欧米の言語文化で育った人は、虫の声を雑音としてしか聴きません。だから、雑音で感情が動かされることはありません。雑音は無視していればいいので、聴こえていても聴こえていないのです。欧米では、人間の言語だけが聴くに値する音声で、それはもっぱら理解するための言語です。
日本語では、虫の声が感情に響いてくるように、人間の声も理解だけではなく感情を伴って入ってきます。心と言葉が一致しやすいのが日本語です。この心と言葉が一致しやすい日本語を司る日本語脳が形成されるのは、ちょうど小学1年生から小学3年生にかけてだと言われています。ところが、こういう科学的研究は遅れていて、まだ、始まったばかりです。
逆に世の風潮は、流れに棹さす如くグローバル化一直線。英語、英語と聞かぬ日はありません。小学英語の必須化、成績化。上げれば遑はありません。日本語の力も確定していない小学校の低学年の時期に敢えて英語漬けの教育をしてしまうことに本当の意味があるのか。悩みます。
外国語の学習は、独自の言語思考を要求する日本語を使う日本人の場合、小学4年生以降が最適だと思います。しかも、それは中学英語の先取りのような成果発生的な英語ではなく、英語の本を読むような英語に慣れる教育、情操性の育成に繋がるものが行われる必要があると思います。
小学校低学年の時期に子供を海外で育てる家庭や、父親と母親のどちらかが日本語以外の言語である家庭では、生活の中での日本語教育に、より一層の力を入れていくべきです。小学校低学年までに日本語を確実にすることは、母音言語としての日本語を体得する素地をつくることなのです。
虫の声に無常を感じ、波の音に枕する日本人のこころ。俳句・短歌の世界ではそよぐ風の音にさえ命を感じています。そんなわび、さび、あわれの世界観をこれからの子どもたちに伝える術を無くして良いはずはありません。俳句のない日本に多分癒やしも潤いもないのですから。