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ALGOの塾長日記~愚公移山~

-学習塾方丈記-

学習指導の由なしごとを
    徒然に綴ります。

原罪

2014年07月31日 | 中学受験 行雲流水録

人は生まれ出でたときから死へと向かう。つまり、死にかけている。とよく言われます。だから、今を大切にその時その時全力で生きなさいと、小さいときから諭されます。確かに、それは生の本質でしょう。

しかし、一面しか伝えていないのも事実です。なぜなら、多くの人はそんなことを考えずともその時その時を一所懸命生きているからです。ただ悔いの残らない生活かというと殆ど悔いばかり。殊更悔い改めずとも悔いる日々。まるで悔いるために生を行使しているかのようです。

この悔いるという行為は、人間のみに課された試練であり利点であるといわれます。人は悔いることにより反省し修正し発展してきた存在です。失敗は成功の母とはよくいったものです。

しかし、では私たちはなぜ悔いるのでしょう。その本質はまだ解明されていません。仏教では、他者の生を喰らってしか自分の生を全うできない人としての定めが、贖罪の念から悔いを導くとします。よって、精進し成仏することにより安寧の境地に至り往生すると…。親鸞の悪人正機説はまさに悔いるという行為を一心念仏へと向かわせます。

しかし、現実生活の中で私たちが刺身を食べるたびに犠牲となった鯛に感謝し、焼き肉を食べるごとに牛の成仏を願うことはありません。殆ど意識することなく他者の命を喰むのです。これを仏教においては原罪とします。キリスト教で原罪とされる失楽園やカインとアベルか人間的であるのに対して、非常に禁欲的といわねばなりません。そこにはやはり自然崇拝に基づく多神教と絶対神にかしずく一神教の宗教感の違いがあるのでしょうか。

いずれにしても、様々な宗教において何らかの形で規定され、とらまえられる原罪というものは、近年その元始の概念を変化しようとしています。それはある時、歴史上忽然と消えたネアンデルタール人の存在です。最近の科学的進歩によりDNA解析が進み、私たちの祖先・猿人や新人と全く違う系統図の中にその系列があることが分かってきました。

つまり、ある時期ネアンデルタール人は我々の祖先と並立的に存在していたのに、急に滅んだことになるのです。このことが意味するものは一つしかありません。私たちの祖先によるネアンデルタール人の淘汰、殺戮です。今に残る人の残虐性はその名残かも知れません。私たちは罪を重ねつつ生きるというよりも、生きる以前・生まれ出る以前から他者の犠牲のもとに存在するという原罪を背負っているのです。だからこそ私たちは日々悔いを重ねて生きていなければならないのかもしれません。



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