馬糞風リターンズ

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水戸黄門さんと「潮来」・・地名の話(9)

2009年09月16日 | 地名・地誌
お偉い学者さんの中には「お忙しさん」がいると見えて、大して調べもしないでとんでもない「お説」を発表されることがあります。
その方がBigであればある程、その「とんでもないお説」が真実として定着してしまいます。
 「潮来」は「朝来」の誤写で、「あさご」が訛って「いたこ」になったと、新説を発表した先生がいます。これは勿論全くの思い付きのこじ付けです。

 「潮来」は、和名抄には「常陸国行方郡板来」(原書版では坂、これは板の誤り)、風土記には「・・・板来村、近臨海浜、安置駅家・・」、また郡郷考に「板来、又板久に作る。元禄中、潮来に改めて、訓は旧の如し・・」とあります。
古文書などには「今謂 伊多久之郷・・・」などの表記があります。

 それでは、板来が何故潮来になったのか?
鹿島志に「・・・・潮来の字もとは板来と書たるを「西山の公」鹿島に潮宮ありて常陸の方言に「潮」を「いた」といへる興あることとおぼして、かく書改られたりよ・・」とあります。
要するに茨城(常陸)では「潮」のことを「いた」と云う事があり、そのことから「西山の公」なる人が、従来「板来」と書いていたものを「潮来」と改めたようです。その時期は元禄の中頃と云う事です。
そして「西山の公」とは、西山荘の主、水戸藩主「水戸光圀」こと「水戸黄門」です。既に広く知られているように水戸光圀は、生涯を「大日本史」の編纂に没頭し、TVのように諸国を漫遊等はしていません。
結構、気難しい学者肌であったようです。
 
 写真は、潮来のご当地切手です。