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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

無知と貧困

2010年05月04日 | 中学受験 行雲流水録
世はおしなべてゴールデンウィーク。そんなときの出勤の手持ち無沙汰にこんなことを考えました。

現代の社会は、成績向上のための学習を避けることはできません。むしろ、成績を上げるための学習には果敢に取り組んでいくべきです。しかし、未来の社会を考えると自己研鑽のための学習ということを今以上に考えていく必要があります。

これは、仕事についても同じことが言えます。現代の社会の中では、利益を上げるための仕事というのがその第一の目的です。しかし、未来の社会を考えると、社会に貢献するための仕事ということをより以上に考えていかなければなりません。そして、現実に今この萌芽として社会起業家という方々が生まれています。そう考えるとき、現在の社会がどのようにして生まれ、そして、未来の社会がどのように生まれていくかということをより深く考える必要があります。

これまでの社会の特徴は、限られた知識と限られた豊富さ、つまり無知と貧困に取り囲まれた世界だ、ということでした。この無知と貧困を前提にした哲学によって、人間の社会が成立していたのです。限られた知識と限られた豊かさの中で社会を発展させていくための原動力。それが、支配と被支配の関係でした。近代ヨーロッパの哲学の多くは、この支配と被支配の関係を理論化したものだったのです。

例えば、マルサスの人口論は、限られた富は分かち合うことができないという観念をもたらし、ダーウィンの進化論は、知識の有無は埋めることのできない生得的なものだという観念をもたらしました。また、アダムスミスの自由貿易主義は、エゴイズムが世界の利益につながるという観念をもたらしたのです。さらに、あのマルクスの共産主義ですら、この支配と被支配の関係へのアンチテーゼでしかありませんでした。

ところが、日本の社会は、哲学という明確な形こそ持ちませんでしたが、文化という形で自然にこの無知と貧困を克服する道を見つけていました。例えば日本人は、限られた富を奪い合うという考えをもちません。限られた富を前提にして、それをどのように配分するかと考えるよりも限られていることを認め、それ自体を豊かさに変えるという発想をします。つまり、貧しさゆえ差別を当然と考えるのではなく、貧しさを克服する豊かな社会を作ることに共通の目的をおくよう発想するのです。

また知識に関しても、人間には生まれつき生得的な能力の差があるというような考え方をするよりも、誰でも学べば同じような知識に到達することができると考えます。さらに、自己の利益が社会の利益につながると考えるよりも、思いやりを持った助け合いの気持ちが、自分自身に返ってくるという発想を持っています。

このように、欧米の無知と貧困を前提にした支配と被支配の哲学に対峙しうる文化を、日本の社会は持っています。この文化をさらに哲学的なレベルにまで高めていけば、日本の文化が世界の文化を変えることに大きく貢献しうるのではないかと思います。「もったいない」などはその端緒でしょう。

さらに、現在の無知と貧困に基づく支配と被支配の関係は、将来大きく変わる可能性があります。その理由は、資源やエネルギーの画期的な技術革新によって、貧困が根本的に克服される社会が来る可能性があるからです。今はまだ夢物語かもしれませんが、人間の科学は将来必ず物質やエネルギーをその手で生み出すレベルに到達すると考えられます。自然界に存在する資源やエネルギーをただ利用するのではなく、科学の力で資源やエネルギーを創造することができれば、貧困は根本的に解決します。

また、無知も将来根本的に克服される可能性があります。現在すでにインターネットによって、あらゆる知識を自由に手に入ることができます。人間同志のコミュニケーションは、基本的に音声や文字、つまり耳や目に頼らなければ成立しません。しかし、将来は科学の発達によって、思ったことがそのまま相手に伝わる仕組みが考えられていくでしょう。思っただけで相手とコミュニケーションが取れるような技術が開発されれば、知識による差はほとんどなくなります。

科学の進歩はますます加速しています。このようなことは決して遠い先の話ではなく、かなり早い時期に実現するでしょう。そのように考えるとき、ますます学習の目的は、未来の自由な社会に対応した自己の向上になっていくのです。

そんなことを徒然に考えたのでした。


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