英語や数学は、たとえ苦手であっても、必要性を感じてから本気でやれば、数ヶ月で得意というレベルまで学習することができます。しかし、国語の差は、いったんつくと埋めがたいものになります。ところが、点数の差でいうと国語の点数の差は小さく、英語や数学の差は大きいというのが一般的です。そこで、多くの人は国語の点数の差を過小評価してしまうことになります。 国語は点数の差があると思ったときには、もうすでにかなり重症になっています。現在の日本では、国語力を小説の読み方のような教科と考えていますが、その実体は思考力そのものであり、その修得には多大な時間と労力が必要なことを理解しなければなりません。
わかりやすい想像をしてみましょう。キリストと釈迦と聖徳太子が、現代の高校受験生になったとします。(マァ~、かなり想像しにくい話ですが…。) それらの偉人たちが、なんの準備もなしに英数国理社のテストをします。結果はどうなるでしょう。まず英語は0点でしょう。数学もかなり0点に近い点です。理科も社会もほとんど0点です。ところが、国語の読解問題だけは満点に近い成績なのではないでしょうか。もちろんそれぞれの母国語で出題された国語の問題としてでのことです。しかし、イエスと釈迦と聖徳太子は、それから本格的に1年間集中して学習すれば、英語数学理科社会もたぶん高得点となるはずです。
このように、学習で何か一ついちばん大事なものを挙げるとすれば、それはやはり国語力なのです。ところが、国語力の差は、表面にはあまり大きく出てこないので、多くの人は、表面に差の出やすい教科の学習を優先してしまいます。
OECDの調査で、日本の生徒は読解力表現力の得点が低く、クイズの番組に出るような知識問題の得点はある程度高かったということが明らかになりました。この結果は、本当の学力の低下というきわめて重要な問題を示しています。そして、その対策として、今回実施過程にある教育指導要領には PISA型読解力養成への対策が大きな眼目の一つとなっているのです。
国語力の本質は考える力です。あらゆる学習の基礎となる国語の力をつけるために、書く力へのアプローチとしての作文の学習は欠かせません。しかし、現在の国語の学習は、選択式の読解の問題が中心になっています。それは、その方が採点しやすいからという理由からです。子供たちの国語力を本当につけるためには、書く時間を増やしていく必要があることは自明の理だったはずです。書く力の評価をすべて生徒に対して行うのは時間がかかるので、安易な作問や学習指導が行われてきた弊害が今大きくなっています。もっと書くことに対してしっかり取り組んだ学習を学校で行って欲しいものです。
読解力…読む力は、多様なものをできるだけ早く理解し読み取る力です。表現力…書く力は、様々に異なるものの関連性を見つけそれらを創造的に結びつける力です。このことを、私たちはもう一度しっかり確認する時を迎えています。