馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

紀伊国屋文左衛門の新妻。

2019年03月11日 | 地名・地誌
3月9日(土)すっかり春となり、日和に誘われ天下の名勝和歌の浦に行きました。
「和歌の浦は、干潮時には干潟が現れる景勝地。鞆の浦と同じ万葉の故地である。不老橋は石造りの太鼓橋で、江戸末期の嘉永四年(1851年)に紀州徳川家が造った。十㍍ほど下流に、県道橋「あしべ橋」(幅11㍍、長さ80㍍)が和歌川河口の景色を遮るように架かる。」1990年代に鞆の浦と同じく景観保全運動で万葉学者犬養孝さんなどを先頭に新橋建設反対運動が起こりました。結果は「和歌の浦は文化財保護法などによる名勝に指定されておらず、歴史的文化的環境の保護は行政の裁量にゆだねられ、工事に違法はない―と退けられ」現在はバイパスも完成してそれなりの景観になっています。
不老橋

和歌の浦はなんといってもその景観です。その景観に溶け込むように沢山の見所があります。今日はその内の三ツの神社を巡りました。
和歌浦天満宮

紀州東照宮


玉津島神社
神代より しかぞ貴き 玉津島山


玉津島神社の創立は悠久の昔太古に遡ります。その後も景観の美しさとその神徳により多くの尊崇を集めました。神亀元年(724年)聖武天皇が玉津島に行幸されたときに山部赤人が「神代よりしかぞ貴き玉津島山」と詠み風光明媚な景色をめでました。

 境内には万葉学者犬養孝博士揮毫の万葉歌碑があります。

若の浦」→「和歌の浦

 神亀元年山部赤人が詠んだ短歌「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」とあるように古くは「若の浦」と表記されていたものがいつしか「和歌の浦」と表記されるようになり現在の和歌山の地名の語源となったそうです。
 ◎ 紀伊國屋文左衛門の新妻 
 

 玉津島神社には「商売繁盛」のお札はあるそうですがそれ以外に特に紀伊國屋文左衛門との関係を窺わせるものはありません。
元々紀文自体出自来歴のわからない人物で、その多くは戯作、大衆演劇でのヒーロです。虚構の部分が多いようで、実態は全く分からないそうです。ですから二人合体説やその存在さえ否定する人も多い人物です。
 三波春夫の長編歌謡浪曲「豪商一代紀伊国屋文左衛門」という作品があります。その語りの一節を紹介します。
「・・・・怒涛逆巻く嵐の中を、目指すははるか江戸の空 花の文佐のみかん船・・・・・・ ・・・・・これも故郷の人の為 征くぞ夜明けの和歌の浦
・・・・・・まして文佐の新妻は今年一九のいじらしさ・・・・・・・・・・「白装束に身を固め 梵天丸に乗り移った文左衛門」
時に承応元年一〇月二六日の朝まだき。此の時、遥か街道に駒のいななき、蹄の音は連銭芦毛に鞭打ってパッ、パッ、パッパッパッパッパ。馬上の人は誰あろう 歌に名高き玉津島明神の神官高松河内可愛い娘の婿殿が今朝の船出の餞と二日二夜は寝もやらず神に祈願を込めた海上安全守りの御幣・・・・・」
 少々長くなり食傷気味の向きにはゴメンナサイ。名調子はYouTubeでお楽しみください。
ここでは具体的な事柄がうたわれています。紀伊国屋文左衛門は承応元年一〇月二六日の朝、嵐の和歌浦から一発勝負のみかん船で江戸を目指して船出した。その時文佐は一九歳の新妻がいた。新妻の父は玉津島神社の神官高松河内という人である。
 そこで、当ブログは玉津島神社を参拝した機会に神職の方に上記のことを聞きましたが、その神職の方は「それは知りませんでした」とのことです。
別の本では高松河内は文左衛門の舅で、みかん船の計画に資金的な援助をしたとも書かれています。しかし、現地ではこのような話を裏付けるコタは全く見つかりませんでした。

 もっとも紀伊國屋文左衛門自体の存在が疑問視されている状態では巷間語られている文左衛門逸話はやはり戯作、大衆演劇の虚構の世界の人物かもしれません。
幕末に為永春永が「黄金水大尽盃」(おうごんすいだいじんさかづき)という紀伊國屋文左衛門をモデルとした長編小説を書いたそうです。大変な人気小説であったそうでその結果、史実と虚構が入り交ざってしまい、現在の紀伊國屋文左衛門像が出来上がったともいわれています。この黄金水大尽盃をそのまま明治期に「人名事典」に記載され現在に至っているそうです。当ブログは残念ながら「黄金水大尽盃」は見たことがありません。


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