下駄箱の 奥になきけり きりぎりす 正岡子規
日本人は昔から虫の鳴き声を聞いては、季節のうつろいを感じてきました。ところが、外国人がこの虫の声を聞いたら、どう感じるでしょう。面白い話があります。藤原正彦さんの家に、アメリカの大学教授が遊びに来た時のこと、みんなで晩御飯を食べていると、網戸の向こうから虫の声が聞こえてきました。すると、このアメリカ人は言ったそうです。「あのノイズはなんですか?」と。
ノイズ、というのは雑音や騒音のことです。日本人の耳には心地よい虫の音も、アメリカ人にとっては、ただのうるさい音にしか聞こえなかったのです。虫の音を楽しむという感覚は、アメリカやヨーロッパはもちろん、日本に近い中国や韓国にもないそうです。私はこの話を聞いて、日本人に生まれてよかったなあとしみじみ思ったものでした。
日本人は、虫の音を「ノイズ」ではなくて、「心にしみる音」として聞くことができます。しかも、単にきれいな音として聞いているのではありません。日本人は、上の句から、「もののあわれ」さえ感じ取ることができます。下駄箱の中に迷い込んで、なおも懸命に鳴くきりぎりす。限りある、はかない命だからこそ、その鳴き声はなお一層胸に沁みます。日本人は、虫の声からそんなことまで感じているのです。
もうひとつだれでも知っている有名な俳句をご紹介します。
古池や かわずとびこむ 水の音 松尾芭蕉
古池に、カエルが一匹、ぽちょんと飛び込む。そのぽちょん、という音があるゆえに、そのあとの静けさがいっそう強く感じられる。そんな光景をあらわした俳句です。ところが、この俳句を外国人が読むと、まったくちがった光景を思い浮かべることになります。外国人は、池にカエルが集団でドバドバドバッと飛び込む様子を想像します。松尾芭蕉が聞いたら、「どうしてそうなるんだ!」とあきれカエルお話です。
私は、キリギリスの鳴き声にはかない命の尊さを思ったり、カエルが飛び込む音に静寂の空間を感じとる日本人の感性は素晴らしいものだと思います。俳句の文字の中には出てこないものまで感じ取る感覚。これは、「余白」を好み、全部を説明せずに鑑賞する人の想像にまかせることを好むという日本人の資質に負うところが大きいようです。想像にまかせるということは、相手の「想像力」を信じていないとできません。まさか、カエルが集団でドバドバ飛び込むことは想像しないだろうと、信頼しているからこそできることです。
この信頼は、共通の価値観や習慣などの文化的土壌によって形成されていきます。この基盤となる文化的土壌が崩れかけている今だからこそ、私たちは、ぜひ信頼にこたえられるよう、命のはかなさや時の静けさを感じることのできる「想像力」を磨いていかなければなりません。ものの表面だけを見るのではなく、奥深くまで見ることのできる眼を持ちたいものです。
日本人は昔から虫の鳴き声を聞いては、季節のうつろいを感じてきました。ところが、外国人がこの虫の声を聞いたら、どう感じるでしょう。面白い話があります。藤原正彦さんの家に、アメリカの大学教授が遊びに来た時のこと、みんなで晩御飯を食べていると、網戸の向こうから虫の声が聞こえてきました。すると、このアメリカ人は言ったそうです。「あのノイズはなんですか?」と。
ノイズ、というのは雑音や騒音のことです。日本人の耳には心地よい虫の音も、アメリカ人にとっては、ただのうるさい音にしか聞こえなかったのです。虫の音を楽しむという感覚は、アメリカやヨーロッパはもちろん、日本に近い中国や韓国にもないそうです。私はこの話を聞いて、日本人に生まれてよかったなあとしみじみ思ったものでした。
日本人は、虫の音を「ノイズ」ではなくて、「心にしみる音」として聞くことができます。しかも、単にきれいな音として聞いているのではありません。日本人は、上の句から、「もののあわれ」さえ感じ取ることができます。下駄箱の中に迷い込んで、なおも懸命に鳴くきりぎりす。限りある、はかない命だからこそ、その鳴き声はなお一層胸に沁みます。日本人は、虫の声からそんなことまで感じているのです。
もうひとつだれでも知っている有名な俳句をご紹介します。
古池や かわずとびこむ 水の音 松尾芭蕉
古池に、カエルが一匹、ぽちょんと飛び込む。そのぽちょん、という音があるゆえに、そのあとの静けさがいっそう強く感じられる。そんな光景をあらわした俳句です。ところが、この俳句を外国人が読むと、まったくちがった光景を思い浮かべることになります。外国人は、池にカエルが集団でドバドバドバッと飛び込む様子を想像します。松尾芭蕉が聞いたら、「どうしてそうなるんだ!」とあきれカエルお話です。
私は、キリギリスの鳴き声にはかない命の尊さを思ったり、カエルが飛び込む音に静寂の空間を感じとる日本人の感性は素晴らしいものだと思います。俳句の文字の中には出てこないものまで感じ取る感覚。これは、「余白」を好み、全部を説明せずに鑑賞する人の想像にまかせることを好むという日本人の資質に負うところが大きいようです。想像にまかせるということは、相手の「想像力」を信じていないとできません。まさか、カエルが集団でドバドバ飛び込むことは想像しないだろうと、信頼しているからこそできることです。
この信頼は、共通の価値観や習慣などの文化的土壌によって形成されていきます。この基盤となる文化的土壌が崩れかけている今だからこそ、私たちは、ぜひ信頼にこたえられるよう、命のはかなさや時の静けさを感じることのできる「想像力」を磨いていかなければなりません。ものの表面だけを見るのではなく、奥深くまで見ることのできる眼を持ちたいものです。