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住んでみたい街NO,1「夙川」・・・・・「夙川」地名解

2014年07月19日 | 地名・地誌
京阪神で住んでみたい街NO,1にランクされたのが西宮市の夙川界隈だそうです。最近は夙川土手の桜並木も大変な人気で、人手の多さに土手の土が踏み固められて桜の寿命が短縮されて景観が守れないほどなのだそうです。
  
夙川と言えばカトリック教会の尖塔みごとです。昔は夙川の土手の松林越しに見えた尖塔も今では大きな建物が乱立して見ることはできません。また、教会の前は山手幹線道路が開通し往時の面影は失われつつあります。この教会は遠藤周作が洗礼を受けたことでも知られています。
夙川界隈の町は、高級住宅街が連続する阪神間の中でも屈指のお屋敷町として有名で、特に駅の北西は豪邸が立ち並び環境に恵まれた住宅地です。
「夙川」と言うのは西宮市内をを流れる二級河川の名前で他には「夙川駅」(阪急)「さくら夙川駅」(JR)の駅名にだけ使われています。所でこの「夙川」とはどの様な意味があるのか考えて事がおありだろうか?問題は「夙」にあります。この夙と言う字は「夙川」以外に使われることがマズ無い文字です。た府県の「夙川」を知らない人に、例えば電話で説明した経験のある人なら分かるのですが、夙の字は誠に説明が難しい文字です。
諸橋大漢和辞典から類推すると「流れの速い」ことから「夙川」となったとも言えそうです。しかし、古い記録には「夙川」を「守戸川」と表記したものがあるそうです。これらの文献は、差別問題から現在は閲覧に制限があるそうで、当ブログも源資料の確認は行っていませんが、二次資料として引用されたものは見ています。
「守戸」とは「」のことだそうです。
また「夙」には漢和辞典とは別の特殊な意味合いがあったようです。

管見の当ブログは「夙川」の本格的な地名解を未だ見たことがありませんが、当ブログの推論もあながち的外れではないような気もします。
「夙川ブランド」と言うものがあるそうです。住んでみたい街・人気NO.1の「夙川」も由来来歴を辿れば言をはばかる様な事もあったようです。



「うすいえんどう」を収穫しました。

2014年05月19日 | 地名・地誌
今日、庭の菜園に稔った「うすいえんどう」を収穫しました。ポットの苗を5本購入して庭に植えたのが見事に稔りました。
  
予想以上の豊作に大満足です。エンドウマメは比較的栽培しやすい作物なのでこれで普通なのかも知れません。ただ、連作障害のきつい事もあり、毎年「スイートピー」を作っているので何か影響があるかと思いましたが余計な心配であったようです。小学校か中学校の理科の時間に「豆は根瘤菌があるので窒素肥料はいらない」と習った記憶がありましたので、元肥として鶏糞を入れておきました。注意したのは酸性土に非常に弱いので、土に苦土石灰をまいてpHを整えました。後はお天道様次第で放っておいたのがまずまずの結果になったようです。
隣に植えた「そらまめ」もだいぶ鞘が大きく膨らんできました。ソラマメはダニにやられて収穫を諦めていましたが、三田の農家さんの助言をヒントに再生を試みたところ、一部の鞘は復活しだしました。収量はそう期待はできないと思いますが全滅の憂き目はなくなったようです。
   
同じく庭に設置したプラ舟の池に「赤メダカ」を50匹を放流しました。犬のフィラリア予防が必要な時期になりました。と云う事は「蚊」がそろそろ飛び回る時期になったということです。プラ舟の池も何時までも水を張っておくだけではボウフラの住処になるだけなので一番飼い易い「赤メダカ」を買いました。50匹で1,000円弱だったのが一番の選考理由です。この池には三田の農家さんが田圃に水を引くと、水路にメダカやモロコが沢山泳ぐそうなので、それを飼うつもりをしていましたが、農家さんの田圃の水張りはもう少し遅いようなので待ち切れなくなったということです。
余談ながら「うすいえんどう」の名前は羽曳野市碓井に由来するそうです。WEB辞典いよると「明治期にアメリカから導入された実エンドウを大阪府羽曳野市碓井(うすい)で栽培したことから。その後より栽培に適した和歌山県が大産地となり、改良種の(紀州うすい)などの品種が生まれた。」とあります。


ミツバチ便り。北摂里山街道。地名「紫合」

2014年04月21日 | 地名・地誌
今日は我家の皇后陛下がミツバチを見に行くとのことで同行しました。ミツバチは順調に数を増やしています。皇后陛下に巣板から「蜂蜜」を採り試食してもらいました。思いのほかお気に入りのようで好評で何よりでした。
その後、花山院を参拝して有馬富士を後に北摂里山街道を猪名川町に向かってドライブしました。

三田・有馬富士から北摂山里街道・県道68号を東に、県道12号と交差する所に「道の駅いながわ」を右折して暫く行くと紫合という道路標識が目に入ってきます。
「地名の話」:兵庫県川辺郡猪名川町紫合
超難読地名:「紫合」は「ゆうだ」と読みます。この地名はマズ読むことができません。というより、知らない限り全く読むことはできません。「紫合」を何故「ゆうだ」と読むかは例によって地元に伝わる眉唾物の「地名譚」が残っています。
 結論から言いますと、この地域の地名は「ゆうだ」でした。(古文書に「夕田」表記あり)その「ゆうだ」を「紫合」の2文字を当て表記したためとされています。
「ゆうだ」は「夕田」「結田」「遊田」・・・などと表記され全国に分布しています。
伝統的村落において葬儀に携わる組織として「葬式組」「死講」「不幸組」「念仏講」「無常講」等と呼ばれるものがあります。ゴク簡潔にいいますと「この共同体組織を維持するための共有財産」として「ゆうだ」というものを持っていました。江戸時代には本来の「ゆうだ」もさることながら厳しい年貢を逃れるための「隠し田」として「ゆうだ」を維持したことも多かったようです。
日本のような水稲農業では圃場の管理、畦の補修、推理管理、年間の農作業・・・生活全てが共同体と一体とならなければ成り立たない社会構成になっています。これらの全ての精神・空間の全てを表すのが「結い」という言葉です。

 余談になりますが、震災後「絆」「絆」と言われますが、「絆」よりも本来「結い」のほうが的確ではないかと思うのですが。やたらと「絆、絆・・」といわれると何かとって付けたような違和感を感じます。「HOW TO もの」の本ばかりがヒットする世相を反映しているようです。「第2の人生」「癒す」「エコでヘルシー」・・・など人生50年も60年も生きてきたのだから少しくらいご自分の「言葉」をお持ちになれば・・、と思うのですが。

 「結田」は「結いの田」→ ゆいのた → いいのた → いいだ → 飯田(長野県飯田市)など全国に分布する地名です。
また「紫合」も兵庫県神戸市西区神出町紫合の例など数件あるようです。
当ブログはまだ確認をしていませんが「紫合」は“しごう”と読むことができます。「しごう」も「結」を表す言葉なので、「紫合」の字を当てたという説があります。


愛知県挙母市をご存知か?つづき

2014年01月20日 | 地名・地誌
挙母市から豊田市に改名した同市は、TOYOTAの企業城下町として大発展を続けています。誠にご同慶の至りです。 愛知県北部に西加茂郡小原村というところがありました。今でも昔話に出てきそうな山里です。桜の名所で豆腐が美味しい静かな所です。その小原村でも一番人里離れた山合に「山はげ」という1日1組限定、完全予約制の天麩羅料理屋があります。ここのオーナーは大学の同級生で1年半ほど同じ下宿の仲間です。この男は学生時代からスタンドバーの経営を任され大変な人気店にし、その後は自分で経営をするようになりました。学校は6~7年かかって卒業したと思いますが、卒業後名古屋に戻り食堂を創めてやがて「とんかつ屋」などの経営を拡大して10店舗近いチェーン店の大社長にまでなり成功を収めました。
5~6年前、同じ下宿の同級生とこの「山はげ」に遊びに行きました。相変わらず酒好きでギターが上手く、今でも客と一緒にギター片手に「歌声喫茶」をやらかすそうです。とんかつ屋も順調だったそうですが60歳を区切りにこの小原村に引きこもっての「田舎暮らし」を夫婦で楽しんでいるのだそうです。1日1組限定の「天麩羅店」は、生活のリズムと年金代わりの小遣い稼ぎなのだそうです。  普通は宿泊はありませんが、我々は「泊まっていけよ」とのことで久しぶりに下宿時代のように枕を並べて雑魚寝をしました。次の朝、小鳥の鳴声で目覚めるという爽やかな体験をしました。 今年は「喜寿」の同窓会が予定されているので名簿を整理していると彼の住所が「田舎暮らし」の場所としては相応しくない大都会・豊田市となっています。転居でもしたのかとよくよく見ると「愛知県豊田市小原北町」。何と「西加茂郡小原村」という如何にもド田舎らしい地名が平成の大合併とかで「豊田市」に組み込まれてしまったのです。それはないやろ!・・・・・。
1000年以上続いた律令制を踏襲してきた日本の地方自治体が改変や合併を行ったのは明治以降のことです。そして太平洋戦争後の改革時にも手直しがありました。しかし、この平成の大合併のような大規模でタブーにも似た律令制の遺産をも無視した改変はまさに革命的です。  何故「平成の大合併」が必要だったのか?何と言っても自自体の財政困窮があります。そこへ合併特例措債を中心とした行財政支援と、三位一体改革の地方交付税の大幅な削減です。平成の大合併を地図上で色分けして塗りつぶすとはっきりと分かることがあります。 人口と産業が集中する首都圏・近畿圏・中京圏などの税収が恵まれたじ自体の多いところでの合併は殆ど進んでいません。(大阪府を見ればよくがよくわかります)(もう少し詳しく見ると、新潟県:112⇒31、広島県:86⇒23、富山県:35⇒15、・・・・。一方、東京都:42⇒40、神奈川県:37⇒33、大阪府:44⇒43、・・・・。)  また、特筆しなければならないのは宮城県女川町、茨城県東海村、新潟県刈羽村、佐賀県玄海町、・・・などの原子力発電所立地町村は地方交付税に頼らなくても俗に言う「原発資金」が潤沢にあるため町村合併は進んでいません。 かくして日本全国各地に「ドンでもない地名」が誕生してしまいました。そのことはまたの機会に・・・。

愛知県挙母市をご存知か?

2014年01月11日 | 地名・地誌
愛知県挙母市とは現在の愛知県豊田市のことです。挙母(ころも)は、昭和26年(1951)に市制がしかれ挙母市が成立しました。昭和34年(1959)に豊田市に改名されました。トヨタ自動車の創業の地に由来しています。このように企業名を冠する地名を「CI地名」と言います。※CI=Corporate Identity 因みにトヨタ自動車本社の所在地番は「豊田市トヨタ町1丁目」、豊田自動織機本社及びトヨタ紡織本社は刈谷市豊田町2丁目1番地及び1丁目1番地が所在地だそうです。大阪府池田市に本社を置くダイハツ工業の所在地はダイハツ町1-1 です。三重県鈴鹿市の商工会から生産拠点を持つ本田技研工業に鈴鹿市を本田市に変更したいとの申し込みがあったそうです。その時、創業者本田宗一郎は「伝統ある自治体名を1企業名を冠する地名に変更するのはおこがましい」とやんわりと断ったそうです。まさにトヨタとホンダの企業アイデンティティーの差なのか。
    
明治24年挙母村 昭和24年挙母市 昭和46年豊田市(クリックすれば拡大されます)

 IC地名を批判している訳ではありません。豊田市などはむしろ成功した代表的なIC地名だと思います。仮に鈴鹿市であれば改名することの損失、混乱の方は大きかったでしょう。古代からの重要な土地で、幾多の歴史の舞台として登場します。また鈴鹿山脈などの関連地名もあり広く認知されているからです。「坂は照るてる鈴鹿は曇る・・」と馬子唄にも歌われています。このような地名を変えることは混乱も大きく損失も莫大なものになります。
 所が挙母を豊田に改名したからといって差ほど大きな障害はなかったのです。挙母も古事記(垂仁天皇記)に登場する古い地名です。※「落別の王は小月の山の君・三川の衣の君が祖ぞ」
挙母は古くは許呂母と表記していたようですがその由来ははっきりとしていません。「ころも」の音が示すように「衣」と関係があるのは確かのようですがそれ以上のことは不明です。また何故「ころも」を「挙母」と表記するのかも不明です。ただ古事記の昔から「ころも」という地名があったことは確かです。誉母はその後、歴史上でも地域の産業経済上でも名を残すような事もない、ただ有り触れた地方の一集落でしかありませんでした。水戸黄門が漫遊して悪代官を懲らしめる舞台になることもないところです。
ただ、情緒的に「古い地名が消滅する」ことを憂える人がいますが、「地名」とは何か、また「地名」は誰のものかを考えると現在の豊田市は「挙母市」よりもぴったりと馴染んで地域に貢献しているように思います。(この項、つづく)



地名の話…十勝

2013年01月29日 | 地名・地誌
関西帯広会新年顔合せ会に参加しました。この冬は厳しい寒さが続いているようです。十勝の陸別ではー30°を超えることが3回もあったそうです。その様子は関西のTVでも紹介されていました。都市部の帯広市でも-25°以下になることもあるそうです。帯広市からの来賓の方のあいさつでも例年にない寒さを紹介していました。「凍裂」と言う現象が久しぶりに経験できたそうです。凍裂とは冬季の低温により、林木の樹幹が縦方向に割れる現象のことをいいます。幹が裂ける時にはバーンと大きな破裂音がするそうです。
 漫画「銀の匙 Silver Spoon」が人気だそうで、近々テレビアニメ化されることが決まったそうです。作者の荒川弘が帯広農業高校の卒業生で、「銀の匙」でこの高校をモデルとした大蝦夷農業高等学校を舞台にしているそうです。僕が帯広にいたころは「道立十勝農業高校」通称「勝農」と言っていました。今では周囲が開発され住宅地になっていますが、広い敷地にはいまだに原生林が残り、開拓当時の面影を残す歴史のある学校です。

 新年会では恒例の地名クイズがありました。皆さんも考えてください。
(地図をダブルクリックすれば地図が大きくなります)
十勝地名クイズ
1、愛冠  2、育素多  3、生花苗沼  4、長流枝  5、押帯  6、音調律  7、貴老路  8、様舞  9、旅来  10、十弗  11、鼈奴  12、止若内  13、勇足  14、基松  15、萌和  16、負箙  17、軍岡  18、雄馬別  19、活込  20、木札内
 

  当ブログでは過去何回か北海道、十勝のアイヌ護由来地名を取り上げていますが、2010年1月31日は今回と同じ内容です。また、検索に掛けると過去5~6回アイヌ語地名を取り上げています。よろしければアクセスしてください。

十勝地名クイズ・回答
1、愛冠(あいかっぷ・足寄町)  2、育素多(いくそた・豊頃町)  3、生花苗沼8おいかまないとう・大樹町)  4、長流枝(おさるし・音更町)  5、押帯(おしょっぷ・本別町)  6、音調律(おしらべつ・広尾町)  7、貴老路(きろろ・浦幌町)  8、様舞(さままい・池田町)  9、旅来(たびこらい・豊頃町)  10、十弗(とおふつ・豊頃町)  11、鼈奴(べっちゃろ・浦幌町)  12、止若内(やむわっかない・本別町)  13、勇足(ゆうたり・本別町)  14、基松(もといまつ・帯広市)  15、萌和(もいわ・大樹町)  16、負箙(おふいびら・本別町)  17、軍岡(いくさおか・幕別町)  18、雄馬別(おまべつ・芽室町)  19、活込(かっこみ・本別町)  20、木札内(ぼくさつない・本別町)


 今回、解説をされた理事の方から教えて頂いたことですが、現行使用されている地名には当然郵便番号があります。そこで、興味のある地域の郵便番号を検索サイトで調べると思いもよらない発見などがあります。関心のある方は是非お試しください。


葛城古道の難解地名「櫛羅」

2012年04月14日 | 地名・地誌
16日(月)に「葛城古道ウォーキング」があります。
4組HPにコース案内の地図がリンクされています。
当日、ウォークでも立ち寄る「鴨山口神社」の少し上に「櫛羅」と言う字地名があります。
この「櫛羅(くじら)」という地名は難解地名として知られています。
山国で海のないこの地区にクジラという地名があることで様々の地名解があります。

素朴に「太古、このあたりは海でクジラが泳いでいた」という説も当然のようにあります。
地球誕生からの歴史、地質時代のタイムスケールとたかだか1万年程度の人類の文明史とでは比較する対象が違いすぎるように思うのですが・・・。

 この地の地名説話があります。

登山口から10分程の所に「櫛羅の滝」があります。この滝は「一の滝」「不動の滝」「尼ヶ滝」等とも言われる。
そこに写真のような御所市観光協会が設置した「櫛羅」の地名説話を紹介した説明板があります。
「弘法大師がこの滝を訪れた時、この滝が天竺のクジラの滝に似ていることから供尸羅(くじら)滝と名づけ、それが地名の元になった。ただし、供尸という字は「供に屍」と書くので良くないと、領主の永井信濃守が「櫛」と改めた」と言うようなことが書いてあります。
 各地に伝わる地名説話がそうであるように、ここでも「後付け」で話としては面白いのですが信憑性に欠けます。

「クジラ」地名解
クジラと言う地名はそれほど珍しい地名ではなく、全国(北海道から沖縄)に分布しています。
勿論、長崎県五島市の「鯨埼」の様に文字通り「鯨」が回遊してくる事から付いた地名もあります。

 もともと「クジラ」「クシ・串」などは和語の「くじく」「くずれる」「ぐじぐじ」等、窪地・えぐり取られた・崩れたなどをあらわす崩壊地名です。
葛城の「櫛羅」もその語源とされる「櫛羅の滝」近辺の地形などを実際に見れば葛城山系の湧水や急斜面・脆い花崗岩地質など地滑り・崖崩れの痕跡などが彼方此方で見ることができ、崩壊地名が肯けます。

 余談ながら、ウォークコースの崇道神社は、早良親王(さわらしんのう)を祀った神社です。
早良親王は、桓武天皇の同母弟で藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近で憤死しました。
早良親王の死後、桓武朝内で不吉な事件事故が続き、早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。延暦19年(800年)、崇道天皇と追称されました。
菅原道真と共に御霊信仰の代表的な早良親王を祀ったのが崇道神社です。


葛城古道「葛城の古代豪族」

2012年03月23日 | 地名・地誌
昨年の 11月19日(土)雨で順延になっていた「葛城古道ウォーキング」の日程が決まり、現在4組HPの掲示板版で参加者の募集が行われています。

 当ブログは、昨年何かの参考になればと葛城古道にある「一言主神社」を紹介しました。

 今回も「葛城古道」に纏わる古代豪族について書いてみようと思います。
参加される皆さんに少しでも興味あることを期待して・・・。

この国に神と人が混在して国造りを始めた頃、この葛城の地に勢力をもったのが「賀茂族」と云う古代氏族です。
このエリアは「弥生前期最大の水田跡」と言われる「中西遺跡」ほか多くの弥生初期の遺跡が点在しています。この遺跡を残したのが「賀茂族」と考えられています。ですからこの地には「鴨都波神社」「鴨山口神社」「高鴨神社」「風の森神社」など賀茂族に関連する神社があります。
この賀茂族はその後、山城国葛野に進出、葛野郡・愛宕郡を支配し子孫は上賀茂・下鴨の両神社を奉祀したとも言われています。
この氏族から後年、鴨長明や賀茂真淵を輩出しています。
 京奈和自動車道建設に伴う発掘調査で多くの弥生前期の遺跡が発見され、考古学界で今一番熱い場所がこのエリアです。
神と人との神話の世界が解明されると大きな期待が待たれています。

 「葛城王朝説」と言うものがあります。王朝交替説として水野祐の「三王朝交替説」が有名ですが、この「葛城王朝説」はそれとは別で、鳥越憲三郎が唱えた説で「崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説」です。歴史学的には否定されている神武天皇以下欠史八代の天皇は実在した天皇としています。
 水野祐の「河内王朝」は、「瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。」
 古代最大の豪族「葛城氏」の本貫地がここ葛城でした。
その繁栄を誇った「葛城氏」も葛城氏の血筋を引かない雄略天皇の頃滅ぼされました。
しかし、滅ばされたのは葛城氏本家だけでそれ以外の分流にはしたたかに生き残り、後世、古代葛城氏本家をも凌ぐ大豪族にのし上がった一派があるといいます。
(つづく)

地名「みなべ」・・・・梅はつぼみ硬し。

2012年02月20日 | 地名・地誌
嫁さんが「南部へ行く」と仰せなのでお供をしました。
南部には古い知人がいて、この時期に訪問するのが行事のようになっています。
たまたま、29日に4組の仲間と南部梅林等にドライブする予定があるので、下見にもなると思いドライバーを努めました。
下見の結果は後段に報告しますので参考にして下さい。

 知人の家はJR南部駅から2~3分の所にあります。その直ぐ傍に「三鍋王子」があります。
中右記に、藤原宗忠の一行は、切目を出発し「南部山を超へ王子社に奉幣、南部庄内、亥の野村人宅に宿す。今日多く海浜野山を過ぐ、今日の行程八十町ばかりか」とある。三鍋王子社は、明治10年12月3日、埴田の須賀神社に合祀、社殿も移された。
しかし、明治42年7月30日、その須賀神社に鹿島神社が合祀、社名は「鹿島神社」と改称された。したがって、旧三鍋王子社の社殿は現在、鹿島神社の本殿として伝わっている。境内には、喉の渇きを覚えた小栗判官が飲んだ井戸水とされる「小栗井戸」の井桁だけがあり、保存されています。

 地名等にそれほど興味のない人にすれば「南部」を何故「南部」と言うのかなどと聞いてみても「ソラ南にあるからやろ」位の返答しか返ってこないと思います。確かに何となく「南」に位置しているイメージーはありますが、「南部」よりまだ南に串本など多くの街があります。何処から見て「南」なのか判然としません。
要するに「南部」の由来は「南にある」ということではないようです。
古い記録では「みなべ」は「三鍋」と表記されていたようです。それでは「三鍋」の由来は何かと調べてみますと「鹿島神社は南部駅から南東約700mほどのところにある。そこから海岸に出ると、2kmほど沖合いに鹿島という島がある。この島の形が3つの鍋をひっくり返したように見えることから「みなべ」(三鍋、南部)の地名の由来になったと伝えられる」と地元では言い伝えられているようです。

 現在最も有力な「みなべ」の地名解は、古代の部民制の「御名代部」に由来するという説です。

南部と言うと「梅干」ですが、海産物も沢山あります。嫁さんは国道沿いのこのお店で何時も土産を買います。


豊中から岸和田SAmまで約一時間15分~20分、岸和田SAから道成寺まで同じく1時間20分。
道成寺では駐車代500円。また有名な絵解き説法を聞くには600円の参観料が必要となります。この絵解き説法は大変面白いので1度聞くといいのではと思います。
道成寺で説法を聞くと11時30分を過ぎる頃になります。南部梅林で弁当を予定していますが、会場の人に聞くと大変な人ででなかなかいい場所がなく、落ち着いて弁当を使うことはムツかしいそうです。
 国道沿いに「朝日楼」というホテルがあります。ここの女将は美人で有名です。
食事も本格的でお勧めです。とりあえず12名予約しておきました。(予算はちょっと贅沢ですが1,500円が最低料金です)
午後1時、南部梅林。梅林は散策コースA,Bの2コース。更に自動車で回るコースがあります。(入園料250円、駐車代金500円)Aコース:約4km・1時間、Bコース:約3km40分です。
その後の行程は、様子を見ながら現地で相談して決めたら良いのでは。

 南部梅林は、平年は2月中旬が見頃ですが、今年は寒波の影響で、今日現在冒頭の写真のように「ツボミ硬し」で、月末あたりがちょうど見頃になりそうです。

名古屋の地名。「京命」「八前」・・・・・・。

2011年12月22日 | 地名・地誌


名古屋市千種区京命と云う所に所用があり行きました。京命のすぐ傍に「八前」と云う所があります。
この八前には、四組の同級生の近藤さんが住んでいます。近藤さんは大病をしたと聞いていましたのでお見舞の電話をした所、回復されてすっかり元気になったそうです。時間があれば久し振りに会おうかと思いましたが生憎雑用が長引き今回は見送りました。でも近藤さんは元気そうで、老人大学で活躍されているとの事でした。

「京命」に行くには、地下鉄東山線「一社」駅から路線バスで行くことになります。
嫁さんが「一社て何処の神社のこと?」と聞いてきました。そう言えば「一社」にしても「京命」にしても「八前」にしても、ちょっと変わった地名です。
一日だけ行ってきたので本当に「付け焼刃」ですが、名古屋のローカルな地名を考えてみます。

「一社」:明治11年12月28日、愛知郡の一色村と下社村が合併した際、双方の旧村名から一文字ずつとって「一社村」としたのが始まりだそうです。読み方は昔のことで必ずしも一定しませんが、この一社村は「いちやしろ」と読むのが正しかったそうです。いまでは「いっしゃ」と読んでいます。と云うことで「一社」は合併による「合成地名」のようです。

「猪高」:京命の近くに「猪高」と云う所がありますが、これも合成地名のようです。一社村と高針村と上社村の三箇村で一つ新らしい「高社村(たかやしろ)」が発足しました。この「高社村」も旧村名から名付けられた合成地名です。そして明治39年に高社村と猪子石村とが合併し「猪高村(いたかむら)」が発足したそうで合成地名+合成地名という時間が経つと由来が全く分からなくなって仕舞う地名です。

「八前」:時間がないので調べることができませんでしたが、古くからの「小字」が残ったのではないかと思います。これは全くの一般論ですが、地名で数字の「八」がつくのは「八坂神社」「八幡神社」などと関係する場合が多いようです。因みに「三」の場合にも似たような傾向があり「三井」(御井)、「三池」(御池)など北九州に多い地名です。

「京命」:千種区のはずれに位置しており「下坪」の交差点付近は東海豪雨の時に水没したように庄内川水系の洪水常習地帯です。穀物生産地帯ですが地主さんが多く、大地主が無い零細農家が多い所だったようです。そのため自然災害のどで凶作が続くとダメージを大きく受ける傾向があったそうです。そのため、救済策として年貢を免除されることもあったようです。
「凶免」→「京命」が京命の地名の由来のようです。

 土地、土地に歴史があり、その歴史を背負った地名が沢山あります。この千種区、名東区などのにも「星が丘」「藤が丘「緑ヶ丘」など開発に伴ってデベロッパーが名付けた新興地名がありますが、旧集落が残った個所には珍しい変った地名が沢山残っています。これから名古屋に関わる機会が多くなりそうなので、気になる地名を調べるのも楽しみです。


津波の被害地・名取・・・・・・・地名の話(19)

2011年08月31日 | 地名・地誌

以前、「津波の被害地・名取市閖上」を書いた事があります。
「名取」は和名抄にも「名取郡」として搭載せれている古代からある地名です。

 名を取る、とは何の名をとるのだろうか?と思うのですが、人は同じ事を考えるものです。
「枕草子」(二二二段)「川は、・・」に「名取川もいかなる名を取りたるにかと聞かまほし」と清少納言さんも同じことを思われていたようです。

「名取」の地名解で一番ポピラーなものは「丹取」が「名取」に変化した、というものです。
「奥羽古史考証」によると、丹土取(にととり)が丹取(にとり)、さらに「名取」となったとしている。
 それでは「丹取」の地名解は①丹取は瓦製造の赤土(粘土)の「土取り場」、または②丹(朱砂)を取る所の意、とされます。
ただ「丹取」は「名取」の誤記とする説もあります。

 これは「丹取」が、和銅6年(713)「丹取郡設置」(続日本紀)に記載があるだけで、その後一切の情報が途絶えているため生じた憶測と思われます。
しかし、最近の研究、特に考古学の成果から「丹取郡」は当時の陸奥国最北の郡として設置され後「玉造郡」に継承されたとされるようになりました。
 また重要なことは、8世紀初めに多賀城が対蝦夷の最前線の城とされていましたが、考古学検証から多賀城より早くそれより北に郡が置かれていた可能性が出てきたことです。

「名取」の地名解では他に「ナ(接頭語)・トリ(取り)で、取られた地の崩壊・浸食地」と云うものがあります。
地名学では「トリ」を「崩壊地形」とする考え方があります。
 多少こじ付けになるかもしれませんが、「取られた地の崩壊・浸食地」を拡大解釈すれば「津波で取られた地の崩壊・浸食地」と解釈できなくもありません。

 僕は「ナ」を「接頭語」ではなく「土地・地盤」の意で、ナトリとは「津波で土地・地盤が削り取られた地」ではないかと思っています。
例えば「名主」の「ナ」だどもそれに近い語源があるような気がします。
今は「思考実験中」でまだぼんやりとしたものですが、もう少し史・資料や同類の地名を集めて検討すれば解明されるのではと思っています。

 分からない地名の時は「朝鮮語」「アイヌ語」説が必ず登場します。
「名取」についても、流石に位置から「朝鮮語説」は無いようですが「アイヌ語説」は根強くあります。
因みにアイヌ語では「ニタツ・トリも、ヌタトリで、湿地や溜水のある所の意」など諸説 があるようです。







「馬毛島」に訓練基地移転か?

2011年06月28日 | 地名・地誌


政府は、「東京都・硫黄島で暫定実施している米軍空母艦載機部隊の陸上空母離着陸訓練(FCLP)の移転先として、鹿児島県西之表市の馬毛(まげ)島を検討していることを伝えた」というニュースがあります。
 FCLPとは「空母艦載機のパイロットが、陸上の滑走路を空母の甲板に見立てて離着陸の訓練」の事だそうです。

「馬毛島」は種子島の西約12キロにあり、民間開発会社が島の大部分を所有する無人島です。
この無人の「馬毛島」が一躍脚光を浴びたことがあります。
その時は、今回のように「基地移転」と言ったような「生臭い」事ではありませんでした。

 昭和61年~昭和62年(1986~7年)、面積820ヘクタール(周囲12km)の小さな無人島で「トノサマバッタ」が大発生した事があります。
以前、当ブログでも少し書いたことがありますが、日本ではトビバッタ「飛蝗」がoutbreakすることは非常に稀な珍しい出来事です。
 文献では江戸時代関東平野で幾度かそれらしき記事(太田蜀山人)が散見されますが確たる物証がありません。
明治に入ってからは明治13年~17年にかけて十勝平野を発生源とするトノサマバッタの大発生が有名です。
しかしこれらの例も特異なもので専門家は「今後も日本では飛蝗の大発生が起こる可能性は低い」としています。

 馬毛島でのoutbreakはNHKの取材映像が残されており、当時ニュースで放映されたので記憶されている方もあるかと思います。

 当時からつい最近まで、「開拓初期の十勝で大発生した蝗害」と「虫送り」という農村民俗行事をボチボチと調べていて、機会があればまとまったものとして刊行しようと思っていました。
そんな訳で「馬毛島」と云う名は大変懐かしい思い出のある名前です。
「基地移転」と云うような「生々しい」ことで話題になるとは複雑な思いです。

津波の被災地・名取市閖上・・・・・・地名の話(18)

2011年05月11日 | 地名・地誌
TVのニュースを見ていると「名取市閖上地区」とテロップが流れ「ユリアゲ」地区とコメントしていました。



ネットには数多くの情報がUPされています。
その1つが災害前と災害後の航空写真です。
なんとも言葉もありません。

「ゆりあげ」と云う「音」だけならば地名にそれ程関心も持たなかったのですが、「閖上」と云う漢字表記です。一般的にはネット上で紹介されている以下の内容と理解されているようです。
仙台市の南東に位置する名取市。そこで古くからの漁港として栄えた町「閖上」
「閖」という字は,辞書に載っていない珍字です。
古来この地は,「浜にいかだに乗った観音像が揺り上げられた」との伝説から,「ゆりあげ浜」と呼ばれていました。
後の仙台藩主 四代伊達綱宗公が,仙台市の大年寺に参拝の帰り,山門内からはるか東方に,海岸の波打つ浜をご覧になり,家臣のものに地名を尋ねたところ,「ゆりあげ浜」とはいうもののその漢字がないことを知りました。
そこで,「門の中から水が見えた故に,今後,門の中に水と書いて閖上(ゆりあげ)と呼ぶように」とのお言葉で,「閖」という珍字が誕生したとのことです。

 急な思い付きなので手元にある蔵書と資料だけなので確かなことは言えませんが、以下にまとめてみました。

封内風土記

古くは「名取の浦」と呼ばれていた。名取川河口の南岸に位置する。
地名の由来は養老三年(七一九)海岸に十一面観音像がゆりあげられたので、ゆりあげ浜と称したという。
「封内風土記」吉田村の項によれば、この仏像はその後吉田村の高館山に移されて羽黒権現として祀られ、のち熊野那智権現と号するようになったといわれる。
閖上の「閖」の字は「奥羽観蹟聞老志」に「按ずるに閖字未だ字書に見えず俗間用い来る」とあるように,従来の漢字にはなく仙台地方だけの文字である(宮城県地名考)。
この文字の成立については,千代藩主綱村が大年寺に参拝したとき,山門内からゆりあげ浜を見て,門構えの中に水を書いて閖上とせよといってできたという(宮城県町村合併誌〉。
 また,水門(ミナト)明神の神託により,神名を地名にしたともいう(閖上風土記〉。
伊達政宗が豊臣秀吉からもらい受けた門をそのまま船で運び,この港から水上げしたので閖上の地名が生まれたとの説もある(朝倉日本地名大辞典〉。

 観音様が揺り上げられたので「ゆりあげ」と言うのは、地名説話で後世の付会は言うまでもありません。
今、手元にある資料には「養老三年」とありますが「貞観三年」とする説話もあるらしいのです。そうすると西暦869年の「貞観地震」による津波を反映したとも考えられます。
「ゆる・ゆり・ゆずり」などの付く地名は「崩壊地名」と言われるもので、強ち的外れでは無いかも知れません。

 古くは「名取の浦」と呼ばれたこの地が何時の頃から「ゆりあげ浜」と呼ばれるようになったか分かりませんが、古くは「淘(ユリ)上浜」「淘揚浜」と表記されていたようで、この「淘」も「淘汰」などの様に「振るい分ける」動作を表します。
淘綾郡(ゆるぎぐん)は相模国にかつて存在した郡名で、今日はここまでに止めておきます。
地名は「音」の持つ意味が大切で、それを表記する外国語である「漢字」に惑わされてはなりません。

  国字一覧に「閖」と出ているので一応国字としておきます。
現在、「閖」の使用例は「閖上」のほか「閖前」「閖谷地」の地名に使用されている以外ないようです。そして、いずれも宮城県だけであるから「仙台藩」だけで使用された、と考えられているそうです。

ただ、「澇」の異体字で、日本独自の用法として「しなたり」と言う説があるそうです。

急に思いついて調べたので、資料集めもできず杜撰なモノになりました。
葛の葉さんにご教授お願いしてみようか・・。






「馬欠場」は地名ではなかった。

2011年03月09日 | 地名・地誌
奈良県と三重県境の大台山系は、山歩きを趣味とする人達にとって有名な所だそうです。
登山愛好家のブログには沢山の踏破記事が出ています。

 そのエリアの地図を眺めていると「馬駆場」と云う所があります。



高見山~国見山~明神岳~池木屋山(台高山脈)の尾根筋を南下すると日出ヶ岳、大台ケ原に至ります。
 この尾根道は古代の「スーパーハイウェー」です。
吉野から放射状に山道を駆け抜ければ、西は紀伊・紀ノ川から瀬戸内海へ、熊野本宮から熊野川を下れば太平洋、熊野へ通じています。東に向かえば伊勢、尾鷲と東国への玄関口に出ます。


 新宮市教育委員会の女性の担当者から電話を頂きました。
昨年、新宮市教育委員会文化振興課のHPの「お問い合わせ」に「馬欠場」について「お教え頂きたい」とメールーを入れておきました。

「馬欠場家伝」によると、
 新宮市は、紀州徳川家付家老水野家三万五千石の城下町でお城は丹鶴城です。
「馬欠場家」は、この丹鶴城内にあった馬場、即ち馬駆け場の管理をお殿様から任されていた家柄だそうです。
その職務から家名を「馬駆場」と名乗ったそうで、「駆」の文字が「画数」が多いため「欠」を常用したのが定着して「馬欠場」となった」との伝承があるそうです。
 ただ、記録文章などでは今のところ記載事実がありませんので、あくまでも馬欠場家に伝わる伝承です。
本格的に調査を行ったことが無いので断言はできませんが、この家伝はほぼ真実を伝えていると思われます。
馬欠場家は職務から推測して、当然士分であり恐らく新宮市内に菩提寺があるものと考えられので、菩提寺の過去帳などの調査を行えば、この事実を裏付け、また、家系図なども辿れるのではないかと思われます。

 以上の様なことを教えて頂きました。
「馬欠場」さんは由緒正しき家系の様です。

なお、地名としての「馬欠場」は「無い」そうです。
どうも僕の想像した山間のチョッとした「開けた土地」で、高知県の山間にある「奈路」のような地形ではなさそうです。

 そうすれば冒頭の地図にある「馬駆場」はどうなるのでしょうか?
また、お殿様から任された丹鶴城の「馬駆場」は、本当に城郭内にあったのだろうか?
丹鶴城の古地図をゆっくりと捜してみます。

 ただし、今回の「馬欠場」さんの由来は、新宮市教育委員会から教えて頂いた内容が、正解の様です。
これで「馬欠場」さんの疑問は解決しました。

地名「馬欠場」・・その後

2010年12月12日 | 地名・地誌
当ブログ2009年09月03日で地名「馬欠場」について書きました。

 その後、新しい発見もなく行き詰っています。現在は牟婁の「小字」から「馬欠場」がないか調べているくらいです。
驚いたことには「小字」に「動物関連」の「地名」が非常に少ない、むしろほとんど検出されないことです。

全国には「馬立場」と云う地名があります。
江戸時代には「街道」が整備され、人とモノの移動が活発になり街道沿いには宿場、立場が繁栄しました。
「立場=タテバ」とは「街道等で次の宿場町が遠い場合その途中、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。」
この「立場」に馬が休息したり水を飲んだりする設備を持ったところを「馬立場」といいます。
駕籠立場などと云う地名も残っています。
旧街道沿いには地名として「馬立場」と云うものが残っています。この分布は北海道から九州まで全国に見出されます。
有名なものは旧東海道「箱根」には石造りの「水飲み場」が保存されています。
冒頭の写真は「所沢街道八店」と題した明治期の「立場」の浮世絵で、説明には「馬立場」の役割も兼備していたとあります。
「馬立場」をネットで検索すると、圧倒的に「八甲田山雪の行軍」関連の記事が検出すされます。これは「八甲田山遭難事件」の現場であり、「行軍壊滅状態を本拠に知らせるべく胸まである積雪の中を一人突き進み、立ったまま仮死状態で発見された後蘇生した後藤伍長」の銅像が建てられている場所だからです。

 馬欠場は、ひょっとして馬立場の「訛った」或は牟婁地域の「方言」の可能性があるのではないかと調べています。
そうすると「馬欠場」の地名解もそれほど特殊なものでなくなってきます。

当ブログに書き込み頂いている「馬欠場さん」、現在この様な事を調べています。