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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

廃墟にて

2009年07月06日 | 中学受験 行雲流水録
もうすぐ奈良は平城京遷都1300年を迎えます。平城京跡そのものは、今は広い草原のようです。ところどころに発掘跡や複製建造物を残していますが、この廃墟のだだっ広さが過去の栄華を逆に呼び覚まして、ちょっと感傷的になったりします。

ヨーロッパの教会も「壁一面の鮮やかな色彩の宗教画」を頭に置いて見ると違って見える、と教えてもらいました。そうするとその石の小さな教会堂も全く地味でもストイックでもなく、天上の威厳を見せつけられるようなくらくらする眺めに変わりました。

「全部見せない、教えない」美学とでもいうのでしょうか、これは視覚芸術だけでなく、書かれたもの、話されることすべてに共通していると思います。作文でも、時と場所、人物、状況、考え、などを過不足なく描写することが大事ですが、「情景の結び」に気を付けると、読み手に「余韻」を与えることができます。

たとえば、「…すてきなプレゼントをもらって家に帰り、それを家族に見せて一緒に喜んでもらい、とても嬉しかった。」と言い終わる際も、「…すてきなプレゼントをもらって、玄関の扉をあけた。」と終わると、読む人がはその後を想像し、余韻が残ります。これは、読み手が書き手の状況や意識を共有しているからです。

また、論説文でも最後に「・・・ではないだろうか」という反語を用い、「そうだその通りだ」と読み手を納得させることが出来ます。「全部話さない」のにそう思わせる技です。これも、読む側と見る側に共通認識があれば可能です。

日本人は、昔からこれらの余剰表現や反語が得意でした。得意故に「阿吽の呼吸」、「腹芸」等、言わないことが美徳とされ、逆に、グローバル化した現代においては主張しない国家といわれています。ほどよく語りほどよく黙すことはナカナカ難しいことです。

廃墟は、ここにあったであろう 過去の繁栄の想像をかき立ててくれます。見えないものを写す空気や語らずとも伝わる言葉がそこにあります。


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