馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「まむし」と呼ばれたプロゴルファー

2011年12月29日 | スポーツ・人物
杉原輝雄プロが28日、前立腺がんのため死去しました。癌が見つかってから13年間、病気との闘いだったそうです。享年74歳。50年以上現役を続け、飽くなき勝利への執念から「まむし」と呼ばれていました。
ご存知のように杉原プロは、身長160センチの小柄なプロゴルファーで飛距離が劣る分、アプローチ、パッティングの精度を高めるため、他の選手があきれるほど練習したそうです。

 バブル絶頂期、手に触るものが全て「金」に成ってしまうような異常な時代がありました。
大阪・北浜の一料亭の女将でありながら数千億円を投機的に運用し、大手銀行のエリート社員がこの詐欺師の女将のもとに日参して札束をばら撒き倒した時代です。
その頃、ゴルフと云うスポーツもすっかりバブル紳士たちの社交の場となっていました。たまたまその頃、僕も一端の会社経営者の端くれとして取引先などとのお付き合いでゴルフをカジッタことがあります。

 ある寄合の主催で「杉原輝雄ゴルフコンペ」なるものに参加した事があります。杉原輝雄はじめプロと参加者のアマチュアが一緒にランドすると云うもので、ランド後杉原プロを囲んだ懇親会がありました。
参加者はバブル紳士諸氏で「世界は俺が動かしている」と思いあがった連中の集まりで、見栄と自慢のオンパレードの様な会場風景です。傲慢で傍若無人な振舞はむしろ滑稽にも映りました。

 ある飲食店チェーンのオーナー社長が「杉原さん!ゴルフが上手くなる秘訣を教えてヨ」と杉原プロに問いかけました。なんとも礼儀を欠いた応対ですが、本人は親しさのつもりだったようです。
その時、杉原プロの対応が何とも粋なものでした。「○○さん。私もプロです。プロに聞くにはゼニがいりまっせ」と。
件の社長「ナンボ払ろたらよろしおまんねン?」
杉原プロ「ホンマやったら10万と言いたいが、特別1万でよろしいワ」
信じられないことですが、社長が財布から1万円札を剥きだしで手渡すという暴挙を演じました。きっとこの社長さんの道徳律では何の不思議もない行動だったのでしょう。
 それは兎も角、1万円札を受け取った杉原プロは自嘲気味に1万円札を目の前でヒラヒラ振りながら「○○さん!ゴルフ、上手なる秘訣はなア」と言いながらおどけた様に慌てて手で口を塞ぎ「アーもっチョッとでゼニ払ろてない人に聞かれてしまうわ!」と大爆笑。そして社長を手招きして2~3言耳打ちしました。それを聞いた社長さんはキツネにつままれたような顔をしていました。

 その場はそれで終わりました。散会後、社長のもとに「杉原さんの上達の秘訣」は何なのかを聞きに行く人が沢山いました。
杉原プロの1万円分の上達の秘訣は「練習せい!1に練習、2に練習ヤ!」だったそうです。

 僕はゴルフが楽しいと思うまで続けず、すぐに止めてしまいましたが、当時、体も小さい杉原プロが好きでした。また、彼の粋な語り口と共に独特のキャラクターも好きで、すっかりフアンになっていました。
ゴルフのスイングの基本は「両肩、両腕、グリップを結んだ三角形を崩さないでクラブを上げていくこと」と言われています。
しかし、杉原プロはこの三角形で両肘を少し曲げて極端に言うと菱形のフォームでスイングします。僕もこの杉原スタイルを真似をしていました。きっちりと三角形を崩さずにクラブを振るのは、棒杭を振り回すようでどうも上手くいかないのですが、杉原スタイルだとクラブがスムースに振れ、インパクトに時点で両腕が伸びていれば結果最良のスイングになります。でもなかなかそういかないのがゴルフですが・・・。

 また、杉原スタイルを練習してみようかなア・・・。

名古屋の地名。「京命」「八前」・・・・・・。

2011年12月22日 | 地名・地誌


名古屋市千種区京命と云う所に所用があり行きました。京命のすぐ傍に「八前」と云う所があります。
この八前には、四組の同級生の近藤さんが住んでいます。近藤さんは大病をしたと聞いていましたのでお見舞の電話をした所、回復されてすっかり元気になったそうです。時間があれば久し振りに会おうかと思いましたが生憎雑用が長引き今回は見送りました。でも近藤さんは元気そうで、老人大学で活躍されているとの事でした。

「京命」に行くには、地下鉄東山線「一社」駅から路線バスで行くことになります。
嫁さんが「一社て何処の神社のこと?」と聞いてきました。そう言えば「一社」にしても「京命」にしても「八前」にしても、ちょっと変わった地名です。
一日だけ行ってきたので本当に「付け焼刃」ですが、名古屋のローカルな地名を考えてみます。

「一社」:明治11年12月28日、愛知郡の一色村と下社村が合併した際、双方の旧村名から一文字ずつとって「一社村」としたのが始まりだそうです。読み方は昔のことで必ずしも一定しませんが、この一社村は「いちやしろ」と読むのが正しかったそうです。いまでは「いっしゃ」と読んでいます。と云うことで「一社」は合併による「合成地名」のようです。

「猪高」:京命の近くに「猪高」と云う所がありますが、これも合成地名のようです。一社村と高針村と上社村の三箇村で一つ新らしい「高社村(たかやしろ)」が発足しました。この「高社村」も旧村名から名付けられた合成地名です。そして明治39年に高社村と猪子石村とが合併し「猪高村(いたかむら)」が発足したそうで合成地名+合成地名という時間が経つと由来が全く分からなくなって仕舞う地名です。

「八前」:時間がないので調べることができませんでしたが、古くからの「小字」が残ったのではないかと思います。これは全くの一般論ですが、地名で数字の「八」がつくのは「八坂神社」「八幡神社」などと関係する場合が多いようです。因みに「三」の場合にも似たような傾向があり「三井」(御井)、「三池」(御池)など北九州に多い地名です。

「京命」:千種区のはずれに位置しており「下坪」の交差点付近は東海豪雨の時に水没したように庄内川水系の洪水常習地帯です。穀物生産地帯ですが地主さんが多く、大地主が無い零細農家が多い所だったようです。そのため自然災害のどで凶作が続くとダメージを大きく受ける傾向があったそうです。そのため、救済策として年貢を免除されることもあったようです。
「凶免」→「京命」が京命の地名の由来のようです。

 土地、土地に歴史があり、その歴史を背負った地名が沢山あります。この千種区、名東区などのにも「星が丘」「藤が丘「緑ヶ丘」など開発に伴ってデベロッパーが名付けた新興地名がありますが、旧集落が残った個所には珍しい変った地名が沢山残っています。これから名古屋に関わる機会が多くなりそうなので、気になる地名を調べるのも楽しみです。


堺市の神社巡り

2011年12月16日 | ドライブ・旅行
堺市で人と会う約束があり、久し振りに堺に行きました。所用は1時間ほどで終わりました。
天気予報では「冷たい雨」でしたが、一転してポカポカ天気です。
街中をウロウロしても別段面白い所もなさそうなので、神社を巡ることにしました。
堺市内にも有名な神社が幾つかありますが、以前に興味を以って足繁く訪問した所を訪ねることにしました。

方違神社」(堺市北区三国が丘)
ホウチガイともカタタガイとも呼ばれる神社です。
 摂河泉(摂津国・河内国・和泉国)三国の国境に三国が丘があります。そこに方違神社が鎮座しているのは大変重要なこととされています。
古代史や神社史などに興味のある方には面白い素材が沢山ある神社ですが、あまりにも専門的になりますのでここでは触れません。
 この方違神社は「方祟り(ほだたり)」の「災厄」が除かれると云うことから全国から多くの参詣者が訪れます。
最大の祭礼は五月三一日に行われる「粽祭り(ちまきまつり)」です。この粽祭りは、古来、天神地祇を祭って方忌災除の祈祷を行います。
 方違と云うのは、凶方へ旅行をしたり普請をしたりするとき、当社に参拝してその罪を解除し災厄から逃れると云う手軽な信仰です。
この方違神社が三国が丘に鎮座しているのは、国境が凶方を打ち消すと云う考え方から来ています。
例えば、河内国から和泉国へ行く人は、普通は西へ向かって旅をします。所がこの人がもし西が凶方であり尚且つ和泉国に行かなければならない場合、方違神社を経由し、一度摂津国に足を踏み入れれば、旅は北向きとなり、そこから改めて南の和泉国に行けば、単純に西に向かう旅は避けられるという理屈です。

  
古代の幹道・長尾道に面し、巨大前方後円墳・反正天皇陵に隣接して鎮座する当社は古代史の宝庫です


開口神社」(堺市堺区甲斐町東2丁)
  

当社は延喜式内社で和泉国大鳥郡塩穴郷に鎮座する小社です。この地は、旧堺市の中心であり堺市の「総氏神」として、また明治維新までは「密乗山大念仏寺」が社務まで行い「大寺さん」と呼ばれ多くの庶民の信仰を集めていました。
 ここでも古代史や神道史には触れません。
境内にあった大念仏寺は、明治の神仏分離により「密乗山大念仏寺」は廃寺となりましたが、往時には拝殿・弊殿・宝庫・神饌所・連歌所・土蔵・摂社・神輿所・茶室・金堂・薬師堂・三重塔・鍾楼・諸門・坊舎など数多くの建物が立ち並んでいたそうです。大念仏寺が廃寺になり解体され、更に第二次大戦で多くの建物が灰燼に帰してしまいました。
 この神社には「三村坊の天狗」という面白い伝説が残されています。
また、この神社は旧堺市の中心に位置することから、明治維新には一時境内に「堺懸懸庁、堺市役所」が置かれてこともあります。更に府立三国が丘高校・府立泉陽高校もこの境内に創立されました。

石津太神社」(堺市西区浜寺石津町中4)
石津神社」(堺市堺区石津町1丁)
 

この二社は800mほどの距離しか離れていない所にあります。
両社ともに「日本最古の戎宮」と名乗り「本家争い」をしています。
 延喜式神名帳に「和泉国大鳥郡」に「石津太神社」が搭載されています。
式内社の比定、鎮座地の比定は中々難しいものがありますが、この二社も式内社搭載の「石津太神社」の有力な候補です。
「戎」さんと云う神さんも不思議な神様で、元々はイザナギとイザナミの子供として生まれましたが三歳になっても立つ事が出来なくて「天磐樟舟(あめのいわくすぶね)」に乗せられ流され棄てられた「蛭子命(またの名を八重事代主命)」のことです。
後世、エビス信仰が生まれてこの「蛭子」を祭神として祭るようになったようです。

 「石津太神社」は神名帳では「イワツタ神社」と読んでいます。天磐樟舟が漂着した浜が石津浜と云うことで「日本最古の戎」と云うことになっているようですが、これはエビス信仰が入ってからの付会と思われます。
石津と云う地名は、流された蛭子が「五色の石」を持っていたことから「神石」「石津」の地名が生まれたと想像されます。指呼に「神石」と云う所もあります。

 どちらが式内社の「石津太神社」かと云うと、僕は下記の様な仮説を持っています。
中世以来、堺の町が発展して近郷とのこうつうが盛んになり、紀州街道、小栗街道などの道筋にも街が定着しだし人口も増えだしました。この石津郷も上下二村に分かれるようになり、それに伴って神社もそれぞれの氏神として二つに分かれてお祭りしたのではないかと思われます。ですから両社とも正当な「石津太神社」と言えますが、現在の「石津太神社」の方がより正当性があるように思っています。