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罪と罰

2009年04月26日 10時59分34秒 | Weblog
                十二人の怒れる男 (1957年度製作版)
 SMAPの草 剛が、深夜泥酔の上、自宅近くの公園で全裸で騒いでいた事件の波紋が広がっている。確かに、自分自身が分からなくなるほど泥酔したことは、大人として大いに反省すべき行動であろうと思うが、全裸になって騒いでいただけで、こんなに罰しなくてもいいのではないかと感じる。罰は、罪に対してなされるものであるが、殺人犯と感じられるほどの報道体勢、警察のリーク、家宅捜索、その挙句、CM等の降板、番組放映の中止、芸能活動の自粛等あまりにも多大に、しかも過敏に反応しすぎなのではないかと感じてしまう。しかし、芸能人、しかも超有名な芸能人の行動が、これほどまでの社会現象を引き起こすとは、物凄い威力なのだと痛感する。一般の人なら、こんなに大きな問題とはならなかっただろうことは想像に難くない。しかも、最近の芸能人が引き起こす犯罪には、麻薬がかかわっていることが多かったので、家宅捜索も、この関連を確認する意味では仕方なかったのかもしれない。今回の事件の経緯を見て残念なことは、友人たちはこの結果を引き起こさないように、注意できなかったのだろうか?ということだ。一緒に飲んでいた人が、草 剛を気遣ってやれば、こんなことにならなかったし、SMAPのメンバーがこれまで注意してきたことを、草 剛が注意してきていれば、こんなことにならなかった(これまでも泥酔することがあって、メンバーから注意を受けていたようだ)。まあ、自覚が足りなかったことが、大きな要因であろうが、ここまで彼を罰しなくても良いのではないか!!マスコミが過剰な反応をし、事件を大きくしてしまっているように感じる。単に裸になって騒いでいただけなのだ。騒音と言う意味では、迷惑をかけただろうが、その他何にも人に危害を加えていない。こう考えると、事件の大きさは、周りによって作られるものであろう点も、重要なのである。小さなことでも、大きく扱われれば、それだけの大きな事件になってしまう。人から人に同じことが伝わっていく上での「ステレオタイプ」的な現象になっていくのである。小さなことが、回りまわっていくうちに、とてつもなく大きな問題になっていくのである。
 映画に「十二人の怒れる男」(1957年アメリカ制作)が、もっともよくこの例を示している。ある青年の犯罪に、彼のこれまでの行動が良くなかったために、今回の件も同様だろうとの思い込みにより、陪審員たちは有罪にしてしまう。実際にはこの青年の責任ではないと言う現実があるのだが・・。この中で、1人の陪審員が疑問を持ち、詳細に調べていく内に多くの疑問点が分かってくる。最初は、ほとんどの陪審員がこのことを黙殺していたが、この一人の陪審員の努力で、判断が180度変更され、無罪になっていくのである。
 冷静に、十分な判断をした対応が、社会には求められているはずである。人に優しい世界を築くことは、非常に大事なことであろうと思う。

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