丹後半島北西に竹野郡間人町=現:京都府京丹後市丹後町間人と云う所があります。
「間人」(たいざ)は、日本海に沈む夕日が美しいところで、鳴き砂、温泉、カニで有名な観光地です。
特に「カニ」は、「間人カニ」とブランド化されて冬の目玉商品となりました。
「間人」地名解
「Wikipedia」には
「聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、後に当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読み替えた」、との地名説話があります。
最近この説話を基に聖徳太子母子像が建てられたようです。
間人の地名解は、この地名説話以外に見るべきものが無いのです。
地名説話の多くが「語呂合わせ」的な他愛もないものが殆どです。
間人皇后が彼の地に来たと云う事は「記紀」には記載がありませんし、その様な状況証拠は全くありません。当然、この地名説話も他の地名説話と同様、信用に足るものではありません。
所が、この「間人」をどう説明するかは、全く糸口が掴めないのです。
京都大学の地名の大先生の論文はある事にはあるのですが、僕には到底納得できるものではありません。
一度だけ、その先生に質問状を出したことがありますが「梨の飛礫」
自然科学では「エビデンスevidence」と云う概念があります。
ここでは「科学的な証拠」位に理解しておきます。
彼の大先生の「論拠」は、地名説話に等しい飛躍があったのですが、返答がないためその後放たらかしです。
今流に言いますと「エビデンス」が全くない論文と云う事になります。
丹後半島には「伊根の舟屋」「浦島子神社」の様な海洋民族のい遺風を残す民俗があり、間人地区での「葬送儀礼」も独特のものがあります。
これらのことから、海人族との関係を探った事もありました。(ポリネシア系言語)
また、和名抄に「間人郷」の記載があり、古代からの古い地名であることから「縄文言語」かもしれないと思い・・・
しかし、どれもこれも要は「エビデンス」が無いのです。
全く糸口がつかめない「難解地名」です。
何方か明快な解答を提示してくれませんか。
「間人」(たいざ)は、日本海に沈む夕日が美しいところで、鳴き砂、温泉、カニで有名な観光地です。
特に「カニ」は、「間人カニ」とブランド化されて冬の目玉商品となりました。
「間人」地名解
「Wikipedia」には
「聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、後に当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読み替えた」、との地名説話があります。
最近この説話を基に聖徳太子母子像が建てられたようです。
間人の地名解は、この地名説話以外に見るべきものが無いのです。
地名説話の多くが「語呂合わせ」的な他愛もないものが殆どです。
間人皇后が彼の地に来たと云う事は「記紀」には記載がありませんし、その様な状況証拠は全くありません。当然、この地名説話も他の地名説話と同様、信用に足るものではありません。
所が、この「間人」をどう説明するかは、全く糸口が掴めないのです。
京都大学の地名の大先生の論文はある事にはあるのですが、僕には到底納得できるものではありません。
一度だけ、その先生に質問状を出したことがありますが「梨の飛礫」
自然科学では「エビデンスevidence」と云う概念があります。
ここでは「科学的な証拠」位に理解しておきます。
彼の大先生の「論拠」は、地名説話に等しい飛躍があったのですが、返答がないためその後放たらかしです。
今流に言いますと「エビデンス」が全くない論文と云う事になります。
丹後半島には「伊根の舟屋」「浦島子神社」の様な海洋民族のい遺風を残す民俗があり、間人地区での「葬送儀礼」も独特のものがあります。
これらのことから、海人族との関係を探った事もありました。(ポリネシア系言語)
また、和名抄に「間人郷」の記載があり、古代からの古い地名であることから「縄文言語」かもしれないと思い・・・
しかし、どれもこれも要は「エビデンス」が無いのです。
全く糸口がつかめない「難解地名」です。
何方か明快な解答を提示してくれませんか。