馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

昭和19年4月25日生まれです。

2018年04月29日 | 日記
同級生の伊藤靖雄君と当ブログは「昭和19年4月25日」生まれです。伊藤さんと僕とは「誕生日」が同じなのです。


 「昭和19年4月25日」この日は日曜日だったようです。
靖国神社では「春の臨時大祭」が執り行われ、天皇陛下が行幸、御親拝され、東條総理兼陸相と島田海相も参拝された。とあります。
当時としては「最大級の行事」であったようで、それに因んで「靖男・靖雄・靖夫」などと命名した親がいたようです。

 大江健三郎の小説「われらの時代」の主人公も「靖男」といいます。
そして、その名前の由来も「靖国神社・春の大祭」の日に生まれた、とあります。
伊藤さんも「われらの時代」の主人公も僕も「名前」の由来は同じです。
そして「昭和19年4月25日」生まれです。


夙川界隈・ニテコの池(地名の話2)

2018年04月13日 | 地名・地誌
 今日4月13日、「火垂るの墓」が放映されます。先日亡くなった高畑勲脚本・監督作品で追悼番組だそうです。

 今日偶々「火垂るの墓」の舞台になったニテコの池がある満池谷墓地に行ってきました。満池谷の墓地には当ブログの父母のお墓があります。
ニテコの池は火垂るの墓の主人公兄・妹が生活をしていた横穴(防空壕跡)があったところです。写真の左側に「松下幸之助邸」など新興経済人の豪邸があります。池の北側は震災記念公園、西宮市営墓地、越水浄水場などが整備されています。

 野坂昭如は、無頼なところのある人で決して褒められた行いをした作家でないように思います。それでも野坂昭如は「火垂るの墓」を書いただけで全てが許せるだけの名作だと思います。

 「ニテコの池」地名解;
 地名説話としては、西宮神社の大練塀を造る際、壁土をこの付近から採掘し、その土をここで練って運ばれたので「ネッテコイ池」と呼ばれた、と口碑で伝えられています。
地名屋はどの様に解釈するかと云いますと、先ず古地図や古文書を漁り、関連しそうな資料を集めます。
この場合、具体的な地形や地名を立体的に理解しないと中々説明が困難ですが、大まかに私見を述べてみます。
 「ニテコの池」「満池谷」の原形ができたのは江戸時代初期と思われます。
この近辺の郷村の灌漑用水は、夙川、御手洗川に頼っていましたが、耕地が拡大するにつれて新しい水源の確保に迫られ北側の仁川水系からの導水をしました。
文献から寛永18年(1641)とあります。
仁川上流の「井ノ口」から引かれた水が、途中を省略しますが満池谷に流入しそのため池が「ニテコの池」となりました。ここから西宮の各郷村の田畑に水を流した水路を「井手溝(イデコウ)と呼んでいます。
書道をする人は分かるでしょうが「井」を崩して書くと「仁」によく似た書体になります。また地名は古来より「好字」「佳字」を使用しますから、「井手溝」→「仁出溝」に変わり、即ち「イデコウ」→「ニデコウ」→「ニテコ」に変わったと思われます。
勿論、ここではごく簡単に結論だけを書きましたが、論証の過程では「和名抄」記載の各地の「井手」の地名解との整合性、西宮及び近隣各郷村の歴史の検証は欠かせない作業です。

※:2,009年 8月 5日「夙川界隈・にてこの池(地名の話2)」改編したものです。

 

但馬国虎臥城・・・竹田城の水問題。

2018年04月11日 | 歴史
4月 9日(月)大阪国際空港からコウノトリ但馬空港までプロペラ機で飛びました。往路は45分、復路はなんと20分でした。今まで何度となくこのエリアに来ていますがこんな便利な手段があるのに思いが及びませんでした。チョットした感動です。
今、竹田城跡はブレークしていますが、平成元年にも大ブレークしたことがあるそうです。その時は、角川映画「天と地と」のロケが行われ、3億円の巨費で竹田城に天守閣、大手門、塀などのセットが本物の城郭のようなオープンセットが建設されました。町では、竹田城の出現にライトアップなどしたので、連日連夜大勢の人たちが押し掛けたそうです。
 この映画で武田家の重臣・甘利虎泰を演じる本郷功次郎が当ブログの祖母のところに「甘利虎泰を演じさせていただきます」と菓子折りを持って挨拶に来たそうです。

 竹田城は、古城山(353m)の山頂を削平して築かれた典型的な山城です。竹田城を訪れたらきっと疑問に思うのは「水の確保」はどうしたのか?と言うことでしょう。
古城山から眺めた大路山


 地元の地域史や郷土史家の話などでは「竹田城では、雨水を一時的に貯めたり、城下から人手を使って運び上げて、なんとかやり繰りしていた。それとも地下水脈に到達するほど、深い深い井戸を掘た。」のどと説明しています。しかし、深い井戸の跡は今も見つかっていませんしそのほかの方法も効率が悪いし、そんなことを実際に行なっていたとは現実味を感じられません。ボランティアガイドの方々も竹田城の水に関してはあえて触れていないように思います。
 そこで、当ブログは興味を持って調べてみました。
・・・・・地図の上に「竹田城跡」と書かれているところから、左側にある大路山麓の中腹の辺りの滝谷が、竹田城跡の水源地になります。ちょうど竹田城跡から西側に見える、大路山のまんなかあたりに滝谷と呼ばれた小川や泉があって、サイフォン方式の配水路の送水場所になっていたようです。サイフォン方式での配水路によって送水したその場所は、センゲンジ(千眼寺)とも(千願寺)とも地元では呼ばれた場所らしく、今も地名だけは残っています。そしてその配水管は、銅管で出来ていたとも云われていていますが。本当のところ銅製だったのか、木製だったのか竹製だったのか、判然とはしていません。しかし右上の大路山の画像で、その中腹に白く積雪が残っているのが見える、標高410メートルのピークの西側から、山麓の尾根に沿ってサイフォン方式で配水管を整備していたのでしょう。ちょうど現在の竹田城跡の中腹にある駐車場の辺りまで伸びていて、このあたりに池を掘って水を溜めていたと思われます。

 当時の山城では、このサイホン方式の給水システムが広く普及していたようで、近江の小谷城などはその遺構などの研究が綿密に行われていています。

金沢城・兼六園の給水システムもサイホン方式で、建設以来現在もその機能は未だに利用されています。
また、岡山城・後楽園も見事にこのシステムを取り込んで、金沢同様お城の給水だけではなく周辺の農業に大きく貢献しています。
 岡山城・後楽園は山城でもなくすぐ傍には旭川と言う大きな川が流れています。何もわざわざ旭川の上流から水路を改作してサイホンの原理を利用して給水する必要が無いように思われます。しかし、これを設計した津田永忠は「後楽園の場所は、元は旭川の洲状態の低湿地帯でした。築園にあたり、洪水に耐えられるだけの強度と高さに盛土して護岸を造れば、取水する段になると旭川の水位が低くなり過ぎます。それに、満潮時には潮が上がって来るため塩分を含み、伏流水でも用いない限り、水質自体が園には適しません。そこで、永忠は水源を5Km上流の旭川本流に求めました。旭川流域の農地に用水路の必要性を以前から感じていたので、幅3mの後楽園用水を設け、途中で分流させて農地に配水しようと考えました。」しかし「用水路の水を園内までどう導くかが最大の問題でした。後楽園まで盛土で陸続きにして直接つなげる手はあるものの、今のままでは旭川が洪水になったとき激流がお城を直撃する危険性があり、この際に後楽園の北側に荒手を設けて、激流の水を逃がす分流を設けておきたかったからです。とすれば、用水路を直接に園に引き込むには、石の懸樋(分流と立体交差させる水の橋を造る方法)で対応させることになるが、莫大な経費を要します。そこで永忠が考えた案が、用水路から後楽園までを水管でつなぎ、その水管を旭川分流の川底に埋めるという方法でした。川底の下に引き込まれた水が後楽園の高さにまで引き上げられるので、一般にサイフォンの原理を用いたと言われている方法です。」
竹田城は「水が確保できない」と云う決定的な欠陥があるお城だと思います。

※:この項目は2012年10月24日のブログを加筆改編して改めてUPしました。