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「勝負谷橋」(3)天竺山石蓮寺はどこにある?

2021年06月28日 | 地名・地誌
豊中市若竹町1丁目に服部緑地から寺内町に抜ける小径に設置されてそう古くない写真のような石碑があります。
  

利生山興法寺があります。同じく若竹町1丁目、興法寺と呼指の距離に若宮住吉神社があります。


利生山 興法寺の由来
興法寺の開基は摂州橘御園庄今福村(尼崎市今福)に住む今福佐衛門源道悟(源経基の子孫)一郷守護の武士で承元元年三月頃法然上人が神崎に立ち寄った時その教化にあずかり又親鸞聖人が関東から帰洛の節(天福、文暦年間)一座の御感化を受け歓喜の泪身に余り早速今福村に一宇を建立翌年御礼の為上洛し聖人より御法を興した法師として寺号を興法寺と賜わり以来十一代専宗迄今福村に存在したその後天正二年顕如上人が法敵織田信長と合戦をまじえた際十一代専宗が加勢を申し上げたのを信長がにくみ今福村道場を焼失せよと配下に桜井なる武士など多数をさしむけたので専宗の父道堅は肌には袈裟を着上に甲冑を帯び戦ったがついに我方に利なく神崎堤で戦死道場も焼失した。専宗は更に和歌山鷺森まで顕如上人にお供をして戦ったが、天正八年信長と和睦が成立し戦乱もおさまり世間も静かになったので摂州豊能郡石蓮寺の里(豊中市若竹町)に堂宇を建立した後慶長一〇年十二代目裕宗が檀家の協力を得て再建したのが現在の豊中市若竹町一丁目にある興法寺の本堂である。

若宮住吉神社御由緒・伝承  
元和元年(一六一五)住吉大神の故実である卯年・卯月に創建。地域で「若宮」といえば当社のことをさした。
伝承によると、天平年間に行基が興した石蓮寺の中心地と目されている。同寺は千軒の坊舎を持った荘厳・広大な寺と伝わる。平清盛にによって同寺は攻められ、当地には、厳島神社(現・水分神社)が、創祀され神社の起源となったと伝わる。
創建当時、当社は二~三倍の境内地を有し、総社として尊崇されたとされる。
 天竺山石蓮寺
古老によると天平年間に行基が伽藍を創立して天竺山石蓮寺と号したとのこと。坊舎が干軒に及んだため金寺・千軒寺と呼ばれ、境内は広大で大字石蓮寺と大字寺内に及んだが、平清盛に破壊されて廃寺となつたという伝承がある。(大阪府全志 巻之三)
 地名からは寺内と石蓮寺 (現在の若竹町)のあたりに大きな寺があったことが偲ばれ、市も住吉神社の西のあたりを白鳳時代の石蓮寺跡として史跡に指定し標識を立てたとあり。
文献・史跡に残るものはないとのこと。また『寺内みてある き』 (寺内小学校PTA)pl「 寺内の今と昔」には、現在の若竹町1丁目に天竺山石蓮寺(別名千軒寺)があり、寺内小学校西側にある岸龍山観音寺もその坊舎のひとつであったと思われるとの記載があるほか、白鳳 時代のものと思われる平瓦や石仏が寺内遺跡から出土したことにふれている。
 
 以上の事から、旧・天竺山石蓮寺のあった場所(げん・利生山興法寺)と天竺川の位置関係から、「天竺川」の名前の由来は「天竺山石蓮寺」の側を流れていたことの由来するとの口碑は納得できるものです。

 尚、若竹町一丁目にある「興法寺」の石碑。「右 大阪城焔焇蔵場跡
享保一八年(1734)、大阪から北三里といういうことで寺内村と長興寺村にかけた地に幕府焔焇蔵が移された、との記録があります。

◎ 主な参考資料
大阪府全志 巻之三(清文堂)、日本歴史地名大系28 大阪府の地名 1(平凡社)、新修豊中市史(豊中市)、レファレンス協同データベース、など



「勝負谷橋」(2)天竺川の名前の由来。

2021年06月23日 | 地名・地誌
勝負谷橋の架かる天竺川は神崎川の支流です。「勝負谷(橋)」と云うのも興味を引きますが同じように「天竺川」と云う名の由来にも大いに関心があります。手元の資料やネットで調べていましたが、緊急事態措置が解除され図書館が利用できるようになったので早速、図書館の郷土資料を閲覧しました。
もっとも納得のできるのは「大阪府の地名 Ⅰ」日本歴史地名大系28(平凡社)の記述です。
「天竺川」
 千里丘陵の上新田に発し、 熊野田を経て、小曾根と椋橋の境界を流れ て菰江の三国橋上流で神崎川に合流。途中熊野田で南流してきた兎川を合る。流路延長 七 六キロ。(・・省略・・)水量もあまりなかったようであるが、時には洪水氾濫の被害をもたらしたらしい。
(・・省略・・) 千里丘陵から平坦地へ出る個所が危険であり、ここには山ノ池・中ノ池・こも池(現在いずれも服部緑地公園内)が造成されているが、灌漑目的だけではなく流水調節の目的をもったものである。 造成年代は未詳であるが、貞治元年(1362)当時には石蓮寺地域の山ノ池はすでに造成されている(豊中市史)。(・・省略・・)
なお天竺川の由来については、流域にあった天竺山石 蓮寺からきたともいい、「摂津名所図会」は「常には水なくして平沙永く連り、千歩に及ぶ 。 故に天竺川の俗称あり」とする。


フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によると
天竺川の名前の由来は、
1、流域近くにあった「天竺山石蓮寺」とされる。(出典記載なし)
2、常には水なくして、平沙(へいさ)永く連り、千歩に及ぶ。 故に天竺川の俗称あり。(摂津名所図会 巻六 天竺川)

天竺川の由来は、「天竺山石蓮寺のそ側を流れている川だから」と云うのが自然なように思われます。一方、「常には水なくして、平沙(へいさ)永く連り、千歩に及ぶ」と云えどもとても唐・天竺の広大な砂原を連想するのは困難と思います。
 天竺山石蓮寺とはどの様なお寺なのかにも興味津々です。次は「天竺山石蓮寺」について調べてみます。



「勝負谷橋」

2021年06月14日 | 地名・地誌
勝負谷橋は豊中市東泉丘2-1(東泉丘第21号) 天竺川に架かるコンクリート橋です。

豊中市地形地図


豊中市地形地図・勝負谷橋付近拡大

天竺川は豊中市北部千里丘陵上新田より南西に約7.7km流れ神崎川に合流する一級河川です。天竺川はたびたび洪水に見舞われ、その度に決壊した堤防を高く修復したために典型的な天井川となり、その堤防は松並木となり美しい景観を作り出しています。
豊中市河川地図
勝負谷橋付近の天竺川公園






宇治市伊勢田ウトロ(地名の話3)

2020年05月15日 | 地名・地誌
5月15日(金)毎日新聞夕刊 「居住権を人々のうねり」・「公営化住宅進む在日コリアンの原風景」・「京都ウトロ地区」と題した特集記事が掲載されました。
現在「ウトロ地区」は公営住宅の建設が進み住環境は随分と改善されているようです。
 
 私は昭和44年9月から翌年3月まで伊勢田で仕事をしていたことがありました。
近鉄奈良線伊勢田駅の西側に伊勢田ウトロ地区があります。
 この地域は、行政の光が当たらない所で、住環境としては劣悪であったように思います。在日韓国人の方々が多く住んでいて、土地の所有で問題があるとの事でした。在日韓国の方であろうと在日米国の方であろうと在日の大阪人、在日の東京人であろうと民生向上に努力するのが行政の仕事だと思うのですが・・・。
肌理細かい行政の光を隈なく届けることは大切なことです。

伊勢田ウトロ地名解
 宇治のこの地域は古代から開けた所で、記紀、万葉集はじめ多くの古文献に見られるところです。
伊勢田は巨椋池南岸にあり、古代(和名抄)久世郡那紀郷に比定されています。
平安時代には、延喜式に伊勢田の社が見られ、伊勢神宮の科田があったようです。
中世には、久世郡伊勢田郷として定着し、近世幕府直轄領として代官が支配していました。
現在は宇治市に統合されています。
通称ウトロは、宇治市伊勢田町51番地の事を言います。
ここは、「宇土口(うどぐち)」と云う字名の所です。
戦後、この地域が新聞紙上で報道された時に、新聞記者が速記で「ウド口」と書いたものが、いつの間にか「ウトロ」となり定着したと云われています。
 宇土地名は各地にあります。
 (例)丹波篠山市宇土(弘誓寺・宇土観音が有名)
    熊本県宇土市(、小西行長の城下町)
「宇土」の地名解は「水辺に関係する地形地名」ではないかと考えています。
島を意味する「ウド(浮土)」、「ウナト(海処)」で海辺の土地。或は穿戸(うげと).の転訛のどの諸説があります。


網走支庁斜里郡斜里町ウトロ
 チャシコツ原野を掘削したら温泉がでました。そこが現在のウトロ温泉街です。
宇登呂。語源はアイヌ語の「ウトゥルチクシ (Uturu-ci-kus-i) 」であり、「その間を-我々が-通る-所」という意味である。殆どの地名辞典や解説書に書かれている内容です。
しかし、アイヌ語の文法でこのように表現するのか疑問です。
多くの場合は、B.H.チェンバレン、J.バチュラー、高倉新一郎、山田秀三などのアイヌ語の研究者の解釈が、孫引き孫引きされて検証なしに定着しています。
地元のアイヌの古老にお聞きしても「ウトロ」を上記のような解釈をする人はいません。むしろ「分らない」と云うのが本当だと思います。
僕は、ウトロ=脇腹、あばらと云う解釈の方が素直ではないかと今は思っています。

紀伊国屋文左衛門の新妻。

2019年03月11日 | 地名・地誌
3月9日(土)すっかり春となり、日和に誘われ天下の名勝和歌の浦に行きました。
「和歌の浦は、干潮時には干潟が現れる景勝地。鞆の浦と同じ万葉の故地である。不老橋は石造りの太鼓橋で、江戸末期の嘉永四年(1851年)に紀州徳川家が造った。十㍍ほど下流に、県道橋「あしべ橋」(幅11㍍、長さ80㍍)が和歌川河口の景色を遮るように架かる。」1990年代に鞆の浦と同じく景観保全運動で万葉学者犬養孝さんなどを先頭に新橋建設反対運動が起こりました。結果は「和歌の浦は文化財保護法などによる名勝に指定されておらず、歴史的文化的環境の保護は行政の裁量にゆだねられ、工事に違法はない―と退けられ」現在はバイパスも完成してそれなりの景観になっています。
不老橋

和歌の浦はなんといってもその景観です。その景観に溶け込むように沢山の見所があります。今日はその内の三ツの神社を巡りました。
和歌浦天満宮

紀州東照宮


玉津島神社
神代より しかぞ貴き 玉津島山


玉津島神社の創立は悠久の昔太古に遡ります。その後も景観の美しさとその神徳により多くの尊崇を集めました。神亀元年(724年)聖武天皇が玉津島に行幸されたときに山部赤人が「神代よりしかぞ貴き玉津島山」と詠み風光明媚な景色をめでました。

 境内には万葉学者犬養孝博士揮毫の万葉歌碑があります。

若の浦」→「和歌の浦

 神亀元年山部赤人が詠んだ短歌「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」とあるように古くは「若の浦」と表記されていたものがいつしか「和歌の浦」と表記されるようになり現在の和歌山の地名の語源となったそうです。
 ◎ 紀伊國屋文左衛門の新妻 
 

 玉津島神社には「商売繁盛」のお札はあるそうですがそれ以外に特に紀伊國屋文左衛門との関係を窺わせるものはありません。
元々紀文自体出自来歴のわからない人物で、その多くは戯作、大衆演劇でのヒーロです。虚構の部分が多いようで、実態は全く分からないそうです。ですから二人合体説やその存在さえ否定する人も多い人物です。
 三波春夫の長編歌謡浪曲「豪商一代紀伊国屋文左衛門」という作品があります。その語りの一節を紹介します。
「・・・・怒涛逆巻く嵐の中を、目指すははるか江戸の空 花の文佐のみかん船・・・・・・ ・・・・・これも故郷の人の為 征くぞ夜明けの和歌の浦
・・・・・・まして文佐の新妻は今年一九のいじらしさ・・・・・・・・・・「白装束に身を固め 梵天丸に乗り移った文左衛門」
時に承応元年一〇月二六日の朝まだき。此の時、遥か街道に駒のいななき、蹄の音は連銭芦毛に鞭打ってパッ、パッ、パッパッパッパッパ。馬上の人は誰あろう 歌に名高き玉津島明神の神官高松河内可愛い娘の婿殿が今朝の船出の餞と二日二夜は寝もやらず神に祈願を込めた海上安全守りの御幣・・・・・」
 少々長くなり食傷気味の向きにはゴメンナサイ。名調子はYouTubeでお楽しみください。
ここでは具体的な事柄がうたわれています。紀伊国屋文左衛門は承応元年一〇月二六日の朝、嵐の和歌浦から一発勝負のみかん船で江戸を目指して船出した。その時文佐は一九歳の新妻がいた。新妻の父は玉津島神社の神官高松河内という人である。
 そこで、当ブログは玉津島神社を参拝した機会に神職の方に上記のことを聞きましたが、その神職の方は「それは知りませんでした」とのことです。
別の本では高松河内は文左衛門の舅で、みかん船の計画に資金的な援助をしたとも書かれています。しかし、現地ではこのような話を裏付けるコタは全く見つかりませんでした。

 もっとも紀伊國屋文左衛門自体の存在が疑問視されている状態では巷間語られている文左衛門逸話はやはり戯作、大衆演劇の虚構の世界の人物かもしれません。
幕末に為永春永が「黄金水大尽盃」(おうごんすいだいじんさかづき)という紀伊國屋文左衛門をモデルとした長編小説を書いたそうです。大変な人気小説であったそうでその結果、史実と虚構が入り交ざってしまい、現在の紀伊國屋文左衛門像が出来上がったともいわれています。この黄金水大尽盃をそのまま明治期に「人名事典」に記載され現在に至っているそうです。当ブログは残念ながら「黄金水大尽盃」は見たことがありません。

地名の話。「揖保」(4)

2018年09月18日 | 地名・地誌
地名の話。「揖保」(3)で茨木市の「疣水」は、古代氏族「三島県主飯粒(イイボ)」と何らかの関係があるのではないかと推理しました。
三島県主飯粒を「日本古代氏族人名事典」(吉川弘文館)で引いてみると
とあります。
それではこの三島県主飯粒が兵庫県たつの市にあった「揖保の里」と果して関係があるのかが興味のあるところです。
 お断りしておきますが茨木市の「疣水」更にたつの市の「揖保の里」と三島県主飯粒との関連は既に日本地名学の碩学・吉田東吾が着目しています。(大日本地名辞書・上方)
大阪府茨木市三島ヶ丘に延喜式内社磯良神社(疣水神社)は元々は新屋坐天照御魂神社(三殿の内西河原)の神籬に鎮座いします。その後、疣水神社の勢力拡大に伴い西河原の新屋坐天照御魂神社は「庇を貸して母屋をとられる」形になったと云われています。
磯良神社(疣水神社)の祭神は「安曇磯良」は文字通り「安曇族」であり、海人としての海洋航海術に長けていると同時に開墾にも長けデベロッツパーの役割も果たしていたと云われています。磯良が神功皇后伝説に痕跡を残すのは摂津三島が当時低湿地帯であり、磯良ら安曇族が開墾したためと想像できます。一方、たつの市の揖保の里については「播磨風土記」に安曇連百足が難波の浦上から播磨の揖保郡に移住し開墾した、との記述があります。
 これ等を勘案すると茨木市の「疣水神社」の「イボ」、播磨の「イボ」ともに安曇族の象徴的人物「イイボ(飯粒)」を地名として冠したものでは・・。
これを検証する具体的な証拠はありません。しかし、当ブログはそのカギは新屋坐天照御魂神社、粒坐天照神社、磯良神社にあると思っています。これらの氏族、祭神の共通点は「火明命(ホアカリノミコト)であること。また「天照御魂神社」「天照神社」なる名前を持つ神社が限られた少数であり、鎮座地も限定される特殊な性格の神社であること。
これらをクリヤーにすれば地名「揖保」も解明されるものと確信しています。


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地名の話。「揖保」(3)

2018年06月23日 | 地名・地誌
大阪府茨木市三島ヶ丘に延喜式内社磯良神社があります。祭神は磯良命。磯良とは神功皇后が朝鮮出兵に供奉した安曇磯良です。俗伝によると神功皇后が朝鮮出兵の折、この神社で勝利祈願を行い、帰路再び立ち寄り戦勝感謝のため安曇磯良(アズミノイソラ)をこの地に留め神を祀らせたとされています。

 この磯良神社は通称「疣水(イボミズ)神社」と呼ばれています。磯良神社(疣水神社)は元々新屋坐天照御魂神社新屋社の神籬に鎮座していました。
そしてその境内には霊泉「玉の井」があります。「玉の井」は「便(ヨルベ)の水」として「摂津名所図会」には次のように紹介されています。

「よるべの水は社頭の神水なり。世人此水を疣水といふ。ここに来って疣・黒痣を濯ふ時、忽ちに抜落つるとぞ。・・・・・・・・・むかしは此清水潤沢にして、田畝数千頃(ケイ)を養ふ。・・・・・・ことごとく林樹を伐りて墾開して田となす。これより清水漸く涸れて少水となる。所謂『君子不伐家木』といふ事、故ある事にや。・・・・・・・・・・・」
 この「疣水」の功徳から疣水神社、疣水さんといわれるようになりました。また、摂津名所絵図に疣水神社近くにあった「井保桜」に関する記載があります。
「井保桜、疣水の北にあり。此花木希代の大樹にして、野辺に只一木ありて、・・・・浪花及び近隣より群来りて艶花を賞す。・・・」

「便(よるべ)の水」(摂津名所絵図)



「井保桜」(摂津名所絵図)


 さて、「疣水」の疣は、「井保桜」の井保に由来するものと考えられます。木を伐れば水が涸れる。今日的環境保全の大原則が「井保」です。摂津名所絵図が伝える「井保」は、木が井を守る、と云うことを知っていた昔の人の知恵が語源です。
しかし、この地域の樹木を伐採して田畑に開墾されたのは江戸時代、寛文の頃(1660年)とされています。それではそれ以前「井保」や「疣」はどうなんでしょうか?
当ブログは1ツの手掛かりとして古代・安閑天皇(6世紀)紀に三島県主飯粒(イイボ)の名前があります。三島県はまさに現在の茨城・高槻地域に存在したものです。

 大阪府北部地震の震源地直近に鎮座する磯良神社、天照御魂新屋社も被災しました。
  

西河原・天照御魂神社


    

磯良神社(疣水神社)


地名の話。「揖保」(2)

2018年06月13日 | 地名・地誌
地名の話。「揖保」(1)では粒坐天照神社に伝わる「揖保」の地名説話を紹介しました。今回は「播磨風土記」が語る「揖保」の地名説話を取り上げます。

『播磨風土記 揖保郡』
 
揖保の里 土は中の中なり。(イイボ)と稱ふ所以は、此の里、粒山(イヒボヤマ)に依る。故、山に因りて名と爲す。
粒丘(イフボヲカ)粒丘と號くる所以は、天日槍命(アマノヒボコノミコト)、韓國(カラクニ)より渡り来て、宇頭(ウヅ)の川底(カハジリ)に到りて、宿處を葦原志擧乎命(アシハラノシコヲノミコト)に乞はししく、「汝は國主たり。吾が宿らむ處を得まく欲ふ」とのりたまひき。志擧、即ち海中(ワタナカ)を許しましき。その時、客(マレビト)の神、劔を以ちて海水(ウシホ)を攪きて宿りましき。主の神、即ち客の神の盛なる行を畏みて、先に國を占めむると欲して、巡り上りて、粒丘に到りて、飡(イヒヲ)したまひき。ここに、口より粒(イヒボ)落ちき。故、粒丘(イヒボヲカ)と號く。・・・

 地名説話は大喜利の「小噺」のようなもので「成る程!アハハ・・」と場を和ましますが、肝心の地名解としては全く説明になっていないものです。
今回、そんな地名説話を取り上げるのは、そのお話の背景や登場人物などが大変重要になるからです。


地名の話。「揖保」(1)

2018年06月08日 | 地名・地誌
兵庫県たつの市に日山(白鷺山)があります。赤とんぼ公園や国民宿舎赤とんぼ荘があり、播磨の小京都として人気の散策道が整備されています。この辺りは古代から「揖保の里」と呼ばれていたようです。
倭名類聚抄では揖保(伊比奉)とあります。「イボ」(イホ)と云う地名は全国に散見され、それほど珍しい地名ではありません。例えば、現愛知県豊田市に伊保町と云う所があります。この伊保町には嘗て「伊保藩」と云う藩がありました。関ケ原の合戦後、東軍に与した丹羽氏が、1万石の大名として諸侯に列し、三河国加茂郡上伊保村(現在の愛知県豊田市)陣屋を構えたそうです。兵庫県高砂市にも「伊保町」と云う所があります。高砂市の「伊保」は元々は「美伊保」であったものが美称の「美」が欠落して「伊保」となったそうです。「美伊保」は「美保の松原」などの「美保」と同意です。

延喜式内神社粒坐天照神社は日山(白鷺山)山麓にあります。詠み方は「イイボニマスアマテラス」神社、通称「リユザ」神社。ご祭神は「天照国照彦火明命」。社伝によると「推古天皇二年(594)正月一日、伊福部連駁田彦と云う正直な長者が邸裏の杉の木の天辺に異様に輝く容貌端麗な童子姿を見つけた。この童子は天照国照彦火明命の使いとして現れ駁田彦に種籾を与えた。駁田彦はこの籾を持田や近隣の水田に蒔いたところ一粒萬倍し以後播磨の穀倉地帯となった。是が「イイボ」(揖保、伊穂、粒保、・・)の郡名の起こりなり」と。






夙川界隈・ニテコの池(地名の話2)

2018年04月13日 | 地名・地誌
 今日4月13日、「火垂るの墓」が放映されます。先日亡くなった高畑勲脚本・監督作品で追悼番組だそうです。

 今日偶々「火垂るの墓」の舞台になったニテコの池がある満池谷墓地に行ってきました。満池谷の墓地には当ブログの父母のお墓があります。
ニテコの池は火垂るの墓の主人公兄・妹が生活をしていた横穴(防空壕跡)があったところです。写真の左側に「松下幸之助邸」など新興経済人の豪邸があります。池の北側は震災記念公園、西宮市営墓地、越水浄水場などが整備されています。

 野坂昭如は、無頼なところのある人で決して褒められた行いをした作家でないように思います。それでも野坂昭如は「火垂るの墓」を書いただけで全てが許せるだけの名作だと思います。

 「ニテコの池」地名解;
 地名説話としては、西宮神社の大練塀を造る際、壁土をこの付近から採掘し、その土をここで練って運ばれたので「ネッテコイ池」と呼ばれた、と口碑で伝えられています。
地名屋はどの様に解釈するかと云いますと、先ず古地図や古文書を漁り、関連しそうな資料を集めます。
この場合、具体的な地形や地名を立体的に理解しないと中々説明が困難ですが、大まかに私見を述べてみます。
 「ニテコの池」「満池谷」の原形ができたのは江戸時代初期と思われます。
この近辺の郷村の灌漑用水は、夙川、御手洗川に頼っていましたが、耕地が拡大するにつれて新しい水源の確保に迫られ北側の仁川水系からの導水をしました。
文献から寛永18年(1641)とあります。
仁川上流の「井ノ口」から引かれた水が、途中を省略しますが満池谷に流入しそのため池が「ニテコの池」となりました。ここから西宮の各郷村の田畑に水を流した水路を「井手溝(イデコウ)と呼んでいます。
書道をする人は分かるでしょうが「井」を崩して書くと「仁」によく似た書体になります。また地名は古来より「好字」「佳字」を使用しますから、「井手溝」→「仁出溝」に変わり、即ち「イデコウ」→「ニデコウ」→「ニテコ」に変わったと思われます。
勿論、ここではごく簡単に結論だけを書きましたが、論証の過程では「和名抄」記載の各地の「井手」の地名解との整合性、西宮及び近隣各郷村の歴史の検証は欠かせない作業です。

※:2,009年 8月 5日「夙川界隈・にてこの池(地名の話2)」改編したものです。

 

「椰子の実」の歌碑・・・渥美半島・伊良湖岬

2018年03月26日 | 地名・地誌
一気に春になりました。先週末伊良湖岬に行きました。渥美半島は約50年振りです。渥美半島のある東三河は気象条件、農業立地条件とも絶好の土地柄でありながら「水資源」に恵まれなくて旱魃に悩まされていました。敗戦後、黒四ダムなどの電源開発、東名高速道路などに並び愛知用水建設など復興事業が進みました。同じ頃、東三河の水不足解消のため豊川用水が完成したのは昭和43年のことでした。豊川用水完成を機に未利用のまま放置されていた渥美半島に多くの入植者が開拓に従事しました。そして渥美半島の農業は大発展をし現在では日本でも有数の農業地帯になりました。
 昭和45年、当ブログ25才。飼料会社のセールスマンとして養鶏・養豚農家に家畜飼料の売り込みに走り回っていました。当時の渥美半島にはパイロットファームなどもあり、商社戦略・インテグレーターの雑兵みたいなものだったと思います。

藤村の椰子の実の詩碑は昭和36年に建立されました。「椰子の実」の詩は、島崎藤村が詩集「落梅集」(明治34年)で発表したそうです。柳田國男が伊良湖の浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作した話しはつとに有名です。
国男と藤村は文学仲間の親友だったそうですが、後年、藤村が国男に藤村の兄の就職に便宜を図るように依頼したことから柳田は藤村に絶交を告げたそうです。

島崎藤村の「椰子の実」の詩碑に向かい合って「椰子の実」の歌碑があります。歌碑は平成8年(1996年)作曲家大中寅二生誕100周年を記念して建立されたそうです。
 柳田国男が目撃した「椰子の実」を実証しようと昭和63年から毎年夏には、ヤシの実を沖縄県の石垣島の海に投げ入れているそうです。その行事も今年で30回になるそうです。その総数3,379個、その内列島に漂着したもの127個、その中で渥美半島に流れ着いたもの4個だそうです。石垣島から渥美半島まで直線距離で1,600kmを1~2か月の旅だそうです。

明治31(1898)年の夏、東京帝国大学在学中の柳田国男は伊良湖に約2か月逗留しました。この時砂浜に漂着した椰子の実を目撃しました。所が、かなりの数で「明治30年」と書かれたものがあるそうです。恐らく、誰かが間違って記載されたものが引用され孫引きされ拡散したものと思われます。在野の地元の研究者が当時の気象条件を検討し、明治30年には南風が吹き上げる気象条件はなく、明治31年には台風の進路から渥美半島に向かって南風が吹きつけたことを証明し、柳田国男の年譜などの文献資料と合わせて明治31年であることを論証しました。
「海上の道」が公にされたのは柳田国男の最晩年昭和36年のことです。伊良湖で椰子の実の漂着を観察してから約60年目にイメージとしてあった海上の道が学説として結実したようです。




根室本線止若駅

2017年12月30日 | 地名・地誌
当ブログに以前紹介したことがある「止若」について書きます。過去の記事は削除されていますが断片的に残っている記事もあります。
当ブログが北海道十勝に行ったのは昭和38年3月のことでした。初めて家庭教師のアルバイトをしました。止若駅前の小さな食料品店で中学3年になったばかりの女の子を週2回教えに行きました。夕食付きで結構待遇の良いアルバイトでしたが、夏休み大阪に帰省すると空白ができるとのことでお払い箱になってしまいました。その間、3ケ月ばかり毎週2回、帯広駅から止若駅に通いましたが、それ以降行くこともなくなりました。2~3年が経ち、久しぶりに止若に行くことがあり、乗車券を買うと「幕別」となっていました。「ヤムワッカ1枚」と云ったのですが駅員さんは何のためらいもなく「帯広駅~幕別駅」と打刻した切符を出しました。止若駅は幕別駅と名前が変わっていたのです。
 暮れで片付けをしていると古い十勝地方史のコピーが出てきました。
帯広駅から釧路に向かって3ツ目にあるのが「幕別駅」です。この幕別駅は開設当時の駅名は「止若駅」です。幕別は十勝地方の有力な村でしたから駅名は当然「幕別駅」と成るはずでした。当時(1905年)天北線(1989年廃止)稚内市内に「幕別」という駅がすでにあったそうです。
そこで、十勝の幕別村では幕別村内の小さな集落名であった「止若」を駅名としたそうです。所が止若駅前の公官庁の出先機関や金融機関は殆どが幕別を使用していたため貨物などが村名と駅名との混乱があり誤配などが相次いだそうです。そこで、幕別町は稚内市と長い交渉を積み重ね昭和38年11月 1日付けで「幕別」の名前を稚内市から譲り受けたそうです。止若駅は幕別駅となり、天北線の幕別駅は「恵北駅」と改称されたそうです。この時、十勝の幕別町はお礼として80万円を稚内市に贈呈したそうです。
稚内市の恵北(幕別)は、天北線転換バス路線(宗谷バス)の停留所となっているそうです。
当ブログにとっては涙の出るほど懐かしい「止若駅」の歴史を今見て感慨に耽っています。







大阪市西区立売堀

2016年10月20日 | 地名・地誌
ここ暫らく大阪市立中央図書館に通っています。ここ市立図書館は当ブログが高校時代、「落ちこぼれ」て不登校になった時の駆け込み寺のような存在でした。その後もこの図書館は絶えず利用しています。図書館は西区北堀江にあります。その北隣の町名が「立売堀」です。大阪の代表的な難読地名で「イタチボリ」と読みます。
 立売堀は元和六年(1620)開削が始まり一時工事は中断しましたが宍喰屋次郎右衛門により寛永三年(1626)竣工しました。「立売堀」を一躍全国的にしたのがテレビドラマ「どてらいやつ」です。山善の創業者・山本猛夫が当時人気作家であった花登筺に自らの自伝を売り込み大ヒットしたドラマです。立売堀も長堀も埋め立てられて今は高速道路やマンションになっています。立売堀は「どてらいやつ」でも機械工具問屋の街となっていますが、その一世代前までは材木問屋の街でした。
「立売堀」地名解
◎この堀は一名「伊達堀」と呼ばれていました。これは慶元戦争(大坂夏の陣・1615)の折、伊達家の陣所となり、要害の地であったため堀切し跡を削り足して川とした、とあります(摂津名所図絵大成)。「伊達」を「ダテ」と読むのは漢字の音訓の知識だけではチョット困難です。字の読めない一般庶民が多かった時代、多少の物知りでも「伊達」は「イタチ」と読むのも無理からぬことです。「伊達堀」(ダテ堀)→(イタチ堀)が定着した、と云うのが一般的な地名解です。
◎「立売堀」の「立売」について次のような記録があります。元和末年の頃、土佐藩より幕府に材木市場開設の申請があり許可されました。そこで材木の「立売」(セリ)が行われたことにより「立売堀」と言われるようになった、と云うものです。

 上記の「伊達」「立売」説はネットでも紹介され一定の評価を受けて「立売堀」地名解として認知されています。ただ、地元の旧家の家伝にはまた別の由来があります。
◎この川は元「鼬堀」と称する、との伝承もあります。
◎この付近一帯の大地主であった西村家(阿波座)の家伝によると、西村家の所領、現在の新町に遊郭が作られた際に妓楼の懇請により西村家の所領地を割売りしたことから「断売」(タチウリ)或いは「居断」(ヰタチ)堀と称したのが文字を誤って「立売堀」となった、とあります。


地名「北海道」の由来。

2016年01月22日 | 地名・地誌
当ブログ2014年10月17日「北海道一人旅。道北・稚内 ~ 宗谷・上川・空知・石狩」で「音威子府=北海道命名地 つづく」としてUPしました。所が何故かその後「つづく」とした記事をUPしていませんでした。先日、その事を知人から指摘され恐縮した次第です。遅ればせながら今回地名としての北海道について記載します。

「北海道」と云う地名を付けたのは松浦武四郎です。武四郎は、北海道に住むアイヌの人びとが自分たちのことを「カイナー」と呼び合っていることを知ります。「カイ」は「この国(大地)に生まれたもの」、「ナー」は敬称です。現在、武四郎は、「北海道の名付け親」としても知られていますが、明治になって武四郎が名づけた「北加伊(カイ)道」(北のアイヌの国)という名前には、アイヌの人びとへの思いと敬意がこもっていたのです。北海道命名を調べるとネットでも読本でも概ね上記のように説明されています。
現在、音威子府筬島地区天塩川流域の地に「北海道命名の地」碑が建立されています。それではこの地が何故「北海道命名の地」なのかと云いますと、武四郎の踏査報告に「天塩日誌」と云うものがあります。その「天塩日誌」の中に「音威子府村筬島(オサシマ)地区の鬼刺辺(オニサシベ)川付近で野営した時、アイヌ民族のコタン(集落)に立ち寄り、アエトモというエカシ(古老)に「カイナー」と言う言葉の意味を尋ねたところ、「カイ」は「この国に生まれたもの」で、「ナー」は敬語ということを教えてもらったというような記録が残されているからです。
  
  
武四郎は天塩日誌のほか蝦夷地各地の踏査報告書を刊行しています。帯広の六花亭では銘菓の詰合わせの化粧箱の意匠に十勝日誌を使用しています。
 古代律令制から伝統的に広域地方行政区画は「五畿七道」とされてきました。即ち五畿= 山城 、大和、河内、和泉、摂津。七道=東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。これらの地方名は現在でも各地の地方名として定着して使用されています。北海道と言う命名のやり方は、この古代からの伝統的な律令制の地方名ともよく馴染んだもので、何ら違和感の無い呼び方です。その為、現在では五畿八道ともなっています。

明治2(1869)年、政府から蝦夷地開拓御用係に任命された武四郎は、蝦夷地にかわる新たな名称「北加伊道」を政府に提示。後に「加伊」が「海」となり、「北海道」の名が誕生したとされています。明治新政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示しました。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名されました。
 多くの本、ネット上の情報など何れも同様の内容が記されていますが、多くは出典を示さない孫引き、又その孫引きと思われるもので本当にそうなのかと検証してみたくなります。当ブログは可なりの北海道関連の史資料を保有していましたが、「断捨離」とかのキャッチフレーズに煽られて迂闊にもその多くを処分してしまいました。現在手元に残った「定本松浦武四郎」でその事実を確認しました。
   
画像をクリックすれば大きくなります。

 尚、アイヌ語研究の金田一京助は松浦武四郎が解説した「カイノ」については懐疑的な見解を取っています。ともあれ、北海道地名命名者が松浦武四郎であることには間違いないようです。松浦武四郎はある意味で巨人でありその生き様は大変魅力的であり、興味の尽きない人物です。
韓国が領有権を主張し実効支配しているわが国の領土「竹島」についても、松浦武四郎は古来からの日本領である証拠を残しています。この件は次回ご紹介します。




地名の話・・・・「仁川」

2015年11月21日 | 地名・地誌
阪急電車 -片道15分の奇跡ー 」という面白い映画がありました。阪神間で活躍されている方々なら説明の必要もないのですが、映画・阪急電車は何本かある路線の内西宮北口から宝塚駅までを結んでいる「阪急今津線」が舞台になっています。その今津線の中間にあるのが「仁川」です。「にがわ」と読みます。阪急沿線・甲南エリアの高級住宅地として人気のある地域です。

「仁川」の地名解

1)、二川・・・本流の武庫川に流れ込む支流の2本の川。
2)、贄川・・・ニエガワ。この川の流域に贄部(ニエベ)が住んでいたという伝承から。(参照
3)、新川・・・新しく出来た川「ニイカワ」が訛って「ニガワ」となった説。
4)、滲み川・・この川は「雨が降らないと水が滲むほど」から「ニジミガワ」⇒「ニガワ」
 以上の4説はいずれも「ニガワ」の音意からの着想で然したる論拠があるわけではありません。ただ、(2)贄川説は顕彰に値する資料が存在します。が、地名論は往々にして「言った者勝ち」と云うことがよくあります。
        

5)、用字からの解釈
   音意からではなく「仁川」の用字から解釈を試みた地名解もあります。勿論、コレにも幾つかの解釈がありますが、今回は「井」と「仁」に関わる仮説を紹介します。
 図・仁川の用水路をもう一度見てください。そこに「井ノ口」「湯元」「百合野」と云う地名に注目してください。この地域では「用水」のことを「井・ユ」と呼んでいます。仁川は重要な生活用水、農業用水であったので古くから「井川」と呼び習わしていた。そこで「井川」がどうして「仁川」に変わったのか?論者は「井の字を崩せば縦棒が二本、横棒が二本であるが、左の縦棒はノのよに下に左折れしている。従って縦棒を二つ組み合わせればイとなり、にんべんとなる。つまり井を崩すと仁に転じる」と論じています。しかし、上の草書字典で見て分かるように井を崩しても仁にはなりません。この説明は強引に過ぎるようです。
 しかし、井が仁に転じた可能性は高いと思われます。その過程は以下のように解釈すればすっきりするのでは。先にも述べたように「井」は「ユ」と発音されこのエリアには「井ノ口・ユノクチ」「湯元・ユモト」の地名が現存しています。この「ユ」は「湯」ではなく用水の意味です。「井川。ユ川」⇒「ニ川」⇒「仁川」と誤って転記されたのでは・・。