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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

「ことば」は生命維持装置

2009年09月10日 | 中学受験 行雲流水録
ヒトとヒトとの関わりの中で「ことば」はたいへん重要な役割を持っています。しかし、「ことば」に頼りすぎてしまったため、逆に「ことば」がうわべだけの心無い道具になってしまうこともあります。

インターネットや携帯電話で、ヒトは気軽にいつでも何処でもどこのヒトとでもつながることができるようになりました。本当ならこれで、ヒトとの関わりも、より深まり温まっていってもよさそうなものです。ところが現実は、ますます寂しい方向に向かっている気がします。ヒトとヒトのつながりは、便利で気軽な道具を使って交信し合うだけでは生まれてこないようです。

生物科学者たちは、生命体に必要と考えられるすべての要素を試験管に入れて振ってみても、生命を誕生させることができないことにショックを受けたといいます。「生命というあり方には、パーツが張り合わされて作られるプラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性が存在している(福岡伸一)」とまとめられていました。

生きた「ことば」が伝わるとき、ヒトとヒトとのつながりが育っていき、それを初めて「心が通う」と表現します。そんな状態を形成するために「ことば」を生かすには、「ことば」だけにまかせるのではなく、からだまるごとを使うことが大切です。からだを動かす仕草はもちろん、五感で受ける感覚全てが生きた「ことば」の発信と感受につながります。つまり、外界と直接触れているところがより共振すればするほど、生きた「ことば」が生まれていくのです。

私は、日ごろから大切な生活体験の機会を奪っているように思えるゲームに固定観念がありました。子どもたちが集まって、顔を合わせることもなく、声をかけあうでもなく、それぞれの小さなゲーム機に向かって、それぞれが夢中になって遊ぶ姿に、何ともいえない恐れを感じ、偏見を持っていました。

しかし、今、某N社発売の複数の人がゴルフやサッカーなどのスポーツをいっしょに体感しながらできるゲーム機があります。からだを使わない、人と関わらないというゲームの欠点がをすっかりなくなっています。この三十年間のゲーム機の進化は刮目に値します。そこには、からだと「ことば」が共振した共通の「表現」が存在します。こうして、新しい時代や環境に合ったヒトの生き方やつながり方が生まれてくるのかもしれません。未来には未来の、新しい「ことば」がきっと生まれているのでしょう。

どうして「ことば」があるのか、どうしてわたしたち生き物は「表現」するのか、と考えるとき、一つの意味が浮かびます。ヒトは、有史以来ひとりでは生きることができなかった。だから、つながることによってのみ、生き延びてきたのだと…。「ことば」は、私たちの生命維持装置です。生きること、それ「ことば」によってはつながること、そのものなのです。


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