・・?

 落語に「百年目」と云う演目があります。その中で○「一家の主を旦那と言ぅのは、どぉいぅとっから来たか知ってなはるか? 知らん。そぉじゃろなぁ。この歳になるわしが今まで知らなんだんじゃ。こら、寺方の方から来た言葉じゃそぉななぁ。こないだわしゃ聞ぃてきたんじゃが。」「天竺。天竺も五天竺あるそぉなが、そん中の南天竺といぅところに赤栴檀(しゃくせんだん)といぅ見事な木があるんじゃてなぁ、見る人誉めざるなしといぅ木。ところがその根元に難莚草(なんえんそぉ)といぅ見苦しぃ雑草がはびこるのじゃて。赤栴檀は結構じゃが、この難莚草がどぉも具合が悪いっちゅうて、そいつをむしり取ってしまうと、この赤栴檀が枯れるのじゃて。

■つまり、この下で難莚草といぅ雑草がほこえては枯れ、はびこっては枯れするのが、赤栴檀にとってまたとないえぇ肥やしになる。また、赤栴檀の下ろす露が、難莚草にとってはこの上ないといぅえぇ肥やしになるんじゃそぉな。

■そこで赤栴檀がさかえりゃ、下の難莚草もほこえる。難莚草がほこえて枯れることによって赤栴檀はますます育つ。寺方と檀家といぅものはこれでなかったらいかんといぅので、赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、在家の人のことを「だんな」といぅものはこっから出たんじゃといぅて聞ぃてな。

■まぁ年寄りの耳学問じゃ、違ごてても笑ろぉてくださるなじゃが。わしゃなぁ、えぇ話やと思たで。世の中はこれやなかったらいかん「有無相持(うぶあいもち)」っちゅうやっちゃなぁ。まぁこの家でいぅたら、さしずめわしが赤栴檀じゃろ。この頼んない赤栴檀、こんたといぅえぇ難莚草が居てくれるお陰で、えらほこえにほこえさしてもろてる

 どうもお坊さんは落語の「百年目」を参考にして説教したものと思われます。
因みに「難莚草(なんえんそう)」=実体は不明だが「莚」の字は「草がのびてはびこる」の意味。




道頓堀角座で漫才を・・・・。

2015年02月08日 | 大衆演芸
 協済組合から角座の入場券が届きました。以前あった角座は解体され、随分コンパクトになったライブハウスのような劇場になっていました。
出演者は漫才でトリを務めた海原はるか・かなた以外は知らない芸人でした。因みに漫才・シンデレラエキスプレス、マジック・ビックチツカサ、ギャグ連発・代走みつくに、漫才・ボルトボルズ、漫才・天然もろこし、漫才・ワイルドビッチの皆さんが出演しました。席数が120ほどの小ぢんまりとしているので芸人と観客の距離が近く、演者と客とのやり取りもあり和やかな会場の雰囲気でした。
トリを執った海原はるか・かなた

「トリをとる」という「トリ」は寄席の用語だそうです。興行収入を劇場側と芸人が按分して分け合っていて、芸人のギャラは最後に出る真打が全部受け取り、それを出演した芸人たちに分配をしていたことから、最後に出演した芸人がギャラをとることから「トリ」と言ったとか・・・・。
道頓堀戎橋南詰にある竹本座跡石碑
 道頓堀はその昔から芝居小屋や演芸場が沢山あった興行の街だったそうです。江戸時代には竹本義太夫が創立した人形浄瑠璃の竹本座もこの地にありました。竹本座はその後戎座、さらに浪花座に引き継がれていきます。
 嘗て道頓堀には道頓堀五座といわれる芝居小屋があったそうで、江戸三座と共に日本の大衆演劇のメッカだったそうです。
 当ブログが高校生の頃、昭和30年代中ごろは松竹系の興行が絶頂期で、特に角座の演芸は沸き立っていました。現在は劇場中継自体がなくなりましたが、当時は道頓堀アワーや松竹新喜劇などが週に何本も放映されていました。
 当ブログのような落ちこぼれの不登校学生には角座はまさに保健室のような避難所ででした。ダイマル・ラケット、砂川捨丸・中村春代はじめ当時の金看板の芸人が綺羅星の如く高座を務めていました。余りにも有名芸人が在籍したため、松竹系の若手は頭を抑えられて中々有望な若手が台頭しなかったとも言われています。その内、MANZAIブームが訪れると、破天荒ともいえる型破りの若手芸人が超売れっ子となり、吉本興業に天下を奪われてしまいます。そして、日本一の演芸場を誇った角座も吉本花月劇場チェーンにその牙城を奪われ1984年に閉鎖されることになりました。
 当ブログの記憶に間違いがなければ、高倉健主演の映画「夜叉」で、解体工事中の角座が登場したと思います。


懐メロ

2014年09月06日 | 大衆演芸


恒例の懐メロ番組を見ました。テレビ東京系列では過ってはコロンビア・トップ、ライトの司会で年何回か特番として「懐メロ」を放送していました。今でもその伝統を引き継いでいるのか折々に「懐メロ」を特番放送をしています。それでもあの名台詞「老いたる者には過ぎにし青春の郷愁を、若人には呼べど逝にて再び帰り来たらぬ古の幻を」はありません。
 雪村いづみがインタビューに登場していました。恐らく80歳に近い老境でしょうか、このような「夢」を売る家業の人はできれば老醜を曝さないように願いたいものです。
 雪村いづみの懐メロフイルムは「遥かなる山の呼び声」と「テネシーワルツ」でした。和製ポップスというジャンルだそうです。原曲はアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『知りすぎていた男』でアメリカ女優・歌手ドリス・デイが歌った曲です。

 雪村いづみと同時期に活躍した江利チエミはお馴染みの「テネシーワルツ」でした。パティ・ペイジがカバーしたものが世界的なミリオンセラーとなりました。またこの「テネシーワルツ」は江利チエミの元夫・高倉健主演の映画「鉄道員 」のテーマソングに使用され話題となりました。


 CMなどで時折思いもよらない曲を使用することがあります。テレビを見ていると突然懐かしいメロディーが流れます。大分に前のことですがアリナミンのCMで「Take Five」が流れて驚きと懐かしさで慌てて録画したことがあります。
今回の懐メロでは取り上げていませんが、Fujiフイルムの化粧品「 アスタリフト」のCMでシルビー・バルタンの「アイドルを探せ」が流れていました。




落語「一文笛」

2013年11月07日 | 大衆演芸
「米朝落語全集 全7巻」が33年ぶりに改訂増補版が刊行されることになったそうです。
11月5日付朝日新聞夕刊に米朝の「一文笛」創作の経緯が掲載されていました。
落語は文字通り「落し噺」ですから「オチ」が大変重要なものです。演者の側からすると「噺」の「下げ」が聞き手・お客にとっては「オチ・落ち」になる訳です。ですから落語の「オチ」は噺そのものと噺を演じる落語家にとってもその真価を問われる最重要なものとなります。
米朝の「一文笛」は、米朝が「オチ」を思いつき、それから噺を作り上げたのだそうです。そして、「オチ」を思いついてから「一文笛」が完全な話に完成するまで10年もの月日が掛かったそうです。そして、今回の「米朝落語全集」に採録されるそうです。
画像をクリックして下さい。大きくなります。

 落語ばかりではなく手品などでも「ネタ」が「バレ」ると面白いことも何でも無くなってしまいます。
一寸想像してみてください。場末の商店街の「そば屋」で落語会をやっています。店の中には商店街の喧騒も遠慮なく聞こえてきます。
高座では修業中の若手が熱演しています。演目は「一文字笛」です。いよいよ噺の「オチ」にかかります。その時、商店街の有線放送から麻丘めぐみの「私の彼は左利き」が流れてきたら・・・・・。実際にありそうなことです。確か米朝の息子小米朝(桂米團治)がラジオで話していました。


第2回みのおこうえん寄席

2013年09月21日 | 大衆演芸
「美味しい料理に笑顔があふれ 噺の笑いが月までとどく~ 初秋の箕面公園で落語をたのしみませんか 川床で味わう特製お弁当付き!中秋の名月のころ、まん丸のお月さんも見られるかも・・・」の謳い文句で梅屋敷で落語会がありました。 
  
演者は何れも桂米朝一門の桂しん吉、桂鯛蔵の二人です。「開口一番」と言って落語会などで、その一番最初に演じる者。 多くの場合 前座が務める様ですが、本日は芸歴の若い桂鯛蔵が「動物園」を演じました。「動物園」と言う噺のネタは何とイギリスの話だと言われています。
 桂しん吉は古典の名作「金明竹」と「中入り」を挟んで創作落語「だんじり狸」の二題を演じました。
「金明竹」は話の構成としては前段と後段の二部から成っていて、前段は骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。この丁稚の与太郎は少々頭に霞がかかっていてそれがおじさんの悩みのタネ。その丁稚の与太郎が店番をして引き起こす頓珍漢のドタバタのお話。後段は骨董品7点の購入を依頼していた得意先が「断り」の口上を伝えに来ますが、留守番の与太郎と店主のおかみさんでは、骨董の専門用語を並び立てられても「チンプンカンプン」。骨董店の店主が帰ってきて客の口上を聞きが全く要領を得ません。そして「あいつに道具七品を預けてあるんだが、買ってったか?」「いいえ、買わず(蛙)です」チャンチャン。
「だんじり狸」は古典風に仕立ててありますが、日本でただ一人の落語作家小佐田定雄の創作によるものだそうです。今回初めて聴きました。
 

 4半世紀も前の話です。冷凍食品卸会社をやっていた頃、堺東銀座商店街に「うどん屋」がオープンしました。間口の狭い奥行きのある5階建てのビルで、1回はテーブル席、2階は厨房、3・4階は畳敷きのお座敷席、5階が事務所兼倉庫でした。エレベータが無く納品は狭い階段を5階まで何度も重たい荷物を運び上げなければならない苦労をした店です。3階の座敷席には本格的な舞台が設けられており「利久寄席」が月1回開かれました。
 
故桂喜丸

この利休寄席はその後23年途絶えることなく続いたそうですが、「うどんちり利休」が廃業と共に「利休寄席」も無くなりましたが、長年続いた堺の名物ともなっていた「利休寄席」復活の声に去年場所を変えて「利休寄席」は復活したそうです。
 利休寄席が始まった頃は得意先の行事と言うこともあり随分とお手伝いをしました。当初、利休寄席の中心メンバーは桂喜丸、桂都丸、桂雀々、桂む雀、桂吉朝・・・らの若手連中でした。丁度、今夜のしん吉や鯛蔵のような・・・。
桂喜丸は、若くして鬼籍に入りました。その喜丸の最後の演目が「短命」と言うネタで、喜丸は自分の人生の「オチ」を自分でつけたようです。同じく若くして鬼籍に入ったのは桂吉朝で、今晩出演した桂しん吉の師匠にあたる人です。
また、喜丸と同じく利休寄席で活躍した桂都丸は今や大名跡「塩鯛」を継いだ桂塩鯛師匠です。今晩の開口一番役の桂鯛蔵の師匠です。




NHKドラマ「夫婦善哉」・・・「妾にしたろ!」

2013年09月08日 | 大衆演芸
付けっ放のテレビで「夫婦善哉」を放映していました。何回かのシリーズ仕立てのようですが、たまたま観たので何とも言えませんが、画面もすっきりしていて面白そうでした。蝶子役の尾野真千子が好演しているように思いました。
織田作之助生誕百年と言うことで一寸したブームになっているそうです。僕は原作の小説「夫婦善哉」は読んだことがありませんが、淡島千景と森繁久弥、野川由美子と藤山寛美の「夫婦善哉」を観たことがあります。
  
蝶子としては淡島千景、野川由美子よりも尾野真千子が役柄にぴったりとはまっているようです。恐らく役者・尾野真千子の生涯の代表作になるのではと思えるくらいの適役です。
 一方、柳吉役は、何と言っても森繁久弥です。藤山寛美は彼の私生活とキャラがダブってしかも船場の老舗のお店の「ボンボン」という育ちの良さに欠けるのは致し方のないことです、が柳吉のキャラとしてはミスマッチと言わざるを得ません。今回の柳吉役は森山未来ですが、柳吉のキャラである自己破滅型の放蕩三昧で自己規制ができない「あかんたれ」の「ノー天気」ではなく、文士崩れのニヒリストのようで柳吉の稚気愛すべきキャラとは程遠いもののように思われます。
夫婦善哉のある法善寺横丁の東西の出入口に木造看板がかかっていて、西側は藤山寛美、東側は三代目桂春団治が揮毫したものです。面白いことに西側にある藤山寛美の看板では「善」の字の横棒が1本足りません。
「風立ちぬ」で喫煙シーンにクレームがついたそうですが、ドラマでは「たばこ」を吸うシーンもあります。同じNHKのドラマで戦前戦後が舞台になった「おひさま」「梅ちゃん先生」「カーネーション」などでは嫌味なくらい「たばこ」は排除されていました。
 また、セリフでも「妾にしたろ!」のような非難の的になりそうなものもボンボン飛び出しています。
4組のHP「阿倍野星迷・川柳塾」で塾頭の作に「年相応 酒も女も 2合(号)まで」 と言う迷句が投稿されています。

 「二号」「手掛け」「めかけ」など何れも「妾」と表記されるようですが・・・・。
桂米朝が復元し復活させた落語のネタに「算段の平兵衛」と言うのがあります。その枕の部分で「てかけ」というのは、「二号さん」「妾」の関西弁。関東の「めかけ」と同意語で、「手をかけるか、目をかけるかだけの違い」と解説しています。
大阪弁では「○○さん」と言うのを「○○はん」と言います。「女将さん」は「女将はん」「お妾さん」は「お妾はん」と言います。「二号さん」は「二号はん」となります。
 古い大阪の商家の隠語で「二号はん」のことを「こなから」と言うそうです。
一升枡の半分は五合枡。その五合枡の半分を「半枡(なからます)」。更にその半分を「小半枡(こなから)」と呼ぶ。つまり、五合の半分は二合半。即ち「小半(こなから)」=「二合半(にごうはん)」と言う判じ物です。詳しくは桂米朝「算段の平兵衛」を聞いて下さい。


久々の一条さゆり

2013年04月10日 | 大衆演芸
4月9日、朝日新聞夕刊に「反骨の踊り子しのぶー一条さゆり考えるシンポー」と言う記事が掲載されました。
権力とか反権力などと言う言葉に最もなじまない最底辺の河原芸人のストリッパーを何故「反権力のヒロイン」に祭り上げたがるのだろうか? 最盛期には200館以上あったといわれている、ストリップ劇場だが現在、全国のストリップ劇場は47館だそうです。現在営業を続けている劇場でも入場客は疎らでどこの劇場も経営難だそうで何れこれらの劇場も廃業となることでしょう。「絶滅危惧種」の最たるものです。

 いつの頃からか「ゴミ」を分別して収集日に出すようになりました。人様に迷惑を掛けないように「ゴミ」さえ綺麗にビニールのごみ袋に入れて烏除けネットを掛けて門先に出します。その分別されたゴミはリサイクルされるものもあります。
そんな世相が日常になった時代にストリップ劇場、スマートボール、射的屋、見世物小屋が姿を消していきました。
どぶ川に漂った「アクタ」が消えただけのことです。一条さゆりはそんな時代の「アクタ」でしかないのです。誤解のないように静かに休ませてわ・・・。
「一条さゆりの真実」加藤詩子 講談社は迫真のルポルタージュです。興味のある方は一読をお勧めします。

ワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)に行ってきました。

2012年04月28日 | 大衆演芸
ワッハ上方は民間の商業ビルに入っています。吉本興業の本拠地なんばグランド花月の前にあります。
やはりテナントビルの家主は吉本興業です。大阪府(ワッハ上方)は吉本の店子と言うことになります。
 ヨシモトの芸人でもあった元大阪府知事・横山ノックの置き土産です。
橋下徹が府知事になった時、府立博物館(弥生、狭山池、近つ飛鳥)の統合、吹田市万博公園の児童文学館の廃止それにワッハ上方の統廃合などの「花火」を打ち上げました。今の所、児童文学館が廃止されて東大阪の中央図書館に移転しましたが、他の施設は従来通り運営しているようです。

 ワッハ上方は時間潰しにはもってこいの穴場です。一度行かれることをお勧めします。

イラストレーター中西らつ子の原画展が開かれています。この種のらつ子さんの展覧会は3度目です。
 

中西らつ子プロフィール 箕面市在住。夙川学院短期大学美術科卒業。 1993年イラストレーターとして活動開始。新聞、雑誌、テレビで活躍。 落語や文楽のイラストや漫画を描くことが多く、 毎月発行の落語情報誌『ょせびっJの表紙 イラストと漫画を担当。
 チョッとした繋がりでらつ子さんの知り合いの方と一緒に観覧しました。
イラスト作品によって、上方落語の魅力を楽しく、わかりやすく伝える展示を目指し、落語すごろく(第1回)、落語紙芝居(第2回)、落語かるた(第3回) と好評を受けて回を重ねてまいりました。 そして4回目となる「第57回特別展・らくごとぶんらくでイラスト紙芝居 -上方落語と文楽の橋渡し!! - 」では、上方落語と同じく、大阪が誇る古典芸能として今なお多くの観客を魅了してやまない文楽にもテーマを広げ、 落語と文楽をイラスト紙芝居で表現する特別展を企画しました。 上方落語には文楽(浄瑠璃)が重要なモチーフとして登場する噺がいくつもありますが、上方だけでなく東京落語でも上演される人気の演目「寝床」を 落語イラスト紙芝居の8作目として、文楽の『本朝廿四孝」「本朝二十四孝」)を はじめての文楽イラスト紙芝居としてそれぞれ描いていただきました。
展示資料は、イラスト紙芝居の原画と、公演ポスターや雑誌などに発表された落語・文楽をテーマにした作品約200点(絵画・ポスター・紙芝居・ かるたなど)を中心に、子ども向けの落語と文楽を紹介したパネルなども展示いたします。