かつてヨーロッパ人の植民地支配が世界中に広がったころ、植民地を推進する理論は、人種的な考え方で合理化されていました。つまり、優れた白人種が劣った有色人種を支配することは、社会の進歩につながるのだという考え方です。
しかし、江戸時代末期、日本にそのヨーロッパ列強の支配が押し寄せてきたとき、日本はすぐにそのヨーロッパ文明に適応しました。そして、数十年もたたないうちに、ヨーロッパに匹敵する科学技術を持つにいたりました。この結果、ヨーロッパ文明の他の文明に対する優位性は、人種的・遺伝的な優劣ではなく、別の要素であるということがわかったのです。
現代の社会を見てみると、一方で、経済的に次第に台頭しつつアジアや南アメリカ、他方で、衰退し没落しつつある欧米諸国という大きな構図が見えてきます。このような状況を見てみると、ますます文明の優劣の差は人種的・遺伝的なものではなく、単なる教育の差、つまり教育によって培われる何かにあるのだということがわかってきます。その何かとは、知のパラダイムです。
現代の世界を支配している欧米の知のパラダイムは、世界とのつながりから離れた個人の利益を中心に物の見方を組み立てるという考え方に基づいています。これが、デカルト・ニュートンの分析主義的な科学観と結びついていました。一方、日本には、欧米の知のパラダイムとは対極にある、人間の性善説を元にした家族主義的な発想があります。しかし、これは社会科学的には日本の特殊性として考えられ、位置づけられています。
科学の分野では既に、従来の分析主義の考え方では不十分にしか説明できない新しい領域として量子論や複雑系の科学が生まれています。そして、この新しい科学に対応する知のパラダイムはまだできていません。新しい知のパラダイムが構築されると、かつてのヨーロッパがそうであったようにきわめて強力な文明を生み出すと考えられており、我々自身、大きな価値観の転換を迫られることになります。そんな時代をこれから迎えるであろう子どもたちには、一体どんな力が必要なのでしょう。
機械やシステムが殆どのことをやってくれる社会の中だからこそ必要な力。それは、逆に自分の頭で考え、自分の手足を充分に動かすことのできる能力だ。そんなことを考えながら問題に当たらせていると、子どもたちもわかるのか、割とのびのび自由な発想で解いているから、面白いものです。しかし、悲しいかな受験で求められているのは、スピードとただ1つだけの答えなのです。