大原の里といえば、十人中十人までが三千院を思い浮かべる。確かに三千院は、最澄が比叡山延暦寺を開く際に編んだ草庵「円融房」を起源とする天台宗の門跡寺院として格式と歴史を誇る。
高い石垣に囲まれた御殿門を持ち、青苔が繁る池泉回遊式庭園「有青園」や錦秋の頃訪れる阿弥陀三尊を祀る船底天井の「往生極楽院」は趣深い。しかし、あまりにも当たり前すぎて面白味に欠けるところがあると考えるのは、私のへそ曲がり故の思いか。
では、「貴方はどちらへ?」と問われれば、私は間違いなく「宝泉院へ」と応えるであろう。ここも天台宗の末寺に当たり近年殊更名を聴くことが多くなったが、まだまだ知る人のみぞ知るところ。
この寺院の書院客殿から、柱と柱の空間を額縁に見立てて庭先を眺むれば、それはまるで一枚の絵を鑑賞するようであり、格別なものがある。
もともと声明の道場・勝林院の塔頭として建立されており、清々にして朗々たる声明の精神がその佇まいにも息づいている。
よく大原といえば紅葉の時期を以て良とされる。しかし、この小さな寺院の縁先から眺める景色は、残雪の夕暮れもよし、新緑もよし、はたまた雨煙漂う梅雨時もよい。そこには、なんのケレン味や見栄もなく、ただ空気感とでもいうべきものだけが粛々と存在している。
何も特に眺めるものとてないと思われるこの季節だが、無意識にマフラーを胸元で掻き合わせるとき、宝泉院の毛氈に座して、芽吹き時を待つ冬の木立を私は無性に眺めたくなる。