
ここ暫らく大阪市立中央図書館に通っています。ここ市立図書館は当ブログが高校時代、「落ちこぼれ」て不登校になった時の駆け込み寺のような存在でした。その後もこの図書館は絶えず利用しています。図書館は西区北堀江にあります。その北隣の町名が「立売堀」です。大阪の代表的な難読地名で「イタチボリ」と読みます。
立売堀は元和六年(1620)開削が始まり一時工事は中断しましたが宍喰屋次郎右衛門により寛永三年(1626)竣工しました。「立売堀」を一躍全国的にしたのがテレビドラマ「どてらいやつ」です。山善の創業者・山本猛夫が当時人気作家であった花登筺に自らの自伝を売り込み大ヒットしたドラマです。立売堀も長堀も埋め立てられて今は高速道路やマンションになっています。立売堀は「どてらいやつ」でも機械工具問屋の街となっていますが、その一世代前までは材木問屋の街でした。
「立売堀」地名解
◎この堀は一名「伊達堀」と呼ばれていました。これは慶元戦争(大坂夏の陣・1615)の折、伊達家の陣所となり、要害の地であったため堀切し跡を削り足して川とした、とあります(摂津名所図絵大成)。「伊達」を「ダテ」と読むのは漢字の音訓の知識だけではチョット困難です。字の読めない一般庶民が多かった時代、多少の物知りでも「伊達」は「イタチ」と読むのも無理からぬことです。「伊達堀」(ダテ堀)→(イタチ堀)が定着した、と云うのが一般的な地名解です。
◎「立売堀」の「立売」について次のような記録があります。元和末年の頃、土佐藩より幕府に材木市場開設の申請があり許可されました。そこで材木の「立売」(セリ)が行われたことにより「立売堀」と言われるようになった、と云うものです。
上記の「伊達」「立売」説はネットでも紹介され一定の評価を受けて「立売堀」地名解として認知されています。ただ、地元の旧家の家伝にはまた別の由来があります。
◎この川は元「鼬堀」と称する、との伝承もあります。
◎この付近一帯の大地主であった西村家(阿波座)の家伝によると、西村家の所領、現在の新町に遊郭が作られた際に妓楼の懇請により西村家の所領地を割売りしたことから「断売」(タチウリ)或いは「居断」(ヰタチ)堀と称したのが文字を誤って「立売堀」となった、とあります。
立売堀は元和六年(1620)開削が始まり一時工事は中断しましたが宍喰屋次郎右衛門により寛永三年(1626)竣工しました。「立売堀」を一躍全国的にしたのがテレビドラマ「どてらいやつ」です。山善の創業者・山本猛夫が当時人気作家であった花登筺に自らの自伝を売り込み大ヒットしたドラマです。立売堀も長堀も埋め立てられて今は高速道路やマンションになっています。立売堀は「どてらいやつ」でも機械工具問屋の街となっていますが、その一世代前までは材木問屋の街でした。
「立売堀」地名解
◎この堀は一名「伊達堀」と呼ばれていました。これは慶元戦争(大坂夏の陣・1615)の折、伊達家の陣所となり、要害の地であったため堀切し跡を削り足して川とした、とあります(摂津名所図絵大成)。「伊達」を「ダテ」と読むのは漢字の音訓の知識だけではチョット困難です。字の読めない一般庶民が多かった時代、多少の物知りでも「伊達」は「イタチ」と読むのも無理からぬことです。「伊達堀」(ダテ堀)→(イタチ堀)が定着した、と云うのが一般的な地名解です。
◎「立売堀」の「立売」について次のような記録があります。元和末年の頃、土佐藩より幕府に材木市場開設の申請があり許可されました。そこで材木の「立売」(セリ)が行われたことにより「立売堀」と言われるようになった、と云うものです。

上記の「伊達」「立売」説はネットでも紹介され一定の評価を受けて「立売堀」地名解として認知されています。ただ、地元の旧家の家伝にはまた別の由来があります。
◎この川は元「鼬堀」と称する、との伝承もあります。
◎この付近一帯の大地主であった西村家(阿波座)の家伝によると、西村家の所領、現在の新町に遊郭が作られた際に妓楼の懇請により西村家の所領地を割売りしたことから「断売」(タチウリ)或いは「居断」(ヰタチ)堀と称したのが文字を誤って「立売堀」となった、とあります。
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