馬糞風リターンズ

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「長篠・設楽原合戦」・・・甘利明経済担当大臣のご先祖さん。

2016年01月28日 | 歴史
懐かしい人から電話がありました。お会いする事が無くなって15年になります。歴史好きが集まって月に一度会合を持つサロンに参加していましたが仕事を辞めて完全フリーの生活環境になったことからその歴史の会にも行かなくなりました。その方は「お城」の研究を熱心にされてて「日本城郭研究会」のメンバーで、趣味の域を超えたレベルでその後も研鑽を重ねられて80歳近い今も現地調査など活発に活動されているようです。その間当ブログとは年賀状のやり取りくらいのお付き合いでした。昨年、当ブログが「長篠・設楽原合戦を考える」(東京大学史料編纂所特定共同シンポジュウム)の案内をお知らせしたお礼を兼ねての久し振りの電話連絡でした。
 「長篠・設楽原合戦」はドラマ、小説、映画、・・・などで描かれている「信長の鉄砲」と「武田騎馬軍団」。定説としては織田信長の天才的戦略家、また徳川家康記麾下の将兵の勇猛果敢な活躍がクローズアップされた「虚構」の物語が定着しています。
当ブログもこの方も以前からこの合戦には未だ解明されていないことが多すぎると感じていました。今、ここでその問題点を書くつもりはありませんが、あまりにも初歩的な事柄さえも検証されること無く「講談師見てきたような・・」式の歴史が流布し定着するのは情けないことです。
「逆説の日本史」で有名な小説家井沢元彦は「三段撃ちこそなかったものの、1,000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないか」と仮説を立てています。小説の構想としては面白い着想なのでしょうが、武田軍は「以前から鉄砲を使用し、長篠にも大量に持参しており、武田勢の銃撃を浴びた長篠城が穴だらけにされた」とあり、馬が銃声にどう反応するかということは武田家でも承知していたはずである事実には触れていません。この外にも「当たり前」とされていることが「本当にそうなの」と云うことが沢山あります。それらの事は又の機会に整理して記述することにします。


 設楽原の最激戦地が柳田と言うところです。この地域の農民は武田家に協力を約束していましたが、大軍で侵攻してきた織田・徳川軍の強制的動員により結果的には武田家を裏切った形になりました。この柳田地区の武田家への宣撫工作を行ったのが甘利郷佐衛門信康でした。信康は武田軍の名立たる猛将で鉄砲隊を総括する鉄砲戦術の大家でもあった武将です。信康はこの柳だの裏切りさえなければ・・・、と深く怨み、柳田村の庄屋・段蔵の屋敷の門扉に寄りかかりながら「柳田は絶対に栄えさせぬ」と呪いながら立ったまま腹を切って果てました。
この甘利郷佐衛門信康は、今世間を騒がしている甘利明経済再生担当大臣の遠祖に当る人物です。
 また、長篠・設楽原合戦で映画、ドラマなどでよく出てくる鉄砲の弾除け「竹束」は甘利家の家臣飯田某が考案した防禦具です。


松浦武四郎「竹島雑記」

2016年01月23日 | 歴史
松浦武四郎は明治三年に「竹島雑誌」なるものを書いています。現在、韓国が一方的に実効支配している「竹島」のことです。当ブログはこの件に関してそれ程多くの情報を持っていませんので紹介程度に止めます。なお、竹島問題に関してはネット上でも沢山の情報が集めることが出来ますので是非検索してください。取り敢えず客観的なものとしては外務省HP島根県HPなどをご覧ください。
 この問題は「鬱陵島」「竹島」の島名が混乱を招く様な変更があったことにあるようです。
    
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地名「北海道」の由来。

2016年01月22日 | 地名・地誌
当ブログ2014年10月17日「北海道一人旅。道北・稚内 ~ 宗谷・上川・空知・石狩」で「音威子府=北海道命名地 つづく」としてUPしました。所が何故かその後「つづく」とした記事をUPしていませんでした。先日、その事を知人から指摘され恐縮した次第です。遅ればせながら今回地名としての北海道について記載します。

「北海道」と云う地名を付けたのは松浦武四郎です。武四郎は、北海道に住むアイヌの人びとが自分たちのことを「カイナー」と呼び合っていることを知ります。「カイ」は「この国(大地)に生まれたもの」、「ナー」は敬称です。現在、武四郎は、「北海道の名付け親」としても知られていますが、明治になって武四郎が名づけた「北加伊(カイ)道」(北のアイヌの国)という名前には、アイヌの人びとへの思いと敬意がこもっていたのです。北海道命名を調べるとネットでも読本でも概ね上記のように説明されています。
現在、音威子府筬島地区天塩川流域の地に「北海道命名の地」碑が建立されています。それではこの地が何故「北海道命名の地」なのかと云いますと、武四郎の踏査報告に「天塩日誌」と云うものがあります。その「天塩日誌」の中に「音威子府村筬島(オサシマ)地区の鬼刺辺(オニサシベ)川付近で野営した時、アイヌ民族のコタン(集落)に立ち寄り、アエトモというエカシ(古老)に「カイナー」と言う言葉の意味を尋ねたところ、「カイ」は「この国に生まれたもの」で、「ナー」は敬語ということを教えてもらったというような記録が残されているからです。
  
  
武四郎は天塩日誌のほか蝦夷地各地の踏査報告書を刊行しています。帯広の六花亭では銘菓の詰合わせの化粧箱の意匠に十勝日誌を使用しています。
 古代律令制から伝統的に広域地方行政区画は「五畿七道」とされてきました。即ち五畿= 山城 、大和、河内、和泉、摂津。七道=東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。これらの地方名は現在でも各地の地方名として定着して使用されています。北海道と言う命名のやり方は、この古代からの伝統的な律令制の地方名ともよく馴染んだもので、何ら違和感の無い呼び方です。その為、現在では五畿八道ともなっています。

明治2(1869)年、政府から蝦夷地開拓御用係に任命された武四郎は、蝦夷地にかわる新たな名称「北加伊道」を政府に提示。後に「加伊」が「海」となり、「北海道」の名が誕生したとされています。明治新政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示しました。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名されました。
 多くの本、ネット上の情報など何れも同様の内容が記されていますが、多くは出典を示さない孫引き、又その孫引きと思われるもので本当にそうなのかと検証してみたくなります。当ブログは可なりの北海道関連の史資料を保有していましたが、「断捨離」とかのキャッチフレーズに煽られて迂闊にもその多くを処分してしまいました。現在手元に残った「定本松浦武四郎」でその事実を確認しました。
   
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 尚、アイヌ語研究の金田一京助は松浦武四郎が解説した「カイノ」については懐疑的な見解を取っています。ともあれ、北海道地名命名者が松浦武四郎であることには間違いないようです。松浦武四郎はある意味で巨人でありその生き様は大変魅力的であり、興味の尽きない人物です。
韓国が領有権を主張し実効支配しているわが国の領土「竹島」についても、松浦武四郎は古来からの日本領である証拠を残しています。この件は次回ご紹介します。




犬山城に行きました。

2016年01月10日 | ドライブ・旅行
気晴らしにドライブしてきました。昨年来からの暖冬で過ごし易い日々が続いています。名神高速道に乗って只管東に向いて走り、彦根を過ぎた頃から「さて、今日は何処へ行こうか?」と考えている内に関が原、大垣、岐阜羽島も過ぎました。最初に思いついたのは「岡崎」、続いて(美濃)関と思案していると小牧ICの表示板が目に入りました。急遽「小牧城、犬山城」に行ってみようと思い立ちました。
小牧ICから犬山への国道には今話題の「五郎丸」と云う交差点がありました。
犬山城は平成16年までは成瀬家が
個人で所有していた珍しいお城です。現在は「財団法人犬山城白帝文庫」が所管しているようです。
  

  


日本には現存天守閣が12あるそうです。因みにその12のお城を列挙しておきます。姫路城・彦根城・犬山城・松本城・高知城・松江城・宇和島城・備中松山城・松山城・弘前城・丸亀城。戦国時代の歴史、城郭ブームや史跡めぐりの旅行番組などで多くのことが紹介されているので説明はナシ。
ただ、お城の入り口の広場にひっそりと「薩摩義士之碑」が建てられていました。
図をクリックすると大きくなります。
TVの「開運なんでも鑑定団」に昭和初期の名鉄の路線案内ポスターが出たことがあります。幾らの鑑定値が付いたか記憶していませんが、結構高値であったと思います。このポスターの製作者は「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎です。吉田初三郎は「初三郎式絵図」と呼ばれる独自の作風を確立し、大評判を得た鳥瞰図絵師です。その作品はほぼ全国を網羅しています。 現在、吉田初三郎を再評価する動きがあります。
 当ブログは知らなかったのですが小牧は「桃太郎誕生の地」で「桃太郎神社」なるものも存在します。お城の直ぐ傍に「城とまちミュージアム」があります。そこの学芸員の方に聞くと、吉田初三郎が一時小牧市に活動の拠点を置いていた時、小牧周辺の地名に「桃太郎伝説」とかかわりのある地名が沢山あることに気付き、この地を「桃太郎誕生の地」と云う説を出したそうです。
 吉田初三郎は単なるイラストレーターではなく風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行い、その地の背景や風俗、歴史を的確に表現した「キャッチフレーズ」なども生み出す優秀な「コピーライター」でもあったようです。
 小牧市には明治村、二本モンキーセンター他数多くの見所があります。でも今日は犬山城見学だけで時間がなくなりました。



君はもうスターウォーズを見たか?

2016年01月09日 | 映画
今日8日、今年最初の「映画の会」でした。8人の参加者で過去に「スターウォーズ」を見たことが無い人が半数以上でした。それを聞いて当ブログは信じられない気持ちで「本当に見たことが無いノ」と聞き返すほどでした。「映画なんか何十年も観たことが無い」「この映画の会で映画を観出した」とのことのようです。当ブログなどは「スターウォーズ」が始めて公開された時の衝撃は未だに鮮烈に残っており、世界中が興奮した映画なので、中に1~2人の変わり者が「意地でも観るもんか」と頑なに拒否した人がいるにしても殆どの人が熱狂して観覧しているものと思い込んでいました。家に帰って嫁さんに「スターウォーズを観たことの無いヤツがいる」と話をすると「それで普通と違う」「仕事で忙しいのに子供だましの映画に夢中になるほうが変ヨ」だってさ。これ以上話が進むと薮蛇。「普通の人は家族のため子供のために必死に働いていたの」「のほほんと映画なんか観てたんはあんただけ・・」と猛攻撃が始まりそうなので・・。心の中で「俺だって脱サラして間無しで、朝4時から深夜12時、1時まで働いとったワ」

「スターウォーズ エピソードⅦ フォースの覚醒」初めて観た30数年前のあの感動と衝撃は流石にありませんでしたが、さすがあの映像の魔術、迫力、ハラハラドキドキは半端なものではありません。
初老となったハンソロとレイア姫、チューバッカ、R2-D2、C-3PO、ミレニアム・ファルコンなどお馴染みのキャラクターを登場させ、次の作品への橋渡しをしているようでした。
過去の6作はスタウォーズ産みの親「ジョージ・ルーカス」が全く関与しない新シリーズの第1作目です。ディズニーがルーカスフィルムを買収したことで、ルーカス所有の「スター・ウォーズ」関連のすべての権利は、ルーカス・フィルムごとディズニーの管理下に移ったそうで(公開第1作だけは永久に20世紀フォックスが所有)アナキン3部作、ルーク3部作に続きレイ3部作の初回の作品となります。
  
きっとスカイ・ウォーカーが復帰し大活躍をするのでしょう。ハンソロと同じく歳を重ねたスカイ・ウォーカーが画面に大写しになりました。次作は何時だろうか?待ち遠しい・・。


往馬(生駒)神社

2016年01月06日 | 歴史
5日、奈良県平群郡の往馬神社に行ってきました。この神社は大変古い歴史を持つ面白い神社です。未だ幕の内ということで晴れ着姿の善男善女が参拝していました。
絵馬殿には安部敬二郎さんのサルの絵が数十点奉納されていました。
    
本殿は春日造の立派なものです。この神社の原風景は、恐らく神奈備の山である生駒山をご神体とし、太古の昔からこの山に鎮座していたものと考えられます。本来は山頂近くに鎮座していたものが時代につれて次第に人里近くに移動し中世の頃に現在地に定まったものと思われます。
   
生駒神社を語る前にこの神社の立地する生駒山の古代の政治状況を簡単に述べておきます。神武東征軍は生駒山西麓の孔舎衙=クサカ(現:東大阪市日下)侵攻しましたが、鳥見=トミ(生駒山東麓・現:登美ヶ丘などの地名アリ)の長髄彦=ナガスネヒコとの戦いに敗れて紀伊半島を迂回した熊野から吉野を経て大和 橿原で初代天皇として即位しました。このように古代人にとっては「神さぶる伊古麻高嶺」は国の衛であり信仰の対象の山でありました。その山に鎮座したのが生駒の大神だったのです。

往馬坐伊古麻都比古神社
 延喜式神名帳大和国平群には「往馬坐伊古麻都比古神社 二座 並大。月次新嘗」と搭載されています。二座とある事から伊古麻都比古・伊古麻都比売の男神(比古)女神(比売)で豊穣を願う農業神でありその地域の産土(ウブスナ)神であったと思われます。
神社発行の「往馬大社 御由緒書」によろと現在本殿祭神は伊古麻都比古・伊古麻都比売(産土神)、気長足比売(オキナガタラシヒメ・神功皇后)、足仲津比古(タラシナカツヒコ・仲哀天皇)、誉田別(ホンダワケ・応神天皇)、葛城高額姫(カツラギタカヌカヒメ・神功皇后の母君)、気長宿禰王(オキナガスクネオウ・神功皇后の父君)の七柱。この他に境内に十三の摂末社などが祀られています。また境内には神功皇后の本地佛である十一面観音像を安置する観音堂があります。この像は運慶作と伝えられています。

 鎌倉時代の「生駒曼荼羅」(重要文化財)、室町時代の「生駒曼荼羅」(県指定文化財)には八幡神合祀したことが描かれていると言われています。そして、生駒の大神は八幡神が主祭神としてその座を奪ってしまいます。
 元々、産土神である伊古麻都比古・伊古麻都比売を祀る当社が主客転倒の形で八幡神が隆盛を極めた理由は、極々簡潔に言うならば奉祭氏族が時代の政治情勢に応じて生き残るための手段であったと考えます。
 
「住吉大社神代記」(重要文化財)という古代史研究の上で重要な文献があります。古事記・日本書紀とは違った内容の古代史が書かれた謎の多い本です。この本の中に「胆駒神南備山本記」と云う部分があります。この住吉神社との関係から「神功皇后」とが結びつき、また神功皇后と深い関係にある八幡神が登場したと考えるのは自然なことです。
 この神社も詳しく調べれば底の知れない謎に満ちた興味津々の神社です。本来ならばもっともっと詳しくご紹介したいのですが、恐らく多くの方は眺めてスクロールしてしまうでしょうから・・・。


人生の分かれ道?とは・・・。

2016年01月04日 | ぼやき
ご町内のご婦人から面白い話を聞きました。このご婦人、中々の人物で80歳を過ぎた今でも気丈夫「楚々として」且つ「凛」としておられます。若いころは地元の小学校の校歌を作詞をされたり、児童に慕われたよき先生であったようです。当ブログが住んでいる町内でもご多分に漏れず団塊の世代のサラリーマンが定年退職後の生甲斐探しか持余した時間潰しなのか町内会などの集まりに参加されています。その中には「貴方の過去など知りたくないのヨ」と周りが辟易するのもなんのその滔々と「現役時代」のお話を喋られます。そして決まって「あの時、・・・」と人生の岐路の選択の難しさを語ります。ご本人は発散できてスッキリなのでしょうが周りの人達はいい面の皮です。
 前説が長くなりましたが、件のご婦人に話を戻します。例の三流サラリーマンの愚痴話が始まった時です。「右すれば 左おしむる 花のみち」「あの時」は誰にでもあることですよ。そして皆さんそれぞれ最良の選択をされて今日あるのです。あなたが特別なのではありません、と。
 当ブログの母校には「逍遙歌」があります。その一節に「盧生の夢は消え失せぬ 憂いの酒を飲み干せし・・・」とあります。「盧生の夢」とは「邯鄲の枕」或は「邯鄲の夢」などと言われる中国唐時代の故事です。よく似た話に「胡蝶の夢」があります。
「あの時もし・・」別の道を歩んでいたら・・、と誰しも考えるときはあります。しかし、問題はコレを検証する術がないことです。時間を巻き戻してやり直すことは出来ません。また、別の道を歩むもう一人の自分の存在はありません。ですから別の道を歩んだからどうなったかは絶対に分からないのです。歩んできた道、これから歩んで行く道以外の道などありえないのです。それは最悪でも最良でもなんでもなくその人の人生そのものなのです。

エリア・カザン監督、ジェームズ・ディーン主演の名作です。旧約聖書の一節「アダムとイヴの子カインは、嫉妬の余りその弟アベルを殺す。やがてカインは立ち去りて、エデンの東ノドの地に住みにけり」からの題名。ジョン・スタインベックの原作にあるのかどうか確かめていませんが、脳溢血で倒れ、病院へ入院した父の枕もとでキャルが言うセリフに「ぼくは生まれつきこうだから仕方がないと信じていました。でもそうじゃなかったんです。人間は道を選べる。そこが動物と違うところだと父さんはいつもおっしゃってた。ねえ、覚えてますよ。人間は道を選べる。それが人間の人間たるところなんだと。ねえ、よく覚えていますよ。」

正月の来た道

2016年01月02日 | 歴史
このテーマは過去に取り上げたような気もしますが、もし重複しましたらご容赦ください。最近は「お正月」と言っても行事・記念日のオンパレードで以前ほど「めでたさも中くらい」になってしまいました。それよりも新春大バーゲン、初売り福袋やヴァレンタインディーの商戦のほうが盛り上がっているようです。歳越しの大祓式などの影は薄くなり「カウントダウン」なる歳越しイヴェントが若者を魅了しています。過って出版界が古代史ブーム・歴史ブームであった頃「日本人は何処から来たのか」とテーマでヤマト民族のルーツ探しが盛んになりました。
その代表的なものが「稲の来た道」でした。また、田名部雄一の「犬から探る古代日本人の謎―ヒトと共に生きてきたイヌの遺伝子」は将に「犬の来た道」そのものです。
    
当ブログの所有しているものでは「ゴマの来た道」「ジャガイモが来た道」などがあります。
 「魏志倭人伝」には「その俗、正歳四時を知らず、ただし春耕秋収を記して、年紀となす。」と云う有名な一節があります。平たく言えば「正月や四季を知らない。もっとも、きちんと春に耕し秋に収穫して一年を過ごしている」となります。即ち、卑弥呼は「正月」を知らなかったことになります。
「暦」や「年中行事」などを調べていくときっと「正月が何時、何処からやってきたか?」と云う疑問に到着するのではないでしょうか。
 
当ブログは一時、真剣にこのテーマーにのめりこんだ事があります。それは取りも直さず」ヤマト民族」のルーツを明らかにすることだからです。
東方の遥か彼方(将にFar East)の小さな弓状の列島に南は海流に乗って海の道、北からはアリューシャン・北方領土を経て、また大陸からとゴジャ混ぜの民族と文化が辿りつきました。そして、そのゴチャ混ぜの文化は今尚流入し続けています。ハローインなどの広がり方は常軌を逸している感もありますが、物品販売と相まって随分隆盛です。
 この三が日、「正月とは、何を祝い、何を願う日」だったのか考えてみるのも無駄なことではないかもしれません。