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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

言文一致

2009年12月02日 | 中学受験 合格力随想
今日は「言葉の使い分け」について少々。とは言っても、国語の文法のような難しい話ではありません。

私たちは、普段無意識のうちに、言葉を使い分けています。たとえば、仲のいい友達同志話すとき、それほど仲良しではない友達と話すとき、家族と話すとき、先生と話すとき、まったく同じ話し方をすることはありません。最近では先生に敬語を使わず、「せんせー、紙!」みたいな言い方をする生徒もいるようですが、そうは言っても、敬語を使わないまでも、自然に少し丁寧な話し方になっていると思います。

また、話すときの言葉と、書くときの言葉も変えています。たとえば日記や友達同志の手紙などは、「そいでさー、あいつKYだよねー」などと書いてはいても、作文を書くときには、会話文以外は「と、私は答えました。」などと書いています。話す言葉と同じ言葉を使って書かれた文章を「言文一致体」といい、明治の小説家二葉亭四迷に始まります。しかし、今は別の意味の「言文一致体」が跋扈しています。

現在も小説家の中には、わざと「言文一致体」の文章を使って文を書く人もいます。もちろん、小説として成立するには、内容が重要なわけで、誰でも話し言葉で小説が書けるわけではありません。しかし、新井素子さん以後、話し言葉スタイルの小説がどっと世に出てきたのは事実です。そして、それは今の携帯小説につながる流れであったことは間違いありません。

このことに関連して、ときどき質問を受けるのです。「うちの子、日記や手紙はよく書くのですが、それでも文章の練習になりますか?」とか、「携帯小説ばかり読んでいるのですが、あれも読書になるのですか」というふうに。答えはいつも、「書かないよりは(読まないよりは)いいと思いますが、それだけでは作文(読書)にはなりません。」というものです。

日記や手紙も、自分の考えていることを言葉にする、という意味では価値があります。何となく感じていることを言葉にすることは、文章を書く上での第一歩として、大切なことです。しかし、日記や手紙は、基本的に自分か、親しい相手以外の人に読ませる目的を持っていません。だから、とても狭い世界だけで通じる言葉で書かれています。これは、読者がある程度広がっている携帯小説でも同じことです。したがって、世の万人に通じる言葉、通じる考えを学ぶには、きちんとした文章を読み、他者の鑑賞に堪えうる文章を書かねばならないし、そのための練習は絶対に必要なのです。

小学生の作文を見ていると、時々、「きもい。」とか「ちょうむかついた。」と書いてあることがあります。もちろん、まだまだ発展途上と考えれば、こう書いて悪いわけではありません。書かないより書いた方が良いのですから…。しかし、やはり、作文だからこそ、「気持ち悪く感じました」、「とても腹が立った」と書いて欲しいと思います。それは、この作業を通じて、生徒の人格が形作られ、品性が養われていく気がしてならないからです。

生徒達には、本当にどこで誰に読んでもらっても恥ずかしくない文章が書ける人になって欲しい、と思います。学校の先生でもなく、おうちの人でもない私たちのほんの少しの注意が、その糧になればと、いつも願っています。


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