我が家の前には私たちが浜と呼ぶ港へ続く田舎道が通っていた。その道は、ワイワイガヤガヤ同級生達がにぎやかに登下校する道でもあったし、町の魚市場へ大敷(定置網)で獲れた魚を運ぶ道でもあった。どちらにしても、ど田舎の割にはにぎやかな道沿いに我が家はあったことになる。
そんな我が家の道を挟んで向かいの家は郵便局のオッチャンの家。オッチャンは、いつも5時過ぎには帰ってくる田舎の公務員の典型だった。そして、6時にはニコニコ笑いながらステテコ1枚のオッチャンを囲んで一家4人の食事が始まる。田舎にしてはハイカラなウチだったと思う。たぶん、オバチャンが旅の人だったかもしれない。
その家の裏庭には1本のザクロの木があった。我が家の縁先から丁度正面に見えるその木は、冬はどちらかといえば細身の幹を大陸からの冷たい風に寒々と曝し、メジロ採りの竹竿のような枝を精一杯空に伸ばしていた。しかし、春を過ぎる頃になると、鮮やかな緑の葉におおわれる。さらに、時が過ぎ、梅雨の終わりから初夏にかけて、炎天下のもとヒオウギに似た赤い花をいくつも開かせていく。
そんな夏の申し子のようなザクロの木も、夏を半ば過ぎる頃には主役は花から実に代わり、秋の訪れとともに熟れた実は大きくまっ赤な口を開け、釣瓶落としの夕日にその実が禍々しく輝くようになる。このころになると、実をついばもうとする鳥たちが群がるけれど、意地悪なカラスに追い払われる。といって、カラスがことさらザクロを好むわけでもないようで、だいたい小突き回して落としてしまうのだった。
梅雨明けのまだ明るさが残る夕暮れ時、私は縁先に寝ころんで本を読みつつ、母の帰りを待っていた。あの頃、母は親一人子一人の生活を支えるため、僅かな口銭を求めて働きに出ていたように思う。最終バスの到着までは、まだ1時間少々ある。隣家のその日はひときわ明るい食卓の笑い声が聞こえてきた。私は思わず耳を覆い目を塞いだ。
どれくらいたっただろう。もういいかなと目を開けると、目の前が真っ赤になっていた。空気が薄紅色に染まっていたのだ。何とも言えず鮮やかなそして暖かな色の中に私はいた。何度も何度も瞬きをした。やっと事態が理解できた。それは、沈む間際の夕映えの光がザクロの赤い花を透過して一面に広がっていたのだ。私は、その光に包まれて存在していた。
その時間は一瞬だったようにも思えるし、長い時間だったようにも思う。ただ、母の「帰ったよ」の声で我に還ったのは事実だった。その時、母の帰りを待つ寂しさは消えていた。あれ以後、幾度となく同じ経験をと試してみたが、あんな光の膜に包まれることはなかった。
今思うにあれは、楽しげなお隣への嫉妬や僻みに心が潰れそうになっていた私へ神様がくださった励ましの光ではなかったのか…。確かに、それ以後の私は隣家を羨ましく思うこともなければ、耳も塞ぐこともなくなった。そんなお隣の家も建て替えられ、あのザクロの木も今はもう無い。
でも、梅雨開けの今の時期、小さな仕舞た屋の塀越しなどにザクロの花がすっと咲いていると、私は拳を握りしめる。母ちゃん今日も頑張っているよと、伝えるかのように…。