馬糞風リターンズ

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亀岡・里山での1日

2011年09月30日 | ドライブ・旅行
28日、4組の仲間&その周辺居住者11名がホストの広瀬さんのコンダクトのもと秋の里山での楽しい体験をしました。詳しくは4組HP・掲示板でご覧下さい

 ホストの広瀬さんは豊中高校から大阪大学建築工学コースに進まれ、大手建設会社で活躍、多くの実績を残されたそうです。
お話ではUSJ建設の総指揮をとられたそうです。偶然にも今回一緒に参加した同級生の仲田さんが勤務していた高島屋の物流基地の建設も手掛けたそうで、当時仲田さんは高島屋側の責任者で広瀬さんは建設会社側の責任者だったそうで旧知の仲と云う事が判明しました。

 世の中には驚くような学識・博識の人がいるものですが、ホストの広瀬さんはその学識・博識に加えて行動力をも兼ね備え、更にたぐい稀なリーダーシップまでお持ちの才人です。

社会の風潮として自然環境保護が叫ばれ、またモノだけではない心の豊かさを見つめ直そうとする傾向があります。
TV番組でも「人生の楽園」とか「となりの人間国宝さん」などが人気になるのもその左証かも知れません。
そんな風潮から「里山の保全」「棚田を守る運動」「間伐材の利用」「ビオトープ」・・・・・などなど多くの自然環境問題に関心が集まり、活動に参加する人も増えているようです。
 ただ、生意気を言うようですがマスコミなどが伝えるこれらの運動は、僕の感覚からすると「ちょっと違うんじゃない」と云う印象のものが多いのです。それは、きっと問題意識の出発点に「認識不足」あるいは「認識間違い」があるからだと思います。

 ホストの広瀬さんから問題が出されました。「里山とは」と云う質問です。
残念ながら誰も答えることができませんでした。
広瀬さんによると「里山とは、農民薪などの燃料堆肥とする広葉樹の落ち葉を採集する集落、人里に接した山林」だそうです。そしてそのような「里山」は日本独特の存在なのだそうです。(韓国とイギリスの一部に似た存在があるそうです)

 この様に広瀬さんの行動には明確な理論背景があるように見受けました。
「里山」の定義は案外漠然としています。環境省なども「里地里山とは」として一応の見解を出していますが、明らかに明瞭さに欠ける説明です(環境省は「里地里山とは」というパンフレットを出しています。インターネットでも閲覧できると思います)

 里地・里山更に里道など法律でも規定のない用語があります。
何となくイメージはできるが適格に把握できないまま「里山を守ろう」としても、実は全く無意味な行動をしている場合があるかもしれないのです。或はとんでもない誤解をしていてヒステリックに「自然破壊反対」なんて叫んでいる御仁もいるようです。

 現在的な意味での「里山」の概念は森林生態学の巨人・四手井綱英の提起によるものだと思います。
四手井綱英の京都大学の研究室からは多くの逸材が輩出され、特に生態学をベースに民族学に進んだ学者が沢山います。
定年間際で突然病死したアフリカ民族学の碩学Fさんも京大森林生態学出身の逸材でした。

 「木を切ると文明が滅びる」と言われます。
現在は不毛の砂漠地帯である中近東も古代にはレバノン杉の鬱蒼と茂る大森林緑地帯だったそうです。そのレバノン杉を住宅、燃料、造船に利用するために伐採した、やがて回復することなく砂漠化してしまったそうです。
かの地には「メドウサ」と云う「目玉」の信仰があります。この信仰は森林の豊かな地に存在するもので日本では「邪視紋」などと言われるものです。中近東の「メドウサ」は森林が豊かであった当時の名残です。
 また、モアイ像で有名なイースター島は、現在灌木1本すら生えていない島だそうですが、モアイを作っていた頃は森林に覆われていたそうです。その森の豊かな恵みで信仰に明け暮れモアイを制作し、その運搬材料として木材を伐りだし、森は無くなり、文明が滅び、モアイだけが残ったそうです。

 話しが大きく逸れてしまいましたが、ついでにホスト広瀬さんが何度も口にした「ライジング
と云う言葉です。池の魚が昆虫などを食べようと水面に浮き上がる或は跳びあがる行動の事だそうです。
恐らく広瀬さんは食物連鎖から里山の生態系の話しをしたかったのではないかと思いました。
何度か「ライジング」と云う言葉を発せられましたが、鈍感な我々はそこまで気付かなかったようです。

 茶室「遊子庵」庵主・広瀬さんの千利休への造詣の深さを思い知らされました。
他の方々はいざ知らず野人で無粋な僕などは入り込めない深遠な世界でした。
でも、楽しい1日でした。ありがとうございました。

京都北野天神の骨董市に行ってきました。

2011年09月26日 | ドライブ・旅行
25日(日)4組の同級生仲田さん、太田さん夫妻と北野天満宮の骨董市に行ってきました。
祇園南座にある「松葉本店」で12時30分に合流しました。松葉本店は「ニシンそば」を考案した店として有名です。

 曇りがちですが気温は過ごし易い温度で北野天満宮周辺は大勢の人でです。



北野の骨董市は出店の数も多くて商品もバラエティー豊富です。
写真の人形は住友信託銀行のノベルティグッズです。一定の金額を預託すると粗品として渡されたものです。
昭和30年代~40年代採用されたものと思われます。
世界各国の民族衣装のプラスチック製です。この店の人形は企業のベルティーに大阪万博の記念シールが貼られている二重のプレミアがついているそうで、当初の言い値は1体1200円ですが最終的には700円とのことです。


 現在、わが家では生活スタイルが大きく変わったのでリ・ホームをするべく、家の中を整理中です。
ここ1週間で使わなくなった電化製品を中心に軽トラ1台分のガラクタを処分しました。
今は衣類、雑貨、本などの小物を整理していますが、住友信託銀行の貯金箱の人形が50体ほど出てきました。
ただ、大阪万博以前のもので果して「お宝」としての値打ちがあるものか近々この店に持ち込み鑑定してもらうことにしました。

 余談ながら、本日、僕の嫁さんは神戸に行ったそうで、そのついでに三宮の「切手・古銭」の店で、同じく最近出てきた切手の値打ちを聞いたそうです。
「余程の貴重品でないと額面の半値」だそうです。「切手は売らずに使用した方がいいですよ」との事でガッカリしていました。




秋の丹波路をドライブ・・・彼岸花と松茸釜めし

2011年09月25日 | ドライブ・旅行
何時もの相棒が北海道から帰って来た。
お彼岸だし天気も最高なので「飛鳥の彼岸花」でも見に行くか、と高速に乗ると「工事渋滞」があるとの電光表示で方向転換。
能勢から亀岡~丹波路をドライブすることにしました。

 彼岸花は最盛期で、能勢の田園風景に入ると畔や土手に列をなして鮮やかな燃えるような紅の花が秋風になびいていました。
そう言えば彼岸花は田圃の畦道や水路の土手に群生しています。これには謂れがあるそうです。
彼岸花の分布は西日本中心で、自生北限は秋田県・山形県・岩手県だそうですが、山の中には見られず、主に人間の生活領域に分布しているとのことです。この様な植物を「人里植物」とよぶそうです。
 そもそも彼岸花は中国揚子江付近が原産地とされています。彼岸花が何故この様な分布をするのかについては幾つかの仮説があります。
(1)自然分布説・・・・日本列島とユーラシア大陸は陸続きでした。
(2)海流漂着説・・・・海流に乗ってぷかぷかとやってきたという説(ただし彼岸花の球根は塩分に弱い)
(3)史前帰化植物説・・縄文時代に「でんぷん」を得るために、大陸から持ち込まれた
(4)救荒~薬草渡来説・彼岸花が古典に登場するのが室町時代以降であり、それ以前の典籍には全く見られないことが、この説の根拠となっています。鎌倉時代に飢饉対策として中国から持ち込まれた。

 上記の様な仮説がありますが、僕が魅力を感じる仮説がもう1つあります。
水田の畦や墓地に多く分布するのは、彼岸花は全草毒素を持っていて特に鱗茎の毒をネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物が忌避、また土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため人為的に植えられたためと言う考え方です。
 この考え方は日本の稲作起源とも密接に関係する仮説で非常に興味ある考え方です。

仮説の(3)(4)の食用としての彼岸花の利用についても面白い記録がありますがまたの機会に・・・。
彼岸花は日本の植物の中では、最も別名の多い花だそうで、ヒガングサ・ヒガンバラ・ヒガンユリ・ヒガンソウ・ヒガンポ・イチジバナ・イットキバナ・ソロイバナ・イッショバナ・アカノハナ・アカバナ・カジバナ・ヘイケバナ・マンジュシャゲ(曼珠沙華)・オミコシバナ・カミナリバナ・テンガイバナ・ハナビバナ・ハッカケクサ・ハッカケバナ・ハヌケグサ・ハミズハナミズ(葉見ず花見ず) ・・・・・・・このほかの別名、地方名などを数えると悠に3桁になる別名がある花です。

曼珠沙華はサンスクリット語 manjusaka の音写 と言われ「天上の花」という意味だそうです。
また「葉見ず花見ず」と呼ばれる所以は、彼岸は花が終わっても花には種は出来ません。彼岸花は花が咲いても種が出来ない徒花(あだばな)なのです。種も作らず花を終えてしまった後に起こることは、今まで一度も登場しなかった葉っぱが姿を現し伸び出すこと。葉っぱが出る時期には花が終わってしまっているので、彼岸花の花は葉を見ず、葉は花を見ずということになります。



「僕は運転する人、君はサービスする人」と別段話あった訳でもありませんが、僕が移動に関する事を全て負担する代わりに相棒は飲食などの経費をすべて負担すると云う暗黙のルールみたいなものが確立されています。
亀岡の郊外に「丹波名産」品食材を使用した料亭がありました。まだ、旬には早すぎるので地場産のものではないと思うのですが「松茸」料理の幟がありましたので、今季初モノの「松茸膳」を賞味しました。

この辺りの街道を「とうろう街道」と呼ぶそうです。(以前来た時にはそんな名称もありませんが・・)
丹波路には他に有名な「デカンショ街道」なるものもありますが、今回は左折して大阪に帰りました。




三島由紀夫「愛の渇き」

2011年09月18日 | 雑学
三島由紀夫の小説「愛の渇き」の冒頭に豊中市の情景が紹介されています。
我が4組のHP管理者太田さんが住まわれている岡町や熊野田、服部霊園などのことが時代背景と共に書かれています。
小説の舞台設定としての背景描写として必要であったのでしょう、三島はこのために1週間ほど取材に来ていたようです。
三島の小説は「有閑層」の人間模様を描くことにあります。豊中市岡町はそういう意味で関西の著名人や富裕層の多く住む高級住宅街ですから、彼の描く小説の舞台背景によくマッチしていたのかも知れません。
 小説の中で熊野田あたりを「米殿村(まいでんむら)」と書いています。
この米殿村と云う村名はどうやら三島の創作のようです。豊中市の町村変遷を調べても米殿村は出てきません。また隣接する吹田市を捜してもなさそうです。

 三島由紀夫や石原慎太郎の世界と僕の生活観とは全く肌合いが違いますから彼らの書いたものは殆ど読むことはありません。
三島由紀夫で衝撃だったのは昭和四十五年十一月二十五日、市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃したことです。

 この日、僕は富山県礪波に出張していました。北陸の初冬にしては珍しい素晴らしい好天だったと記憶しています。
何も知らずに昼飯を食べる為に入った食堂のテレビに、バルコニーで拳を振り上げ演説している白鉢巻、ミニタリールックの三島の姿が繰り返し放映されています。司会をしていたのが中山千夏で、三島の挙動を伝えるのにえらく馬鹿丁寧な言葉使いであった様に思いました。恐らく彼女は三島を少なからず尊敬していたのか或は親派だったのかも知れません。

 このセンセーショナルな事件は連日マスコミが取り上げ報道しました。
新聞には三島の検死や解剖所見なども詳しく報道しました。
朝日新聞によると「三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。」とあります。
毎日新聞の解剖所見では「死因は頚部割創による離断」「頚部は三回は切りかけており・・・」とあります。

 乃木希典は明治天皇の大喪の当日静子夫人と共に殉死しています。
このときの乃木も割腹しています。言い伝えでは作法通り「十文字」に腹を切り、その後上着のボタンを掛けて衣服を糺し、軍刀の刃を上に柄を膝の間に立て、その切っ先めがけて乃木は頸部を貫き、頸動脈を裁断した、とあります。

 切腹にも作法があるそうで、乃木の場合は介錯が無い時の作法だそうです。
三島由紀夫は生前、映画などで自ら「切腹」のシーンを演じています。「人斬」や「憂国」などですが、僕は映画「人斬」で田中新兵衛役の三島が「切腹」するのを見ました。この時も場面としては介錯のない「切腹」です。

 総監室で三島が自決した時、「楯の会」の森田が介錯したとされています。
事前に介錯人がいる場合の切腹の作法は、腹にそれほど深く刃を立てないそうです。江戸も中ごろ以降になると短刀を腹に当てるだけで、その瞬間介錯の刀が首を落とすそうです。

 三島の切腹は作法通りの「十文字腹」で行おうとしようで、その為、腹を深く刺し、上体が前屈みになったので森田の介錯の太刀の手元が狂ったため肩口に三つの傷跡が残ったのではと推測されています。
因みに森田の剣の腕前は見事だそうです。

 人が死を以って行ったことに対して僕は「どうこう」と批評はしません。少なくとも「死を以って国民のために頑張ります」などと言っている政治家よりは見事であることは確かです。

 文学者三島由紀夫が辞世として読んだ「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へし 今日の初霜」
また、乃木希典の「うつし世を 神さりましし 大君の みあと慕ひて 我はゆくなり」
何れも「作った」「習作」の様なぎこちなさを感じるのは僕だけでしょうか。






井伊直弼の首

2011年09月16日 | 歴史
桜田門外で時の大老井伊掃部直弼 が水戸浪士たちに暗殺されたのは万延元年(1860年)3月3日上巳の節句です。
 上巳の節句とは陰暦3月最初の巳(み)の日に災厄を祓う行事のことで、ひな祭りの原型になった行事です。
この日、幕閣・重臣は慶賀の祝いを述べるために登城するのが慣例となっていました。
当日は季節外れの大雪で積雪もかなりあった様です。

 襲撃の詳細な様子はネット上でも小説、映画などでも描かれています。
井伊掃部頭の首を挙げたのは、薩摩からただ一人襲撃に参加した有村次左衛門とされています。
郡司次郎正の小説「侍ニッポン」の主人公新納鶴千代のモデルになった人物です。

 有村次左衛門が井伊直弼を引き出して首を落としました。首を持った有村は、満身創痍でよろめきながら日比谷門の方へ向かいました。井伊家の小姓小河原秀之丞は重傷で昏倒していましたが、刀を杖に立ち上がり、有村に追いすがり有村の後頭部から背中を斬り付け致命傷を負わせました。有村は若年寄遠藤但馬守の屋敷門前で力尽きて切腹して果てます。

 急を知った井伊家の家士たちが現場に駆けつけ主人直弼の首の所在を懸命に探査します。
探査の結果、直弼の首は遠藤但馬守の屋敷にあることがわかりました。
彦根藩としては、主人の首を返して欲しいと申し出るわけにいかず、供廻りで闘死した加田九郎太という者が年齢格好が似ていたので、その者の首ということにして飯びつに入れて引き取ったそうです。
本来ならば、藩主が跡継ぎを決めないまま横死した場合、家名断絶になるのですが、「大老は襲われたが、重傷で生存している」として、彦根・井伊家はその間に跡目相続手続きを済ませて井伊家は存続を許されると云う異例の処置がとられました。

 「講釈師、見て来たような嘘をつき」と言われますが、桜田門外の変などは公衆の面前、衆人環視の中で起こった事件ですし、関係者も多くの人が関っていますので、目撃譚や各役所、各藩の調書などが残っていますので、巷間伝わる事件の模様は概ね事実を踏まえているようです。

 「史談会速記録」というものがあります。幕末維新の当事者・関係者の体験・見聞の談話を集大成したもので、明治25年~昭和9年まで連綿と継続刊行され、四百有余冊に及ぶ膨大な歴史証言集です。
その一部は単行本として刊行されてもいますので、比較的簡単に閲覧することができます。
歴史の現場の生の証言だけに下手な小説を読むよりはるかに臨場感があり面白いものです。

 大正5年10月15日に記録された会津の石沢源四郎の談話は「有村次左衛門最後の様子」を語っています。
少々長くなりますが非常に面白いので次左衛門の壮絶な最後の行動を引写しておきます。

石沢源四郎
「只今ご紹介下さいました私は会津の石沢源四郎であります。桜田事件の当時は、和田倉御門内の藩邸におりました。
(中略)
丁度万延元年三月三日は大雪でありました。その時私は中屋敷の宅で、御節句の甘酒を飲んでいると、非常にその通りが騒々しい。(中略)
まだ私は十二か十三のころでありました。(中略)

 暫くすると辰の口において又喧嘩が起ったという話。止めらるるのを構わずソッと抜けて行った。
有村という者が臨終の際に胡坐をかいていた場所が、丁度辰の口の滝がドンドシ流れている所を後方にしてあった。
綴石が二尺位の高サになっている。和田倉御門を出ますと、黒いものが辰の口で藻掻いておる。
又側を見ますと有村のいるところから三間ばかり離れて、石垣を枕にして死んでいる者がある。

そこでそのころは今お話した通り雪が沢山ありまして、私が行った時に有村は胡坐をかいて、短刀を一本持っておる。
装束はどうかというと、撃剣の時に着る刺子みたようなものを下ヘ着て、そうして皮の稽古胴を着ていた。短刀を以て残りの紐を斬ろうとしている。
短刀を以て右の皮胴の方を斬ろうとしたが斬れない。左の方を斬ろうとしたがなかなか斬れぬ。
モウ力が無かった。それから今度はどうしますかと思いますと、私が今考えてみますと、胴を取って腹を切ろうと
思ったが、それが邪魔になるから藻掻いたと思う。胴を取ることが出来ぬから、それではやむを得ぬという覚悟であったものか、短刀を雪の中に突込み、自分がそれへ乗し掛って見当をつけているが、中々見当がつかない。
やや見当がついたと思って、咽喉を当がいますけれども、短刀は右の方へ行って仕舞う。
又残念と思って左の方へ見当をつけてやっても左の方も突けぬ。どうしても就くことが出来ない。

 その際に右の方に置いてあるものがある。それは何かと言えば、稽古胴の皮胴がじとつあった。
それは何だかわからぬ。何物かと思っておりますと、その脇の稽古胴の中へ指を入れまして、たぶさを捉んで持上げた。そうして首を疑視していたが、暫くして又これを胴の中へ入れた。
それから又短刀の上へ乗り掛ろうとしたがどうもいかぬ。
最早精神尽き果てておる。自分の希望を達して首級を取ってそれを眺めている。

(中略)

それで有村はその通り苦しんでおる。周りに立っている者をしきりに拝んで首をやって呉れという風をしたが誰もやる者がいない。どうしても死ねぬことが出来ないので前にある雪を取って口に入れた。
これは何の為かと言えば、そのころ我々が教育されたのに、武士という者は、時によって割腹の覚悟をしなければならぬ。
割腹をした時には大変苦しい。早く死にたければ水を呑めということを聞いておる。
有村は鹿児島の人だというが、そういう教訓を知っていたろうと思います。

「聖代二十五年史」という本がありますが、その中に、桜田の御門外で首を取ったのは有村何某で、それが掃部頭の首級を揚げたと書いてあります。そうしてその首級を揚げた途中で臨終したと書いてある。
そうすると首の行きどころがわからぬ。
これ等が重大なことであろうと思う。それで講釈師などに言わせると、その首級を持って水戸迄行ったという事を言いますけれど、どうも私の考えではあの取った首はつまり脇坂の屋敷へ行ったろうと思う。又行ったという話も聞きます。
又私の父の話すことに微かに聞いておるのに、掃部様の家来の何某という者が時の老中に平身低頭して首を貰ってきたということを話したことを子供心に覚えております。(以下略)

「小説・小栗上野介」(童門冬二)の新聞小説(上毛新聞・神奈川新聞)の挿絵。

「青春」て何だ!

2011年09月13日 | 雑学
「青春て何だ」などと云うと千葉県知事森田健作のテレビドラマみたいですが今回はそれではありません。

 今月の25日(日)に今高の同級生と京都北野天満宮で開かれる骨董市に行くので、京都市内の観光地図を広げています。
京都は王城の地・千年の都です。この山背の地を王城の地と定め平安京を造営した桓武天皇は「山河が襟帯して自然に城をなす形勝から山城国。これが切欠となり「城」という字を「しろ」と読む様になったそうです。
 そんな事を思いながら平安京を選定した陰陽五行説を思い出しました。
また、今高15期3年4組HPで「My 青春グラフティー」の原稿募集が行われています。これは当ブログがヒントになったそうですから有らぬ責任を感じています。どうかクラスメートの半数とまでは行かなくても10人前後の応募を期待している所です。
 その「青春」なる言葉も「陰陽五行説」にかかわりがあるそうなので、多くの級友の応募のヒントになればとこの項を書きました。

 中国の古い考え方で陰陽五行説とか言うものがあるそうです。
なかなか奥が深く宇宙森羅万象を解き明かしているそうです。陰陽五行やインドの曼荼羅などにハマると人生棒に振るようなこともあるようです。兎に角、難解な哲学で僕は詳しい事は分かりません。

 この陰陽五行説で「東西南北」に神獣がいるそうです。東に龍、西には虎、南は鳳凰、北には亀。また季節にも擬えています。
春、秋、夏、冬。色に擬えると「青、白、朱、黒」と・・・・。

方位:東  西  南  北
色 :青  白  朱  玄 
季節:春  秋  夏  冬
四神:青龍 白虎 朱雀 玄武
地勢:流水 大道 湖沼 丘陵

 他にも時間なども関係するそうですがよく分かりません。

東には龍が住み、季節は春で色が青、と云うことから「青龍」「青春」などの言葉があるそうです。
対角にある西には虎が住み、季節は秋、色は白かた「白虎」「白秋」と言う表現があるそうです。

 大相撲の土俵には、吊屋根があり本来あった柱に代わって房が下げられています。房の色は天空の四方位をそれぞれ司る四神に由来しており、青い房(青房)は東方を守護する青龍、白い房(白房)は西方を守護する白虎、赤い房(赤房)は南方を守護する朱雀、紫または黒の房(黒房)は北方を守護する玄武を表しているそうで、大相撲が格闘技よりも儀式の側面が強調される1例です。

「四神相応」と云う言葉があります。「四神相応」の地とは「山川道澤」の備わった地を指します。
「山川道澤」とは具体的には、北(玄武)に山脈や丘陵があり、東(青龍)に河川が流れ、西(白虎)に大きな道路を通じて、南(朱雀)に平坦な地が広がってるという土地だそうです。

 平安京はこの「四神相応の地」とされ遷都が決まったそうです。
御所の真北には丘陵(船岡山)、東に流水(鴨川)、西に大道(山陽山陰道)、南に沢畔(昔の小椋池)。さらに、東北方向に比叡山延暦寺を配して表鬼門を封じ造営されたそうです。
即ち、「東ー青龍ー鴨川(川)」「西ー白虎ー西海道(道)」「南ー朱雀ー巨椋池(澤)」「北ー玄武ー船岡山(山)」となります。

 この様に古い古い中国の哲学が現在も我々の生活の中に息衝いています。
「青春」や「白秋」「玄武」「朱雀」なども生活の端々に登場する日常用語です。