一昨日から降り出した雨は両岸の土手を洗い、川並の柳は今にも川面に届きそうにしている。その篠突く雨を縫うように一艘の小舟が水嵩の増えた子安川を遡っていた。雨影にけむる鞆では一人の男が慣れた手捌きで流れ来る速さを増した 川水をいなすように櫓を操っている。
「お初に悪いことしちまった。」三五郎は一人ごちた。
一仕事終えた高ぶりと充足感が今の三五郎を満たしている。
「早く帰ってやらねえとな…。」
三五郎はここ子安川の上流安心院橋あたりを漁場とする川漁師である。毎日、網を投げ、竿を振り、梁を引き上げる。その水揚げのほとんどは、子安川の河口に拓けた風待ち港多々津の老舗料亭箕輪屋が買い受けることになっている。
箕輪屋は寛延三年創業。現当主は四代目に当たり、三五郎は祖父の代から出入り御免を約されている。元々、箕輪屋自身、以前は三五郎家と同じ川漁師であった。が、箕輪屋初代に当たる治平が、藩主稲葉公と共に巻き狩りに来ていた時の老中水野忠成に昼餉として鮎煮の茶漬けを給し、いたく愛でられたことにより稲葉公より恩賞と名字帯刀の認可を賜った。
以後、稲葉公は代々参勤交代出府の折、幕閣への献上品として鮎煮を求めることが習わしとなっている。また、箕輪屋は代々治平を名乗るとともに、鮎煮の名声を以て、今日一家を成すに至っていた。
三五郎の祖父五郎蔵は初代治平と幼なじみで共に遊んだ中でもあり、川漁師としての腕も抜きん出ていたので、藩への納めものとして選りすぐりの鮎を必要としていた初代治平は、頭を垂れて五郎蔵に水揚げの一括納めを頼んだ。よって、それ以後三五郎家は箕輪屋お抱えともいうべき漁を生業とし、今日に至っている。まさに、箕輪屋あっての三五郎家。三五郎家あっての箕輪屋であった。
そんな切っても切れぬ箕輪屋と三五郎家であったが、今朝方降りしきる五月雨の中を箕輪屋総番頭の桝吉が青い顔をし息を切らさんばかりに飛び込んできた。聞けば六里の川筋を二人水児で急ぎ遡ってきたとのよし。
「お願いだ、三五郎さん。助けて下さいまし。」
「どうしなすった、桝吉さん、こんな雨の中を。ご用があるならこちらから伺いましたものを。」
「旦那様が、旦那様が…。」
「治平様がどうなさいました。」
「旦那様が…」と語り出した桝吉の話には、常日頃荒くれ漁師を束ねるに肝の据わった男振りといわれる三五郎だが、ただ驚くばかりであった。 ……続く