季節外れの台風に見舞われた7月も終わり、8月を迎えて空には入道雲がわき上がり、甲子園大会も始まりました。思えば、あの三沢高対松山商の再試合の日も泳いでいました。
島にいたこの季節は、ほとんど毎日海の中。さすがに浜の子たちと違って朝から出かけることはなかったけれど、昼ご飯もそこそこに自転車に飛び乗り、浜まで7分の距離を一目散に下りきる日々でした。
そんな自分の遊びさえ考えていれば良かった夏は、私が中学一年を迎える頃、様変わりします。それは、八つ違いの弟が一緒に行きだしたから。さすがに、四、五才の弟が毎日の海水浴というわけにはいかず、ちょくちょく置いていこうとしました。しかし、一端海遊びの楽しさを知った弟は、兄だけ行かせてなるものかと目を光らせ、抜け駆けしようとすると泣いて、転ぶように自転車を追いかけて来る始末。
そんなことが二度三度と続くとさすがに一人で行く気にはならず、私の海行きは、毎日の日課がちょくちょく程度になっていきました。そうこうしていると、十こ違いの妹の同行が始まります。たまには、彼らの友達まで同行することに…。7~8人の幼児や小学生を連れた中学生が20分かけて浜へ下ることになります。私の夏は、あの時を境に保育園になりました。
兄弟3人の時は、妹を背負い、荷台に弟を乗せて坂道を下って行きます。そうしないと、20分の道のりを歩いた疲れで海に着いたら寝てしまうことになり、寝た子を置いて海に浸かるわけにもいかず、困り果てたことがありました。その点自転車だと、行きは下り坂なので風を切り、颯爽と到着します。ところがどっこい、帰りは地獄です。ずっと続く上り坂。目一杯泳ぎ、疲れ果てて歩けない弟。昼寝を飛ばした報いで海から出たらあっさり寝てしまった妹。私も2人を自転車に乗せて上り坂をこぎ上がる力は残っていません。
毎回のパターンは、強い西日にジリジリ照らされながら、汗一杯の背中に妹を背負い、自転車のサドルに弟を乗せ、ひたすら押してアリのように坂道を登る私です。おまけに、弟まで眠くなってきてサドルの上でコクリコクリとやり始めます。それを阻止するため、弟の知っている歌を到着するまで大声で一緒に歌ったり、シリトリをしたりと、ほんと、保母さんの夏でした。7つの子、夕焼けこ焼け、赤とんぼ、…。田舎の畦道だからいいようなものの、今考えると恥ずかしげなことです。
家に近づいてたなびく畑の草焼きの煙の臭いを、なぜか責任を果たせた安堵感と満ち足りた充実感で心地よく感じたあの夏の日々から既に40数年。空にある雲を見ると、無性にあの頃に還りたい気持ちになります。それは、あの草焼きの煙たなびく毎日の中にこそ何処かに置き忘れてきた私の本当の時間があったからかもしれません。