馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

幕末勤皇歌人集(3)

2010年06月30日 | 歴史
伊藤龍太郎(贈従五位)
 たらちねに先たつ罪は重くともいかがはすべき天皇のため

佐久間象山(贈正四位)
 梓弓矢竹心のもののふも親にひかれてまよう死出かな

吉田年麻呂(贈従四位)
 結びてもまた結びても黒髪の乱れそめにし世を如何にせん

国司信濃(贈正四位)
 飛鳥川きのふにかはる世の中のうき瀬にたつは我が身なりけり

渡辺内蔵太(贈正四位)
 早咲けば早手折らるる梅の花清き心を君にしらせて

中村圓太(贈正四位)
 こころなくながらへし身の限りぞと待たれし秋もくれはてにけり

大神壹岐守(贈正五位)
 愛でて見し萩もすすきも冬枯れて野の辺さびしくなりにけるかな

瀬口三兵衛(贈正五位)
 なかなかに死ぬこそまされながらへて夷の国に貢せんより

吉田太郎(贈従五位)
 みじかさと書きにし人もいまは早同じ草葉の露と消えつつ

永井雅樂
 君のため捨つる命は惜しからでただ思はるる国のゆく末

平井収二郎(贈従四位)
 殊更に物憂かりけり思ふどちまとゐせる夜の限りとおもへば

里見治郎
 張る弦の音をおもふ梓弓春とともにや引きかへさなん

坂本竜馬(贈正四位)
 世の中の人は何ともいはばいへわがなすことは我のみぞ知る

村井修理少進(贈正五位)
 天皇の勅かしこみいそしみて居立坐せし将軍かも

久坂玄瑞(贈正四位)
 ほととぎす血になく声は有明の月よりほかにきくものぞなき

入江九一(贈正四位)
 年を経て変わらぬ梅の花の香を手向くるさへも心愧し

寺島忠三郎(贈正四位)
 いく年か君は東に宿るらん古郷寒し五月雨の頃

真木和泉守(贈正四位)
 惜しまれて玉とちる身はいさぎよし瓦と共に世にあらんより

広田精一(贈従四位)
 つくしがたつくす心は不知火のもゆるおもひに身をこがすかな

山本精一郎
 雨風に散るともよしや桜花君がためにはなにかいとはん

猿田忠夫
 しらま弓たばさみもちて大君のみさきつかへむ時は来にけり

武田耕雲彩(贈正四位)
 咲く梅の風に空しく散るとても馨りは君が袖にうつらん

国分新太郎(贈正五位)
 盡してもまた盡しても盡しても盡し甲斐なきしづがま心

伊藤健蔵
 玉ちはふ神のみ国の道直ぐにまもる人こそまことなりけり

西村左平治
 風に散る露となる身はいとはねど心にかかる国の行く末


幕末勤皇歌人集(2)

2010年06月29日 | 歴史
写真は萩往還公園に建つ右:久坂玄瑞・吉田松陰・高杉晋作の銅像

斎藤監物(贈従四位)
 君がためつもる思ひも天つ日にとけてうれしきけさの淡雪

高橋多一郎(贈正四位)
 鳥がなく吾妻建男の真ごころは鹿島の里のあなたとぞ知る

金子孫二郎(贈正四位)
 まそ鏡清き心は玉の緒の絶えてし後ぞ世に知らるべき

佐野竹之助(贈正五位)
 桜田の花とかばねはさらすともなにたゆむべき日本魂

森 五六郎(贈正五位)
 いたづらに散る桜とや言ひなまし花の心を人は知らずて

森山繁之助(贈正五位)
 君がため思ひをのこす武夫のなき人数に入るぞうれしき

蓮田市五郎(贈正五位)
 よのためと思ひつくせしま心は天つみ神もみそなはすらむ

佐久良東雄(贈従四位)
 命だに惜しからなくに惜しむべきものあらめやは皇がためには

関 鉄之助(贈従四位)
 かれ残るすすきに風の音たてて一むら過ぐる小夜時雨かな

平山平介(贈従五位)
 わかれてはまたあふことのかたければ益荒男の袖ぞ露けき

河野顕三(贈従五位)
 斃れても亦起きぬらん我こころしこのたぶれし盡くるときまで

児島草臣(贈従五位)
 八百よろづ神もあはれと見ますらむ国に盡せる赤き心を

堀 織部正
 いそのかみふりにし世世のあと訪ひて昔に還るわが身なりけり

橋口荘助(贈従四位)
 すめらぎの御代を昔にかへさむと思ふ心を神もたすけよ

有馬新七(贈従四位)
 荒びさす醜の醜草うち払ひ肇国しらす御代に復さむ

森山新五左衛門(贈従四位)
 浮雲をはらひ清めて秋津洲のやまと島根に澄める月見む

田中河内介(贈正五位)
 大君の御旗の下に死してこそ人と生れし甲斐はありけれ

海賀宮門(贈正五位)
 夏の夜のみじかき床の夢だにも国やすかれとむすびこそすれ

清川八郎(贈正四位)
 ふきおろせ不二の高嶺の大御風よもの海路のちりを攘はむ

石黒簡斎(贈正五位)
 あなうれし我が大君の御こころもやがてやすまん年と思へば

堤 松右衛門(贈正五位)
 君がためつくす心は久かたの天津みそらの神ぞしるらむ

長尾郁三郎(贈正五位)
 はしたかの猛き心も籠なれてあはれはかなくおくる月日の

三条実美
 動きなく明らけき世を一筋に今こそ時ぞ尚いのるなる

中山忠光(贈正四位)
 おもひきや山田の案山子竹の弓なすことまなく朽ちはてむとは

藤本鉄石(贈従四位)
 君がため身まかりにきと世の人にかたりつたへよ峯の松風

吉村寅太郎(贈正四位)
 曇りなき月をみるにもおもふかな明日かばねの上に照るやと

野崎主計(贈正五位)
 おおきみにつかへまつるその日よりわが身ありとは思はざりけり

安積五郎(贈従四位)
 おろかなる身にも弓矢の幸を得てみやこの花とちるぞうれしき

伴林光平(贈従四位)
 摘みとりて昔をしのぶ人もなし柴垣つたひ菊は咲けども

戸原卯橘(贈従四位)
 冬の夜は柞(ははそ)の森や寒からんいたくな咲きそ峯の小あらし

南 八郎(贈従四位)
 議論より実を行へなまけ武士国の大事をよそに見る馬鹿

中原太郎
 臥して思ひ起きても思ふ皇のみ旗なびかしえみしはらはむ

横田友次郎(贈正五位)
 五月雨は降りまさりけりふる里の我がたらちねやいかにますらん

太田六右衛門(贈従五位)
 身の果てはいかにと思ふ心よりいとど身に沁む淀の川風






幕末勤皇歌人集(1)

2010年06月28日 | 歴史
 嫁さんが大河ドラマ「竜馬伝」のファンで毎回楽しみにしています。竜馬伝の解説書なども買って来て、いろいろと解説してくれます。嫁さんは「岡田以蔵」がお気に入りの様です。無論、以蔵と云う人間の実像などは知らないと思います。このドラマで初めて「岡田以蔵」と云う名も知ったのだと思います。どうも以蔵役の俳優がお気に入りなのだと思います。写真は平野國臣。

岡田以蔵
最期まで士分としての扱いはされる事はなかった。無宿人として慶応元年に「打ち首・晒し首」に処せられ、その後も「顕彰」される事もありません。
辞世の歌は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」

孝明天皇御製
 朝ゆふに民安かれとおもふ身のこころにかかる異くにのふね
 長くともかぎりは有りぬ梅の雨さりとて晴れよ異国のうさ

高山彦九郎(贈正四位)
 東山のぼりて見ればあはれなり手のひらほどの大宮所
蒲生君平(贈正四位)
 比叡の山見おろす方ぞあはれなる今日九重の数したらねば
徳川斉昭(贈正一位)
 敵あらばいで物見せむ武夫の弥生なかばの睡りざましに
藤田東湖(贈正四位)
 玉鉾のみちのくこえてみまほしき蝦夷が千島の雪の曙
鵜飼吉左衛門(贈正四位)
 野やこえむ山路や越えむ道わけもうづむれはててゆきぞわづらふ
鵜飼吉左衛門女(むすめ)
 うれしきは何にたとへむ山桜散りにし花の咲きかへる世か
日下部伊三次(贈正四位)
 五月雨のかぎりありとは知りながら照る日をいのる心せはしき
梅田雲濱(贈正四位)
 君が代を思ふ心の一筋にわが身ありとは思はざりけり
頼三樹三郎(贈正四位)
 まかる身は世思ふ真心の深からざりししるしなりけり
月 照(贈正四位)
 大君のためには何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも
信 海(贈正四位)
 西の海東の空とかはれどもこころは同じ君が代のため
茅根伊予之介(贈正四位)
 ふりすてて出でにしあとの撫子はいかなる色に露やおくらむ
吉田松陰(贈正四位)
 親思ふこころにまさる親心けふの音づれ何ときくらん
有村治左衛門(贈正五位)
 いはがねの砕けてさめよ武夫の国のためとて思ひきる太刀
平野國臣(贈正四位)
 ゆるされつ又からまれつ悩むかな風定まらぬ松ヶ枝の蔦

つづく
 

「タイラバヤシかヒラリンか・・・・」落語のネタ本「醒睡笑」

2010年06月24日 | 大衆演芸
 ビデオテープや音楽・落語のカセットテープの保管に困っています。古い写真はボチボチPCに取り込んでいますがビデオテープやカセットテープも何とかしなければ抽斗を7段も占拠しており嵩高くて片付きません。IT技術の進歩が速いので旧世代の素材の処理がこれからも大変だと思います。今、PCに取り込んでDVDに転写しても、次世代のブルーレィーや3Dが普及しだすとまた同じ事で悩まされる事になるのでしょう。

 「落語」のテープを整理してリストと合わせて見ると何本かのテープが無くなっていました。ケースは有るのですがテープ本体が無くなっています。その内の何本かはケースの入れ間違いや他のジャンル(浪曲・講談)に紛れ込んでいたりしていました。
しかし、何処を探しても出て来ないテープも何本かあります。
その内で「先代桂文我」の「平林」が無くなっています。「平林」はあまり高座に掛けられる事のない「噺」なのでチョット惜しい事をしました。

 落語「平林」
字の読めない丁稚が主人から「平林(ひらばやし)」さんに手紙を届けるように言われたます。
途中でどこへ届けるのかわからなくなり、道行く人に宛名を読んでもらうというお噺。
 始めの人は「たいらばやし」と教え、二番目の人は「ひらりん」と教え、三番目は字を分解して「一・八・十のもくもく」、四番目は「ひとつとやっつでとっきっき」と教えられます。最後に丁稚は「たいらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもうくもく、ひとつとやっつでとっきっき」と大声で言って捜し歩くと云うものです。
 東京の林家三平などは、「ぺえりん」って読むんだよ。この手紙は中国へ届けるんですか。とアレンジして演出していました。

 現在の「オチ」は、「たいらばやしかひらりんか・・・」と叫びながら歩く丁稚の様子を見た人が「気が違ったか?」「いえ、字間違いでございます」デンデン。
所が、古いテープでの「オチ」は「気違いか?」「字違いです」となっています。「キチガイ」が「差別語」で現在は使えないのだそうです。「気違い」「字違い」だからこそ「オチ」になると思うのですが・・。
 初代や2代目桂春団次などの「らくだ」では「モロ」に「差別」を表現しています。



 落語「平林」は「醒睡笑」という「江戸時代初期」の本に収められた「落し噺」です。
「醒睡笑」にはこのほかにも「子ほめ」「牛ほめ」「唐茄子屋政談」「たらちね」「無筆の犬」「寄合酒」「ん回し」・・など現在も演じ続けられている「落語」の多くの「ネタ」が収められています。
作者は、京の僧侶「安楽庵策伝」八巻1,039話の話を収録されています。落語以外にも「小辺路・大辺路」の名前の歴史や瀬田の唐橋に関する格言「急がば回れ」の由来の貴重な資料としても珍重されている「本」だそうです。

 最後に、安楽庵 策伝の本名は「平林 平太夫」と云うそうです。

「ピロリ菌」て何だ!

2010年06月18日 | 雑学
 「ピロリ菌」は明治乳業のTV・CMで知りましたが「へ~、そんな菌がいるんだ~」くらいにしか思っていませんでした。
ピロリ菌は人間の胃の粘膜を好んで住みつき、粘液の下にもぐりこんで胃酸から逃れて住んでいる細菌だそうです。この菌が胃潰瘍・十二指腸潰瘍の原因となっているということが、近年明らかになったそうです。
長さは4ミクロン(4/1000mm)で、2~3回ゆるやかに右巻きにねじれています。片側(両側の場合もあります)に4~8本の鞭毛が生えています。



胃は強い酸性の胃液を出しているのでそんな環境に細菌などいるはずがないという考え方が長い間伝統的にありました。
ところが1979年、オーストラリアのウォーレンが、胃炎をおこしている胃粘膜に螺旋菌が存在していることを発見しました。ウォーレンは同僚のマーシャルと共に研究をすすめ、この菌が「胃に住みついている」ということを確信し、この菌によって胃炎がおこると考えました。

ある細菌がある病気の原因であると決定するためには「コッホの四原則」を立証しなければなりません。
 1. その病気のすべての患者にその細菌がいる
 2. その細菌は他の病気の患者にはみられない
 3. 患者から分離したその細菌を投与すると別の個体に同じ病態が現れる
 4. 病気を引き起こした別の個体から、同じ細菌が証明できる

「コッホの四原則」を立証するため、ウォーレンとマーシャルはこの螺旋菌を分離・培養しなければなりませんでした。
二人は、分離・培養にとりかかりました。通常の細菌の培養では、菌を培地に植え付けて、培養器に入れて48時間後に培養できたかどうか確認します。中々うまく培養できません。
幸運だったのは培養中にイースターの休日が入り、培養器に5日間入れたままにしてしまった35番目の検体で、直径1mmの透明な菌の固まりができていたのです。1982年4月14日のことでした。(実はピロリ菌の培養には最低4日かかるのです)

培養に成功した菌は、これまでに見たこともない新しい菌であることがわかりました。このことは1983年に発表され、世界中の注目を集めました。
さらに1984年7月、マーシャルは培養したこのらせん菌の固まりを自ら飲み込むという人体実験を行いました。10日目に胃の組織を取って調べると、急性胃炎を起こしており、そこにはあのらせん菌が存在していました。これでコッホの4原則が立証されたのです。
この業績で「ウォーレンとマーシャル」は2005年にノーベル生理学・医学賞を受賞したそうです。

 ピロリ菌の正式名はHelicobacter pyloriと言います。
[helico-] はギリシャ語の [heliko-] から来た言葉で、「らせん」「旋回」を意味するそうです。(ヘリコプターの「ヘリコ」と同じです)[bacter] はバクテリア(細菌)を意味しています。[pylori] は胃の出口(幽門)をさす「pylorus」から来ており、この菌が胃の幽門部から多く見つかることに由来しているとのことです。

 胃の酸度はpH1~2です。ピロリ菌が活動するのに最適なpHは6~7で、4以下では、ピロリ菌は生きられないそうです。なぜピロリ菌は胃の中で生きられるかと云うと、ピロリ菌の持つウレアーゼという酵素です。この酵素によって胃の中の尿素という物質からアンモニアを作り出すのです。アンモニアはアルカリ性です。このアンモニアが胃酸を中和するのです。
そのようにしてピロリ菌は自分の周りに中性に近い環境を自分で作り出すことができるので、強酸性の胃の中でも生きていられるのです。

 仙台の友達から送ってきた資料の大部分は英文の「論文」で僕の役には立ちませんでしたが、製薬会社の小冊子の解説が一番役に立ちました。


木津川「流れ橋」に行って来ました。

2010年06月11日 | ドライブ・旅行
 時代劇映画のロケ地として有名な「八幡の流れ橋」に行って来ました。
最近は「映画」よりも「TV時代劇」の方がよく出てくるようです。

 平成21年10月8日の台風18号の豪雨による増水で全ての橋桁が流出し、大きな被害を受けた、復旧工事をしていましたが6月5日に工事が終了したとの発表がありました。




 今日現場に行きましたが残念ながら通行は6月16日からだそうです。
6月5日にはその旨を発表したようで、僕の早とちりでした。


 平成9年、台風9号による橋桁流出の復旧工事の時、半分の区間で橋桁が流出しても損傷しにくい新工法を採用したそうです。
その工法とは、流出時の橋桁の損傷を減らすために全体の半分の区間では20枚程度の橋板を鉄製の棒で固定する「ユニット化」したそうです。
平成21年の流出時に「ユニット化」の効果が確認されたので、今回は全区間で「ユニット化」をしたそうです。

当ブログ開設から1年が経ちました。
 「義男の空」1~4巻、1セットを1名の方に差し上げます。
ご希望の方はご連絡ください。



熊野街道ウォーク(1)

2010年06月08日 | 日記
 6月8日(火)曇り空。歩くには最適の気温。第1回熊野街道ウォークに参加しました。
僕は主夫の仕事を片付けてからですから遅れて合流しました。
他の6人は四天王寺からアベノ橋、松虫から阿倍晴明神社・王子神社に到着していました。
僕は阿倍野橋から「チンチン電車」で東天下茶屋まで行きました。

詳しいは太田さんが近々「3年4組HP」で報告があると思いますのでそちらを覗いてみてください。


「チンチン電車」と「姫松駅舎」。僕が幼少の時行っていた「姫松教会」は鉄筋コンクリートに建て替えられていました。


住吉街道沿いにある「池田屋」味噌屋さんで400年以上の歴史を誇る老舗です。建物は国の有形文化財にも指定されているという由緒あるお店。 100年以上変わらぬ製法で作り続けている、赤味噌、砂糖、ゴマを使用する名物味噌「住乃江味噌」はご飯にのせて食べると絶品だそうです。


住吉神社のシンボル「太鼓橋」。昨年掛け替えられ面目を一新しました。


本日の最終目的地「住吉神社」の参詣も終わり「チンチン電車」で「アベノ」に向かいました。


本日の案内役仲田孝史さん「行き付け」の居酒屋「明治屋」。アベノで70年以上続く老舗の居酒屋だそうです。
人気・有名店だけに「食べ物」はみんな絶品の味でした。お酒の方は僕は分かりません。
「わいわいがやがや」楽しい談笑が続きました。何人かの人は「酩酊」一歩前でした。

十三の姉ちゃん:モスリン橋のはなし。

2010年06月06日 | 大衆演芸
藤田まことの歌で「十三の姉ちゃん」と云うのがあります。正式には「十三の夜」と云い、作詞作曲ともに藤田まことです。(※ 十三=じゅうそう)

梅田はなれて 中津を過ぎりゃ 思い出捨てた 十三よ
女ひとりで生きていく ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃん 涙をおふきよ 化粧くずれが気にかかる

庄内はなれて 三国を過ぎりゃ ネオン渦巻く 十三よ
やけにさみしい夜もある ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃんくじけちゃいけない 星に願いをかけるのさ

園田はなれて 神崎過ぎりゃ 恋の花咲く 十三よ
やがていつかは結ばれる ネエちゃん ネエちゃん
十三のネエちゃん モスリン橋を きょうは二人で渡ろうよ

3番の歌詞にある「モスリン橋」は「尼崎市戸ノ内」から神崎川を跨いで「大阪市西淀川区加島」に架かっている橋です。正式には「毛斯倫大橋」だそうです。
毛斯倫、ネル(フランネル)、莫大小(メリヤス)、スフ(ステープル‐ファイバー)などは僕の頭では「辞書か図鑑」の世界の言葉で、「モスリン」などは訳も分からず懐かしい響きのある言葉です。
この「モスリン橋」の名前の由来が気になり調べて見ました。

 大正12年(1923)毛斯倫紡織(株)が「川辺郡園田村戸の内」に新工場を建設しました。この時従業員の通勤や生活道路として対岸の加島に通じる「橋」を建設して、それを「村」に寄付したそうです。毛斯倫紡織(株)が独自で架けた「私設橋」でそれに因んでこの橋を「毛斯倫大橋」と名付けたそうです。




 当時の毛斯倫紡織(株)は「日本毛織」に次ぐ売り上げ第2位の会社だったようですが、昭和の大不況などから合併、倒産、再建の後「鐘紡」に買収され、戦時産業として「航空機部品」などを製造していましたが空襲で焼失してしまったそうです。
戦後、工場跡地は住宅、ゴルフ場、神崎新地となり現在に至っています。


 冒頭の写真は現在の毛斯倫大橋で「3代目」だそうです。初代は「木橋」で303.4mあったそうです。2代目は、昭和7年に大阪市に移管され、戦後の昭和37年に掛け替えられたそうですが「耐荷力」が小さく、数年で現在の3代目に掛け替えられたそうです。

 尼崎市史などの地域史を研究している女性の学芸員が長年にわたりこの「毛斯倫大橋」を調べています。古老などからの聞き取り調査などをしています。その中で「初代の毛斯倫橋」は「鉄製」だった、という証言を得たそうです。そこでこの学芸員さんは「悩んで」いろいろ調べたが、記録からは初代は「木造」で「図面」が残っているそうです。
 結論から言いますと昭和12年に大掛かりな改修工事をした際、欄干を鉄製のパイプ、橋脚も鉄の杭で補強しているようで、古老の記憶が混同したらしいのです。
一番いいのは当時の写真があれば明確に分かるのですが、モスリン橋の一番古い写真は昭和25年のものしかないそうです。

ローカルな、更にエリアの限られた「1ご町内」のおはなしです。

よろしかったら買ってあげて下さい。

2010年06月03日 | 日記
 当ブログで紹介した事があります箕面の碁会所&喫茶店「磊花」のマスター山内博文
さんが「おもしろ囲碁 おもろい碁会所」と云う本を「日本棋院」から出されました。よろしかったら買ってあげて下さい。



「磊花」は「みのお本通」の中程に在ります。写真はちょっと古いもので「マンガ喫茶」の黄色い看板が映っていますが、今はこの看板は無かったと思います。
店内に昨年の画壇展に出品した「鷹」の絵を飾ってくれています。サンケイ新聞社賞を貰った「パールフト」よりも評価は高かったのですが、水墨画の大家の作品に「そっくり」であるため「賞」から外されました。

今、一番はまっている事。隙間家具製作。(3)

2010年06月02日 | 日記
当ブログ5月23日で紹介しましたパーツ1に対峙するパーツ2が完成しました


左右に本棚を作り、それを支えるようにしてパーツ3をははめ込んで完成です。
対峙する2つの本箱は、このパーツ3が「梁」の役目をしますからお互いの方向には「転倒」する事は先ずないと思います。
しかし、前方への「つっかえ」となる物がありませんから、パーツ1,2、3が力の懸り方では各々或いは全体が前に「転倒」する恐れがあります。防止方法としては「部屋本体」の壁に固定するのが一番よい方法なのでしょうが、それは禁止です。

 嫁さんが「絶対ダメ」。僕の嫁さんの感性からすると壁に「押しピン」を刺す事さえ「許されない」事です。まして壁に「ドリル」で「穴」を開け「釘」を打つなどしたら、本箱が倒れるより先に僕の方が倒されてしまいます。



 本箱の4隅と天井の間に「てこ」を入れて「合成ゴム板」を挟みこむ方法を取りました。
何とか「転倒防止」の役に立つと思います。これで「転倒」するような時は、他の家具や「家」自体が心配しなければならない力が加わる時だろう・・・なぁ・・・・