馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

ミニ同窓会「民族博物館と万博公園・梅まつり」

2010年02月27日 | 日記
3年4組HPの告知通り、本日27日万博梅まつりに写真のメンバーが集まりました。昨日の雨もすっかり上がり絶好の日和となりました。日頃「品行方正」な生活をしていた賜物です。

国立民族学博物館の見学には、当館名誉教授和田正平先生が特別に専門のアフリカコーナーの展示を案内・解説して頂きました。(中央、鞄を持った人です)

和田先生は、開館当初からアフリカコーナーの展示を企画し、展示品の調達に尽力されました。昨年11月にアフリカコーナーの展示内容が一新され、長年見慣れた展示品に取って代り面目を一新しました。が、今の展示物には民族学の展示と云う視点からはチョット違和感があります。
 「異文化」を理解する機会にはこの民博は良い所だと思います。特に「西洋文明」からの視点ではない世界観を視覚的に体感できる所です。

民博内食堂で昼食を摂りました。一緒に行った仲間に非常に「気配り」ができる人がいて、昼食時間の混雑を予測して、前以てテーブルをレザーブしておいてくれたお陰でスムースに昼飯にありつきました。感謝!



昼からは爛漫、こぼれるほどの満開の梅を楽しみました。

「このドラマはフィクションです・・・・・」

2010年02月26日 | ぼやき
「このドラマはフィクションです。登場する個人、団体は架空のものです・・・・」
TVドラマの最後に流れる「テロプ」です。「言われんでも分かってるわイ!」と思うような内容でも「テロプ」は流れます。
 仕事でテレビ局に出入りしていた時に聞いた話ですが、世の中には信じられないような人が沢山いる様です。沢山ある逸話の1ツをご紹介しますと「お天気おじさん」で人気のあったキャスターが、天気相談所長時代に「気象台に下駄を投げる部屋」がある、その部屋を「見せろ!」と居座って帰らなかった人が居たそうです。放送局にはこれに似たような「訳の分からない」人からの「クレーム」「要求」が毎日山のようにあります。
 「ドラマ」の悪役と「同姓同名」で迷惑をした、謝罪放送をしろ!何て云うのは大人しい「要求」だそうです。だから「分かり切った」様な事でも「テロプ」や「コメント」を流すんだそうです。要は、この世にあふれかえる「常人でない」人たちからの自己防御だそうです。

 「このドラマはフィクションで・・」の「テロプ」が流れない「ドラマ」も沢山あります。例えば、NHK大河ドラマなども「テロプ」や「コメント」がありません。今年の大河ドラマは「竜馬伝」です。ご存知のように「岩崎弥太郎」から見た「坂本竜馬」を語る「筋立て」になっています。その為「弥太郎」と「竜馬」が「幼馴染」と云う設定になっています。しかし「弥太郎」と「竜馬」の接点は殆どなかったようです。2人の年譜を並べて比較しますと「竜馬脱藩」後の一時期、2~3ヶ月程の期間に接触できた可能性がある程度だそうです。多くの視聴者は、この「竜馬伝」を見て「弥太郎と竜馬」が幼馴染の親友と思い込んでしまうことでしょう。それはそれで別段問題がある訳ではありません。本来「ドラマ」「小説」などは、時代や登場人物などを通して「生きざま」などを表現するものですから、「歴史の事実・真実」の追求とは別問題です。しかし、この虚構の歴史設定を「歴史の事実・真実」と思い込み、それを歴史知識とし、歴史観を持つことの危険を危惧する訳です。

鰓(エラ)呼吸する人間??そんなヤツおれへんでェ~!

2010年02月25日 | 雑学
主夫をして1日家に居ると、いろんな勧誘の訪問者や電話があります。
今日、「酸素強化水」と云う飲料水の勧誘電話がありました。
することも無く時間潰しにちょうどいい話し相手ができ、小1時間ほど「セールストーク」を聞いていました。

商品アイテムは何種類かあるようですが、要するに「水」に「酸素」を加圧充填してあるようです。
◎ 飲んで酸素をとるために生まれた酸素強化水(酸素水)です。飲みやすい超軟水(硬度2mg/L PH値6.6-7.2)。激しい運動をする方や、毎日の健康維持にお役立てください。

この謳い文句を聞いて「おかしい」と思われませんか?
 飲み水にどれだけ多くの「酸素」が溶け込んでいても人間は「肺呼吸」をしていますので水に溶け込んだ「酸素」を取り入れる事はできない筈です。
こんな事は「小学生」でも知っていることです。特段の科学知識が必要なことでもありません。そんな「インチキ商品」が氾濫しています。電解水, パイウォーター, 脱気水, 海洋深層水. 磁気(磁化)水, オゾン処理水, 膜処理水. 電子水, ミネラル添加水, 脱塩素水. 共鳴磁気水(波動水?) 麦飯石処理水, 超純水. 高周波還元水, 発酵抽出物添加水. サイウォーター, Xeガス処理水マイナスイオン水、πウォーター、創生水・・・・・などなど「思いつく方」もご立派とは言え、子供でも分かる「インチキ」に引っかかる「常識ない」大人の何と多い事かと、あきれ果てています。

 所が、この「インチキ商品」を日本を代表する大手飲料メーカーが製造販売しています。
WEBから「アサヒ飲料」の「酸素水」の告知を転記します。
 ◎ アサヒ 酸素水は、『三ツ矢サイダー』にも使用する、ろ過を重ねた「磨かれた水」に、一般的な水の約7.5倍の酸素※をプラス、従来品に比べ酸素濃度を50%UPしました。※一般的な水は、常温(25℃)で約8ppmの酸素を含む(当社調査)のに対し、新しくなった『アサヒ 酸素水』は、60ppmの酸素を含有しています。従来品は40ppm。

 「酸素は水に溶けにくい気体で、通常の30倍の酸素(20°Cで1リットルあたりおよそ280ミリグラムである)が溶解している場合でも、1リットルに含まれる酸素量は、安静時に10回程度呼吸して体内に吸収される酸素量にすぎない。また呼吸器ではない皮膚や消化器からどれほど吸収されて有効に利用されるかについては定かではない。」とあります。

 πウォーターの製造機の広告に「帯広畜産大学教授○○」と写真入りで掲載されている事があります。母校の名誉のためあの広告は取りやめて欲しいものです。

 πウォーターは名古屋大学農学部下昭治博士らが花芽分化の研究に取り組み、植物の花芽分化の段階で、その重要なキーとなっているのが、植物の身体の中の水そのものだと気づいた。山下博士はこのような水、「生体水に限りなく近い水」を、仮に「πウォーター」と命名し、その後、このπウォーターは花芽分化だけでなく、植物、動物の健全育成にも極めて重要な役割を果たしていることが解明されました。

しかし、問題はこの「πウォーター」を人工的に作り出す技術はまだ開発されていません。
と云う事は、浄水器まがいの市販されている「πウォーター製造機」は「インチキ」と言わざるを得ません。

 世の大人たちよ!小学生に「そんなヤツおれへんでェ~!」と馬鹿にされないように。

写真は、我家の「鰓呼吸」をしている「グッピ」


「邪馬台国」は「ヤマト」と云う思い込み

2010年02月16日 | 歴史
信じて疑わなかった「オベリベリ」→「帯広」は間違いだったことを書きました。

ひょっとして信じて疑うことが無いことでも、もう一度見直してみる必要があるかもしれません。

「邪馬台」を「ヤマト」と云うことに何の疑いも持たずに「邪馬台国」は「何処だ!」と云っています。しかし、本当に「邪馬台」は「ヤマト」と読むんだろうか?

 こんなことを言い出すと「チョット危ない」人と誤解されそうです。「高天原は実在した」とか「空中浮揚ができます」と云うような「オカルト歴史」信奉者ではありませんのでご安心ください。
また、TVで水戸黄門が「先の副将軍」と云っているのを聞いて「副将軍」と云う役職があったのか、などと思うほど「歴史知らず」の素人歴史ファンでもないつもりです。
素人ですが「分別」と「常識」をわきまえた健全な歴史ファンのつもりです。

 昭和40年代半に「空前の邪馬台国ブーム」がありました。
そんな折下古田武彦の「邪馬台国はなかった」と云う本が出版されベストセラーになりました。市民歴史講座を標榜して全国の「邪馬台国ファン」に支持され、古田先生は各地の講演会で引っ張りダコの人気でした。

 倭人伝中「邪馬台国」と書かれているのは1か所だけだそうです。
「南至邪馬壹国。女王之所都」と表記されているそうです。
原本は「台」の文字のところが「壹」と表記されているそうです。

「魏志倭人伝」にしろ「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」などなどの文献は、一語一句、片言隻語研究し尽くされており、「邪馬台国」のような有名な「個所」は当然江戸時代から研究されています。
その結果「壹」は「臺」の誤記とされています。
(例えば後漢書ー邪馬臺国ー邪摩惟、梁書ー邪馬臺国、北史ー邪摩堆ー邪馬臺国、隋書ー邪摩堆ー邪馬臺国などの記載例かも「臺」の誤記と思われます)
また、地名の成立から「ヤマイチ」などと云う地名は存在しないそうです。
 古田武彦の主張する「邪馬壱国」は最初から「なかった」ようです。
ただ、「壹」は「壹」であるとした学者は古田だけではなく、例えば橋川時雄などは邪馬壹ーヤマイとし「山夷」と主張した例もあるようです。(山夷は地名として成立しません)

 「臺」「台」はともに「タイ」ですが、これは中国元時代からだそうです。
隋・唐の「中古音」では「台」=タイ、「臺」=ダイ、周・秦代の「上古音」ではもう少し違うようです(発音記号の入力ができませんので・・)

 魏志倭人伝が書かれた「陳寿」の時代は、前段の「中古音」使用時より400年前、「上古音」使用時より400年後の時間差があります。
長田夏樹(神戸外国語大学)が「洛陽古音」の存在を主張して「邪馬台国の言語」を出版したのが昭和54年のことです。
僕も早速買って読みましたが「言語学」の知識のない僕には、論拠を判断することができませんでした。
が、「洛陽古音」では「邪馬台」は「ヤマダ」に近い音だそうです。

 浅学の僕の知る限り、この長田夏樹「洛陽古音」に正面から対峙した論文が出されたのを聞いたことがありません。

「ヤマト」と信じて疑わない理由は「何なんだろう?」と改めて思い出しました。

写真は「邪馬台国」の本が並ぶ僕の書棚です。

「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)続き

2010年02月15日 | 地名・地誌
「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)の続きです。

何の疑いも無く「帯広」は「オペレペレケプ・オベリベリ」が「帯広」表記になったものと思っていました。
 音韻変化としては「チョットおかしい」とは思いながらも納得していました。

昨年「帯広図書館」で明治期の史料を大量にコピーしたことを当ブログで紹介しましたが、現在、史料を分析中です。

今回、当ブログを書くに当たり、もう一度資料に目を通したところ、そう簡単な問題でない事実が幾つも出てきました。

 現在、各方面に資料の依頼や問合わせ中ですから断定的なことが書けません。
しかし、簡単に問題点だけを紹介しておきます。

帯広の前段階の地名「オベリベリ」は、明治15年頃、晩成社が十勝に関心を示した頃からの資料に現れる「地名」です。

明治3年、十勝が「一橋・田安」の領地であった頃の史料に「下帯広」表記が既にあっるそうです。
また、明治6年製の地図に「下帯広村」の表記があります。(この地図は、コピーを持っています)
そうすると「帯広」表記は明治3年には既にあったということになります。

信じて疑わなかった「オベリベリ」→「帯広」は間違い、と云うことになります。
また、迂闊なことですが「晩成社事業報告書」に「下帯広村オベリベリ」と云う記述もあります。

 「帯広市史」はじめ「北海道史」などの地域史にも、この部分についての記述が極めて曖昧に書き流しています。
何故、明治3年の「下帯広」が、「帯広」地名の初めと云わないのかが分かりません。
素人の悲しさで「分かり切った事」、帯広地名を語る上で「基本的な知識」でいまさら言うまでもない事実を僕が知らないのかもしれません。

 ただ、これらに関する資料が「帯広市立百年記念館」に全くないこと、学芸員も「関心」がなく「道庁」に聞いて欲しい、と云うだけなのが残念です。

また、「北海道開拓記念館 学芸部」(近代史担当)に問合わせても、応対は丁寧であっても「地名」が専門でありませんので、との回答です。

 どうも「一橋家文書」を捜しあてなければ解決しないようです。

「下帯広」を「ポン・オペロヘロフ」と読ませていたようです。

写真は中島公園内にある拓聖「依田勉三翁」像:中島みゆきの祖父中島武市の寄付により建立されました。

 

4組の仲間と牡蠣を食べに行きました。

2010年02月13日 | ドライブ・旅行
今日(12日)は友達の少ない僕のために、同級生が月1で「遊んでくれる」日です。メンバーは「乾君」「中村君」「山口君」です。中村重雄君のリクエストで「日生」の「カキ」を食べに行くことになりました。第1回目のトイレ休憩で西宮名塩SEに。鈴田君に電話を入れて「4月17日同窓会総会」出席の勧誘。電話を順次回して、其々思い出話に盛り上がりました。  日生に着くまでに昼食の時間になってしまいました。龍野ICで降りてそうめん資料館で「虫抑え」に「にゅうめん」を頂きました。「特製にごり酒」に満面の笑顔の「飲兵衛・中村君」


 龍野市旧市街地を見物し、「寅さん」のロケ現場などをめぐって、高台にある
赤とんぼ荘 でコーヒーを飲みながら、揖保川と龍野の町並みを眺望を楽しむ。

備前焼を集めている中村君の希望で、登り窯を見学しました。
山麓窯 親切に窯の内部を見せてくれました。また、いろいろな陶芸の技術的な話も聞かせてもらいました。
敷地内は「蝋梅」が8分咲きで甘い香りに包まれていました。




やっと「日生」に着きました。お目当ての「牡蠣」のうまい店を捜し、結局ガソリンスタンドで教えてもらった「料理旅館 美晴」
へ。
「生ガキ」と勇んで注文したところ、「ノロウイルス」の危険があるため当店は「生ガキ」は「お出しできません」とつれない返事。
でも、それぞれに牡蠣料理とお酒で満足、満足。
瀬戸内海の穏やかな海とフェリーボートが浮かぶ港の風景も堪能しました。

 来月は「越前おろしソバ」と「越前和紙手漉き」越前大野城散策に決定して別れました。
別れ際、高校時代の3年間「昭和町」駅で「声を掛けられなかった」愛しい「マドンナ」がいたと告白した酔っ払いがいました。
「昭和町」から通学していた「アナタ」。「アナタ」が「マドンナ」です。

「鬢(ビン)のほつれは枕の咎よ・・・・・

2010年02月12日 | 雑学
今日(11日)カーラジオを聞いていると、チョット気になることを言っていました。
途中から聞いたので前後の関係や喋っている人がどの様な人かも判りません。

・・・、最近の若い人は、恥じらいも無く「Hした」などと云うが、昔の人は「髪の乱れは枕の咎よ」などと情緒のある言い方をしたもんです・・・・
・・・日本らしい奥ゆかしい風情あるものが忘れ去られてしまい、即物的になっている・・・・
といった内容でした。そして、最近の若者、特に女性の恥じらいのなさを声高に非難していたようです。最後まで聞いていませんが、どうも最近の世相を評論する番組のようでした。
ラジオに出演してコメントをするくらいですから、きっと名のある人なんでしょう。

 彼が例えに出した「髪の乱れは枕の咎よ」は恐らく小唄・端唄

鬢のほつれは枕の咎よ それをお前さんに疑ぐられ ほんにお前さんは アー罪な人

鬢のほつれは  枕のとがよ  それを お前に疑われ
つとめじゃえ  苦界じゃ  許しゃんせ

の事と思うのですが、興ざめもいいところです。
2~3筋の「鬢」がみだれて、頬にかかったつつましやかな色気が身上のこの文句を「髪の乱れ」にしてしまえば、それこそ「髪が乱れるほど」「何をしたの?」となってしまいます。
こんな直截的な言い方は「恥じらい」どころか安もんの「エロ映画」です。
まだ「Hした」の方が「あっけらかん」として稚気愛すべき表現です。

 昭和レトロ、大正浪漫、明治は遠くなりにけり、残しておきたい江戸情緒などと懐古趣味がブームですが、そのこと自体が「古き良き時代」が忘れ去れたことなのでしょう。
コメンテーターの人が平成文化人だから仕方ないかも・・・。

適当な写真がありませんでしたので「第14回美容師国家試験(筆記問題)」から借用しました。 
A・・「鬢」、B・・「髱」、C・・「髷」
(答えに間違いはないと思うのですが。)

アイヌ語を和語で表記すると・・・・・・

2010年02月08日 | 地名・地誌
当ブログ「十勝の地名(回答編)」をご覧ください。
 北海道・蝦夷地に関心が集まりだし、探検・探査が行われ、様々な報告書や記録が残されました。その時の「地名・人名」は全て「カタカナ」で表記されています。
「地名」「人名」は「アイヌ語」の発音に「似た」或いは「より近い」和音で著しました。
例えば「yam wakka pira」=「冷たい・水・崖」とアイヌ語で呼ばれていた土地を「ヤム・ワッカ・ビラ」と表記しました。
 その後、明治政府の支配が北海道全土に及ぶと、行政書類上「カタカナ」表記が「漢字」表記に統一されます。
「ヤムワッカ」は「止若」、「マクンベツ」は「幕別」、「チロット」は「白人」と云う風に書き改められました。

 今から2千年ほど前にこの列島で同じようなことが起こりました。
中国の史書にこの列島のことが書かれだしました。
当然、当初は「地名・人名」が中国語で書き表されました。
有名なものでは俗に云う「魏志倭人伝」の「邪馬台国」や一連の30国ほどの国名(地名)や「卑弥呼」などの人名・官職名などがそれです。

 この列島の人たちは、「漢字」と云う「外国語」を様々な工夫を加えて「日本語」にしてしまいました。「音」と「訓」、万葉仮名の発明、読下しの工夫、仮名(真仮名・片仮名)の発明などなど・・・・。今は、これらの事は省略します。

「用字」の違いは意味がない、「音」が重要である、と言われます。
これは「本居宣長」以来の長い研究の成果の結果で、間違いのない事実です。
算数の「1+1=2」と云うのと同じ基本知識です。

 古事記と日本書紀で、特に「地名・人名・神名」の表記が違っています。
例えばイザナギ・イザナミは、伊耶那岐・伊耶那美 (古事記) 、伊弉諾尊・伊弉冉尊(日本書紀)と云う風に表記されます。
「用字」に意味はない、と云うのは、このイザナギ・イザナミの「音=読み方」が重要であり、使われている「漢字」は「どの様に発音するか」を表す為の手段に過ぎません。

 これはアイヌ語を「カタカナ」で表記するか「漢字」で表記したかの差に過ぎません。
古事記は「序」で太安万侶が述べているように「日本風」を如何に表現するかに腐心しました。白川静が「古池や 蛙とびこむ 水の音」を「漢文」で表現できない、と指摘したように太安万侶の苦労は其処に在った訳です。
一方、日本書紀は、天武天皇が秦の始皇帝に倣ったこともあり、始皇帝が統一した度量衡はじめ多くの秦の制度を導入しました。
当然、始皇帝が統一した「漢字」も公式に採用しました。秦は西安を拠点としましたので、この「漢字」は、今までの「漢字」の「音」と大きく異なったものと云われています。
 古事記が使用した「漢字」の「音」と日本書紀の「漢字」の「音」は全く違っています。
要は古事記、日本書紀で使われた「漢字」の「音」が違ったために表記が違ったのです。

 所がこの表記の違いから「楽しいファンタジー」を作り出す人たちがいます。
藤原不比等が「何らかの」「政治的意図」から古事記を抹殺するため、日本書紀では全て地名・神名を書き換えた、と云う風な「都市伝説」が流布しています。この「藤原不比等歴史改竄」物語は、どうも「種本」があるようです。と云うのは、この不比等改竄ストーリの構成は、非常にレベルの高い研究成果の歴史事象の配列からなっています。そこいらの歴史お宅が創作できるレベルではないのです。その「種本」の聞きかじりが「歴史お宅」に流布して「都市伝説」が生まれたようです。
 しかし、どの様に「難しい」理屈を並べ立てても「出発点」が「間違って」いれば、前提が崩れており、結果事実の解明からは程遠いものです。

 現在では、日本書紀は駢体文(べんたいぶん)で書かれ、その原典も其々確認され
またメインの執筆者は「中国人捕虜」で「雄略天皇紀」から書き始めた、など詳しいことが解明されつつあります。日本書紀編纂に「太安万侶」が参加していたこともほぼ確実視されています。やはり「不比等」の歴史改竄物語は、説得力に欠けるようです。

 今から1千年後、明治政府は徳川政権を否定するために、北海道の地名表記を「カタカナ」から「漢字」に変えた、などと云う「楽しい人」が現れるかもしれません。
その時、不比等に代わるのは「大久保利通」だろうか・・・。


天気もいいしドライブでも。

2010年02月06日 | ドライブ・旅行
金曜日、ちょっと寒いけれど天気もいいしドライヴでもするか、と当てもなく名神高速道に乗りました。
長浜の盆梅でもと思いましたが、米原以北が雪とのことで新名神で四日市まで行きました。
北勢の鈴鹿山系は冠雪し真っ白です。

 四日市の隣町、御在所山の麓、湯の山温泉で知られる菰野町に竹成と云うところがあります。そこに五百羅漢石仏があります。大日堂境内に写真のように7mほどの築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがあります。三重県の文化財に登録されており、地元では有名な五百羅漢です。

 40年も前の話ですが、暑い夜でした。将に丑三つ時にこの竹成の五百羅漢に行ったことがあります。星明かりの下、乱立する石仏の合間に足場を探しながら築山を登って行きました。天辺の大日如来のあたりにチラと揺れる灯が見えたような気もしました。やっと大日如来像のある天辺に行った時「血の気も凍る」恐怖を味わいました。
大日如来像を取り囲むように乱立する石像の底に、蒲団に寝かされ虚空を見つめる子供、傍らに白装束の老婆が地面にへばり付いて、一心に大日如来を拝んでいます。地面にロウソクが立ててあったので、淡い光が下から当たると一層老婆が恐ろしく思えました。
とにかく、その時の恐怖は、心臓が痛くなると云うか「血の気が凍る」と云うか「失禁」するほどの恐ろしさでした。
よほど恐ろしかったのか、後年夢で何度か見て、怖さに跳び起きたことがあります。

 この地域では当時まだ「丑の刻詣り」の風習があったようで、僕が見たのは、不幸にして障害を持っている子供か孫の「奇跡」を信じて「丑の刻詣り」をしていたおばあさんのようです。でも、怖かった!!

 僕が夜中の2時に何故こんなところに行ったか、などと詮索するのは「野暮」と云うものです。竹成から15分ばかりのところに僕が初めて就職した養鶏場がありました。今は雑木林に戻っており、面影もありませんが所々に朽ちた境界の杭が「アァ、この辺りが成鶏舎かなァ」などと思い出を探りながら当たりを走りました。

 桑名に出て「宝暦治水」で有名な「薩摩義士」の墓所「海蔵寺」を参拝。総奉行「平田靱負」を「森繁久弥」が演じた「孤愁の岸」(杉本苑子作)の名演技を思い出しました。
桑名の「七里の渡」から揖斐川対岸の「なばなの里」や巨大な「長良川河口堰」を見て、この一帯の「治水」との格闘の歴史をおもいました。(宝暦治水や長良川河口堰のことはいずれまた当ブログで紹介することがあると思います)

 帰路、名神を「大垣」から乗るか「養老」を抜けて「関ヶ原」から乗るか思案しながら走っているうちに、雪が激しくなりだしました。
「大垣」から乗った場合、「関ヶ原」あたりから「チェーン規制」でもあれば帰れないので、養老を抜けることにしました。関ヶ原ICに入ったころは、雪も本降りで路面はシャーベット状でしたが、何とか峠を越えました。彦根に入ると夕日が綺麗に輝いていました。

 年間5万km、浪速のドライバーを自認していた僕も、この頃この程度の走行でがっくりと疲れが出ます。

 

「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)

2010年02月04日 | 地名・地誌
帯広の地名の由来は、アイヌ語「オベリベリップ」と言われています。
十勝帯広が脚光を浴びる切欠は、明治13年から18年にかけてこの地域を「発生源」とする「飛蝗(トノサマバッタ)」の大発生です。
 この「飛蝗」は、しばしば小説や映画で紹介されたのでご存知の方も多いと思います。
一時期「イナゴ」と言われていましたが、最近は流石に「イナゴ」と云う人はなくなり「バッタ」と云うようになりました。

 江戸時代後期、例えば「松浦武四郎」などの「蝦夷地探査」の報告書などでは、現在の帯広市付近は「オペレペレケプ」」と記載されています。
明治になり先ほどの「飛蝗調査」で十勝に入った開拓使の報告書(明治一五年一月 開拓使札幌勧業係発行の「北海道蝗害報告書」)やその後当地に入植した「晩成社」の事業報告書、また入植者の日記などでは、「オベリベリップ」となり、その後「オベリベ」に変化しています。
 「オベリベ」の初見は、明治15年晩成社・依田勉三が「十勝外4郡戸長役場」に提出した「地所御下付願」に「十勝国河西郡オベリベリ」と記したものです。
しかし、当時の記録を保管していた「大津役場」が、明治31年、大正4年と2回の火災で資料を焼失しており、地名変遷の顛末がはっきりとしませんでした。

 「オペレペレケプ」から「オベリベリップ」更に「オベリベリ」に変化したようです。
この間の経緯を解明したのが郷土史家「井上壽」さんです。
井上壽さんは、わが母校の第1期卒業の大先輩です。
農業技官として主に病害虫の研究をされる傍ら十勝や道東の歴史・文化・民俗の研究に多大な成果を挙げられた大先輩です。
(写真は、帯広地名解で井上先輩が新発見をした事を報じた「十勝毎日」のもの)

 4年前に「飛蝗」関連の資料を大量に譲り受け、研究を引き継ぐように激励をされました。
昨年帯広を訪問した時、ご挨拶に上がらなければならないところ失礼をしてしまいました。
今年は「年賀状」が届きませんでしたので、ご高齢でもあり心配しています。


「オペレペレケプ」とは、現在一般的に(帯広川)の川尻が帯のように分かれている、という意味と解説されています。
しかし、この地名解は「すこし違い」ます。

 アイヌ地名「オペレペレケプ」(陰部・いくつにも裂けている・者)即ち(川口がいく条にも分かれている川)」と云うのが本来の意味です。
更に云うならば、娘(少女)をオペレケプ(o-perke-p 下の処が・割れている・者)とアイヌ語辞典にあります。

 あまりにも直接的な表現のため、承知の上で「改竄」した地名解にしたものと思います。
これは、十勝の大樹町 「大樹」地名解と同事情と思います。

 「オベリベリ」が「帯広」に変化する過程は次回にします。




映画ゴールデンスランバーを観てきました。

2010年02月01日 | 映画
シネコンMinoh109でゴールデンスランバーを観てきました。
月始め1日は「サービスデェー」とのことで一律1,000円。
寒い小雨降る平日にも拘わらずほぼ満席の人気です。

小説を読んだ時、「映画向き」と思いましたが予想通り小説より映画の方が楽しめました。