馬糞風リターンズ

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セイダカアワダチソウとススキ

2012年10月29日 | 自然
セイタカアワダチソウは、キク目キク科アキノキリンソウ属の多年草です。北米原産の帰化植物で、日当たりの良い空き地や河川敷で大繁殖し、一時は勢力範囲を広げ、日本の在来種の植物を全部駆逐してしまうのではないかと思われるほど繁殖しました。また、花粉症の原因になるのではと大騒ぎしたことも記憶に新しい所です。
セイタカアワダチソウの高さは1~ 2.5mですが良く肥えた土地では3.5~4.5m程度にもなります。
中村君が指摘するように、最近巨大なセイダカアワダチソウを見かけることが無くなり、あの毒々しいまでの黄色の花も小さくなってしまったように思えます。その為か、この頃は生花に材料として利用されることもあるそうです。

 セイタカアワダチソウが大繁殖できたのは幾つかの要因があるようです。
セイタカアワダチソウは地表から深さ50センチくらいのところにある栄養をとって成長します。日本の地下50cmあたりにはモグラやネズミが生活をしています。モグラやネズミが何年も何年もかかって、生活することによってたくさんの肥料を蓄えていました。日本の植物のなかには、50センチという深いところの肥料を栄養にして成長していく植物が殆どありませんので、①セイタカアワダチソウはその豊富な栄養を独り占めできたのです。②適応性はかなり広く、乾燥地から湿潤地まで多くのところに生育できる。③地下茎により周囲に勢力を拡張する。また種子によっても繁殖する。そして地下茎に蓄えられた養分が多いため、地上部を刈り取っても容易にはこれを絶やすことはできない。④帰化植物であるセイタカアワダチソウは競争相手が無かったのと、地下50cmにある未利用の豊富な肥料によって大きくなりました。
これらの条件に加えて⑤セイダカアワダチソウの根には植物の発芽・成長を阻害する物質が含まれており、それを分泌することによって周囲の植物を攻撃します。この様な作用を「植物の他感作用(アレロパシー・Allelopathy)」 と言うそうで、植物が生産する天然の化学物質が、他の植物・昆虫・微生物などに阻害や促進など何らかの作用を及ぼそようで、その効果を利用し、雑草除去作業を軽減したり、そのもの自身を緑肥として活用するということが、今注目されている。
 自然界では、自らを守り優位に導くためにこの様な物質を作り出す能力があるそうで、無農薬農法などを自認していても植物自身が自ら作り出す「自然農薬」を考えれば、ひょっとすれば「無農薬農法」などと言うのは在り得ないことかもしれません・・・。

 セイダカアワダチソウの花粉がアレルギーの原因ではないかと?と随分大騒ぎになったことがあります。当時、セイタカアワダチソウの花粉がアレルギーを引き起こすのかどうか知りませんでしたが、セイタカアワダチソウは養蜂業者が一番安定した蜜源植物であることでも分かるように虫媒花なので、風媒花の杉のように花粉を大量に飛散させることが無いのに・・・、本当に花粉症の原因なのか?と素朴に思ったことがあります。それも結果、濡れ衣であったようです。

セイタカアワダチソウとススキの仁義なき戦い

セイタカアワダチソウが日本に侵入してから大繁殖してから40~50年が経過すると、セイタカアワダチソウが独占していたちか50cmの栄養分も枯渇しだし、また、セイタカアワダチソウ自身が分泌したアレロパシー原因物質が土中に蓄積し、セイタカアワダチソウ自らの生育が阻害されるようになってしまいました。このため、平成に入ったころからセイタカアワダチソウの勢いが徐々に弱まり、また個体自体も小さくなりだしたそうです。

 セイタカアワダチソウは根から分泌する毒でススキを攻撃します。 しかしススキもやられっぱなしではありません。最近ススキの逆襲が始まったのです
 それは、ススキの成長速度を上げることで、セイタカアワダチソウの毒への耐性を獲得し、かつてのススキと一味違う巨大化した超ススキを出現させることそして、さらにススキと共同戦線を張っているのが、 日本在来の植物であるクズです。 クズの根はセイタカアワダチソウの毒が届かない深いところまで伸びます。そして成長したクズは、どんどんセイタカアワダチソウを覆っていき・・・ ついには、クズ自身の葉の重さと光の遮断で成長ができなくなり、 セイタカアワダチソウは枯れてしまいます。
 一方ススキはどうか? ススキは、クズがつるを伸ばして広がっても 背の高い葉をその隙間から伸ばしているので、 さほどの影響も受けないという訳です。 こういう風にクズとススキが仲良く共生しているのが、昔の日本の風景なのかもしれません。

 植物の中で、ススキは植物生育の最後に繁殖するという性質を持つということです。
空き地があるとします。最初の年は、ただの空き地です。翌年になると、そこに背の低い草花が繁殖を始めます。そして何年が経つと、空き地が草でぼうぼうになる。その空き地が、背丈の高い草で、草ぼうぼう状態になった頃、空き地の一角に、ススキが繁殖を始めます。そして、それから数年経つと、その空き地は、ススキでいっぱいになる。
 ススキは根が深く、群生するので、何年か経つと、地面が湿気を多く持つようになり、地味が肥えてきます。空き地は全国にいっぱいあるけれど、なかなかそこに樹木は生えてくれません。けれど、ススキが群生を始めて何年が経ち、地味が肥えてくると、そこに今度はアカマツなどの樹木が生えてくるようになります。つまり、ススキは、植物生育の最終段階で群生し、地味を肥やして、次の世代の樹木を育ててくれるという性質を持っている、というわけです。こうして、原野は草原となり、やがて森になって行く。森ができると、そこには動物達も住めるようになるのです。

 竹田城跡での「セイダカアワダチソウが減った」と箕面ウォークでの「曽爾高原のススキの穂が痩せた」という話題は決して誤解や錯覚ではないようです。


芸術の秋到来。

2012年10月26日 | 日記
  

第58回豊中市美術展彫塑の部入選「龍燈鬼と天燈鬼」太田 博




第55回箕面市民展絵画・彫塑の部入選「チャツワース館(イングランド)」中西和夫








両市とも日本画、洋画、彫塑、工芸、デザイン、書、写真の作品が展示されていました。幾人かのお知り合いの方の作品がありました。
それぞれ皆さん日頃の研さんのあとが窺えて見事な出来栄えに感心しました。
ここしばらく、個展、塾展、合同展の案内が目白押しです。さすが「芸術の秋」到来です。



利根の川風袂に入れて・・・・天保水滸伝の世界6 大原幽学

2012年10月09日 | 雑学
一角の出自であるが故に無宿浪人となった平手造酒は過去を語らなかったようです。
この同じ時期に同じ下総にまた過去を語らない浪人がいました。大原幽学がその人です。
「天保水滸伝」をテーマにした映画は大正3年牧野省三監督「天保水滸伝」(日活)以来昭和51年山本薩夫の「天保水滸伝」(大映)まで46作が制作されています。「天保水滸伝」は「忠臣蔵」同様に確実にヒットする人気の映画でした。その為、主演俳優も当代一流の大物人気俳優が演じています。林長次郎、大河内伝次郎、片岡知恵蔵、市川歌右衛門、嵐寛寿郎、高田浩吉・・・・・、特に昭和34年東映の「血闘水滸伝怒涛の対決」などは市川歌右衛門、片岡知恵蔵の2枚看板と東映オールスター作品との触れ込みの豪華版です。
映画としては最後の作品山本薩夫の「天保水滸伝 大原幽学」は今までの「天保水滸伝」とは趣を異にした異色の内容です。主人公は平幹二郎が演じる大原幽学で、遊女に売られ花街から足抜けをして故郷の村に帰農した寡婦を浅丘ルリ子が好演しています。他には ハナ肇 (飯岡助五郎)、 加藤武 (笹川繁蔵)、 高橋悦史 (平手造酒)が出演しています。この映画は、日本映画或いは時代劇専門チャンネルで放映されたことがありますので、いつかまた見る機会があると思います。

天保水滸伝の映画が作られなくなって36年がたちます。笹川繁蔵の地元東庄町では町おこしとして再び天保水滸伝をドラマ化しようとの運動が始まっています。東庄町の青年が親切に案内説明をしてくれました。言わなくてもいいことでしたが「暴力団排除条例の今の世の中で、一天地六の賽の目家業はドラマにしにくい・・」と余計なことを言ってしまいましたが、この青年「一天地六の賽の目家業」の意味が分からなかったようです。
大原幽学に興味を持ってかなりの資料を集めたことがありますが、当ブログでも紹介したように「断・捨・離」で多くを処分していたようで今、数冊の読本しか残っていませんでした。断捨離も考え物です。
大原幽学と笹川繁蔵や平手造酒、飯岡助五郎の賭場などに関わり合いを持つことなどは実際にはあり得ないことですが、大原幽学が地回りのヤクザに集会場を襲われ、それを口実に6年もの長い間江戸で取調べと称して身柄を拘束されてしまいます。荒廃した農村も大原幽学の指導の下、何とか再生の兆しが見えだした頃、6年もの間江戸に拘束されたため、幽学が再び下総に戻った時には、村は元の荒廃した農村になっていました。幽学取調べの切欠となったヤクザの乱入は、どうも飯岡助五郎の仕掛けた策謀だったのはどうも本当のようです。
 天保と言う動乱期、時代が大きく変わろうとしていた頃、下総の国に平手造酒と大原幽学と言う過去を語らなかった流れ浪人が同時にいた偶然。一人は無宿渡世の無頼の用心棒、もう一人は疲弊し、荒廃した農民の救済者、人の活き様の難しさを思い知ららされる人生行路です。

 この時代の農村指導者として有名なのは二宮尊徳、大蔵永常がいます。特に二宮尊徳などはその後も日本の道徳教育に欠かかせない人物です。二宮尊徳をどうこう言うつもりはありませんが、もし日本人が二宮尊徳と同じくらい、或いはもう少し二宮尊徳より大原幽学に心を寄せていたならもう少し世の中が変わっていたかもしれません。
 時代の転換期には、沢山の変革者が出ます。しかし、その選択1つで後の世のでき方が大きく変わります。二宮尊徳より大原幽学、松下幸之助より早川徳次、・・・・・福沢諭吉や新渡戸稲造よりももっと心を寄せるべき人物が日本にはいたのではないかと・・・・・。

 僕が初めて大原幽学に興味を持った時、何の脈絡もなく「地の塩 世の光」という新約聖書内マタイによる福音書(山上の垂訓)の言葉です。今回何の当てもなく千葉県にドライブしたのは無意識に長年一度は大原幽学の事績に触れたい願望があったからかもしれません。


利根の川風袂に入れて・・・・天保水滸伝の世界5・平手造酒は実在したか?

2012年10月05日 | 雑学



大利根河原の決闘或いは笹川事件は、天保水滸伝のクライマックスなので、逐一それを書くと長くなるので、講談本やレンタルビデオなどで古い映画で内容をご確認して頂くことにします。
このヤクザの出入りは、関八州の案内役・十手捕縄を持つ飯岡助五郎が、凶状持ちの笹川繁蔵及びその一味を逮捕する、と言う建前です。
取方である飯岡一家の連中は、七〇名が船で利根川を笹川河岸から、二〇名が笹川の背後を陸路から夜明けと共に奇襲します。
一方、内通で飯岡の奇襲を知った笹川勢は、二〇数名の小人数ながら万全の策を整え飯岡の来襲に備えました。また、飯岡勢は、笹川繁蔵たちの捕獲と言うお上の御用であるため、刀や槍などの武器は使用できず、十手や六尺棒、竹槍が主な武器です。待ち受ける笹川は、刀や槍はもとより鉄砲まで持ち出し事に備えています。そんな事情もあり、この大ゲンカは一方的に笹川が有利に展開しました。飯岡側は、助五郎の分身とも言える州崎の政吉はじめ幹部クラスが頓死、深手を負って倒れるもの多数と言う始末で、死体や仲間を連れ戻すこともできずに退散と言う散々な目にあいました。その為、飯岡助五郎はお上の面目を潰したかどで「入牢」の憂き目にあいます。

 一方、笹川側の被害は、平手造酒一人が死亡しただけだったそうです。
それでは、その平手造酒と言う人物は実在したのか・・。

平手造酒の「死体見分書写」が飯岡町歴史民俗館に残っています。
「表紙」助五郎笹川事件ニ付、御出役御見分書之写
「本文」御見分書写 一、疵請死人 無宿浪人 平田深喜  但、年齢三十七八才位、天窓ニ長サ六寸程ノ十文字切疵長サ壱寸程宛三ケ所、右之肩ニ長サ弐寸程、左肩ニ三寸程、腕ニ長サ弐寸程之切疵三ケ所、左ノ脇腹から心中ニ懸ケ長サ八寸程、同膝ニ長サ三寸程切疵、都合拾壱カ所有之、繁蔵宅前ニ倒レ罷在候間、醫師ニ相懸・・・・・・・・

 「実録天保水滸伝」を著した地元研究家・野口政司の聞き書きの中の「私の家の隣の岩瀬さんが笹川の繁蔵の子孫でして、子供の頃からよく、ちょぅおばあさんから水滸伝の話を聞かされたもんですよ。剣豪の平手造酒は痩せや男で顔色がよくなく、殺された時はハラワタが飛び出したとか。実際にそれを見た人が、ちょぅばあさんが子供の頃はまだ生きていたらしいです。」

無宿浪人・平田深喜は実在し、浪曲・講談・映画などでお馴染みの大利根河原の決闘で病身を顧みず「一宿一飯の恩義」で笹川方に加勢して落命したのも事実のようです。
ただ、平手造酒の出自には当然ながら諸説があります。地元に残る口伝・口碑などによると一致するのは「可なりの剣の使手」であったのは確かのようです。曰く「平田三亀は讃岐高松藩の出で、浅山一刀流の使手」とか「平田深喜は、紀州生まれと伝え、北辰一刀流の剣を江戸・お玉ヶ池の千葉道場でまなび免許皆伝となるも酒のため破門され、各地を流浪し笹川繁蔵の食客になった」あるいは「仙台藩士だったが、酒乱のために出奔した」など諸説があるようです。
 当ブログで紹介した諏訪神社境内の立派な「平手造酒の墓は」は、昭和三年地元の有志が建立したものです。同じ延命寺に「平田氏之墓」は、没後六年を経て、彼を哀れんだ土地の素封家・土屋半左衛門が建てたものです。一方、笹川の利根川上流・神崎町松崎に「天保一五年甲辰八月六日 平田三亀」と彫られた墓があります。戒名は「儀刀信忠居士」。建立は地元の名主・山口市左衛門で、平田深喜が笹川に行く前に頼った縁によるものだそうです。

歌謡曲・大利根月夜の文句ではないが「元を質せば侍育ち・・」「世が世であれば殿の招きの月見酒・・」或いは「剣は自慢の千葉仕込み・・」という過去が本当であればあるほど、無宿渡世の用心棒は自らの過去は語らないだろう。