「琴線に触れる」という表現があります。心の奥深いところにある感情に響くというときに使います。ある言葉が自分の琴線に触れたということは、その言葉が響くような心理状態にあるということかもしれません。同じ言葉でも、何の感慨も抱かずに終わることもあるのですから…。秋元康氏が以前書いた文章が、琴線に触れたと感じたことがあります。それは…。
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人は、誰も、あの日、やり残したことがある。それが不本意だったとしても、振り返ってみれば、あの頃では時期尚早だったと知ることも多い。言い方を変えれば人は何十年か後の自分のために、あえて、やり残したことがあるのだ。
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「やり残したこと」というのは、「あきらめたこと」・「できなかったこと」と考えてもいいでしょう。受験勉強のために、好きだったのに続けられなくなった習いごとかもしれません。一生懸命やったつもりでも上達しなくて、嫌になってしまったスポーツかもしれません。私たちはあまり器用ではなく、あれもこれも同時にうまくこなせるわけではありません。環境が整わないこともあるでしょう。そんな中で、何かを選び切り捨てて日々を生きています。時に、切り捨てたことは後悔と結びついてしまいます。
秋元氏の文を読んだときに、「やり残したこと」とは「種まき」だと、私なりに思いました。どんな土地でも、種をまかなければ、何も芽生えてはきません。まいた種がいつ芽を出すのかはわかりませんし、もしかしたらずっと種のままで終わるかもしれません。それでも、種をまくことによって、いつかは何かが芽生えるはずと信じてまきます。私たちが普段あれやこれやとやったり考えたりしていることは、種まきの作業だと思うのです。
そう考えると、学校のたくさんの科目(興味のわかないものもあるでしょうが…)、読書や習い事、全て種まきだと思えばいいのかもしれません。まかぬ種は生えぬ。好きでも嫌いでも、そのことに接したこと自体が種まきで、大切なことなのです。接したことがないことをやろうとしても、その入り口を見つけることはかなり難しいからです。「できないこと」・「あきらめたこと」があっても、決して恥じることはなく、それは何十年か後の私のためにとってあることなのだと思いたいものです。
秋元氏の言葉が、今頃心に蘇り、あらためて共感したのには、理由があります。私事ですが、5月に右肩の骨を折りました。利き腕が不自由で何もできずにいたとき、読書でもと本棚を漁っていると、以前買い置きして読まずにいた本が沢山出てきました。私は、この日のためにせっせと種をまいていたのです。ちなみに、秋元氏の文の題は『やり残したものは、宝もの』でした。私は、買い置きの本という宝ものを手にしたようです。
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人は、誰も、あの日、やり残したことがある。それが不本意だったとしても、振り返ってみれば、あの頃では時期尚早だったと知ることも多い。言い方を変えれば人は何十年か後の自分のために、あえて、やり残したことがあるのだ。
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「やり残したこと」というのは、「あきらめたこと」・「できなかったこと」と考えてもいいでしょう。受験勉強のために、好きだったのに続けられなくなった習いごとかもしれません。一生懸命やったつもりでも上達しなくて、嫌になってしまったスポーツかもしれません。私たちはあまり器用ではなく、あれもこれも同時にうまくこなせるわけではありません。環境が整わないこともあるでしょう。そんな中で、何かを選び切り捨てて日々を生きています。時に、切り捨てたことは後悔と結びついてしまいます。
秋元氏の文を読んだときに、「やり残したこと」とは「種まき」だと、私なりに思いました。どんな土地でも、種をまかなければ、何も芽生えてはきません。まいた種がいつ芽を出すのかはわかりませんし、もしかしたらずっと種のままで終わるかもしれません。それでも、種をまくことによって、いつかは何かが芽生えるはずと信じてまきます。私たちが普段あれやこれやとやったり考えたりしていることは、種まきの作業だと思うのです。
そう考えると、学校のたくさんの科目(興味のわかないものもあるでしょうが…)、読書や習い事、全て種まきだと思えばいいのかもしれません。まかぬ種は生えぬ。好きでも嫌いでも、そのことに接したこと自体が種まきで、大切なことなのです。接したことがないことをやろうとしても、その入り口を見つけることはかなり難しいからです。「できないこと」・「あきらめたこと」があっても、決して恥じることはなく、それは何十年か後の私のためにとってあることなのだと思いたいものです。
秋元氏の言葉が、今頃心に蘇り、あらためて共感したのには、理由があります。私事ですが、5月に右肩の骨を折りました。利き腕が不自由で何もできずにいたとき、読書でもと本棚を漁っていると、以前買い置きして読まずにいた本が沢山出てきました。私は、この日のためにせっせと種をまいていたのです。ちなみに、秋元氏の文の題は『やり残したものは、宝もの』でした。私は、買い置きの本という宝ものを手にしたようです。