中村天風氏とカリアッパ師の対話。(詳細はうろ覚え(^^ゞ)
カリアッパ:「後ろからオオカミが追ってきたので、急いで、崖の上に伸びている木によじ登った。やれやれと思っていると、木の上から大蛇が自分を丸呑みにしようとにらんでいる。あわてて、大蛇がつたってこられない細い蔓につかまって下を見ると断崖絶壁。そして、上を見ると、自分のつかまっている蔓をリスがかじって今にも切れそうではないか。さあ、おまえならどうする」
天風:「そんなのは、簡単ですよ」
カリアッパ:「ほう」
天風:「とりあえずは、まだ蔓につかまっているのですから、蔓が切れたら、そのときにその先のことを考えればいいんです」
人間が生きているこの世には、さまざまな苦しみや不安があります。しかし、それを苦しみや不安として意識してしまうところにいちばんの問題があります。現実は、変えることができません。あるいは、いずれ想念の力によって変えることができるようになるのかもしれませんが、今のところ現実はそう簡単には変わりません。変えられない現実が苦しすぎるとき、人は、意識を持たない状態に避難しようとします。「飲んで忘れる」や「寝て忘れる」の状態です。
しかし、犬や猫に目を転ずれば、彼らは、同じような苦しみを経験しているときでも、苦しみや不安の意識を持ちません。現実が苦しいことと、意識が苦しむことは違います。意識の苦しみは人間だけが味わうことなのです。以前、飼っていたハムスターがガンのため片腕を肩から手術で切り取られました。食べることも動くことも不便そうです。しかし、彼女は、自分が不自由なことを、まったく悩んでいないようなのです。はいつくばって、転げ回って、おいしそうにえさを食べ、おいしそうに水を飲みました。結局、そんなに長くは生きられませんでしたが、他の兄弟たちと同じように全力で生きていきました。
だれの人生でも、同じような苦しみがやってきます。死なない人がいないように、苦しみのない人生などはだれにとってもありません。「どうして私だけがこんなに苦しい目に」と思う人は、ぜひ想像力をふくらませてみてください。すべての人は、同じような苦しみの中で生きているのです。しかし、その苦しみを苦しまないで過ごすことができれば、それが人間の理想とする生き方だと思います。
中村天風氏と、ある軍人の話。(これもうろ覚え(^^ゞ)
天風:「その後、調子はどうだ」(その軍人が天風に難病を治してもらい、完治はしないが悪化はしないという状態になった)
軍人:「おかげさまで元気にやっていますが、しかし、この痛いのだけはどうも」
天風:「その病気は、痛いものだ。しかし、『痛い』と言って痛みがなくなるか」
その軍人も立派です。その後、一言も「痛い」ということを言わずに過ごしたそうです。ここに三つの段階があります。「痛い」「痛みを感じる」「痛みを苦しむ」。「痛い」のは、現実ですから取り消しようがありません。将来は、この痛みの原因を解決できるかもしれません。しかし、今はそうではありません。 「痛みを感じる」の方は、技術的に解決できるかもしれません。あるいは、意識の力によっていずれは解決できるようになるのかもしれません。しかし、今はそうではありません。しかし、「痛みを苦しむ」の方は、痛みがあるなしにかかわらず、意識の問題として今すぐでも解決できるのではないかと私は思うのです。それが、リアルとバーチャルです。だれにも苦しいことがあるように、だれにも楽しいことがあります。楽しいことに出合ったときには、リアルにその楽しさを味わい、苦しいことに出合ったときには意識をバーチャルに切り換えてその苦しさをやり過ごすということができれば、意識の上では、この世は楽しいことだけになります。
苦しみは現実にあります。その苦しみをなくそうとすることは大事です。しかし、それ以上に大事なことは、その苦しみを苦しみとして味わわないことです。難しいことだとは思いますが、このように意識するだけでも、苦しみに対する正しい立場に立つことができるのだと思います。
カリアッパ:「後ろからオオカミが追ってきたので、急いで、崖の上に伸びている木によじ登った。やれやれと思っていると、木の上から大蛇が自分を丸呑みにしようとにらんでいる。あわてて、大蛇がつたってこられない細い蔓につかまって下を見ると断崖絶壁。そして、上を見ると、自分のつかまっている蔓をリスがかじって今にも切れそうではないか。さあ、おまえならどうする」
天風:「そんなのは、簡単ですよ」
カリアッパ:「ほう」
天風:「とりあえずは、まだ蔓につかまっているのですから、蔓が切れたら、そのときにその先のことを考えればいいんです」
人間が生きているこの世には、さまざまな苦しみや不安があります。しかし、それを苦しみや不安として意識してしまうところにいちばんの問題があります。現実は、変えることができません。あるいは、いずれ想念の力によって変えることができるようになるのかもしれませんが、今のところ現実はそう簡単には変わりません。変えられない現実が苦しすぎるとき、人は、意識を持たない状態に避難しようとします。「飲んで忘れる」や「寝て忘れる」の状態です。
しかし、犬や猫に目を転ずれば、彼らは、同じような苦しみを経験しているときでも、苦しみや不安の意識を持ちません。現実が苦しいことと、意識が苦しむことは違います。意識の苦しみは人間だけが味わうことなのです。以前、飼っていたハムスターがガンのため片腕を肩から手術で切り取られました。食べることも動くことも不便そうです。しかし、彼女は、自分が不自由なことを、まったく悩んでいないようなのです。はいつくばって、転げ回って、おいしそうにえさを食べ、おいしそうに水を飲みました。結局、そんなに長くは生きられませんでしたが、他の兄弟たちと同じように全力で生きていきました。
だれの人生でも、同じような苦しみがやってきます。死なない人がいないように、苦しみのない人生などはだれにとってもありません。「どうして私だけがこんなに苦しい目に」と思う人は、ぜひ想像力をふくらませてみてください。すべての人は、同じような苦しみの中で生きているのです。しかし、その苦しみを苦しまないで過ごすことができれば、それが人間の理想とする生き方だと思います。
中村天風氏と、ある軍人の話。(これもうろ覚え(^^ゞ)
天風:「その後、調子はどうだ」(その軍人が天風に難病を治してもらい、完治はしないが悪化はしないという状態になった)
軍人:「おかげさまで元気にやっていますが、しかし、この痛いのだけはどうも」
天風:「その病気は、痛いものだ。しかし、『痛い』と言って痛みがなくなるか」
その軍人も立派です。その後、一言も「痛い」ということを言わずに過ごしたそうです。ここに三つの段階があります。「痛い」「痛みを感じる」「痛みを苦しむ」。「痛い」のは、現実ですから取り消しようがありません。将来は、この痛みの原因を解決できるかもしれません。しかし、今はそうではありません。 「痛みを感じる」の方は、技術的に解決できるかもしれません。あるいは、意識の力によっていずれは解決できるようになるのかもしれません。しかし、今はそうではありません。しかし、「痛みを苦しむ」の方は、痛みがあるなしにかかわらず、意識の問題として今すぐでも解決できるのではないかと私は思うのです。それが、リアルとバーチャルです。だれにも苦しいことがあるように、だれにも楽しいことがあります。楽しいことに出合ったときには、リアルにその楽しさを味わい、苦しいことに出合ったときには意識をバーチャルに切り換えてその苦しさをやり過ごすということができれば、意識の上では、この世は楽しいことだけになります。
苦しみは現実にあります。その苦しみをなくそうとすることは大事です。しかし、それ以上に大事なことは、その苦しみを苦しみとして味わわないことです。難しいことだとは思いますが、このように意識するだけでも、苦しみに対する正しい立場に立つことができるのだと思います。