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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

『話しが理解できない』

2011年10月27日 | 中学受験 合格力随想

あるお母さんから相談がありました。 「子供に何かを言っても、その子が話を聞いていないようだ」と、いうのです。さらに、「学校でも、先生がみんなに言ったことを、この子一人だけ聞いていないようだ」と、おっしゃいます。この時は、「こんなことはどなたでも多かれ少なかれ経験のあることの様な気がします。それほど大した問題ではないとも思うのですが…。」と、お応えはしました。 しかし、視点を変えてみると、この問題意識の根は実は深いところにあるのではないかと思えてきました。話がすぐに理解できないということはある意味看過すべきではないことなのです。

教室で、生徒に一斉に同じような説明することがあります。みんな、私の目を見て熱心に聞いています。しかし、話が終わるとしばらくして、「それで、何をやるん」と聞く子がいます。その子にだけ再度同じ説明して、初めてわかるというようなことがあります。 一度だけではわからない、何度か説明するとわかるというのは、最初に聞いた言葉が頭に入っていないということです。その理由を考えるとき、注意力が足りないからということもあるかもしれませんが、長い文が頭に入りにくいからではないかと、考えることも必要のようです。

子供たちに課題の長文の説明をしているとき、中学生や高校生に対する説明はかなり難しくなることがあります。すると講師がその子のすぐ隣で説明をしているにもかかわらず、聞きながらこっくりこっくりと居眠りを始めてしまう生徒に出くわします。先生の説明が難しく長いので、聞いているうちに眠くなってしまうようです。講師にも問題有りでしょうが、そういうときでも、理解力のある子はずっと最後まで興味深く聞いていることを考えると別の観点も吟味する必要性が出てきます。

学校でも先生が30人ないし40人の生徒に同じように説明して、何人かは先生の話が一度では理解できないという子がいるはずです。だれでも小学生のころは、先生の話をぼんやりとしか聞いていないことがありますから、先生の話を聞き忘れたということはそれほど大きな問題ではありません。しかし、これが恒常的に続くと、中学入試で設問の意味が読み取れないというような問題につながりかねません。さらに、社会人になれば、社会や周囲の情勢の変化が読み取れということにもなります。

理解力の根本にあるのは、長い複雑な文から必要不可欠な最小単位の事柄を的確に読み取る力です。現在の社会では、子供たちは短い言葉の多い環境に取り囲まれています。短い言葉とは、例えば、「面白い」「つまらない」「ドガーン」「バギューン」「ウグググ」などという言葉です。そして、さらにただでも短いのに「うざい」「きもい」「KY」と短縮します。この短い言葉にビジュアルやアニメが組み合わさった環境に長くいると、脳が長い文を読まないことに慣れていってしまいます。

では、長い文を読む力はどこから生まれるのでしょう。それはまず親子の対話からだと思います。子供にとって、両親は自分の生きる命綱のようなものです。子供は、親のしていることを真剣に真似しながら育ちます。特に小学校2、3年生は、自分の生き方のモデルを作る時期ですから、身近な両親や兄姉に自分のモデルを見出そうとします。この時期に親が子供との対話で長い文を話していれば、子供も自然にそういう文を理解する力をつけていきます。逆に、「ドガーン」「バギューン」などというテレビ番組をモデルにして育てば、長い文を理解する力は育ちません。この差はかなり大きいと思われます。

一般に、学力の差がつくのは、小学5年生あたりからと言われていますが、実は小学2年生頃から、既に長い文を理解できる子とできない子の差が生まれています。この差は生活の中でついた差なので、その後ますます大きく開いていきます。極論を申し上げれば、学校や塾には家庭生活の中でついた差を埋める力はありません。

だからこそ、長い文を理解する力をつけるためには、いつも申し上げている家庭での対話と読書が大切になるのです。対話といっても、子供と深い関わりを持ちにくい多忙なお父さんの場合は、「勉強しているか」「うん」「ちゃんとやれよ」「わかった」というようなものになりがちです。子供の日常生活をよく知らないので、対話を深めるきっかけが見つかりません。 ここに、塾から貰う長文問題をうまく生かすきっかけがあります。お父さんがあらかじめ問題を読んでおき、日曜日などの時間のあるときに、その長文に追加する話をしたり、文中の題材についてお父さんの子供のころの似た例を話したりするのです。

子供を伸ばす家庭学習とは、問題そのものを解くというような学習ではなく、親と子が楽しく対話をするような生活が生まれる学習環境です。 このような形で話をしていけば、対話は自然に知的になり、長い文で話し合う環境ができてきます。親子の会話がはずむ家庭であれば、テレビなどは必要ありません。子供が友達と会話をするとき、テレビの話題は多少は必要になるかもしれませんが、それ以外ほとんどの番組は、見なければ見ないで済むはずです。それは、テレビよりも、家族の対話の方がずっと魅力あるものになっているからです。

保護者の方がお子さんに話すときに大事なことは、その対話の中で、子供を、「笑わない」「からかわない」「けなさない」、ということです。保護者が自分の自慢をするのはいいのですが、その自慢の延長で子供を馬鹿にしないということです。「お父さんのときは、こんなことをしたんだよ。それに比べて今の子供は……」というような話をしそうになったら、「今は今で別のいいところがあるけど……」と方向転換をする。また逆に、子供を褒めるときにも注意することがあります。それは、「ほかの子をけなす形で褒めない」ということです。

学校や塾で行う学習は、殆ど知識中心のものです。ここ数年の教育改革で、さらに知識の重要性が増しています。さらに知識を使いこなす能力の養成まで学校では求められはじめました。塾にもその補完を今後益々求められていくでしょう。しかし、一朝一夕にはなりません。本当の知性の土台は、家庭での親子の対話のある生活を通して作られていくとやはり思います。このことは、別に塾の責任を放棄しているのではないのです。



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