私は『論語』の中でこの一節が一番好きだ。
『剛毅木訥、仁に近し。「論語」子路篇』……「剛毅で飾らぬ人間は、完成した徳である仁をそなえたものに近い」と孔子は言う。また…、
『巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁)「論語」学而篇』……「言葉巧みで顔つきもにこやかな人物にかぎって、徳の少ないことが、おうおうにしてある」とも述べる。
しかし、ここで考えるに、心が強くて飾り気がなく、寡黙な人間ほど、真の人材であることが多いとは述べるが、おしなべてそうだとは言わない。逆に、おしゃべりでお世辞ばかりの人物は仁が少ないことになる。しかし、仁が無いということではなく、少しは仁があるという風に取ることもできる。
上記の文からは、仁は近い・少ないというように量や距離を以て計測できるものであり、自分の立ち位置から近づくことができるように思えてくる。誰でも徳のある人になることができ、その希望が残されていると考えうる。
ここに、孔子の真骨頂である現実主義を垣間見ることができる。孔子に接し始めた頃は彼を高い理想を掲げた高尚な処世訓の塊と捉えていた。その意識のあまりの高さに世の君主たちが受け入れえず巷間に没した理想主義者だったのだと…。しかし、『論語』の各篇を細かく読み砕いていくと、そこには現実の世相や人の姿をいきいきと写した人間臭い考えが存在した。今は 『論語』は、日々迷う私たちの道標にほかならないと感じている。
中国語では『論語』の「論(ルン)」の発音は二種類あり、一つは尻下がりに発音して論議・討論の「論」を示し、今一つは末尾を上げて発音し倫理の「倫」に通ずるという。そして、正に『論語』の「論」は倫理の「倫」と同じ発音をする。つまり、『論語』は『倫語』であり、文字通り「人の道・在り方を説く言葉」なのである。
キリストは『愛』を、仏陀は『慈悲』を説き、その原理の根本に脈々と流れている。同じように、孔子が説く『仁』 は、人への思いやり・慈しみを基盤としている。そこには、病み疲れた現代の人々に必要な根底的な在り方が概念として形作られ、明示されていると思う。
江戸時代、幕府の学問所、各藩の藩校、市井の寺子屋を問わず、学習の第一・基本となる素養は『論語』の素読であった。素読することによりその諸説は血肉化し日本的精神風土と一体となった。そして、恥などの美点を形成した。荒んだ恥無き今の時代を眺めるとき、もう一度私たちは『論語』素読の素晴らしさを再認識する必要があるのではないだろうか。